2016年10月21日 (金)

禅のふるさと、寒山寺

Kanzanji 戦後の歌謡曲、「蘇州夜曲」にも歌われる寒山寺。

http://ur0.biz/z0Eq

中国の禅の名刹ですが、なんといっても

風狂の詩人、〔寒山拾得〕で名高い名所です。

 

■風狂のバケモノ、寒山拾得。【言の葉庵】コンテンツ

http://nobunsha.jp/blog/post_83.html

 

さて10月18日より、東京国立博物館では禅の名宝を一堂に会した

美術展が開催されます。

 

■特別展「禅―心をかたちに―」

http://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=4688

 

禅祖師の画・讃・像はもとより、禅とゆかりの深い茶道の名品も

数多く展示されるようです。

 

足利義政の青磁天目銘「鎹」をはじめ、国宝の油滴天目、玳玻天目、灰被天目。

さらに、伝相阿弥「瀟湘八景図」、伝牧谿「芙蓉図」、

墨蹟では、虚堂智愚「破れ虚堂」などなど。

 

画では、伝周文「十牛図」も展示されます。

先日発刊した言の葉庵訳『現代語訳 十牛図』

http://nobunsha.jp/book/post_161.html

では、オリジナルの五山本を原画としていますが、

周文の優雅な筆致の十牛図は、とても親しみやすいものです。

 

なお、周文は顔輝とともに〔寒山拾得〕を描いており、

いずれも東京国立博物館の収蔵品。

今回同展覧会のリストにありませんが、

禅精神を伝える格好の作品なので展示していただきたいものです。

 

 

禅美術の一大展覧会、秋の良き日にぜひご覧になってはいかがでしょうか。

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2016年1月30日 (土)

新刊『現代語訳 十牛図』発売!

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言の葉庵現代語訳シリーズ、『現代語訳 十牛図』(PHPエディターズ・グループ)が発売となりました。
水野聡古典翻訳第十二作目にして、初めて本格的な禅の分野にチャレンジしたものです。


・文字では、禅は伝えられない

中世の日本文化を理解する上で、鎌倉時代わが国に伝わった最新の仏教、禅の影響を抜きにしては何も語れません。しかし禅は論理と言葉に依らないため、これを読み物や知識から理解することはほとんど不可能だとされてきました。
師と弟子の間で、以心伝心で伝えられてきた禅の精神とはいったい何か。悟りを開くためにはどうすればいいのか。そもそも人は悟りを開くとどうなるのか(変わるのか)。禅にはじめて触れた人は、とてつもなく多くの疑問に打ちのめされ、途方に暮れることでしょう。禅の師もまた、これを言葉では弟子に伝える手立てをもたない。この問題は、禅宗のお坊さんも、一般の禅を学ぶ人も、中国も日本も、数百年前も現代も、まったく変わらないのです。

・悟りを導く、十枚の牛の絵

「これはいかん」。宋の廓庵という偉いお坊さんは一念発起しました。そして悟りを開くためのヒントを言葉ではなく、絵で描いて見せたのです。
これが『十牛図』。十枚の牛の絵です。見失ってしまった「真の自己」を牛に託して、自分探しの旅の過程を描いたもの。牛を探し、見つけ、捕え、手なずけ、自らのものとなしていく、すなわち悟りを開くプロセスを簡潔な絵と短い詩文であらわした作品です。

・本格的な禅の古典にはじめて触れる

今日「断捨離」などのブームにより、禅が一般の人にも注目されています。禅関連の書物も毎月出版され書店にならんでいます。
鈴木大拙を筆頭とする禅の入門書や掛け軸に書かれる禅語の本を読んだ方は時々いらっしゃるでしょう。しかし、本格的な禅の古典籍である『臨済録』、『無門関』、『正法眼蔵髄聞記』などにチャレンジしたという声をぼくの周りではいまだ聞いたことがありません。また禅入門の手引きとしてこれらを勧める人もいません。
ここに、『十牛図』の大きな存在価値があります。牧歌的かつ素朴な牛の絵を一枚一枚めくっていくことで、禅とは何か、悟りを開くとどうなるのか、を少なくとも肌で感じることができるのです。


本書ははじめ、能文社より電子書籍として出版されました。今回、監修として玄侑宗久さんのお力を借り、大幅に加筆修正。禅にはじめて触れる読者にもわかりやすい解説も加えて再度書籍として世に問うこととなったものです。


◆現代語訳 十牛図
http://nobunsha.jp/book/post_161.html


【本書の特徴】
◆禅の古典的名著を現代人にもわかりやすく、簡明な言葉で訳しました。自然にすらすら読め、かつ原文参照も想定した直訳です。
◆『十牛図』原画に直接触れていただくために、全ページオールカラー。コンパクトな「禅の絵本」として手元で繰り返しご覧いただけます。
◆古典翻訳家による原テクストの明快な訳出に加え、禅宗碩学による緻密な監修とわかりやすい解説を付しました。
◆全体の構成は、十枚の牛の絵と、それぞれに付された「序」「頌」と呼ばれる詩文を配置。それぞれに簡潔な「鑑賞」を加えました。巻末には原文(読み下し文)も収録。訳者まえがきと監修者の解説・あとがきを、はじめて十牛図を読む読者の方への案内としています。


●玄侑宗久さん『十牛図』ページ
http://genyu-sokyu.com/index.html

●PHP研究所さん『十牛図』ページ
https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-82787-2

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2014年5月 1日 (木)

現代語訳『十牛図』(能文社)発刊

Resize0358 十枚の牛の絵で悟りを導く、禅の古典名著『十牛図』。能文社より、全文現代語訳をリリースしました。
【言の葉庵】ホームページから、どなたでもご覧になれる電子ブック(PDF版)です。
本書「まえがき」を抜粋して以下に概略をご案内いたします。


◆まえがき

本書は、南宋の廓庵禅師『十牛図』の全文現代語訳です。
わが国にもたらされた現存唯一の伝本、五山版『五味禅』廓庵和尚十牛図一巻(国会図書館)を底本としました。

〝悟り〟というと、現代人である私たちにとって、何か縁遠く、神秘的なもののように思われます。しかし、それは本来の自己を見つけ、わが心の内に確認することと分かち難く結びついているのです。

自分を見つけること―。

言うは易し、行なうは難し。このことは一見至極簡単なように思えますが、「これが本当の自分だ」と自分自身明確に指し示し、人に断言することができるでしょうか。
一般人はもとより、禅寺で修行するお坊さんたちにとっても、これは大難題。中国で、日本で、古来何百万人、何千万人もの修行僧が、公案問答をし、座禅を組み、額に脂汗をにじませ、悩み、苦しみ、追い求めてきました。

『十牛図』は、一匹の牛を〝見失ってしまった本来の自己〟になぞらえています。牧人が、牛を尋ね、探し当て、その手に捕らえることによって、悟りへと導かれていく様を十枚の絵と短い詩文であらわしたもの。
誰にでもたやすく、目で見て直観し、悟りを開くことのできるイメージトレーニングツールとして創作されました。

悟りを開くことは、禅宗徒でもない私たちにとって日常的にどうしても必要とはいえないかもしれません。
しかし十牛図では、牧人が牛をわがものとするその過程において、人間として一生涯成長していくことをまず教えたものなのです。さらに、自分はなぜ成長しなければならないのか、成長の果てにどうなるのか、何をすべきか、そしてそもそも人は何のために生まれ、存在しているのか…。
その答を探すための、自分探しの成長マニュアル本としての性格もあわせもった作品といえましょう。

それゆえ、『十牛図』は鎌倉以降、禅宗僧侶をはじめ、武士や貴人、芸術家や庶人などにも広く受け入れられ、周文の作品を代表とする日本画の画題としても好んで取り上げられるようになります。

『論語』為政第二の「子曰く、われ十有五にして学に志す、三十にして立つ」、『風姿花伝』の年来稽古條々、『山上宗二記』の又十体「茶湯の仕様、十五から三十までは万事坊主に任せる。三十から四十までは我が分別を出し」など、わが国では各分野で、心の成長をたどる指標が考案され、伝えられてきました。

何かを目指している、何かを獲得したい、と一度も考えたことのない人はごく少数ではないでしょうか。その何かを見つけ、そこにたどり着く過程の、いったいどのあたりに自分は今いるのか。次のステップは何か、あるいは今後どんな展開が待ち受けているのか。
実年齢に関係なく、自分の現在の成長段階を『十牛図』でイメージすれば、今後の長い道のりを歩いていく上で、またとない〝旅の手引き〟になるのかもしれません。


※電子ブック本文は、以下のリンクよりご覧になれます。

◆現代語訳『十牛図』(PDF形式) 廓庵師遠著 水野聡訳
(2014年4月29日 能文社)
http://nobunsha.jp/img/juugyuuzu%20denshibook.pdf

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2014年4月16日 (水)

次回【言の葉庵】現代語訳『十牛図』

禅の悟りを開く修行の手引きとして高名な『十牛図』。
わが国では、禅画の画材としてまず知られ、室町時代の禅画家周文の作品がもっとも有名です。

『十牛図』は、図、とあるように絵が主役。十枚の、牛と人間が登場する、現代風にいうならば“パラパラ漫画”。起承転結のある絵で追うストーリーなのです。
一枚一枚の絵に象徴的なタイトルと、短い「序」と「頌(じゅ)」とよばれる詩のような、解説のような短文が、それぞれ付されています。

古来『十牛図』には複数の系統があり、わが国へ伝来・普及しているのが、中国北宋代の禅僧、廓庵禅師のものです。
禅は本来「只管打坐」といわれるとおり、ただひたすら座禅する修行により悟りを開くもの。
しかし坐り続けるうちに、未熟な段階では自ずと雑念、妄念が湧いて出て、なかなか悟りを開くまでにはいたらないのです。そこで、修行の指針、導きの書として『無門関』のようなテキストが考案されました。しかし禅は、「不立文字」「教外別伝」を根本教義とし、文字や言葉による教えを嫌います。
よって、文字にくらべ、直覚的にイメージトレーニングできる、“絵”による修行のガイド、『十牛図』が誕生したのです。

『十牛図』、十枚の絵のタイトルは以下。

尋牛(じんぎゅう)
見跡(けんせき)
見牛(けんぎゅう)
得牛(とくぎゅう)
牧牛(ぼくぎゅう)
騎牛帰家(きぎゅうきか)
忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん)
人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)
返本還源(へんぽんげんげん)
入鄽垂手(にってんすいしゅ)

この絵の中の“牛”は、真の自己を象徴しています。真の自己はもともと自分の中にあるはずなのに、これを見失ってしまった主人公は、1枚目の「尋牛」より、延々と続く「自分探しの旅」へと困難な道のりに立ち向かうのです。
苦労の末、ようやく牛の足跡にたどり着き、求める牛をついに見つける。しかし、牛は嫌がって捕らえられた綱を引きちぎろうと暴れます。主人公は、牛をどうにか手なずけ、飼いならし、なんとか元の故郷へと牛に乗って帰っていきます。ところが、家についたと思ったとたん、牛は影も形も消えてなくなってしまう。さてその後…。

以上が、おおまかな十枚の絵のストーリー。
いうまでもなく、牛=真の自己を見つけることは、覚醒すること、悟りを開くことの比喩にほかなりません。絵に付された廓庵と弟子による「序」と「頌」は、それぞれ深いサジェスチョンを与え、ダイレクトに『十牛図』の世界へいざなってくれるもの。



【言の葉庵】では、廓庵『十牛図』を全文現代語訳にて読者のみなさまにご紹介します。
テキスト公開は4月末~GW頃の予定です。

【言の葉庵】メールマガジンにてリリースしますので、ご興味がありましたら下記よりメルマガにご登録ください。

◆まぐまぐ登録ページ↓
http://www.mag2.com/m/0000281486.html 1236

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2014年3月 5日 (水)

鈴木大拙の「禅と能」。〈山姥〉が表す無限の愛

日本文化論を世界に広めた、鈴木大拙のベストセラー『禅と日本文化』。これまで多くの方が同著に触れたと思いますが、その〔続編〕があることは、意外と知られていません。
コンパクトな新書版ゆえ、正編に収録されなかった原著の他の章をまとめたのものです。



内容は、以下目次をご参照ください。

・目次

第一章 禅と日本人の自然愛(一) ~富士山について
第二章 禅と日本人の自然愛(二) ~北条時頼・時宗
第三章 禅と日本人の自然愛(三) ~良寛
第四章 禅と日本人の自然愛(一) ~さくらの歌
第五章 禅と能
第六章 禅と茶人
第七章 禅と問答
第八章  禅と空観

今回、言の葉庵では、『続 禅と日本文化』より、〔第五章 禅と能〕をご紹介しましょう。
本章では、数多い能の中でもとりわけ哲学的・禅的と評価される〈山姥〉が取り上げられ、山姥という存在そのものが内包する深遠な哲理に肉迫します。
以下、本文の一部をご案内しましょう。
(原文の旧字体・旧仮名遣いは、現代の字体と仮名遣いに置き換えています)


能の研究は実に日本文化一般の研究となる。その中には日本人の道徳観念・宗教的信仰・芸術的思慕が含まれている。能は昔武土階級から庇護されたので、多少厳粛な雰囲気につつまれている。次に示す謡曲は普通最も知られている二百番の中から選んだものであるが禅から見て特に興味あるものである。

「山姥」は深い思想の染みこんだ仏教的特に禅的な謡曲である。それは恐らくは借侶が禅を広める為に書いたものであろう。しかし、誤解されて、多くの能の愛好者もこの曲の眞意を逸している。山姥というのは、文字通りには「山の老女」というのだが、それは我々誰の心にもひそかに動く愛の原理を現わしている。音通自分たちはそれと意識せずに、始終それを悪く云っている。多くの人は愛とは何か見た目の美しい、若々しい、たおやかな、魅力のあるものだと思っている。が事実は違う。愛は人の目には止まらぬが惜しみなく働くものであるから。目に止まるのはその働きの表面的の結果だけで、人はそれを美と考えるが、本来愛の働きは美しいのがあたりまえである。しかし、愛そのものはよく働く農婦のように、やつれた姿をしている。他のものの為に苦労を重ねるところから、その顔は皺だらけで、その髪は真白だ。解決しなければならぬ難問を多く身につけている。その生活には苦労の絶え間がないが、喜んでそれに耐える。世界の果てから果てへと旅を続けて、休むことを知らず、止まることを知らず、憩うことを知らぬ。かかる倦むことを知らぬ働きという点から見れば、愛を表現するのに山姥を以ってするのはふさわしいことである。

 山姥の話は古来、日本人の間に広まっていたに違いない。彼女は必ずしも醜悪な老女ではなかった。普通年寄に現わされているが、いたって恵み深い性質で、村にやって来ては、立ち去った後には福を授けていった。山姥は山から山へさまよい、村人や山人に目をかけてくれると思われていた。謡曲「山姥」の作者は、この観念を作品の中に盛って、山姥を以って、自然と人類の背後にある眼に見えぬ力とした。人々は普通、好んで日本の哲学・神学・文学に表されている、かかる力について語るが、単なる話以上に出ようとはせぬ。現実にそれが現れるとなれば躊躇する。丁度、いつも龍を描いている画家の前に、本物の龍が現れて、その神秘的な姿を、もっと真実に忠実であるように描かせようとすれば極度に驚いて画家は気を失ってしまうようなものだ。人々は山姥の事を謡うが、彼女が親しく現れて、その生の内面を見せれば、途方にくれてどうしていいかわからない。それ故、禅の説くように、われわれの意識の深奥を深く掘り下げんと思うならば、自らの手で現実を把握する事を恐れてはならぬ。

あらかじめこれだけのことを云っておけば、謡曲「山姥」を理解することが出来るであろう。その意図はこれまで、外国の記者からも、日本人からも、はなはだしく書き誤られて来た。謡曲を翻訳することは難しい。恐らくは不可能な事であろう。その不可能な事をやろうという大それた考えは自分には毛頭ない。次に示すのは、この謡曲に、美しく与えられている一切の文学的潤色を去った、単なる梗概である。


本著はそもそも欧米で、英文にて出版されたもの。キリスト教文化圏読者を想定して、仏教の〔慈悲〕をキリスト教の〔愛〕へ置き換えて書かれています。山姥とは、その恐ろしい姿かたちに反して、至高の愛を与える、自然そのものである、と喝破した大拙の慧眼には驚くほかありません。
以降、謡曲〈山姥〉に沿って、くわしく詞章とその背景・思想が読み解かれていきます。終曲で山姥が都の遊女(ツレ)に、わが心情を吐露し、「山また山」を駆け巡り、飛び去るくだりを大拙の美しい訳文でご鑑賞ください。


『妾がこの世にあり、この世とともにある時、村人の山に来たりて薪をとるを助ける。彼等は重き荷を負い、花の木陰にしばしの憩いを求める。妾は村人とともに月夜を重荷を分かちて歩き、村まで送れば、彼等はその働きを終わりて安らかに眠るであろう。妾が機織りに役立つことあるも、その人はよもこれに気づくまい。その機を窓近く据え、筬にいそしむ時、輪と台のメロディに合わせて、戸外の鶯が囀る。これを見守るものもなく手をかすものもなきに、あたかも自ずと進むがごとく、その業は障りなく進む。秋深く霜が地をよそおう時、家婦達は冬近きを知って暖衣をおもう。村の家々よりは月夜に衣打つ砧の音が聞こえる。その時、山姥の手が砧の音とともに動くとは、よもや彼女たちも想うまい』

『都に帰ったら、山姥が勤めるかかる数々の役割を、歌に歌ってください。しかし、そう妾が望むのも、これも一種の妄執というものでしょう。あなたがどう歌おうと、山から山へとさまようのが、とこしえに妾のつとめで、幾ら嫌でも仕方はありません。一樹の陰を分かち合い、一河の流れを汲み合うも、みな他生の縁というもの、わたし達の間ではことにそれが深かったのです。あなたが妾のことを歌って名を上げたのも仮初のこととは思えません。枝葉の浮かれごとを歌っても、直ちにそれが仏陀の徳を讃える因となるでしょう。お名残惜しいが、お別れする時が来ました。それではさようなら、お達者で……』


『続 日本文化と禅』鈴木大拙 岩波新書 昭和17年10月
第五章 禅と能 ― 謡曲「山姥」の禅的解釈 ― 20070412

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