2018年9月 2日 (日)

日本文化のキーワード第七回「仕舞い」

Mai_icon 今回は、終わりを意味する「お終い」「お仕舞い」について、その語源をたずねていきます。

 

 

 

■「しまい」の意味

 

 

 

今日の日本語「しまい」には、単に終わらせるだけではなく、片づける、始末する、などといったニュアンスを含む、日本語独特の文化・価値観があるようです。

 

まず辞典で、一般的な語彙をみてみましょう。

 

 

 

しまい【仕舞い・仕舞・終い・粉粧】

 

 

 

〔動詞「しまう」の連用形から〕

 

① 今までしていたことを終わらせること。 「今日はこれで-にしよう」 「店-」

 

② 続いているものの最後。一番後ろ。 「 -まで全部読む」 「 -には怒り出す」 「 -風呂」

 

③ 物がすっかりなくなること。商品が売り切れること。 「お刺身はもうお-になりました」

 

④ 決まりをつけること。始末。清算。 「其の詮議を傍道からさし出て-のつかぬ内には何となさるるな/歌舞伎・毛抜」

 

⑤ 遊里で、遊女が客に揚げられること。 「みな一通り盃すみ、此の間に松田屋を-にやる/洒落本・通言総籬」

 

⑥ 〔「じまい」の形で〕 動詞の未然形に打ち消しの助動詞「ず」の付いた形に付いて、(…しないで)終わってしまったという意を表す。 「行かず-」 「会わず-」

 

⑦ (「粉粧」とも書く)化粧。 「花嫁の美くしう濃こつてりとお-をした顔/塩原多助一代記 円朝」

 

(『大辞林 第三版』三省堂)

 

 

 

 

 

■日本文化は「しまう」文化

 

 

 

日本語と日本文化には、さまざまな「仕舞い」のかたちがあります。

 

 

 

【能の仕舞】

 

言の葉庵読者の皆様なら、仕舞いと聞くと、まず能の仕舞をイメージされるかもしれません。

 

能の仕舞は一曲の見どころ、聞きどころを、シテが紋服姿で扇をもって舞う略式上演形態。

 

その昔、貴人の要望に応え、能を演じ終わったシテが催しの終わりにアンコールとして舞ったもの、とする説があり、「お仕舞」から終わりを意味する「お仕舞い」が生まれたともいい伝えます。

 

「しまふ」の言葉が鎌倉~室町時代に成立しており、そこは符合するようです。

 

一日をきれいに舞い納める―。能の仕舞には、美しくしめくくるというニュアンスがたしかにあります。

 

 

 

【仕舞いの挨拶】

 

茶道薄茶の点前で、仕舞いの挨拶という決まりごとがあります。薄茶を飲み終え、戻ってきた茶碗に亭主が湯を入れ建水に捨てたタイミングで、正客が「どうぞお仕舞いください」と挨拶する。これで主は次の点前に取り掛かりますが、あ・うんの呼吸できれいに場を納める「仕舞い」の思いを感じ取れます。

 

 

 

【ご供養仕舞い】

 

仏教では仏壇や位牌を処分することを「ご供養仕舞い」といいます。仏壇は自治体で粗大ごみとして処分できますが、さすがにそうも出来ない時に、僧侶が呼ばれ「ご供養仕舞い」が行われます。

 

僧により仏壇から魂を抜いてもらう法式を「魂抜き」、または「性根抜き」というそうです。そしてただの家具となった仏壇は専用施設で焼却されますが、これを「お焚き上げ」といいます。

 

 

 

【しもたや】

 

時代劇などでよく耳にする「しもたや」。漢字で書くと意が通じます。仕舞た屋。京言葉の「しもうた家」のこと。以前は商いをする家であったものが、店をたたみ一般の住まいとして人が住む家をさします。老夫婦が住まう閑かなたたずまいが感じとれる呼び名ではないでしょうか。

 

 

 

日本文化の「仕舞う」には、ただの終わりではなく、きれいに片づけ、整えて、次の新しい命を生み出し、呼び入れていくための知恵が宿っているのです。

 

 

 

 

 

■「舞」の字は、「無」から生まれた

 

 

 

「しまい」は、「終い」「仕舞い」と表記します。終いは意味からあてた字ですが、一般的に「仕舞い」を書く場合が多く、もともとこの表記でした。

 

なぜ終わりを表す文字に「舞」を用いたのでしょうか。漢和辞典【舞】の字解には以下のようにあります。

 

 

 

【舞】ブ/まう

 

字解 

Tenbun1

形声。舛(セン)が意符で、まい足のそむきあう意を表し、無()が音符。一説に象形。もと無がまいの象形字であったが、もっぱら否定詞に借用されたため、まい足の象形、舛を加えて、まいの字にしたという。

 

(『新漢和辞典』大修館書店)

 

 

 

白川静『常用字解』では、甲骨文字から篆文体にいたる字形の変遷とともに、より詳しく「舞」の字の発祥が語られます。

 

 

 

【舞】

 

解説 もとの字は舞に作り、無と舛とを組み合わせた形。無は舞う人の形。衣の袖に飾りをつけ、袖をひるがえして舞う人の姿である。無がもっぱら有無の無(ない)の意味に用いられるようになって、舞う時の足の形である舛(左右の足が外に向かって開く形)を加えて舞とし、「まう、まい、おどる」の意味に用いる。無はもと舞雩(ブウ)という雨乞いの祭りで、甲骨文には舞雩のことが多く見える。

 

 

 

⇒舞の字の変遷

 

Resize0137

「舞」が衣の袖に飾りをつけて、舞う人の字形であり、「舞」の元字である「無」が雨乞いの祭りをあらわした、と白川は説きます。

 

ではなぜ、「無」が否定の語として用いられるようになったのでしょうか。

 

 

 

 

 

■無いものを求めて、人は舞う

 

 

 

古代より人は、雨を天に乞うて祭り、踊りました。「舞」や「武」の字は、もともと足りないもの、無いものを求める、という根本義があるとする説を紹介しましょう。

 

 

 

「『釈名』に「武は舞なり」という語源説がある。逆に「舞は武なり」も成り立つ。武は「無いものを求める」という

 

コアイメージがある(1600「武」を見よ)。王力は巫と舞を同源とする(『同源字典』)。藤堂明保は武・巫・舞・無・馬・摸などが同源の単語家族を構成し、「探り求める」という基本義があるという(『漢字語源辞典』)。

 

miuag(舞)という言葉は巫・武と関係がある。巫(シャーマン)は舞うことによって神に幸いを求める人である。また武は力によってむりやり領土や物(戦利品)を求めようとする行為である。これらの行為の前提をなすのは「無」である。こちらに無いからこそ他から求めようとする。シャーマンは踊ることによって無いものを求める。「おどる」と「ない」が結びついている。「おどる」「ない」は巫という語では可逆的なイメージとなっている。舞と無の関係もこれと同じである。」

 

(HP常用漢字論―白川漢字学説の検証 http://gaus.livedoor.biz/archives/24403263.html)

 

 

 

 

 

■日本人は、ひとさし舞って無へ帰る

 

 

 

 旅に病んで夢は枯野をかけめぐる

 

 (松尾芭蕉 元禄二年)

 

http://nobunsha.jp/melma/no5_1.html

 

 

 

人は自らの終焉に臨み、辞世の句を詠んで静かにわが生を振り返ります。

 

そして扇を手に、ひとさし舞って最期に花を添えるもの。これこそ真正の武士と目されたのです。

 

 

 

本能寺の変の時、豊臣秀吉が水攻めをかけたのが毛利方である、備中高松城でした。

 

城主清水宗治は自らの首とひきかえに、城兵五千の命を救うことを条件として、秀吉との和睦を受け入れました。

 

 

 

最期の朝、巨大な湖に没した高松城より、宗治主従を乗せた小舟が静かに敵陣へ向け漕ぎ出します。

 

以下本文を、戦時中の初等科国語教科書「ひとさしの舞」よりご紹介しましょう。

 

 

 

いつのまにか、夜は明けはなれてゐた。

 

 身を淸め、姿を正した宗治は、巳みの刻を期して、城をあとに、秀吉の本陣へ向かつて舟をこぎ出した。五人の部下が、これに從つた。

 

 向かふからも、檢使の舟がやつて來た。

 

 二さうの舟は、靜かに近づいて、滿々とたたへた水の上に、舷ふなばたを並べた。

 

「お役目ごくらうでした。」

 

「時をたがへずおいでになり、御殊勝に存じます。」

 

 宗治と檢使とは、ことばずくなに挨拶あいさつを取りかはした。

 

「長い籠城ろうじやうに、さぞお氣づかれのことでせう。せめてものお慰みと思ひまして。」

 

といつて、檢使は、酒さかなを宗治に供へた。

 

「これはこれは、思ひがけないお志。ゑんりよなくいただきませう。」

 

主從六人、心おきなく酒もりをした。やがて宗治は、

 

「この世のなごりに、ひとさし舞ひませう。」

 

といひながら、立ちあがつた。さうして、おもむろに誓願寺せいぐわんじの曲舞くせまひを歌つて、舞ひ始めた。五人も、これに和した。美しくも、嚴かな舞ひ納めであつた。

 

 舞が終ると、

 

 浮世をば今こそわたれもののふの名を高松の苔こけにのこして

 

と辭世の歌を殘して、みごとに切腹をした。五人の者も、皆そのあとを追つた。

 

 檢使は、宗治の首を持ち歸つた。秀吉は、それを上座にすゑて、「あつぱれ武士の手本。」といつてほめそやした。

 

 

 

 

 

無に帰することを天に祈り、舞い納める日本語の「仕舞う」。

 

現代人のぼくたちにとって、卒業、定年、終活など人生の節目をむかえるにあたって、忘れてはならないキーワードではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

■言の葉庵HP【日本文化のキーワード】バックナンバー

 

 

 

・第六回 間

 

http://nobunsha.jp/blog/post_206.html

 

・第五回 位

 

http://nobunsha.jp/blog/post_122.html

 

・第四回 さび

 

http://nobunsha.jp/blog/post_92.html

 

・第三回 幽玄

 

http://nobunsha.jp/blog/post_50.html

 

・第二回 風狂

 

http://nobunsha.jp/blog/post_46.html

 

・第一回 もののあはれ

 

http://nobunsha.jp/blog/post_42.html

 

 

 

※「侘び」については以下参照

 

・[目利きと目利かず 第三回]

 

http://nobunsha.jp/blog/post_25.html

 

・[目利きと目利かず 第四回]

 

http://nobunsha.jp/blog/post_28.html

 

 

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2017年8月26日 (土)

平仮名はいつ日本中に普及したのか

0023 和歌刻んだ土器が出土 ひらがなの伝播知る手がかりに
(朝日新聞DIGITAL8/25)
http://www.asahi.com/articles/ASK8T52KWK8TUZOB008.html
山梨県甲州市塩山下於曽の平安時代の「ケカチ遺跡」居館跡から、
和歌を刻んだ10世紀半ばの土器が見つかりました。
同時期、ひらがなのみの和歌の出土例はなく、
仮名の地方伝播最古の例とみられています。
土器に書かれていた平仮名の和歌は以下です。
われによりおも
ひくゝ(または「る」)らむ
しけい
とのあはすや(み)
なはふくる
はかりそ
※(み)は欠損部分のため推定 (朝日新聞DIGITALより)
 
上の和歌が刻まれた土器は、都から派遣された官人が、
地方の有力者に贈答したものとみられています。
しかし内容は、恋歌です。
氏族間の婚姻が関連したのでしょうか。
以下、言の葉庵の読み下しと鑑賞例をご紹介してみましょう。
〔読み下し例〕
上句 我により 思ひ括らむ絓糸(しけいと)の
下句 (1)合はず止みなば 更くるばかりぞ
   (2)逢はずや御名は 経くるばかりぞ
〔鑑賞例〕
(1) なんとなくあなたのことが思われて絓糸で刺繍をしています。  
思いが乱れてうまく縫い取れず、柄も合わないので打ち捨ててしまい、
布も思いも古びていくばかり。
(2)  なんとなくあなたのことが思われて絓糸で刺繍をしています。  
でも、もうお逢いできないので、あなたの名前も刺繍も古びていくばかりです。
実際の歌意は、(1)と(2)を掛け合わせたものでしょう。
着想を、古今集業平の「千早ふる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは」
から得て、「からくれなゐ」を土器の赤色に見立てて詠んだ、
あるいは歌意にあわせて土を選び焼かせたものと思われます。
わが身と引き比べ、業平の東国下りを歌の背景に借りたのかもしれません。
(水野聡/能文社)

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2016年4月 1日 (金)

日本語力の危機〔人間はAIに勝てるのか〕

Resize0064 【言の葉庵】メールマガジンNo.85発刊しました!
http://archives.mag2.com/0000281486/
0000281486 ≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫ 名言名句マガジン【言の葉庵】
┓┏ ┏┳┓ ┣┫OW┃O        未来は子どもたちの読解力が創る 2016.4.1 ┛┗━━┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
官民あげてAIの開発が急ピッチで進みます。今回日本語ジャングルでは、人工知能の研究があぶり出した、現代日本人の文章読解力の危機をとりあげました。 今街で山で、桜が満開です。能舞台でも年に一度、幽玄の花がその美を競い合っています。4月の全国「桜の能」スケジュールをピックアップしてご案内。
…<今週のCONTENTS>…………………………………………………………………
【1】日本語ジャングル     日本語力の危機〔人間はAIに勝てるのか〕
【2】イベント情報                    2016年桜の能 編集後記
… ……………………………………………………………………………………………

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2015年4月 9日 (木)

「ぜいいん」とは?現代日本語の変容

ぼくは古典翻訳を通じて、古典名作を現代のことばで再生、紹介しています。
名作を広く紹介することに加え、実はひそかな目論見として「昭和」の
美しい言葉、消滅させるべきではない語彙を150年後に残そうともしているのです。

さて、一部報道で伝えられていますが、平成になって近代の日本語が変わりつつあります。
ひとつは「読み」。

たとえば、今の20代~30代の人は、
「雰囲気」を「ふいんき」と発音している。
もちろん正しくは「ふんいき」。
一度後輩に確認したところ、文字(かな)で書く場合は、
「ふんいき」と書くと答え、自分自身不思議そうな顔をしていました。

先日地元バスの中、若い夫婦の会話から採取した変容日本語は、「全員」。
奥さんが「ぜいいん」「ぜいいん」といっているので、なんだろうと
耳をすませてみると、文脈から「全員」を「ぜいいん」と発音していたのです。

ふんいき→ふいんき
ぜんいん→ぜいいん


現代日本語特有の音便変化がじわじわと進んでいますね。

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2010年8月 9日 (月)

「標準語」って一体何だ?

 今回のテーマは「標準語」。【言の葉庵】ずばり、直球勝負です。かくいう
わたくし、生粋の神戸っ子。実は関西人やねん…。関西人はすべて、関西弁が
正しい日本語、標準語であると考えています。ところが時々、無意識に頭の中
で”標準語=東京語”で考えていることがある。これはなぜか?そもそも標準
語って何? 何が標準語に採用され、何が捨てられたのか?
 今回以下にご紹介する著作をナビとしながら標準語成立の謎に迫りたいと思
います。

『標準語の成立事情 日本人の共通ことばはいかにして生まれ、育ってきたの
か』真田信治 PHP研究所 1987
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569576079/249-0291854-9135550

Mangekyo_095  本著は「社会言語学の視点で標準語成立事情を追究」した作品です。標準語
そのものの定義や歴史など教科書的な説明は↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%99%E6%BA%96%E8%AA%9E


でご確認いただくとして、日本語ジャングルでは、トリビア的視点に立ち、そ
のエッセンスのいくつかを拾い読みしていきたいと思います。



1.江戸以前の正しい日本語は、”京都ことば”。

 安土桃山時代、布教のため来朝したポルトガルの宣教師たち。教義を日本人
によく理解させるためには、日本人共通のことばで説教をしなければなりませ
んでした。彼らが「標準語」として採用したのが上(畿内)の京都ことば。京都
の上層階級の人々が用いることばでした。このことばにより日本初の外国人に
よる日本語辞典が生まれました。

『日葡辞書』1603・1604 長崎刊
『日本大文典』1604・1608 長崎刊 J.ロドリゲス編


2.「行かない。都さ上るべい」が”東ことば”。

 京都ことばに対する、東(あずま)ことば。東日本の語法上の特徴を『日本大
文典』から見ます。

 a.打ち消しには「ぬ」の代わりに「ない」を使う。上げない、読まない、申
 さない、など。
 b.未来にはさかんに助辞「べい」を使う。上ぐべい、読むべい、申すべい、
 など。
 c.移動の「へ」の代わりに「さ」を使う。「都さ上る」など。

 「べい」は、今の首都圏若者語にも「おめー、いねーべ」などと使われてい
 ますね。


3.講義・スピーチのスタイルから標準語は生まれる。

 時代は下って、江戸。享保年間、京都、石田梅岩によっておこされた石門心
学は、神・儒・仏教を総合、折衷した学問。この講義=道話により、全国各地
庶民へ、教えをわかりやすく伝える独特の「講話」のスタイルができあがり、
普及しました。

 心学道話と現代標準語の成立事情は、以下のようにたどれます。

「抄物→江戸講義物(心学道話等)→明治講義物→演説→標準語の口語は、一本
の連続線上にあるのではないかという予想を述べたが、道話に対する今回の小
調査に関する限り、この予想を裏切る否定的要素がなかった」森岡健二

「演説調・講義調・説教調のように、ことばの型が定まってくるスタイルがで
きると、ことばの訛り・語法の乱れは次第におさえられ、多数の聞き手に理解
されやすいことば遣いが整ってくる。現在のニュースや天気予報のスタイルも
同じプロセス」田中章夫

 ロジカルな思考を行っている時、プランニングをしている時など関西人のぼ
くも無意識で”標準語”で考えている。これは上のように、標準語が新しい知
識を伝えるため、理性に訴えるべく整えられ、成立した言語だからなのかもし
れません。どなたか正しい根拠を知っていれば、ご教授ください(庵主)。


4.標準語化が生んだもの。”ダ体・デス体・デアリマス体”。

 明治の標準語化を強力に推進したのが「言文一致運動」。当時の小説家たち
が作品の中で実験的に用いた文体が、今日の標準的な日本語表記として定着す
ることとなります。以下が、それらの作家、作品と文体。明治20-24年に一挙
に出揃いました。

 『浮雲』二葉亭四迷 “ダ体”
 『胡蝶』山田美妙 “デス体”
 『野末の菊』嵯峨の屋御室 “デアリマス体”
 『二人女房』尾崎紅葉 “デアル体”(デゴザイマスとダ体の中間)

 当時、言文一致運動に「落語」の話法がヒントを与えたというユニークな逸
話があります。以下、二葉亭四迷のエッセイ『余が言文一致の由来』より。

「もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何か一つ書いて見たいと
は思つたが、元来の文章下手で皆目方角が分からぬ。そこで、坪内(逍遥)先生
の許へ行つて、何うしたらよからうかと話して見ると、君は円朝の落語を知つ
ていよう、あの円朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。
 で、仰せの侭にやつて見た。所が自分は東京者であるからといふ迄もなく東
京弁だ。即ち東京弁の作物が一つ出来た訳だ。早速、先生の許へ持つて行くと、
篤と目を通して居られたが、忽ちはたと膝を打つて、これでいい、その侭でい
い、生じつか直したりなんぞせぬ方がいい、とかう仰有る。
 自分は少し気味が悪かつたが、いいと云ふのを怒る訳にも行かず、と云ふも
のの、内心少しは嬉しくもあつたさ。それは兎に角、円朝ばりであるから無論
言文一致にはなつている」


5.標準語化が奪ったもの。”方言摘発・撲滅運動”。

 明治時代の言語統一の考えは、戦前まで続きます。各地のお国ことば、方言
は、標準語普及にとって、邪魔な物、無用の物、社会的な「悪」とまでみなさ
れてしまいます。
 この「悪」をつみとるために実施されたのが、”方言撲滅運動”。方言を使
用する教師が摘発、生徒が告発されることとなりました。方言を使用した生徒
に懲らしめとして「方言札」なるものが、首からぶら下げられたり、背中に貼
られたりしたのです。
 方言を禁じることは、方言使用者が自由に意見をいうことまでをも禁じるこ
と。むろん、このような政策が受け入れられることも、成功するはずもありま
せんでした。


6.「ゴ注文ハヨロシカッタデスカ?」は、語法の乱れではなく、方言。

 たとえば、「コワイ」「オッカナイ」「オソロシイ」などの言葉が、全国に
どのように分布し、標準語化とどのように関わるのかを解明している章があり
ます。
 ここで面白い例は「おはようございます」の方言。北海道、四国、中国の一
部に「ございます」の部分を過去形にした「オハヨウゴザイマシタ」がある。
これは、意味的にはむろん過去ではなく、丁寧な表現になるということです。
 よく耳にする、若者/接客用語の「よろしかったでしょうか」。文法的には”
過去の時点での確認”とする解釈もあるようですが、現在も現地で使われてい
るこの”丁寧語方言”由来であるとした方が、すっきり説明できるようにも思
えますね。


7.コトバは年速0.6kmで旅をする。

 本書にコトバの伝播について面白い実験があります。ある一点で使用されて
いる語形が、どのくらいのスピードで周辺地方に伝わってゆくのかを調べたも
のです。

・「行く」の否定形過去は、東日本・北日本では「行かなかった」、京都では
「行かなんだ」。
・「行かなんだ」は現在、中部・首都圏・山陰・中国地方で使用されている。
・「なんだ」語形初出は、1477年成立の抄物、『史記抄』に。しかし、実際の
発生は約50年ほど前か。
・「なんだ」分布範囲は、京都を中心に上の地方へと、半径330kmの円の中にぴ
ったり収まっている。
・これらの地方への伝播は現在までで、約550年かかっている。試算すると伝播
スピードは年速(km/年)0.6kmとなる。


8.共通語は「現実」であり、標準語は「理想」である。

 戦後「標準語」に代わり、「共通語」という用語が登場してきます。「標準
語」という言葉がもつ統制というニュアンスが嫌われたためだと思われます。

・「共通語」の原義は、異なった言語間のコミュニケーションに用いる第三の
言語をさす。インドネシアのマレー語/東アフリカのスワヒリ語/英語など。

・『国語学大辞典』による、現代の標準語・共通語の定義。

「共通語は現実であり、標準語は理想である。共通語は自然の状態であり、標
準語は人為的につくられるものである。したがって、共通語はゆるい規範であ
り、標準語はきびしい規範である。言いかえれば、共通語は現実のコミュニケ
ーション手段であるが、標準語はその言語の価値を高めるためのものである」
柴田武

・「地域共通語」の一例。和歌山県中部の一部では、改まった席では、大阪こ
とば(関西中央部方言)が使われる。

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2009年12月16日 (水)

日本文化のキーワード第一回【もののあはれ】

 今回より日本文化のキーワードを企画。全四回のシリーズでお届けしていきます。テーマは、第一回【もののあはれ】、第二回【幽玄】、第三回【風狂】、第四回【寂び】。(【侘び】は茶の湯関連シリーズで別途ご紹介予定)
 平安から、安土桃山時代まで、日本人なら誰でも聞いたことのある、日本文化のもっとも重要なキーワードを、ごいっしょに毎回クルーズしていこうと思います。第一回目は、和歌・物語文学の根本を解き明かす、「もののあはれ」。


 有名な「もののあはれ」は、本居宣長が提唱した、平安時代の全文芸の基調となる美的概念です。これは、まず、古書にみられる「あはれ」を考証した小論『安波礼弁』(宝暦八年)により初めて唱えられ、物語論『紫文要領』(宝暦十三年)、和歌論『石上私淑言』(?宝暦十三年以降)の両著を経て理論構築、完成をみました。
 さて、「もののあはれ」とはいったい何なのでしょうか。宣長記念館HPから、まずご紹介します。

「もののあわれ」とは、『石上私淑言』で宣長は、歌における「あはれ」の用例をあげながら、「見る物聞く事なすわざにふれて情(ココロ)の深く感ずる事」を「あはれ」と言うのだと述べている。つまり、揺れ動く人の心を、物のあわれを知ると言うのだ。歌や物語もこの心の動きがもとになる。たとえば、宣長が高く評価した『源氏物語』も、「この物語、物の哀れを知るより外なし」と言っている。文学はそのような人間の本性に根ざしたものであり、そこに存在価値があるとした。
 これは、宣長が、和歌や『源氏物語』から見つけた平安時代の文学、また貴族の生活の底流を流れる美意識である。
 この「もののあわれ」と言う文学的概念の発見は、宣長に和歌の発生からその美的世界までの全局面を把握し説明することを可能にした。『安波礼弁』で、「歌道ハアハレノ一言ヨリ外ニ余義ナシ」と言い、歌の発生はここにあるとする。「もののあわれを知る心」という、人が事にふれて感動し、事の趣を深く感受する心の働きから歌が生まれること、そしてその感動を言葉にしてほかの人へも伝えたいという伝達の欲求から「よき歌」への関心もまた生じる事が説かれた。

次に、『紫文要領』本文をみてみましょう。

本居宣長曰く、
「世中にありとしある事のさまざまを、目に見るにつけ耳に聞くにつけ、身にふるるにつけて、其よろづの事を心にあじはへて、そのよろづの事の心をわが心にわきまへしる、これ事の心をしる也。物の心をしる也。物の哀れをしるなり。其中にも猶くはしくわけていはば、わきまへしる所は物の心事の心をしるといふもの也。わきまへしりて、其しなにしたがひて感ずる所が物のあはれ也」


 「もののあはれ」は、ベストセラー『国家の品格』でも紹介され、今やブログでも盛んに取りあげられていますね。

http://web.chokugen.jp/mikami/2006/05/post_ffc2.html
http://shelly-tomoko.at.webry.info/200606/article_8.html
http://www.city.hakusan.ishikawa.jp/kyouiku/bunka/akegarasu_sho/ronbun/1-10/H2-1honbun_3.jsp
http://blog.goo.ne.jp/mishimablues/e/74ed9fb2a53593b0c85428b8eb916e06
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2005/07/post_c02b.html

 これら、今世の中で話題になってる「もののあはれ」の捉え方も、間違いではありませんが、少しかたよっているのではないでしょうか。宣長が提唱したのは「はかなく美しいものに、感動する心」だけではありません。

 そもそも「もの」とは何か? 「あはれ」とは何か?

 まず、「あはれ」。現代語では、ただ「哀れ」のみの意味となってしまいましたが、近世までは、

「うれしいにつけ、悲しいにつけ、しみじみとした深い感動を受けた時に発する語。ああ。」(『古語辞典』角川書店)

 だったのです。宣長『石上私淑言』にも、

「ある時は喜しく、ある時は悲しく、又はらだたしく、又よろこばしく、或は楽しくおもしろく、或はおそろしくうれはしく、或は愛しく、或はにくましく、或は恋しく、或はいとはしく、さまざまにおもふ事のある、是即ち物のあはれをしる」

 とあります。古語辞典で”あはれ”をひくと、「いとしい」「なつかしい」「かわいそう」「悲しい」「情けない」「残念」「うれしい」「感心」「おもしろい」…。書ききれないほど実に多様な意味があります。「あっぱれ」も元は、”あはれ”から派生した語。


 さて、では「もの」とは何か。漢字で書くと「物」の方です。現代日本語では、生命のない対象物、英語のThingの意味のみに、おおむねなっていると思われます。ところが近世まで、宣長や歌人、文芸作者のみていた「もの」には、実に広範で豊潤な意味がありました。正直、すべてをみると何がなんだか、ワケがわからなくなるほど雑多です。
 いきなり正解をいいますと、「もの=物」とは、「ワケのわからないもの」なのです。わからないながらも、辞典によっては監修者の好みで、その定義には微妙な”ゆれ”がある。代表的な巨大辞典、『広辞苑』と『大辞林』を比較、その”ゆれ”をみてみましょう。

「もの」の定義

A.広辞苑
●形のある物体をはじめとして、存在の感知できる対象。また対象を特定の言葉で指し示さず漠然ととらえて表現するものにも用いる。
1.物体。物品。
2.仏・神・鬼・魂など、霊妙な作用をもたらす存在。妖怪・邪神・物の怪。
3.物事。
4.世間一般の事柄
…6.言語・言葉。

B.大辞林
●形のある物体を初めとして、広く人間が知覚し思考し得る対象の一切を意味する。
「こと」が時間的に生起・消滅する現象を表すのに対して、「もの」はその現象を担う不変な実体を想定して用いる語である。
1.物体。物品。
…3.対象を具体的に表現せず、漠然という語。何らかの対象。「―を言う」
「―を思う」
…5.物事の筋道、道理。
…6.鬼や悪霊など、正体のとらえにくい対象を畏怖していう語。「―に憑かれる」「―の怪」
二?〔哲〕イ 人格としては関係しない対象を「ひと」に対して「もの」という。


二つの辞典の間の“ゆれ”
A.広辞苑 1.定義中に「言語」がある。 2.正体不明の霊的存在が語義の上位にある。
B.大辞林 1.「こと」が時間的に生起・消滅する現象。「もの」がその現象を担う不変な実体。
2.人格に関係しない対象。

 辞典の”ゆれ”を比較すると、言の葉庵としては、定義に「言語」をいれた広辞苑に一票投じたいような気もしますが、ここで重要なのは「ものの怪」「憑もの」「物忌み」などと使う、「仏・神・鬼・魂など、正体のとらえにくい霊妙な存在」という定義。日本文化論者、栗田勇の著述に興味深い一文があります。


日本人にとって、ものはもの以上である。もののけという言葉があるが、あの「もの」は、じつは目に見えぬ精霊のことである。つまり、魂をものといっている。
『源氏物語』にしても、必ず舞台に小道具が出てくる。光源氏が女性と知り合うときに、たとえば夕顔なら夕顔の花と釣瓶が出てくる。それから薄がなびき、萩の花が庭を埋め、という舞台設定が行われる。つまり、ものによって、人と人のドラマが始まる。
というのも、日本人にとってものというのは、西洋人のいういわゆる物質ではない。ものは、広い天然宇宙の自然と人間との間のひとつのきっかけ、橋渡しのようなものであり、ものが出てきてはじめて、その背景にあるドラマの舞台に人間はすわることができると考えている。
それに対してキリスト教の場合、神が橋渡しとなって人間と人間がつながる。したがってカトリック世界では、つい近ごろまで神を通じて結ばれた男女は離婚できないというルールがあったわけだ。日本人の場合、そういう絶対的なキリスト教の神に代わるものが、ものであった。それはなぜかというと、絶対的な自然の象徴であり、ものを手がかりにし
て、人間の世界は目に見える真実界へと広がっていくからである。(『利休と日本人』栗田勇 祥伝社)


 栗田氏のいう「もの」とは、天台宗本覚思想の「草木国土悉皆成仏」、すなわちこの世のあらゆるもの、山、川、海や空気にいたるまでの、仏性が宿る霊的な存在のことなのです。この存在が、人間界・現実界と霊界との”橋渡し”を担うことをよくあらわしているのが、能の世界。

 演じる神や霊などが宿るといわれ、最も重要とされているのが、能の面。とくに「もの」がつくものは、すべて霊界との媒介となります。「作りもの」「採(と)りもの」「もの狂い」。
 「作りもの」は、竹の枠組みに白いさらし布を巻いただけのいたって簡素な舞台装置です。これが、舟・鐘楼・井戸などをあらわす。前シテは、このシンボルにきっかけを与えられ、劇中のクライマックスに導かれます。
 「採りもの」は、狂女や巫女などが扇の代わりに手にもつ、小笹・桜枝・御幣などの小物。シテは、この小物がアンテナ=神の依代(よりしろ)となって、あの世からの託宣をキャッチし、舞い、謡います。
 「もの狂い」は辞典類には必ず「ふだん正気の人が、亡父・行方不明の子などを思い浮かべることで、たちまち狂気となって」と説明されていますが、違います。舞台上の真実は、霊的なエネルギーを受けやすい状況にある人(亡き子を思い出すなど)の感情があふれ出すさまを、舞や型に芸として止揚して演じるひとつの方法、舞台様式です。この場合、「狂う」は「演じる」の代名詞。
 以上のように、能は、まさに本覚思想を芸術化・舞台化したものですから、霊的な正体不明の「もの」をベースに存在、成立しています。


 この正体不明で、霊的な「もの」は、古代日本人にはどのように呼ばれていたのでしょうか。

 日本の古代の信仰の方面では、かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、ものとの四つが、代表的なものであった。…鬼は怖いもの、神も現今の様に抽象的なものではなくて、もつと畏しいものであつた。今日の様に考へられ出したのは、神自身の向上した為である。たまは眼に見え、輝くもので、形はまるいのである。ものは、極抽象的で、姿は考へないのが普通であつた。此は、平安朝に這つてから、勢力が現れたのである。
(「鬼の話」折口信夫)

 つまり、古代人にとって「もの」は単なる物質ではなく、カミ・オニ・タマと同様、具体的な形をもたない霊的な存在だと考えられていました。また、概念としては、これら四つを総合した包括的なものだったようです。

 モノとオニが古くは同義語だったことは専門家の常識だが、さらにオニとカミも互換的であり、したがって存在物一般―ふつう哲学では「存在するもの」(ギリシャ語のon、ラテン語のens、ドイツ語のSeiende)を「存在者」と訳しているが、人間についても物という(人物、大物の例)から、本書では人を含めて「存在物」と表記する―および存在一般を指示するモノにカミもまた還元されてしまうと、素人の筆者は考えるからである。折口の挙げた古代信仰の四概念のうち三つまでが相互関連的であり、モノがその根底をなしている。残るのはタマ(霊魂)だが、これはむしろケ(気)と関連づけて考察した方がよく、霊がカミと、神がタマシヒと訓じられることもあった(例えば『日本書紀』欽明天皇二年七月条)から、結局全称類概念としてのモノに内包されてしまうだろう。
(『もののけ?』山内昶 法政大学出版局)


 さて、海外では森羅万象に不可知な生命現象が潜むとする〈アニミズム〉という概念があります。(『原始文化』タイラー 1981)さらに、〈アニミズム〉をより根源的、普遍的に説明する〈マナ〉という新概念が、タイラーの弟子たちによって提唱されました。〈マナ〉はメラネシア人たちに信じられている、超自然的な存在・力・霊性です。

 マナとはメラネシア語で「人間の平常の力を超え、自然の通常の過程の外にあって、あらゆるものに効果を生じさせるもの」(『メラネシア人』コドリントン)にほかならない。メラネシアの人々は海上で暴風雨に遭うとその針路をかえてくれるように嘆願するが、これは嵐の中にあるスピリトウスに訴えているのではなく、嵐そのものを生きた存在としてそれに呼びかけていた。あるいはカヌー競争で優勝できたのも、漕ぎ手が優れていたからではなく、舟にマナが宿っていたからである。戦士が敵を槍で倒せたのも、彼が強かったからではなく、槍にマナが憑いていたからである。

 コドリントンの定義によると、「メラネシア人はあらゆる物質的な力から、絶対的に区別された力の生存を信じている。これは善にも悪にも、あらゆる種類の仕方で作動し、かつまたこれを人間が掌中に収めて支配することが至高の利益である。これがマナにほかならない。…それは力、非物質的で、ある意味では超自然的な作用力である。けれどもこれが啓示されるのは自然力によって、あるいはまた人間がもっているすべての種類の能力と卓越性によってである」
(『同前』)


 つまり〈マナ〉とは宇宙に遍く存在する、超自然的で神秘的な力であり、自然界のあらゆるものの中に自由に出入りし、背後から動かし、エネルギーを与える。それは人間・自然物・自然現象を通じてあらわれるものだというのです。

 調査によると〈マナ〉と類似の概念・信仰は、世界各地に偏在していることがわかりました。

 アメリカ大陸 北米アルゴンキン語族〈マントウ〉、オセアニア レパース島〈マナギ〉、マライタ島〈ママナア〉、ガダルカナル〈ナナマ〉、フィジー諸島〈マヌ〉、東南アジア ボルネオ ダヤク族〈マナン〉、アフリカ ウガンダ ニヨロ族〈マハ〉、ドゴン族〈ニャマ〉、モシ族〈ナム〉。

 また、世界の古代語にも霊的エネルギーを指す、類似語が多く見られます。
 古代ヨーロッパでは〈マナ〉は「母なる月」をあらわす言葉。古代スカンジナビアでは女神を〈マン〉〈マナ〉〈マナ・アンナ〉。古代ローマでは祖霊を〈マネス〉と呼びました。『旧約聖書』出エジプト記によると、放浪するイスラエルの民を、神が〈マナ〉という食物を天から降らせ、四十年間養ったとあります。


 〈マナ〉と類似の言葉・概念・信仰は、世界のいたるところでみられるものでしたが、日本語の〈モノ〉も〈マナ〉の転化ではないか、とする説があります。

 「もの」は日本語のシステムにおいて、マナと全く同じ運動をしているように思われる。Mono-mana。村山七郎氏の言うように日本語の基層がアウストロネシア系であるとすれば、ここに単なる駄洒落を見るべきではないだろう。
(『マナと法』岩森栄樹)

 日本の「もの」とポリネシアの「マナ」とは変換可能な概念であり、その役割は同一であるということになるであろう。(『憑霊信仰論』小松和彦)

 沖縄や八重山諸島の「まやの神」の「まや」は「マナ」の転であり、「モノ」もまた同様であろう。(『鬼と天皇』大和岩雄)

 その他にも、昨今〈マナ〉と〈モノ〉の類縁性を考証する研究が種々提唱されています。


 このようにみていくと、宣長の「もののあはれ」は、ただ日本人だけの美的感性に限局されたものではなく、文化人類学、民俗学などの視点も交え、捉えなおす必要があるようです。くわえて、「もの」を「言語」とするなら、超自然的な想念(信仰といっていいかもしれません)が、言語表出化されるモデル、西欧の〈ロゴス〉や日本の〈言霊信仰〉とも関連付けて見てゆく方法もあるかもしれません。が、今はその力もないので稿を改めたいと思います。


※〈マナ〉以降の段落の引用・出典は、主に『もののけ2』によりました。


【言の葉庵】メールマガジンより
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2009年12月13日 (日)

いろは歌は、古代の怨念とSOSのメッセージ〈前編〉

 七五調のリズムと同様、ぼくたち日本人の血の中を脈々と流れる四十七個の音球。それが、いろは四十七文字で、この文字をひとつずつ、全く重複なしに編んだ歌がいろは歌です。

 いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ…。

日本人なら誰でも知っている、もっとも有名で、もっとも美しく完成された歌。これは一体いつ、誰が、何のためにつくったものなのか。意外と知られていないのではないでしょうか。また、この歌が伝えようとした表向きのメッセージと、隠された真実のメッセージとは何か。今回、日本語ジャングルでは、いろは歌に封印された、古代の悲しいメッセージを読み解いていきます。

 〈前編〉では、いろは歌の成立・内容・歴史、どんなことが歌われているのか、隠されたものは何か。次号〈後編〉では、隠された暗号の解読と、さまざまな日本語研究分野での斬新な解釈を紹介していきます。



1.いろは歌の成立と歴史


字母歌「いろは」   いろは歌

いろはにほへと    色は匂へど
ちりぬるを      散りぬるを
わかよたれそ     我が世誰ぞ
つねならむ      常ならむ
うゐのおくやま    有為の奥山
けふこえて      今日越えて
あさきゆめみし    浅き夢見じ
ゑひもせす      酔ひもせず

(松村明編『大辞林』三省堂)



上が、いろは歌の仮名書きオリジナルと、漢字表記と濁点を付した読み下し形
のものです。
いろは歌は、代表的な日本人の手習い歌の一つ。七五調四句の今様形式になっています。その仮名の配列順は、今日の「五十音」と同様に、「いろは順」として中世~近世の辞書類等に広く利用されました。
また、いろは歌は、47文字すべての仮名を一度だけ使って作られている歌で、これを字母歌と呼びます。47文字から成り立つ字母歌は、確かに日本語を表記するために用いられる全ての表音文字を1個ずつ含んでいるだけでなく、歌としてすぐれた文芸性を表現し、なおかつ見事に一貫した文脈を形成して、重層的なメッセージを投げかけているのです。


いろは歌が、文献上に最初に見出されるのは1079年成立の『金光明最勝王経音義』であり、大為爾の歌で知られる970年成立の源為憲『口遊』には同じ手習い歌としてあめつちの歌については言及していても、いろは歌のことはまったく触れられていないことから、10世紀末~11世紀中葉に成ったものと思われます。
いろは歌の作者は不詳です。院政期以来、空海作とされてきましたが、その可能性は現在ほぼ否定されています。空海の活躍していた時代に今様形式の歌謡が存在しなかったということもありますが、何より最大の理由は、空海の時代には存在したと考えられてい上代特殊仮名遣の「こ」の甲乙の区別はもとより、「あ行のえ(e)」と「や行のえ(je)」の区別もなされていないことです。
ただし、「や行のえ」については、破格となっている2行目に「あ行のえ」があった可能性(わがよたれそ えつねならむ)を指摘する説も出されていますが。


いろは歌は、本来、無常観を歌った極めて仏教的な内容の歌とされてきました。新義真言宗の祖である覚鑁は『密厳諸秘釈』の中でいろは歌の注釈を記し、いろは歌は世に無常偈として知られる『涅槃経』の偈「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」の意であると説明しました。
以下に、いろは歌の各句と涅槃経の偈との対応関係を示します。


いろは歌        『涅槃経』の偈

色は匂へど散りぬるを  諸行無常
我が世誰ぞ常ならむ   是正滅法
有為の奥山今日越えて  生滅滅己
浅き夢見じ酔ひもせず  寂滅為楽



2.いろは歌には何が歌われているのか(表の意味は?)

まず、各句の語釈を、見ていきましょう。以下のサイトからご紹介します。

FC2ブログ「ことばの遊歩道」より
http://homepage1.nifty.com/forty-sixer/iroha.htm

 「色はにほへど(におえど)散りぬるを」 「散り」とあるので「色」が花の色であることが分かる。「にほふ」は何かが視覚的に映えることを示し、現代語のような嗅覚的な意味ではない。嗅覚的な意味の場合は、古語では百人一首の「ひとはいさ心も知らず故郷は花ぞ昔の香ににほひける」の歌にあるように、「香ににほふ」という。「色はにほへど散りぬるを」は、「花の色は鮮やかに映えるけれども、(いずれは)散ってしまうものなのに」という意味である。

 「我が世たれぞ常ならむ(ならん)」 「私の生きているこの世で誰が一定不変であろうか、いや誰も一定不変ではない」という意味である。「誰」は現代語では「だれ」と濁るが、古語では濁らない。ヘミングウェイの小説の訳題である「誰(た)がために鐘は鳴る」や「たそがれ」を思い出していただきたい。「たそがれ」は「誰そ彼れ」であり、夕暮れ時の闇で人の顔の識別が難しいことからできたことばである。「ぞ」は「それ」の「そ」と同じ語源で古くは清音だったが、平安時代からは濁音となった。

 「有為の奥山今日越えて」 仏教的な世界観では万物は何らかの原因があってこの世に存在している。「有為」とは原因があることを示す語だが、ここでは、原因があって存在している万物を意味している。万物で満たされたこの世を一日生きることを山を越えることにたとえて、このように表現している。

 「浅き夢見じ酔ひ(えい)もせず」 「はかない夢など見るまいよ、酔っているわけでもないのに」という意味である。「酔ふ」はもともと「ゑふ」といった。それが現代語で「えう」にならず「よう」になった経緯については、塔婆守のホームページの中の「やまとことばレッスン」の第48回を御覧いただきたい。「酔えば」を「ええば」では言いにくいであろう。


いろは歌を覆うトーンは、仏教末法思想による、平安時代特有の無常感だといわれています。
『方丈記』で鴨長明が克明に記録した、京中いたるところに人の死骸が散乱する”地獄図絵”は、この時期相次いで京都を襲った天災、大火災・大地震・飢饉・日照り・洪水などの自然災害が原因です。
 さて、それではいろは歌全文の解釈を見てみましょう。後述する、篠原央憲『いろは歌の謎』から以下、一部引用します。


一般には、次のような意味とされている。
 「この世に、はなやかな歓楽や生活があっても、それはやがて散り、滅ぶものである。この世は、はかなく無常なものである。この非常なはかなさを乗り越え、脱するには、浅はかな栄華を夢見たり、それに酔ってはならない」
 しかし、私は「いろは歌」の本当の意味は、かなり違っているものと考えている。「いろは歌」は、もっと悲壮で恨みに満ちた歌なのである。私は次のように訳す。

 「自分はかつて栄光の座で華やかに生きたこともあったが、それはもはや遠い過去のものとなった。この世は明日が分からない。いま栄華を極めるものも、いまにどうなるかわからないのだ。生死の分かれ目の、厳しい運命のときを迎えた今日、自分はもう何の夢を見ることもないし、それに酔うこともない」

 最初の訳は、普通一般の訳であり、いわば仏教の教理であり、人生の教訓である。つまり、これが表向きのテーマである。これなら警戒されることはない。これまでの研究者はすべてこのように解釈し当然作者は弘法大師か、そうでなくともたれか僧侶か仏教関係者であろうとしていた。だが、第二の訳になると、ここではテーマがまったく逆転する。悟りの教えどころか、個人の怨念であり絶望感そのものである。実に暗鬱なニヒリズムがただよっているのだ。

この「個人の怨念・絶望感」「暗鬱なニヒリズム」とは、一体何を意味するのでしょうか。


3.いろは歌に隠されたものは何か。

 いろは歌には、ある人物のメッセージが暗号として隠されている。その驚くべき事実は、上古の為政者が打ち立てた日本正史を根底から覆すものであり、記紀・万葉集の成立の謎を解き明かす…。今から約20年前、いろは歌、万葉集などに隠された古代人の暗号メッセージを解読することにより、全く新しい歴史観を樹立・展開する「古代史暗号」ブームが巻き起こりました。このブームの中で、『水底の歌』梅原猛、『猿丸幻視行』井沢元彦、『もうひとつの万葉集』李寧熙など数々のベストセラーが生み出されました。
 今回、いろは歌の暗号をデコードするため、下2冊のすぐれたナビゲーションをご紹介しましょう。

『いろは歌の謎』 篠原央憲 光文社 1976 http://www.japanology.cn/paper/jp/06sinohara_iroha.htm

『いろは歌の暗号』 村上通典 文藝春秋 1994 http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-03.htm


 『いろは歌の謎』『いろは歌の暗号』ともに、デコードされた暗号(キーワード)は同じです。そして、このキーワードの発見が、前述の古代史再構築の暗号ブームを引き起こすこととなりました。デコードのアルゴリズムとキーワードに関わる主要人物は両著とも同じですが、その仮説検証の方法、暗号作者の特定、そして何より主要人物特定後の経緯の推理・プロットが、二著ではまったく異なります。
 それでは、まずは隠された暗号とは何か、見ていきましょう。村上通典『いろは歌の暗号』を、コンパクトに読書ガイド化した、HP

「いろはかるた漫談」
http://www.tokaido.co.jp/lab/wada/iroha.htm

より、本著のエッセンスを抜粋、再構成してご紹介します。


●いろは歌の暗号解読より浮かび上がる言葉は

 簡単に謎解きの例を要約します。
いろは歌を7文字で折り返して記述すると行の終わりに並ぶ文字「沓」を上から下に読んで行くと,「とかなくてしす」と読めます。

い ろ は に ほ へ と ↓
ち り ぬ る を わ か ↓
よ た れ そ つ ね な ↓
ら む う ゐ の お く ↓
や ま け ふ こ え て ↓
あ さ き ゆ め み し ↓
ゑ ひ も せ す ←

つまり「咎無くて死す」になるのです。そこでこれは,無実の罪を着せられて死んだ,万葉の歌人,柿本人麿が怨念を込めて残した暗号では無いか? と推理できるのです。

 しかし,この説には時代考証上の無理があって,一笑に付された経緯があるのですが,誰かが柿本人麿の思いを暗号にして後世に伝えようとしたことは確かでしょう。
『いろは歌の謎』を書いた篠原央憲は,この暗号を,偶然作業中に気づいたと書いています。
それほど,この暗号は巧妙に隱され続けていましたが,すでに江戸時代には,気づかれていたようです。
 井沢元彦の「猿丸幻視行」(前述)は「かきのもと」の5字が,巧妙に折り込まれていることを推理して好評を得た作品でした。

い (ろ) は に ほ へ (と)
ち り ぬ る を わ [か]
よ た れ そ つ ね な
ら む う ゐ [の] お く
や ま け ふ こ え て
あ さ [き] ゆ め み し
ゑ (ひ) [も] せ す (ま)

中央の[の]に注目して下さい。右上の[か]に対して[の]を中心に対象の位置にある文字は[き] です。
同じく右上の(と)に対して「の]を中心に対象の位置にある文字は[も]です。
左上の(ろ)に対して[の]を中心に対象の位置には本来文字がありません。
ここに(ま)をあてるのは江戸火消し48組で,「万」組を作ったりした事例からみて,文字の最後を「万」つまり(ま)にしても無理ではありません。
ちなみに,江戸火消し48組では,「へ」は「へ」のようで失格。「ら」は男根の意味なので禁句,「ひ」は火に通じてやっぱり禁句という分けで,それぞれ「百」組,「千」組,「万」組に代えられています。
こうして列挙すれば,[の]を中心とした斜め右上から左下への往復で、[か][き][の][も](と)が表れます。
そして,これらの文字が格納された正方形の対角に着目すると、(ひ)(と)(ま)(ろ)が表れるのです。


(次回〈後編〉へ続く。)


【言の葉庵】メールマガジンより
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2009年12月12日 (土)

日本語はなぜ「七五調」なのか?〈後編〉

 〈前編〉では、日本人が七五調を読む定式化されたリズムがあり、それは二音節を一単位として構成される「四拍子」である、という説をご紹介しました。


 それでは、なぜすべての音数より特別に「五音」「七音」が選ばれたのか、続きを追っていきましょう。


3.なぜ、五音と七音が撰ばれたのだろう。

 では、なぜ四拍子を構成するのに五音と七音が選ばれたのか。それには、選んだというより、基本的には、五音と七音がいちばんできやすいということもあったのではなかろうか。

 前に述べたとおり、日本語の単語を類別すれば、二音節のものが圧倒的に多く、それだけで全体の六十パーセント近くを占めている。次いで三音節が三十パーセント弱である。したがってまた、二語の合成語も、二プラス二の四音節がもっとも多いにちがいない。
 ところで、文章をつくり叙述を完成させるには、いわゆる「てにをは」をつけたり、動詞を活用させたりしなければならない。単語の羅列だけでは歌にならない。つまり、大部分は一音節、一部は二音節でできている助詞や語尾変化部分を付加する必要がある。そして、四拍子ということを考えると、一句の長さを三音節や四音節で片付けることはできない。あまりに短すぎる―逆にいえば、休みが長くなりすぎるからである。それなら、いちばんできやすい組み合わせは五音で、短い句が五音になるのは、確率的にも当然のことにすぎない。

 長い句は、また四拍子を考慮に入れれば、六、七、八音のいずれかで(それ以上になると四拍におさまらない)、組み合わせの確率からいえば六音が最高かもしれないが、相対的な短長の感覚、休みの長さのバランスからして、七音がもっともふさわしいことになるだろう。短い句が五音であるのに対し、長い句が六音では、あまりに差がなさすぎるし、五音六音のくりかえしはむしろ三拍子にとらえたくなる(四拍子にするためには、全部の句にまるまる一拍の休みを置かなければならない)。また、長い句が八音では、句の切れ目にもまったく休みを置くことができず、ゆとりがなくなる。とすると、基本的には、長い句は七音が最適ということになる。


 以下当著は、長歌の「五七、五七、五」の二句切れから「五七五、七七」の三句切れへの移行、五七調から七五調への転換、英語俳句の批判、自由詩・散文詩のリズムへと考察が展開していきます。さて、本論とは間接的な項目になりますが、日本文化四拍子論として非常に興味深い、「手拍子・拍手発生論」、「農耕民族四拍子説」を後半部よりピックアップしてご紹介したいと思います。


4.手拍子は、四拍子。

 手をうつことは日本民族の故習で『魏志倭人伝』、『古事記』の「天逆手」にみられ、一種の呪術と考えられる。これが芸能の場におこなわれたものが手拍子であるが、同時に気分の高揚した芸能の場で自然発生することもおもい合わせるべきである。すなわち歌謡をうたう場合は一種の「はやし」という音楽の原始的な役目をする。(平凡社『世界大百科事典』)

 つまり、ずっと古い時代から、「気分の高揚した芸能の場」では、自然に「手拍子」という行為が伴い、歌の「はやし」の役目も果たしていたから、現在でも歌を歌うときには、ごく自然に、歌が何拍子だか考えもせずに、手拍子を打つようになっているのである。日本人には、手拍子という二拍子系のリズムが、もう身についてしまっている。


 もう一つ、今では日常生活から離れてしまったが、神さまを拝むときの拍手がある。これは、いったいどういう意味をもっているのか。哲学者の上山春平氏によれば、元来、拍手とは挨拶のしぐさだったらしい。『魏志倭人伝』には、「大人の敬する所を見れば、ただ拍手して跪拝に当つ」とあるから、三世紀頃のわれわれの祖先は、挨拶に拍手を用いていたことになる。また、唐代の学者が『周礼』の注釈のなかで、今の倭人(日本人)は拍手の礼を行っていると書いているそうである。『日本書紀』の持統記にも拍手の礼が記録され
ている。天武天皇の皇后であった持統天皇が帝位につくときの即位式に、
「公卿百寮、羅列りてあまねく拝みたてまつり、手拍す」とある。
 今は普通の挨拶に拍手など用いない。それをやるのは、神さまを拝むときだけである。昔行われていた挨拶の拍手と、今残っている神前の拍手と、この二つにはいったいどんな関係があるのだろうか。ぜんぜん別のものだったとは考えにくい。
 神前の拍手は、もとをただせば、神さまに対する挨拶ではないか。それも、人に対する挨拶であった拍手が、時とともに、神さまに対する挨拶にも使われるようになったというのではなく、挨拶として拍手という行為があり、それが神にも人にも使われた、あるいはむしろ、神に対する挨拶として拍手があり、人に対する挨拶にもそれが使われるようになったと考えたい。はじめに神ありき。


わたしにとってすこぶる興味深いのは、超自然を呼びさますというもっとも根源的な行為の一つであるこの拍手を、上代人がどのように行ったかということ、具体的にいえば、その回数である。神社に詣でてかしわ手を打つとき、われわれはけっして一つだけではすまさない。かならず、ポン、ポンと、二つ打つだろう。なぜか知らないが、昔から習慣的にそうすることになっている。いくつでもいいというものできない、どこでだれがやっても二つである。
 ところが、二つというのは実は略式だそうで、古語辞典(岩波書店)を見ると、正式には四度打つと書いてある。それどころか、これも上山春平氏に教えられたのだが、伊勢神宮では、ポン、ポン、ポン、ポンと四つたたき、間を置いてそれを二度くりかえすらしい。現行の神宮祭式では、四度の拍手を二回くりかえすのは「八度拍手」と呼ばれ、あらゆる儀式のクライマックスをなすという。
 それにしても、なんと神秘的な味わいにみちていることか。人と神とのあいだに立てられた重い扉を押し開くのは、深い静寂のなかに乾いた音をひびかせる四拍子のリズム。

 手をたたくという動作でわれわれが日常おなじみのものがまだあった。応援の拍手である。(中略)あれがいわゆる三三七拍子である。
 しかし、べつに三拍子三拍子七拍子を重ねているわけではない。五七五七七や三十一文字と同じで、数字そのものはリズム(拍子)をあらわしていない。日本人の変なくせというか、表面にあらわれた数だけかぞえて、休みを全く勘定に入れないのである。三三七とっても、けっして三三七を続けて打っているのではなく、それぞれのあいだに休みを置いて、

 |○○○●|○○○●|○○○○|○○○●|

の形にしている。これはご覧のとおりの四拍子にほかならない。
 それから、今でも、ある社会で行われている手じめ。(中略)「お手を拝借…イヨーーッ」で始まるあの拍手は(中略)、

 |○○○●|○○○●|○○○●|○●●●|

となり、やはり四拍子である。


5.農耕民族は、四拍子。

 一つ大胆な仮説を提示してみよう。
「日本人の四拍子文化は、先祖が農耕民族だったからである。」
 もちろん、この裏には、騎馬(遊牧)民族は三拍子であろうという想定がある。(中略)

 韓国の民謡が三拍子なのは騎馬民族だからではないか、という小泉文夫さんの説だった。農耕と四拍子になにか関係がありそうだという推測は前々からもっていたが、騎馬と農耕のリズム上の違いがはっきりしなければ、
その推測は意味をなさない。したがって、小泉さんの仮説は―これも証明されているわけではない。実際問題として実証は不可能でもあろう―わたしにとって、まさに暗い空を走る電光の一閃だったのである。まずこの「馬の文化」説の大要から紹介することにしよう。

 (中略)なぜ韓国人のばあい三拍子になるかというと、おそらく彼らが騎馬民族で、馬に乗るからである。乗馬の経験でいえば、速足をやるときにただ乗っているだけでは尻を打ってしまう。そうならないためには、馬が跳ねたときに自分から跳ね、積極的に上下動を加える。馬に乗る民族は、みなが調子づいてくると上下動をする。その動きによって、気持ちが高揚する。日本のような歩行のリズムではなく、それに上下の跳躍のリズムが入る。  日本には、奈良、平安時代から蒙古馬が献上されていたが、あくまで馬は支配階級のためのもので、音楽をつくる底辺である農民のリズム感のなかに、馬は定着しなかった。

 (中略)そして、四拍子論に関連して、とりわけ面白いと思うのは、この騎馬民族が南九州に国をつくったという推定である。騎馬民族は三拍子。それなら、南九州は、大昔、三拍子の国だったのではないか。
 (中略)古代の歌謡の一つに「催馬楽」と呼ばれるものがある。そして、日本の芸能としてひじょうに珍しいことに、これが五拍子か三拍子であることを、奈良学芸大の林謙三氏が明らかにされた。(中略)要するに、催馬楽は鹿児島近辺で行われていた隼人神楽である。いいかえれば、ここが催馬楽発祥の地だということである。



 日本語が七五調であるというよりも、日本人生来のリズムが四拍子である、ということのほうが本質的な現象であることがよくわかりました。なぜ、二音で一単位なのか、また、そもそもなぜ日本民族は四拍子なのか、が農耕文化との関わりで提議されました。が、まだ仮説の域を脱しません。ヨーロッパでは古くから、ジーク、サラバント、などワルツ系三拍子は舞踊のリズムとされてきましたし、休符によるシンコペーションでリズムに跳躍感をもたせることは、もちろん四拍子でも可能ですが、逆に三拍子であればもっと加速感が強まるようにも思えます。
 いずれにしても、上代よりそれこそ千年以上ぼくたちの血と遺伝子に深く刷り込まれた、四拍子と七五調は、日本という国と民族があるかぎり、もっとも自然で、もっとも心地よい不変のリズムを刻み続けることに間違いはありません。



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2009年12月11日 (金)

日本語はなぜ「七五調」なのか?〈前編〉

 とにかく。ゴロがいいんです。ピシッと決まる感じがする、七五調なら…。「日本語のリズムは、何音でできているか?」ときかれて、「七音か五音の七五調」と答える人が大半ではないでしょうか。俳句・和歌・短歌はむろん、演歌、民謡、童謡、ことわざ、標語、慣用句、かけ言葉、応援歌からキャッチコピーにいたるまで、およそ日本人が声に出すあらゆる決め文句が、「七五調」といっても言いすぎではありません。日本民族の血液中を脈々と流れ、遺伝子にプリントされている、この七音と五音のリズムの正体はいったい何なのでしょう?

 さて、今回日本語千年の謎を解き明かすナビゲーションは、この著作。

『日本語のリズム 四拍子文化論』別宮貞徳 筑摩書房 2005.11


 タイトルに、すでに正解が書かれていますね。そうです。七五調、影のフィクサーは、「四拍子」。まず本著、安西徹雄の「あとがき」には、こうあります。


 それにしても、しかし、五七調にしろ七五調にしろ、明らかに奇数の音節で構成されているものから、一体どうして、四拍子という偶数のリズムを引き出すことができるのか。この、まこと意表を衝く転換のカギは何なのか。休止、間の発見にほかならない。本書を通読された読者には、今さらくどくど説明するまでもないことだけれども、かりに一音節の長さを八分音符で表すとするなら、八九ページの第8図

http://nobunsha.jp/img/shichigo1.jpg

にもあるとおり、五音節の句には一拍半の休止、七音節の句には半拍の休止を置く。するとたちまち、キチンと四拍子を構成することになる。実に、明快そのものである。


 実は、「七五調起源論」、古くは本居宣長にはじまり、近代を経由し、明治から平成の現代に至るまで、100年以上も各分野の学者、研究者に取り上げられてきた古くて継続したトピックスなのです。金田一晴彦、和辻哲郎、折口信夫、外山磁比古、野上豊一郎、寺田寅彦…。国語学の専門家、第一級の学者たちが、寄ってたかって議論しても、「これぞ」という明解な答えが得られなかった。この間の諸家諸説経緯は、以下のページにまとめられています。

“十七音の謎 2”HP
http://www.d2.dion.ne.jp/~t_katou/onnonazo2.html

 この中の、10.11.にありますが、明治三十二年、高橋龍雄の「四拍子論」が世にはじめて出て、「四音歩説」、「等時音律説」などを交えながら、次第に七五調が、日本人独自の内在的なリズム=四拍子に立脚するものであることが、確かめられるようになっていきました。

 以下、ざっと本編プロットを追ってみましょう。


1.日本人が七五調を詠むリズム

 八雲立つ 出雲八重垣 妻ごめに 八重垣つくる その八重垣を
『古事記』

 リズミカルにこの歌を読もうとするとき、われわれはけっして、ずるずるべったりには読んでいないことに気づく。つまり、リズムを解くかぎは、切れ目にあるということになる。では、どのように切って読んでいるだろうか。
 もちろん、「ヤク モタ ツイ ヅモ」のように、でたらめに分断しているわけはない。切るべきところで切り、続けるべきところは続けながら、切って休むその長さはけっして気分しだいのでたらめではなく、そこに一定の法則がある。いつどこで読んでもだいたい一定しているし、まただれが読んでもほとんど変わりがない。

「八雲立つ」と、全体の主題の提示のような形で歌い出し、そこでまず一息入れる。第三句の「妻ごめに」のあとでも一休みする。また、第四句の「八重垣つくる」のあとにも、第一、三句のあとほどではないがちょっと間を置いている。そればかりではない、第一句の「八雲」と「立つ」のあいだ、第二句の「出雲」と「八重垣」のあいだにも、心もち間が置かれているらしい。今、その切れ目まで示して書けば、この歌は次のようになる。


 ヤクモ・タツ・
 イヅモ・ヤヘガキ・ツマゴメニ・
 ヤヘガキツクル・ ソノヤヘガキヲ


 さて、ここでまず、日本語のきわだって大きな特徴を一つあげておこう。日本語は、どの音(音節)もほぼ同じ長さ(時間)で発音されるのである。これを等時性という。「ヤ」も「ク」も「モ」もすべて同じ。あたりまえのように思うかもしれないが、普通のヨーロッパ語ではぜんぜんそんなことはない。
 そして、撥音(はねる音)、促音(つめる音)、長音(引く音)がみな一つの音節としてかぞえられることも、日本語独特である。ローマ字で表記するときには、はねる音はNを使い、つめる音は子音を重ね、引く音は、母音の上に横棒を書いたり母音のあとにHを入れたりするが、外国人がそれを読めば、音節が長くなるだけで少しもふえたことにはならない。たとえば「万金丹」は日本語で六音節だが、MAN-KIN-TANは三音節(中略)。

 そこで「八雲立つ…」について考えると、たんに字数(いいかえれば音数)を取るかぎり、五音句と七音句の時間の比は、等時性の原理によって五対七になるはずだ。しかし、実際には、先ほど述べたような間が入っている。さて、その結果はどうなるか。
 あとでくわしい実験結果を明らかにするが、これを読むときに―どんな短歌でも同じ―われわれは、各句にほぼ同じ時間をかけているのである。そこで、「ヤクモ・タツ・」と「イヅモ・ヤヘガキ」の時間が同じなら、「タツ」のあとの・は音(字)二つぶん、また「ツマゴメニ」のあとの・は三つぶんでなければ勘定が合わない。「ソノヤヘガキヲ」のあとにも一つぶんの・があるにちがいない。・一つを一字ぶんとみれば、結局どの句も八字ぶんの長さをもっていると推定される。つまり、五七五七七といいながら、時間的な長さにすれば八
八八八八ということになる。音符を使って記録すれば、第一図

http://nobunsha.jp/img/shichigo.jpg

のとおりで、これはまさしく四拍子にほかならないではないか。



2.日本語は二音節で一つの単位になっている。

 日本語は二音節ずつ一つにまとめて組み立てられていることが特徴である。なぜ二音節が一単位になるのか、その理由は、はっきりとはわからないが、金田一晴彦氏のいわれるように(『日本語』岩波新書)、日本語の音節があまりにも短いためでもあろう。たとえば、ここでたびたび出てきたリズム(rhythm)という言葉は、英語では一音節である。スタートは、日本語では四音節なのに、原語(start)では一音節。(中略)日本語の音節はおそろしく短い。そして、前にも触れたように、どの音節もほぼ同じ長さ(時間)に発音される。つまり、等時性をもっている。
 二音節が一単位ということは、身近なものの名前を思い浮かべただけでもわかる。山、川、空、土、父、母、春、夏、人、家など。基礎的な名詞は、たいてい二音節語である。これは、二音節が日本語ではいちばん自然な、発音しやすい単位であることを物語っている。

 これに反して一音節の言葉は非常に少ない。(中略)…一般的に、一音節は聞き取るのがむずかしく、理解しにくい。(中略)
 このとおり、われわれは一音節の言葉をきらっていて―あるいは苦手としていて、だいたいその数が少ないばかりでなく、使うばあいにも、ほかの言葉をつなげたり、音を重ねたり、延ばしたり、なんとか多音節にしようと苦心している。

 二音節一単位の原理の端的なあらわれは、日本語に非常に多い略語である。日本人はあまりに長い単語もきらいで、すぐに略語を考えだすが、その方式は二音節を二つ重ねることにだいたいきまっている。大学卒業は「ダイ・ソツ」、国民体育大会は「コク・タイ」(中略)、外国語の省略はとくにはげしい。というのも、先ほど述べたとおり、外国語は日本式に発音すれば非常に音節が多くなり、そのままでは日本人の使用にたえないからだろう。「エン・スト」「ハン・スト」「全スト」「パン・スト」…。

 さて、二音節一単位というのは、けっして一つの単語の音節数についてだけいわれるのではなく、長い音節の言葉あるいは文の読み方についても同じで、歌のリズムの解析には、それが大きなモーメントになる。

 まず、一つの単語についていえば、たとえば、「桜」「紅葉」は、それぞれ、|サク|ラ|、|モミ|ジ|と発音される。「紫」は|ムラ|サキ|、「紅」は|クレ|ナイ|である。外来語も同じことで、「クリスマス」は、|クリ|スマ|ス|になる。(中略)
 念のために申し添えると、|サク|ラ|、|ムラ|サキ|と分けて書いたが、縦線のところで切ったり休んだりするわけではない。ただ、そこで切れるような感じに読むだけ。おもてにはあらわれない感覚、リズムのとらえ方の問題で、それを表記上、縦線で示しているのにすぎない。(中略)

 次は、二つ以上の単語が結びついた結合語。二音節語が二つ重なった言葉は、ぜんぜん問題ない。前に、そういう言葉が身辺にはたくさんある話をしたけれども、たとえば、|ダイ|コン|、|ニン|ジン|、|カナ|ヅチ|のように、単純に二つを分けてしまえばいい。問題は、奇数音節語がまじっているばあいである。一音節、二音節、三音節、あるいはそれ以上の組み合わせがいろいろあって、ややこしいが、まず基本的には、頭から二つずつまとめていく法則があると思っていてまちがいない。(中略)

 一音節と二音節の組み合わせは、「子供」=|コド|モ|、背中=|セナ|カ|、歯ぐき=|ハグ|キ|、小川=|オガ|ワ|になる。意味上のつながりはまったく考慮されない。(中略)

 一音節と三音節の組み合わせも同じで、「手袋」は|テブ|クロ|、歯並びは|ハナ|ラビ|、夜桜は|ヨザ|クラ|で、けっして意味のつながりに従った、|テ|ブクロ|、|ハ|ナラビ|、|ヨ|ザクラ|にはならない。(中略)

 一音節語がうしろへ回って、三音節プラス一音節ならどうなるか。桜づくしでいくならば、「桜葉」=サクラバ、桜井=サクライ。(中略)

 三音節に二音節が結びついたものは、ひじょうに数が多いが、また桜づくしでいくとして、「桜草」「桜色」「桜餅」はどうだろう。|サク|ラソ|ウ|、|サク|ライ|ロ|、|サク|ラモ|チ|も成立する。しかし、|サク|ラ|ソウ|、|サク|ラ|イロ|、|サク|ラ|モチ|ともいえる。この拍の分け方は、意味に従ったもので、かりに「意味分拍」と呼んでおこう。
 つまり、三音節プラス二音節のばあいは、音数分拍も意味分拍もありうることになる。(中略)

 三音節プラス二音節なら両方可能だが、元へ戻って、一音節プラス二あるいは三音節のばあい、意味分拍が絶対にないことは注意してよい。これは、日本語では、語頭、文頭に一音節の発音を置かないことを意味している。なぜそうなったのか、わたしにも理由はからない。


 さて、日本語生来のリズム四拍子は、二音節一単位として、そのペアが四つ集まり一小節を構成し、生まれることがわかりました。このペアは「音数分拍」という強固なリズム原理に基本的にしばられ、意味で切れることがない、ということも。
 それでは、そもそも八八八八八の「四拍子」のリズムに乗せるために、なぜ「五音」と「七音」だけが撰ばれたのでしょうか。その秘密は、いよいよ次回にて解き明かされます。


→〈後編〉へ続く。

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2009年5月 9日 (土)

言ひおほせて何かある。

松尾芭蕉の言葉。『去来抄』(向井去来)

〔原文〕

 つたの葉── 尾張の句。

 この発句は忘れたり。つたの葉の、谷風に一すぢ峰まで裏吹きかへさるるといふ句なるよし。予、先師にこの句を語る。先師曰く、

「発句はかくの如く、くまぐままで言ひつくす物にあらず」

となり。

 支考、傍に聞きて大いに感驚し、

「初めて発句といふ物をしり侍る」

と、この此物語あり。予はその時もなほざりに聞きなしけるにや、あとかたもなくうち忘れ侍る。いと本意なし。

下臥(したぶし)につかみ分けばやいとざくら

 先師路上にて語りて曰く、

「この頃、其角が集にこの句あり。いかに思ひてか入集しけん」。

 去来曰く、

「いと桜の十分に咲きたる形容、よく言ひおほせたるに侍らずや」。

 先師曰く、

「言ひおほせて何かある」。

 ここにおいて肝に銘ずる事あり。初めて発句に成るべき事と、成るまじき事を知れり。

『去来抄』(向井去来)

〔解説〕

 其角の句集に入集した〈下臥につかみ分けばやいとざくら〉。この句について去来が、

「糸桜が華やかに咲き誇ったさまを言い尽くしたもの」

 と評したところ、芭蕉は、

「言ひおほせて何かある」

(ものごと言い尽くしてしまえば、後に何が残ろうか)

 と、発句の要諦を指し示しました。『蕉門俳諧語録』でも、

「句は七八分にいひつめてはけやけし(くどい)。五六分の句はいつまでも聞きあかず」

 と、芭蕉は教えます。

 古来日本人は、余情を大切にしました。とりわけ言語、文芸においては。それゆえ明白すぎる説明はせず、行間を読むことが読み手に求められてきたのです。

 余情は、何も書かれていない余白から生起する。本来提示されるべき情報が欠落している、この空白や間をとりわけ重んじるのが日本文化です。たとえば古く、壬生忠岑が提唱した、和歌体十体のひとつに〈余情体〉があります。

 我が宿の花見がてらに来る人は 散りなむ後ぞこひしかるべき

 歌意は「花盛りの頃我が家をたずねてくれた人があった。今桜はすっかり散ってしまったが、なぜかその人のことをことさら恋しく思われる」というもの。言葉に思いの一端を暗示することで、かえってあらゆる意味をこめることができる。今目の前から消えうせてしまった対象に、延々とまとわりつくような愛着、余韻嫋々とした悲哀感が、忠岑の説く〈余情体〉です。紀貫之が古今集仮名序で在原業平を、

「その心あまりて詞たらず。しぼめる花の色なくて匂残れるがごとし」

 と評したこころと同じでしょうか。

 余情の美・余白の妙は、文芸だけにとどまらず他の芸道分野でも重要とされてきました。世阿弥は、能において最上の芸位を〈花〉という概念で説明しようとしましたが、〈花〉よりもさらに上位の風体に〈萎れる〉を位置づけます。

 花を極めん事一大事なるに、その上とも申すべき事なれば、萎れたる風体返すがへす大事なり。さるほどにたとへにも申し難し。古歌に云はく、

 薄霧のまがきの花の朝じめり 秋は夕と誰か言ひけん

 また云はく、

 色見えで移ろふものは世の中の 人の心の花にぞありける

 かやうなる風体にてやあるべし。

(『風姿花伝』第三問答條々)

 萎れたる花の風情。これこそ業平の余情をすくい取ったもの。姿を白日にさらさぬ幽玄と、美の残像たる余情こそ、能の表現技法の根本ともいうべきものです。

 茶の湯においても〈余情〉は欠くべからざるもの。残火会、跡見会などでは、会の名残を惜しみ過ぎ去った時間の余韻を主客ともに共有するという。また聞香ではとりわけ〈余情〉が重んじられます。貴客を迎える時の空炷きとは、席にて直接香を聞かず、前もって、あるいは別室にて香をたき、馥郁たる余情を席の荘りとすること。また名香の場合、炷き終わった香殻の残り香を〈すがり〉と呼んでことのほか珍重します。その儚い生命の消えてしまわぬ内に香炉が遅滞なく末客から主客へと渡される。

 客香の聞きやう、香炉を請取て段々まはし、さてすがりを聞く時下座よりすぐにまはすべし。上客ききをさめふくさにて清め、香炉のせてかへす。

(『南方録』墨引)

 日本人はよく、五感で察知しえない気配や名残などを“匂い”と表現します。そこに実体はないけれど明らかに存在し、その解釈も評価も受け手によってまちまちで多義的なもの。芭蕉は句の余情をとりわけ重視しました。それゆえ、前句より立ち上る気配を受ける〈匂付〉が、蕉門付合の代名詞となったのではないでしょうか。「言ひおほせず」に生命を得た何かはまた、禅味豊かな蕉門俳諧において、教外別伝たる何かと言い換えることができるかもしれません。

 馬に寝て残夢月遠し茶の煙  (野ざらし紀行)

 蘭の香やてふの翅にたき物す ()

「附心は薄月夜に梅の匂へるが如くあるべし」(祖翁口訣)

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