2017年4月25日 (火)

能文社の次回翻訳作品予定

現在翻訳中の大作の前に、初めての西欧著者作品(国内出版)を出します!2017年クリスマス頃(ヒント?)には上梓したいな。お楽しみに

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2016年8月 1日 (月)

河北新報『現代語訳十牛図』書評

2016年7月18日付河北新報朝刊「東北の本棚」に、
『現代語訳 十牛図』の書評が掲載されました。
https://kacco.kahoku.co.jp/blog/bookreview/65925Juguzu_700

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2015年5月31日 (日)

【おすすめブック】アン パチェット『ベル・カント』

1996年ペルー日本大使公邸占拠事件が素材の小説。4か月にもおよぶ人質生活の中、世界最高のオペラ歌手を中心に歌と愛の力で、テロリストと人質たちが心の交流を深めていく。虚構のお手本となるストーリーテリングの巧みさ。文章・言葉の一つ一つから神の声をもつディーバ、ロクサーヌの歌が立ち上る。すべての音楽ファン必読!

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2014年9月 5日 (金)

スタインベック『怒りの葡萄』が描く〔粋〕のかたち

■〔粋〕とは何か?

 〔いき〕は、〔粋〕あるいは〔意気〕と表記し、〔粋〕はまた〔すい〕とも読む。
いずれも、江戸庶民文化の確立を背景とした、近世日本文化のキーワードのひとつです。

 〔わび、さび〕が仏教的な概念をもつ抽象度の高いことばであるのに対し、〔いき〕は誰にもわかりやすく、現代でも日常的に使われていることばではないでしょうか。

「あの人いきだね」
「いきなはからい」
「こいきなつくりの建物」
 …などなど。

 〔いき〕は江戸、〔すい〕は上方由来のことばとされ、それぞれ微妙に定義が異なっていますが、辞書の定義よりも明快に説明しているブログがありましたので、以下をご参照ください。

※HP「粋だね~の意味」について考える(団塊オヤジの短編小説)
http://doraemonn.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/02/post_670b.html


■世界共通〔粋〕の文化

 さて、言の葉庵では〔美的概念〕〔男女の綾〕というよりも、〔いき〕には場を読み、円滑なコミュニケーションをはかりつつ、決して表に立たない「かっこいい行為」「胸のすくようなはからい」という定義が成り立つのではないかと考えています。

 陰徳といえば、何かじめじめした印象をもってしまいますが、「いきなはからい」にはすかっと突き抜けたなんともいえない爽快感がただようもの。
このような〔いき〕は近世日本だけではなく、世界中で庶民共通のモラル、美意識として実践され、また様々な創作作品に描かれています。

 スタインベックの古典的名作『怒りの葡萄』。天災と資本主義により故郷を追われた貧農の一家が夢の新天地を求めて、カリフォルニアを目指す苦難の旅の長編小説です。
 本作には、主要プロットとは別に様々なサブストーリー、エピソードが挿入されています。主人公一家とどこか似通った庶民たちの悲喜こもごもの物語が暖かなまなざしでつづられる。
 無一文で互いに身を寄せ合うしか生き抜くすべのない、弱い人々。ほとほと困窮した人には、それより少しましな人から救いの手がのべられます。しかし貧乏であればあるほど、切迫していればいるほど、他人の施しはありがたく、同時に辛いもの。
 恩着せがましくなく、相手に恥を与えず、さらりと自然に助けてやることが、この小説に登場する貧しい人たちの誇りであり、その行為こそ〔いき〕の原点なのではないでしょうか。

 『怒りの葡萄』があざやかに描く〔いき〕を、貧しい旅人たちのエピソードから要約してお届けしてみましょう。



■スタインベック『怒りの葡萄』要約

 66号線沿いにある、ハンバーガー・スタンド。
中年のウエイトレス、メエと、その夫無口なアルがキッチンをとりしきっている。どこにでもある小さなドライバーの店だ。

 かれらにとって上客は、長距離トラックの運転手たち。うまいコーヒーをいれ、愛想よく送り出せばまた来てくる良い客である。その他、西へと向かうオンボロ車に家財一式を山と積み上げた移民の集団は、金をもたず、すきさえあれば水や備品をくすねる連中。メエに「クソッタレ」と呼ばれている招かれざる客たちであった。

 一台の輸送トラックが店の前に止まった。カーキ色の乗馬ズボンと短い上着、ぴかぴかのひさしのついた軍隊帽の男。そしてもうひとり、運転助手がトラックから降りてくる。
「ハイ!メエ」
「あらまあ。ねずみのビッグ・ビルじゃない。いつ戻ったのよ」
「一週間前さ」
 二人の男は店に入り、ジュークボックスに五セント玉を放り込んだ。
<―ありがとう。おぼえていてくれて、浜辺の日焼けした肌を―君は悩みの種(ヘッドエイク)だったにしても、退屈(ボア)では決してなかった>
 ビング・クロスビーの黄金の声が店内にしみわたる。
 助手はスロットマシンに五セントを入れ、四個せしめたがたちまち全部スッてしまう。

 熱いコーヒーと焼きたてのバナナクリームパイをほおばるビルは、ハイウエイをそれ、こちらにやってくる1926年型のナッシュのセダンに目をとめた。後部席に袋や寝具、鍋釜をぎっしりと積み上げ、その上に男の子ふたりが乗っている。
「メエ、テーブルの上のものは隠しといた方がいいぜ」。

 メエはカウンターをまわり、店の入り口に立った。
 車から降りてきた男は、グレーのウールのズボンに青いシャツ。髪は黒く、あごはとがり、シャツの背中と脇には濃く汗がにじんでいた。子どもたちは裸で、つぎはぎだらけのオーバーオールを身に着けたきり。髪は短くハリネズミのように一面に突っ立ち、顔には埃の縞模様ができていた。

 男は聞く。
「水を少しもらえませんか。おくさん」
「いいわよ。使いなさい」
 メエはしかし、肩ごしに小声で、
「大丈夫。ホースから目を離さないから」
 と奥に伝える。

 男はラジエーターにホースを突っ込み給水すると、子どもにホースを渡した。子供たちはホースを上に向け渇いた馬のように水をむさぼり飲んだ。
「わしらにパンを一山わけていただけませんか?おくさん」
「うちは食料品店じゃないから。パンはサンドイッチにするんだよ」
「わかっていますよ。でもわしらはパンがいるんです。腹ペコなんです。この先長い間なんにもないっていうもんで」
「サンドイッチを買ったら?おいしいハンバーガーだってあるのよ」
「そうしたいのは山々なんだが、ムリなんです。十セント玉一個で家族みんな食べなきゃならないんで」
「十セントじゃ買えないわね。うちには十五セントのしかないから」
 メエの背後から亭主の太い声が響いた。
「しょうがねえや。メエ、パンをやりな」
 亭主は作りかけのポテトサラダに目を落としている。メエは肩をすくめ、夫とトラック運転手たちをちらっ見た。

 メエが入り口のドアを押さえていてやると、その男は汗臭い身体で店に入ってきた。
 男の後をおずおずと追ってきたふたりの子ども。店に入るとキャンディー・ケースの前で釘付けとなる。ふつうの子どものようにそれをせびろうとするわけでもなく、この世にこんなものがあるのか、とただただ驚きじっと見つめているのである。

 メエは、蝋紙で包んだパンをカウンターに置く。
「一本、十五セントよ」
 男は帽子をかぶり直し、
「あの。十セント分だけ切ってもらうわけにはいきませんか」
 という。亭主のアルがどなる。
「メエ、一本丸ごとやっちまいな」
 男ははじめて亭主の方を見た。
「いや。十セント分だけ売ってもらえばいいんで。わしらはカリフォルニアに着くまで細かく計算しているんですよ。だんな」
 メエはあきらめ顔で十セントでいいというが、男はそれではパンを盗むことになる、と反論した。
「かまわないわ。アルがもってけっていうんだもの」
 パンがカウンターの上で男の方に押しやられる。男は尻ポケットから財布を出すと、ひもをゆるめ口をあけた。中にはコインとしわくちゃの札がぎっしり。
「こんなにつつましくするのも変だと思うかもしれませんが」
 男は弁解した。
「わしらはこの先千マイルも行かなきゃならん。はたしてたどり着けるかどうかもあやしいもんですから」

 財布の中から十セント玉をつまみ出そうとすると、はずみで一セント銅貨がくっついてきてカウンターに落ちる。一セント銅貨を追った男の目が、キャンディー・ケースの前の子どもの姿をとらえた。
 男はのろのろとそっちの方へ歩いていき、だんだら模様がついた長いペパーミントキャンディーを指していった。
「こいつは一セントの飴ですか。おくさん」
「どの飴?」
「ほら、あの縞模様のやつですよ」
 子どもたちはメエの顔を見つめ、緊張で身体を固くした。
「ああ―あれ。ええっと、あれは違う。―あれは二本で一セントよ」
「そうですかい。じゃあ二本ください」
 男は一セント銅貨をいとおしむようにそっとカウンターへ置きなおした。
子どもたちは止めていた息をふっとついた。二人はメエからおずおずと飴を受け取ると、そのまま手にぶら下げて、互いにぎこちない笑いをうかべ顔を見合わせる。

「ありがとうよ。おくさん」
 男はパンを取り上げると、店から出ていき車に戻った。子ども二人はシマリスのようにすばしっこく荷物の上に飛び乗り、中にもぐりこんで見えなくなった。
 おんぼろのナッシュはエンジンをかけ、けたたましい音と青く油臭い煙を残し、ハイウエイへとよじのぼっていく。
 店の夫婦とトラック運転手は、ものもいわずじっと見送っている。
 ビッグ・ビルがくるりと振り向くと、
「ありゃあ二本一セントのキャンディーじゃなかったぜ」
「それが、あんたと何の関係があるのよ」
 メエがかみつく。ビルはぼそりという。
「あれは一本五セントだ」

 助手は、
「ぼちぼち行こうとするかね」
 と椅子から腰をうかす。
 二人はポケットに手を突っ込み、ビルが銀貨をカウンターに置く。それを見た助手はもう一方のポケットから同じ銀貨を一枚出し、わきにならべた。
「あばよ」
 メエがあわてて叫ぶ。
「ちょっと!待って、お釣り、お釣り」
「何いってやがる」
 ビルはドアをバタンと閉めた。

 巨体をゆるがしながら、走り去るトラックを見送っていたメエは小声で亭主によびかけた。
「ねえ」
 アルはハンバーグをこねる手を止め顔をあげる。
「何だ」
「あれ見てよ」
 メエはカウンターを指さし、アルは近くまで歩いていってしばしながめた。

 半ドル銀貨が二枚。

 亭主は仕事に戻り、メエはつぶやく。
「やっぱりトラックの運ちゃんだわ」
「…あとはみんなクソッタレだ」


(スタインベック『怒りの葡萄』 要約 水野聡2014年9月)Resize0003

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2014年4月 4日 (金)

風化させぬ人類の記憶『六千人の命のビザ』

51mtrcbhy7l__ss500_ 杉原千畝という、第二次大戦中の外交官の名を初めて聞く方も多いと思います。
名前は千畝(ちうね)と読み、大戦中リトアニア日本領事館の領事でした。
杉原の在任中、ナチスドイツの迫害を受け、欧州各地より逃れてきた多数のユダヤ人たち難民がこの領事館を訪れる。もはやどこにも身の置き所のなくなった彼らは、日本のビザを最後の藁ともすがり、他国へ逃れようとしたのです。老人、子どもを含む多くの家族、何の罪もない哀れなユダヤ人たちの窮状を見かねた杉原は、本国外務省の訓令を無視して、独断で日本通過のビザを発給しました。
これが6000人ものユダヤ人の命を救うこととなり、戦後、杉原は海外で「日本のシンドラー」と讃えられるようになるのです。

◆『六千人の命のビザ』杉原幸子
http://p.tl/4SJw


この本は、千畝の妻、幸子がリトアニアへ同行し、すべてを自らの目でつぶさに見た唯一の記録。世界大戦という状況の中、国命と人道の板ばさみとなり、苦悩の末、自分の未来も家族もすべて投げ出し、見ず知らずの異国の民を救った夫の決断。これを身近で見、その体温を感じつつ、懸命に支えた伴侶の貴重な証言なのです。

未来に向け、決して風化させてはならない魂の記録、『六千人の命のビザ』より、いくつかの段落を引用して以下概略をご紹介しましょう。


リトアニアのカウナスにある領事館に着任した、1940年7月27日の朝、信じられない光景が杉原夫妻の眼前に突然あらわれます。

 

一九四〇(昭和十五)年、七月二十七日の朝。私たちはいつもと同じように軽い朝食をとり、夫は階下に下りていきました。
夫は早起きで、夜明けの鳥の鳴き声とともに起き出してきます。その朝も晴れていて、顔を覗かせたばかりの柔らかな陽の光が、カーテンの隙間から差し込んでいました。夏といっても、リトアニアは北の国です。朝晩は肌寒く、昼でも気温は十七度ぐらいにしか上がりません。しかし私たちが起き出す頃には、領事館の中は適当な室温に保たれ過ごしやすくなっていました。
カウナスは古風な家並みが続く静かな町でした。日本領事館は丘の中腹の高台に建ち、庭から町が一望できます。一階が家族の部屋が並ぶプライベートなフロアで、平地下の階下は夫が仕事をする領事館の事務室になっていました。そして二階に使用人がいました。朝食が済むと階下に下りていき、昼食の時間に再び家族の前に顔を見せるのが夫の日課でした。
その朝も、階下に下りていく夫を見送り、私は自分の部屋に戻ると、本を読み始めました。いつも、こうして静かな午前が過ぎていくのです。本を開いて十数行ほど読み進んだとき、ノック音がして、夫が入ってきました。
「ちょっと窓から覗いてごらん」
私を促すように窓に近づいていく夫に、一瞬、戸惑いを覚えました。夫は仕事にまじめな人でしたから、執務時問中に一階に上がってくるようなことはまずないことでした。カーテンを少し開けて、夫は再び促すように私を見ます。夫の側に寄り、窓の外を何気なく眺めて、私は自分の目を疑いました。 ・、
建物の回りをびっしりと黒い人の群れが埋め尽くしているのです。
カウナスの中心地から少し離れたこの高台は、人通りもあまりなくいつも静かなところでした。それが一夜にして何百人もの群衆が押し寄せ、動いているのです。「どうして?」という思いで私は夫の顔を見つめました。夫にもその理由はつかみきれない様子でした。
再び夫は階下へ下りていくと間もなく上がってきました。
「ポーランドからナチスの手を逃れてユダヤ人が来ている。日本通過のビザを要求しているんだよ」
これは只事ではないと夫は考え、ボーイのボリスラフを呼んだのでした。

(『六千人の命のビザ』第一章 逃れてきた人々)


異常な事態に当初動転する杉原夫妻。生きる希望を失い、それでも一縷の望みにすがりはるばると苦難の旅を続けてきた難民たちです。何とかして助けてやりたい。そのために日本外務省にビザ発給の許可を求めるのですが…。



外務省への三度にわたる電報には、いつも同じ返事が返ってきました。三度目の「内務省が大量の外国人が日本国内を通ることに治安上反対している。ビザ発行はならぬ」という回答に、夫の心は決まったようでした。

「幸子、私は外務省に背いて、領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」
「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけれど、そうしてください」
私の心も夫とひとつでした。大勢の人たちの命が私たちにかかっているのですから。
夫は外務省を辞めさせられることも覚悟していました。「いざとなれば、ロシア語で食べていくぐらいはできるだろう」とつぶやくように言った夫の言葉には、やはりぬぐい切れない不安が感じられました。
「大丈夫だよ。ナチスに問題にされるとしても、家族にまでは手は出さない」
それだけの覚悟がなければ、できないことでした。
「ここに百人の人がいたとしても、私たちのようにユダヤ人を助けようとは考えないだろうね。それでも私たちはやろうか」
夫は私の顔をまっすぐに見て、もう一度、念を押すように言いました。

(第一章 逃れてきた人々)


己の信念と良心のみに従い、ビザ発給を決断する杉原。決心したからにはもはや後のことなど念頭にはなく、一天の曇りもない澄みきった心中でした。しかし実際、ビザを求める難民は数知れず、手書きでビザを作成する日本領事は千畝ただひとり。この瞬間から、寝食を忘れた杉原の戦いが始まりました。


夫が表に出て、鉄柵越しに「ビザを発行する」と告げた時、人々の表情には電気が走ったようでした。一瞬の沈黙と、その後のどよめき。抱き会ってキスし合う姿、天に向かって手を広げ感謝の祈りを捧げる人、子供を抱き上げて喜びを押さえきれない母親。窓から見ている私にも、その喜びが伝わってきました。
門を開くと大勢が入って混乱するというので、ガレージの入りロが使われることになりました。
それでも入りロが開かれると、人々は我先にと争って入ろうとします。鉄柵を乗り越えようとする人も出てきました。
「ビザは間違いなく発行します。順序よく入ってきてください」
夫の呼びかけに、人々は少し冷静さを取り戻したようでした。


始めの頃、夫は一日に三百枚のペースでビザを書くつもりでいました。カウナスの領事館は情報を得るための臨時のもので、ビザの用紙もそう多くはありません。全てを手書きで、しかも一人一人の名前を間違えないように書くという手間のかかる作業です。
事務員のグッジェが領事の印を押すのを手伝っていました。
グッジェはドイツ系のリトアニア人でしたが、ユダヤ人を助けたいという気持ちは私たちと同じだったのでしょう。夫とともに食事もとらずに懸命に働いてくれました。それでも記入するのは夫でなければできません。知らず知らず手にも力が入ってしまいます。万年筆が折れ、ペンにインクをつけて書くという日が続きました。一日が終ると夫はぐったり疲れて、そのままベッドに倒れこむ。痛くて動かなくなった腕を私がマッサージしていると、ほんの数分もたたないうちに眠り込んでしまっている状態でした。

(第一章 逃れてきた人々)


無数のビザの山と果てしない格闘を続ける杉原のもとへ、本国からリトアニア離脱の緊急命令が届きます。いまだに多くのユダヤ人が取り巻く領事館をやむにやまれず後にする杉原夫妻。取り残された人々の茫然とした表情が目に焼きつきます。しかし、杉原はカウナス駅の列車の中でも、最後の最後まで、懸命にビザを書き続けました。


「リトアニアはソ連領になった。すぐに引き揚げろ」、という内容の外務省からの電報が届きました。国境が閉ざされてしまえば、国外に脱出することはできなくなります。
九月一日の早朝、カウナス駅でべルリン国際列車を待っている時にも、ビザを求めて何人かの人が来ていました。汽車が走り出すまで、窓から身を乗り出して夫は許可証を書き続けていました。
汽車が走り出し、夫はもう書くことができなくなりました。
「許してください、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」
夫は苦しそうに言うと、ホームに立つユダヤ人たちに深ぶかと頭を下げました。茫然と立ち尽くす人々の顔が、目に焼きついています。
「バンザイ、ニッポン」
誰かが叫びました。夫はビザを渡す時、一人一人に「バンザイ、ニッポン」と叫ばせていました。
外交官だった夫は、祖国日本を愛していました。夫への感謝が祖国日本への感謝につながってくれることを期待していたのでしょう。
「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」
列車と並んで泣きながら走ってきた人が、私たちの姿が見えなくなるまで何度も叫び続けていました。


(第一章 逃れてきた人々)


リトアニア離脱後、日本に引き揚げるまで数々の苦難を経験。ようやく日本へ帰国した杉原へ外務省から冷酷な仕打ちが待っていました。それは予想し、覚悟もしていたことなのですが。



夫は外務省へ時々行っていたのですが、しばらくは出省しなくてもよいということで身体を休めていました。日本に帰って三ヶ月ほどした時、外務省から手紙で出省するようにという知らせがありました。その日、帰ってきた夫の顔が暗く、沈んでいるように見えました。
「何かあったのですか?」
よくないことがあったのではないかという予感がして、すぐに聞きました。
「ああ、外務次官の岡崎さんの部屋に呼ばれて、『君のポストはもうないのです、退職して戴きたい』と言われた」
夫はポツリと言うと、黙り込んでしまいました。私は言葉を継ぐこともできません。ただ夫の顔を見つめているだけでした。かなり後になって、岡崎次官に「例の件によって責任を問われている。省としてもかばい切れないのです」と言われたことを聞きました。
夫は「こういうことになるのでは」と覚悟していたようでした。しかし外務省のために全力を使い果たして帰国した身に、この仕打ちに対しては、やはりがっかりした様子でした。ユダヤ人を助けるために本省の命に背いてビザを発行した時点ですでにこうなることは決まっていたのですが、ヨーロッパは遠いために生き延びてきたというのでしょうか。それにしても夫はカウナス以後も外務省のために懸命に働いてきた人です。それを戦後になって…。

(第六章 祖国の苦い土)



戦後、杉原の「命のビザ」の事跡に対し、日本政府、外務省は一貫して無視の態度を貫き通しました。当時、杉原のビザにより命を救われたユダヤ人が外務省に照会を求めたところ、「そのような人物は存在しない」と一顧だにされなかったといいます。
外務省を追われ、不遇の後半生を送る杉原のもと、28年ぶりにカウナスで別れたユダヤ人より連絡が入ります。1968年、日本の大使館へイスラエルの領事として新たに赴任してきたB.G.ニシュリ、その人でした。
再会に涙するニシュリが「これを覚えていますか」と差し出した、ぼろぼろになった一枚の紙切れこそ、杉原自身が発行した「命のビザ」だったのです。


◆続きはこちら↓
http://nobunsha.jp/blog/post_158.html

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2009年12月10日 (木)

「標準語」って、一体何語?

 今回のテーマは「標準語」。”言葉探検”ずばり、直球勝負です。さて、かくいうわたくし、生粋の関西人ですねん…。関西人はすべて、関西弁が正しい日本語、標準語であると考えています。ところが時々、無意識に頭の中で”標準語=東京語”で考えていることがある。これはなぜか?そもそも標準語って何? 何が標準語に採用され、何が捨てられたのか?
 今回以下にご紹介する著作をナビとしながら標準語成立の謎に迫りたいと思います。

『標準語の成立事情 日本人の共通ことばはいかにして生まれ、育ってきたのか』
真田信治 PHP研究所 1987

 本著は「社会言語学の視点で標準語成立事情を追究」した作品です。標準語そのものの定義や歴史など教科書的な説明は↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%99%E6%BA%96%E8%AA%9E
でご確認いただくとして、当コラムでは、トリビア的視点に立ち、そのエッセンスのいくつかを拾い読みしていきたいと思います。


1.江戸以前の正しい日本語は、”京都ことば”。

 安土桃山時代、布教のため来朝したポルトガルの宣教師たち。教義を日本人によく理解させるためには、日本人共通のことばで説教をしなければなりませんでした。彼らが「標準語」として採用したのが上(畿内)の京都ことば。京都の上層階級の人々が用いることばでした。このことばにより日本初の外国人による日本語辞典が生まれました。

『日葡辞書』1603・1604 長崎刊
『日本大文典』1604・1608 長崎刊 J.ロドリゲス編


2.「行かない。都さ上るべい」が”東ことば”。

 京都ことばに対する、東(あずま)ことば。東日本の語法上の特徴を『日本大文典』から見ます。

 a.打ち消しには「ぬ」の代わりに「ない」を使う。上げない、読まない、申さない、など。
 b.未来にはさかんに助辞「べい」を使う。上ぐべい、読むべい、申すべい、など。
 c.移動の「へ」の代わりに「さ」を使う。「都さ上る」など。

 「べい」は、今の首都圏若者語にも「おめー、いねーべ」などと使われていますね。


3.講義・スピーチのスタイルから標準語は生まれる。

 時代は下って、江戸。享保年間、京都、石田梅岩によっておこされた石門心学は、神・儒・仏教を総合、折衷した学問。この講義=道話により、全国各地庶民へ、教えをわかりやすく伝える独特の「講話」のスタイルができあがり、普及しました。

 心学道話と現代標準語の成立事情は、以下のようにたどれます。

「抄物→江戸講義物(心学道話等)→明治講義物→演説→標準語の口語は、一本の連続線上にあるのではないかという予想を述べたが、道話に対する今回の小調査に関する限り、この予想を裏切る否定的要素がなかった」森岡健二

「演説調・講義調・説教調のように、ことばの型が定まってくるスタイルができると、ことばの訛り・語法の乱れは次第におさえられ、多数の聞き手に理解されやすいことば遣いが整ってくる。現在のニュースや天気予報のスタイルも同じプロセス」田中章夫

 ロジカルな思考を行っている時、プランニングをしている時など関西人のぼくも無意識で”標準語”で考えている。これは上のように、標準語が新しい知識を伝えるため、理性に訴えるべく整えられ、成立した言語だからなのかもしれません。どなたか正しい根拠を知っていれば、ご教授ください(anshu)。


4.標準語化が生んだもの。”ダ体・デス体・デアリマス体”。

 明治の標準語化を強力に推進したのが「言文一致運動」。当時の小説家たちが作品の中で実験的に用いた文体が、今日の標準的な日本語表記として定着することとなります。以下が、それらの作家、作品と文体。明治20-24年に一挙に出揃いました。

 『浮雲』二葉亭四迷 “ダ体”
 『胡蝶』山田美妙 “デス体”
 『野末の菊』嵯峨の屋御室 “デアリマス体”
 『二人女房』尾崎紅葉 “デアル体”(デゴザイマスとダ体の中間)

 当時、言文一致運動に「落語」の話法がヒントを与えたというユニークな逸話があります。以下、二葉亭四迷のエッセイ『余が言文一致の由来』より。

「もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何か一つ書いて見たいとは思つたが、元来の文章下手で皆目方角が分からぬ。そこで、坪内(逍遥)先生の許へ行つて、何うしたらよからうかと話して見ると、君は円朝の落語を知つていよう、あの円朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。
 で、仰せの侭にやつて見た。所が自分は東京者であるからといふ迄もなく東京弁だ。即ち東京弁の作物が一つ出来た訳だ。早速、先生の許へ持つて行くと、篤と目を通して居られたが、忽ちはたと膝を打つて、これでいい、その侭でいい、生じつか直したりなんぞせぬ方がいい、とかう仰有る。
 自分は少し気味が悪かつたが、いいと云ふのを怒る訳にも行かず、と云ふものの、内心少しは嬉しくもあつたさ。それは兎に角、円朝ばりであるから無論言文一致にはなつている」


5.標準語化が奪ったもの。”方言摘発・撲滅運動”。

 明治時代の言語統一の考えは、戦前まで続きます。各地のお国ことば、方言は、標準語普及にとって、邪魔な物、無用の物、社会的な「悪」とまでみなされてしまいます。
 この「悪」をつみとるために実施されたのが、”方言撲滅運動”。方言を使用する教師が摘発、生徒が告発されることとなりました。方言を使用した生徒に懲らしめとして「方言札」なるものが、首からぶら下げられたり、背中に貼られたりしたのです。
 方言を禁じることは、方言使用者が自由に意見をいうことまでをも禁じること。むろん、このような政策が受け入れられることも、成功するはずもありませんでした。


6.「ゴ注文ハヨロシカッタデスカ?」は、語法の乱れではなく、方言。

 たとえば、「コワイ」「オッカナイ」「オソロシイ」などの言葉が、全国にどのように分布し、標準語化とどのように関わるのかを解明している章があります。
 ここで面白い例は「おはようございます」の方言。北海道、四国、中国の一部に「ございます」の部分を過去形にした「オハヨウゴザイマシタ」がある。これは、意味的にはむろん過去ではなく、丁寧な表現になるということです。
 よく耳にする、若者/接客用語の「よろしかったでしょうか」。文法的には”過去の時点での確認”とする解釈もあるようですが、現在も現地で使われているこの”丁寧語方言”由来であるとした方が、すっきり説明できるようにも思えますね。


7.コトバは年速0.6kmで旅をする。

 本書にコトバの伝播について面白い実験があります。ある一点で使用されている語形が、どのくらいのスピードで周辺地方に伝わってゆくのかを調べたものです。

・「行く」の否定形過去は、東日本・北日本では「行かなかった」、京都では「行かなんだ」。
・「行かなんだ」は現在、中部・首都圏・山陰・中国地方で使用されている。
・「なんだ」語形初出は、1477年成立の抄物、『史記抄』に。しかし、実際の発生は約50年ほど前か。
・「なんだ」分布範囲は、京都を中心に上の地方へと、半径330kmの円の中にぴったり収まっている。
・これらの地方への伝播は現在までで、約550年かかっている。試算すると伝播スピードは年速(km/年)0.6kmとなる。


8.共通語は「現実」であり、標準語は「理想」である。

 戦後「標準語」に代わり、「共通語」という用語が登場してきます。「標準語」という言葉がもつ統制というニュアンスが嫌われたためだと思われます。

・「共通語」の原義は、異なった言語間のコミュニケーションに用いる第三の言語をさす。インドネシアのマレー語/東アフリカのスワヒリ語/英語など。

・『国語学大辞典』による、現代の標準語・共通語の定義。

「共通語は現実であり、標準語は理想である。共通語は自然の状態であり、標準語は人為的につくられるものである。したがって、共通語はゆるい規範であり、標準語はきびしい規範である。言いかえれば、共通語は現実のコミュニケーション手段であるが、標準語はその言語の価値を高めるためのものである」柴田武

・「地域共通語」の一例。和歌山県中部の一部では、改まった席では、大阪ことば(関西中央部方言)が使われる。


【言の葉庵】メールマガジンより
http://nobunsha.jp/anshu.html#melma

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2009年12月 8日 (火)

謎の日本語、〈博士語〉〈お嬢様語〉とは?

 今回は、小説やマンガ、演劇などでおなじみの架空の日本語=〈役割語〉というものをご紹介しましょう。ナビはこの著作。

『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』金水敏著 岩波書店 2003 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/400006827X/249-0291854-9135550

まずは、本作表紙扉のコピーから。
「『そうじゃ、わしが博士じゃ』としゃべる博士や、『ごめん遊ばせ、よろしくってよ』と言うお嬢様に、実際に会ったことがあるだろうか。現実に存在する・しないにかかわらず、いかにもそれらしく感じてしまう言葉づかい。これを〈役割語〉と名づけよう。誰がいつ作ったのか、なぜみんな知っているのか。そもそも一体何のために、こんな日本語があるのだろう」

 本作では、〈博士語〉〈ヒーロー語〉〈書生ことば〉〈お嬢様語〉などの役割語、その出自と成立、展開を、現実と仮想現実、またはメディアとステレオタイプといった社会学のツールを駆使して解き明かします。
 引用も江戸戯作文学から、明治・大正・昭和期文芸、手塚治虫からエースをねらえ!まで、実に広汎な文献・資料を参照しており、転載のマンガ コマ割りを眺めるだけでも十分楽しめます。
 今回は、論点を逐次追うことはせず、トリビア視点に立っての”おいしいとこドリ”のレポートとしました。


1.〈博士語〉のルーツは、江戸〈老人語〉。

「親じゃと?わしはアトムの親がわりになっとるわい!」
『鉄腕アトム』手塚治虫

 〈博士語〉の祖形は、大正時代の『少年倶楽部』までさかのぼることができるという。しかし、何といっても手塚治虫、御茶の水博士の存在抜きには、このコトバは語れません。さらに、〈博士語〉をさかのぼると、ルーツは〈老人語〉に見つかる、と指摘します。

・〈博士語〉→〈老人語〉の起源は、18世紀後半~19世紀の江戸まで、さかのぼることができる。
・江戸では年輩者の多くは上方風の言葉遣いであった。
・医者・学者は保守的で、古めかしい話し方をした。この話法が誇張され、歌
舞伎・戯作で〈老人語〉に。
・現実の世界では、江戸語が明治の標準語になっていく。かたやヴァーチャルな世界、文芸・演劇作品では伝統的に老人=上方風の話し方がそのまま受け継がれてゆく。


2.ステレオタイプは〈役割語〉を創る社会装置。

 役割語の創出には、社会心理学の概念である「ステレオタイプ」が大きく作用しているといいます。

・ステレオタイプは、1987年『世論』の中で、ジャーナリスト、リップマンにより使い始められた概念。
・人は人を性別・年齢・職業などで分類しがち。その分類に属する人間が共通して持つと信じられている特徴が「ステレオタイプ」である。


3.世界中の〈ヒーロー〉たちは、皆同じ旅をする。

 ドラマの主役は、必ず標準語を話すヒーローでなくてはなりません。読者をスムーズに主役と同一化させ、ストーリーにひきこまなくてはならないからです。〈博士語〉や〈異人語〉(後出)を話す脇役たちは、物語に変化を与え、推進させていく、いわゆる〈トリックスター〉にあたります。
 さて、この主役=ヒーローには世界共通の物語があるという。神話学者、ジョゼフ・キャンベル『千の顔をもつヒーロー』では、各国の神話には共通の構造があることを指摘。これにヒントを得、ハリウッドのヴォーグラーは「ヒーローの旅」と命名し、シナリオライター向けガイドブック『ヒーローの旅』を執筆しました。

「普通の生活をしているヒーローが、ある日異界の使者から、冒険への呼び出しを受ける。ヒーローはいったんこの呼び出しを拒絶するが、老人の助言者に導かれ、励まされ、力を授かり旅立つのである。ヒーローは最初の関門にさしかかり、関門の番人に試練を与えられる。それらの過程で味方と敵が明らかになっていく。敵はヒーローを呪い、苦しめようとする影の部下であったり、影そのものであったりする。トリックスターはいたずらや失敗でヒーローたちを混乱させ、笑わせ、変化の必要性に気付かせる。変容する者はヒーローにとって異性の誘惑者で、ヒーローは彼/彼女の心を読み取ることができず、疑惑に
悩まされる。やがてヒーローは深奥の洞窟へ侵入を試み、苦難を潜りぬけ、宝の剣をつかみとる。ヒーローは帰還の道をたどるが、その途上で死に直面し、そして再生をはたす。その後、神秘の妙薬を携えて帰還するのであった」


4.〈書生ことば〉は、江戸エリートの系譜。

「おや、誰かと思ったら須河か。まだ君は残っていたのか」
「僕はまたあそこの松の木の下へ酔い倒れていたもんだから。前後のことはまるで知らずさ。そりゃあ失敬だったね。ちっとヘルプすればよかった」
『当世書生気質』坪内逍遥

 標準語~男性語の流れから生まれた、明治時代独特の〈書生ことば〉は、江戸〈武家ことば〉を受け継いだ士族層の言葉に強い影響を受けています。この男性版お譲様語は、やがて昭和メディアのヒーロー〈少年語〉へと移り変わってゆくこととなる。さて、〈書生ことば〉の特色とは。

a.ぼく・わがはいを多用。自称はこの二つのみ。
b.きみ、を多用。または人名呼び捨て、くん付けを多用する。
c.命令形、たまえ、べしを使う。
d.あいさつに「失敬」を使う。
e.文中に、漢語、外来語を多用する。

 ちなみに、この「~~たまえ」の歴史。

a.上代より運用された尊敬動詞。平安時代に動詞の連用形につき、尊敬をあらわす補助動詞として発達。
b.尊敬語としては、平安時代の「~らる(られる)」や、中世末の「お~ある」に置き換わってゆき、文語・古風な言い回しの中にのみ残っていった。
c.命令形は江戸武家層の男性語として取り入れられる。→士族により〈書生ことば〉へ。


5.〈お嬢様語〉=〈てよ・だわ言葉〉は、明治の女学校創立により猛繁殖。

「礼儀知らずでけっこうだわ。異性としての男性なんて興味なくてよ」
『有閑倶楽部』一条ゆかり

 少女コミックのブームにより、一世を風靡した〈お嬢様語〉。こっけいなほどばか丁寧な敬語表現と語尾の「~てよ」「~だわ」の多用により、本書では〈てよだわ言葉〉と命名されました。この言葉、実は明治の見識ある人々には、品のない言葉として排斥された歴史があります。その成立を見てみましょう。

・尾崎紅葉によれば、〈てよだわ言葉〉は1879~1880年頃、まず小学校で聞かれるようになったという。その世代の成長とともに、高等女学校、年長の女性の間にも広まったとのこと。
・ちなみに、『女学雑誌』によれば、「か」を伴わない上昇調の疑問文も、この時始まったとか。
・〈てよだわ言葉〉伝播の中心は学校である。
・1882年、初の高等女学校設立。娘を女学校に通わせることが、当時のステイタスに。1885年、ステイタスの頂点として、華族女学校開校。”お嬢様”の誕生である。


6.怪しい外国人の代表、〈あるよ言葉〉の中国人。

「そこの女ここへこい。プリンスの相手するよろしい。おまえプリンスのお目にとまったあるぞ」『三つ目がとおる』手塚治虫

 カタカナでしゃべる白人、なぜか東北弁の黒人など、コミック・小説に登場する、怪しげな日本語を話す代表的な外国人が、文末に「あるよ」を必ずつける中国人です。まず、この〈あるよ言葉〉の特徴を見ましょう。

a.文末述語に直接「ある」または「あるよ」「あるか」等がつく。「あります」も。
b.文末述語動詞に、「よろし(い)」をつけて命令形に。
c.助詞「を」、または「が」がしばしば省略される。

 a.b.の文法は〈ピジン〉と呼ばれる言語の特徴を示します。ピジンとは、貿易港・居留地・植民地などに集まった異言語の話者が、コミュニケーションの必要から創作した混成的な言語。もとの言語の文法が、変形、崩壊、単純化されます。
 黒人には、東北地方の〈いなか言葉〉が割り当てられます。

「おらのはそんなケチなのでねぇ。おめえさんも気がついているべえが」
『黒い偉人』三浦楽堂

 次に、最古の〈あるよ言葉〉辞典をご紹介。
1879年”Exercises in the Yokohama Dialect”Bishop of Homoco.
当時の横浜居留地で話されていたピジンを集めた語学のテキストです。以下、本文の抜粋。

○No,You had better send it up to the Grand Hotel.
 いいえ。グランドホテルに送ったほうがいいですよ。
●Knee jew ban Hotel maro maro your-a-shee.
二十番ホテル マロマロ(不明) ヨロシイ。

○I should like to borrow 500 Yen from you if you have them.
 もしお持ちなら、500円貸していただけませんか。
●Anatta go-hakku lio aloo nallaba watark-koo lack’shee high shacko dekkeloo allooka.
アナタ ゴヒャクリョー アルナラバ ワタクラクシ(私) ハイシャク デキルアルカ。

 そもそも〈あるよ言葉〉の生まれた背景は、日本人にとっての、歴史的な中国権威の失墜が考えられます。

a.古代から近世まで、中国は政治・文化・軍事等あらゆる面でアジアの大国として君臨。日本人は崇敬の念をもって、これをみていた。
b.1840年、アヘン戦争での中国の敗退により、日本人の中国観は大きく変化。
c.1894年日清戦争に勝利。日中の国際的な力関係が逆転。中国・朝鮮半島・台湾へ帝国主義的侵略が勢いづいた。結果、日本人の間で中国をはじめアジア蔑視の風潮が高まった。


7.『役割語の謎』キラ星の引用出典群。

 本書には、以下のような戦前~現在の代表的コミック・文芸作品が出典として引用されています。

1.〈博士語〉〈老人語〉
「鉄腕アトム」「名探偵コナン」「ちびまる子ちゃん」「YAWARA」「羊男のクリスマス」「幽霊男」「人造人間博士」「猿飛佐助」「東海道四谷怪談」「スターウォーズ/帝国の逆襲」「ハリーポッターと賢者の石」

3.標準語=〈ヒーロー語〉
「夕鶴」「浮世風呂」「パーマン」「東海道中膝栗毛」

4.〈書生ことば〉〈少年語〉
「怪人二十面相」「当世書生気質」「我輩は猫である」「源氏物語」「たけくらべ」「美味しんぼ」「巨人の星」「あしたのジョー」「三つ目がとおる」

5.〈お嬢様語〉〈てよ・だわ言葉〉
「エースをねらえ!」「三四郎」「浮雲」「不如帰」「人間失格」「有閑倶楽部」「新・白鳥麗子でございます!」「ベルサイユのばら」

6.〈あるよ言葉〉
「Dr.スランプ」「ロボット三等兵」「風と共に去りぬ」「のらくろ上等兵」


【言の葉庵】メールマガジンより
http://nobunsha.jp/anshu.html#melma

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