2018年5月13日 (日)

5/17千利休侘茶の世界、5/19禅と日本文化アドバンス

Ashikaga_yoshimasa05 今週の木曜日と土曜日に、茶道と禅の文化史講座が

 

それぞれ開講されます。

 

http://nobunsha.jp/img/kozalist.pdf

 

講師、水野聡(能文社/古典翻訳家)。

 

ぜひご参加ください!

 

 

 

5/17(木)10:30-12:00

 

よみうりカルチャー恵比寿
千利休と侘び茶の世界 ~山上宗二記を読む~

 

第二回 序~侘茶の誕生

 

・山上宗二記の正月本と二月本、写本の差異の検証。侘び茶創成期の名茶人たち。

 

 

 

5/19(土) 13:30-15:30

 

日本文化体験交流塾
禅と中世日本文化 アドバンス

 

第一回 禅と日本文化総論

 

・ZENが海外に広く伝えたNIPPONの姿。日本臨済宗、曹洞宗の系譜。達磨の四聖句とは。

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2017年11月 1日 (水)

秋には、蜘蛛が鳴く

1101mino 今、世はハロウィンで大騒ぎ。
ホラーつながりのトピックスを日本文化からお届けしましょう。
まず、松尾芭蕉の秋の句をご紹介。
 蜘蛛何と音をなにと鳴く秋の風
 (俳諧向之岡 延宝八年)
これは枕草子にある、蓑虫が秋に「ちちよ、ちちよ」と鳴く、
というエピソードへの返歌です。(枕草子 第四十一段)
蓑虫は異界の生き物とされ、父が子に鬼のキモノである、
蓑を着せ「秋風が吹くころに戻ってくる」といい残し、
去ったという逸話です。
蓑虫の子は寒風に吹かれると、「お父さん、お父さん」と
悲しげになく、といいます。
鳴くはずのない虫まで、秋には悲しげになく。
日本文化の通底を表す、古今の歌と物語。
「母」ではなく、「父」というところに景教の影響もあるのかもしれません。

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2017年3月24日 (金)

大江匡房『遊女記』現代語訳 公開

Yuujoki01 大江匡房の『遊女記』は、『傀儡子記』の姉妹編として、中世の遊女を知る根本史料と位置付けられています。

匡房晩年の著と見られ、江口・神崎・蟹島の遊女の実態を生き生きと伝える、中世芸能・風俗の必須文献です。

本著の特徴は、匡房が属した当時の中流貴族の嗜好や価値観を明確に示す点。叙述が具体的かつ詳細である点。また、同時代の他の著書(『栄花物語』『扶桑略記』など)とも事実関係が正確に合致する点にあります。

 

奈良時代の遊行女婦(うかれめ)、平安時代の遊女・傀儡女から、近世の芸妓・花魁・太夫などへとつながっていく、遊女文化の系譜がまさにここから紡がれていくのです。

 

今回は、岩波書店『日本思想体系8 古代政治思想』所収の「遊女記」読み下し文を底本としながら、華頂博物館学研究『遊女記について』田中嗣人の地史学的見地による新たな解釈の読み下し文も参照し、【言の葉庵】現代語訳を作成しました。

 

以下、〈原文・読み下し文〉〈現代語訳〉の順にご紹介しましょう。

 

 

 

〈原文・読み下し文〉

 

山城国与渡津(ヨドノツ)より、巨川に浮びて西に行くこと一日、これを河陽(カヤ)と謂ふ。山陽・西海・南海の三道を往返する者、この路に遵はざるなし。江河の南北、邑々処々にあり。流れを分ちて、河内国に向ふ。これを江口と謂ふ。蓋し典薬寮の味原の牧、掃部寮の大庭の庄なり。

 

摂津国に至れば、神崎・蟹島等の地あり。門を比べ戸を連ねて、人家絶ゆることなし、倡女群を成し、扁舟に棹さして旅舶に着き、もて枕席を薦む。声は渓雲を遏(トド)め、韻は水風に飃へり。経廻の人、家を忘れざるなし。洲蘆浪花、釣翁商客、舳蘆相連なり、殆(ホトンド)水なきがごとし。蓋し天下第一の楽しき地なり。

 

江口は則ち観音を祖と為し、中君・□□・小馬・白女・主殿あり。蟹島は則ち宮城を宗と為し、如意・香炉・孔雀・立牧あり。神崎は河菰姫を長者と為し、孤蘇・宮子・力命・小児の属あり。皆これ倶戸羅(クシラ)の再誕、衣通姫(ソトホリヒメ)の後身なり。上は卿相より、下は黎庶に及ぶまで、牀笫(ユカムシロ)に接し慈愛を施さざるなし。また人の妻妾と為りて、身を歿するまで寵せらる。賢人君子といへども、この行を免れず。南は則ち住吉、西は則ち広田、これをもて徴嬖(チョウヘイ)を祈る処と為す。殊に百大夫に事(ツカ)ふ。道祖神の一名なり。人別に□之数を剜し、百千に及ぶ。能く人心を蕩す。また古風のみ。

 

長保年中(999~1003)、東三条院は住吉社・天王寺に参詣したまひき。この時に禅定大相国は小観音を寵せらる。長元年中(1028~36)、上東門また御行あり。この時宇治大相国は中君を賞()でらる。延久年中(1069~73)、後三条院は同じくこの寺社に幸したまひき。狛犬・犢(コウシ)等の類、舟を並べて来れり。人神仙と謂へり。近代の勝事なり。

 

相伝えて曰く、雲客風人、遊女を賞でんがため、京洛より河陽に向ふの時は、江口の人を愛す。刺史より以下、西国より河に入るの輩は、神崎の人を愛すといへり。皆始めに見ゆるをもて事と為すが故になり。得るところの物、これを団手と謂ふ。均分の時に及びては、廉恥の心去りて、忿厲の色興り、大小の諍論は、闘乱に異らず。或は麁絹尺寸を切り、或は粳米斗升を分つ。蓋しまた陳平分肉之法あり。その豪家の侍女の上下の船に宿る者、これを湍繕と謂ひ、また出遊と称す。小分の贈を得て、一日の資と為せり。ここに髺俵(キッピョウ)・絧絹(トウケン)の名あり。舳に登指を取りて、皆丸分之物を出すは習俗の法なり。

江翰林(ガウノカンリン)が序に見えたりといへども、今またその余を記すのみ。

 

『遊女記について』田中嗣人(華頂博物館学研究 5, 1-11, 1998-12)

 

 

 

〈現代語訳〉

 

山城国与渡津※1より、巨川※2を西に舟で一日行ったところに河陽がある。山陽・西海・南海の三道を行き来する者なら、必ず通る道である。

巨川の南岸と北岸には村々が点在している。南岸河内国より、川が支流となったあたりが江口である。ここに、典薬寮味原の牧、掃部寮大庭の庄がある。

 

摂津に至れば、神崎・蟹島などの地がある。ここには(娼家が)門を並べ、(遊女の宅が)戸を連ねて、人家は絶えることもない。

娼女どもは群れをなし、小舟に棹さして、客船に取りつき枕席をすすめているのだ。

女が客を呼ぶ声は川霧をせき止め、音曲の音は川風に漂う。これには旅人もつい家庭を忘れてしまうのである。洲には蘆が生い茂り、白浪は花のごとし。翁の釣り船や酒食を商う舟、遊女の舟などの舳と艪が接し、水面も見えぬほどのにぎわいである。まさに天下一の楽園だ。

 

江口では観音という遊女を祖として、以下、中君・□□・小馬・白女・主殿という名の遊女がある。蟹島では宮城という遊女を宗として、以下、如意・香炉・孔雀・立牧などがいる。神崎では河菰姫を長者として、孤蘇・宮子・力命・小児などがいる。これら名妓どもはみな、倶戸羅※3の再誕のような美声と衣通姫の生まれ変わりのような美貌をもっている。

上は公卿・貴族から、下は庶民にいたるまで、これら遊女の寝屋に導かれたなら、身も心もとろけさせられてしまう。中には身分の高い人の妻や妾となって、生涯愛される遊女もいるほどである。聖人君子といえどもこの誘惑からどのように免れえようか。

 

さて遊女どもは、南の住吉大社、西の広田神社を信奉し、千客万来を祈願した。

とりわけ百大夫※4、別名道祖神を厚く信仰した。願掛けのため、遊女どもはめいめいで百大夫の神像を作り、神社へ奉納したが、その数は百・千にも及んだ。効験あって、客の心を虜にしたが、こうした古い習俗をもっていた。

 

長保年間、東三條院は住吉大社・四天王寺に参詣されたが、この時藤原道長公は小観音という遊女を寵愛した。長元年間、上東門院が再び同地へ御幸された。この時、藤原頼通公は中君という遊女を愛でられたのだ。延久年間には後三條院が同じくこれら寺社へ御幸された。この時には、狛犬や犢という遊女が船を並べて華やかに群集したが、人々は神仙境であるとし、近年の慶事であると称したものだ。

 

また、このようにも伝えている。

殿上人や風流子が、遊女を愛でるために京より河陽へ行く時は、江口の遊女を愛した。地方の役人や庶民が、西国より川に入った時には神崎の遊女を愛したという。これは、最初に訪れた(遊女の)里がそこであったためである。

 

遊女の収入を「団手」と称した。団手配分の場になると、女の身ながら羞恥の心を捨て、闘争心をむき出しにし、取り分の多寡をめぐる争いは、さながら戦のようである。生絹の反物は一尺一寸まで切り取り合い、米粳の配分は一斗一升を厳密に計って行う。遊女の社会には、古代中国の陳平が公平に肉を分かつ法が今も生きているのだ。

 

権門の家の侍女の中には、遊女の舟に乗る者※5があり、これを「湍繕※6」または「出遊」と呼んだ。少額の報酬を得て、一日の助けとしたのである。よってまたの名を「髺俵※7」、「絧絹※8」などともいう。この女どもが乗る船には、舳先に高い柱が立てられ、丸い印が掲げられていた。こうしたことも遊女の世界の決まり事である。

 

遊女のことは、大江以言の『見遊女詩序』にあるが、このたびはその他の見聞をしたためた。

 

 

1山城国与渡津 京都市伏見区淀

2巨川 淀川

3倶戸羅 インドの黒ホトトギス。好声鳥

4百大夫 陰陽道の神。匡房の時代には神仏混交により、道祖神と同一視しているが本来別の神。『傀儡子記』の百神と同じ神であろう

5遊女の舟に乗る者 江口の観音など専門の遊女に対して、素人の日銭稼ぎの遊女

6湍繕 「早く繕う」。すなわち短期の稼ぎ手。「出遊」は出張の稼ぎ手

7髺俵 俵、すなわち米を入手するために仮に鬘をつけた女=遊女の意か

8絧絹 絹を入手するために仮の装束をつけた女=遊女の意か

 

 

(能文社 水野聡訳 2017326)

 

 

◆参照ページ

【言の葉庵】大江匡房『傀儡子記』現代語訳

http://nobunsha.jp/blog/post_202.html

 

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2017年2月25日 (土)

【日本文化のキーワード】第六回 間

Ma_art 言の葉庵HP開設時より続くコラム「日本文化のキーワード」、今回第六回目は、「間」を取り上げました。

 

間抜け、間が悪い、間に合う、間がもたない、間延びする、間合い…。

普段よく耳にする、「間」ということば。ぼくたちがなにげなく使っている、この「間」が、実は日本人の生活、文化、芸術と密接にかかわり、日本文化の基底となる重要なキーワードなのです。

 

今回は、「間」が生まれた歴史的背景から、今日の定義、役割、実用例までを網羅し、日本人ならではのものの感じ方や美意識、価値観の根源をたどっていきたいと思います。

 

 

■「間」の歴史と定義

 

まずは現代の辞書の定義。『広辞苑』では以下のように説明されています。

 

【間】()

1.物と物、または事と事のあいだ。あい。ア.あいだの空間。イ.あいだの時間。

2.長さの単位。ア.家など、建物の柱と柱のあいだ。けん。イ.畳の寸法にいう語。

3.家の内部で、屏風・ふすまなどによって仕切られたところ。ア.へや。イ.坪。ウ.へやの数を数える語。

4.日本の音楽や踊りで、所期のリズムを生むための休拍や句と句との間隔。転じて、全体のリズム感。

5.芝居で、余韻を残すために台詞と台詞の間に置く無言の時間。

6.ほどよいころあい。おり。しおどき。機会。めぐりあわせ。

7.その場の様子。具合。ばつ。

8.船の泊まる所。ふながかり。

 

これを文化論、美学の見地からみていくと、大きく3つに統合、整理されるという考察があります。

 

1.時の間

(時間・昼間・間食・間断なく・間が悪い・間髪を入れず…など)

2.距離や面の間

(空間・間隔・間口・中間・広間…など)

3.そのどちらでもない、得体のしれない間

(世間・間者・人間…など)

 

(『間の美学 ―日本的表現』末利光 三省堂選書1991/6)

 

 

「間」は、人と人、物と物のあいだに存在し、それらを媒介しつなぐものだといえそうです。

しかし、あいだにあるものだとはいっても、何もない空白ではなく、そこには豊潤な意味や価値が生成する、と捉える美学的な見地があります。

 

「間」に関する代表的な研究書、南博の『間の研究 ―日本人の美的表現』(講談社 1983)では、

「間の美意識は、時間的・空間的に切断した場合の一定の距離感によって成立する。……間は、時間的・空間的に切断された距離感が、独特の断絶によって創出された、時間でも空間でもない美意識である」

としています。このいわば“切り取られた美”を、同著に所収された『おどりのリズムと間』で、石黒節子は、次のように詩的に表現しています。

 

「リズム(Rhythm)という言葉はギリシア語のrheein(流れる)に由来する。一方、間()という言葉はそもそも門と月という字から成り、門のとびらのすきまから月が見える様子を表す。そこからすきまとかあいだの意味を表す」

 

南博氏の考察に戻ると、「間」は日本人に独特の文化であるということ、そしてそれは日本人の生活意識の中で必然的に形成されていったものだ、と指摘しています。

以下、同著の論旨を箇条書きで要約しましょう。

 

【日本人独特の文化】

・間の文化は、〔不足主義〕〔充足主義〕という対立概念であらわされる。

・仏教が日本で普及することにより、無常観にともなって〔不足主義〕が成立。『徒然草』などの世界観が生まれる。

・芸術意識としての〔余剰〕〔余韻〕〔余白〕などの美が確立する。

・音楽や舞踏・演劇の間、武道の間などと結びついていく。

・それらが宗教から分離・独立することで、日本文化としての「間」や、生活文化としての「間」が成立した。

 

【日本人の生活意識の中で形成】

・日本人の生活意識の中で、対人関係・心理的な距離が関係性の調整に重要であった。

・位置取りや距離の置き方をあらわす「間」は、「程」という言葉であらわされた。

・「程がよい」は、「間がよい」ということとなる。

 

 

■中世芸道にみる「間」

 

何もないはずの空白、「間」に美的意識や社会的価値を積極的に見出してきた、ぼくたち日本民族。

以下、各分野より「間」の実践例をみながら、そのリアルな姿を浮き彫りにしていきます。

まず、剣聖宮本武蔵の『五輪書』より、兵法における「間」の極意に触れましょう。

 

「兵法のはやきといふ所、実の道にあらず。

はやきといふ事は、物毎の拍子の間にあはざるによつて、

はやきおそきといふ心也。

 

其道上手になりては、はやく見ヘざる物也。

たとへば、人にはや道といひて、四十五十里行くものもあり。

是も、朝より晩まで、はやくはしるにてはなし。

 

道のふかんなるものは、一日はしるやうなれども、はかゆかざるもの也。

 乱舞の道に、上手のうたふ謡に、下手のつけてうたへば、

おくるゝこゝろありて、いそがしきもの也。

 

又、鼓・太鼓に老松をうつに、静なる位なれ共、

下手は、是にもおくれ、さきだつ心あり。

 

高砂は、きうなるくらいなれども、はやきといふ事、悪しし。

はやきはこける、といひて、間にあはず。勿論、おそきも悪しし。

是も上手のする事は、緩々と見ヘて、間のぬけざる所也。

 

諸事しつけたるものゝする事は、いそがしく見ヘざる物也。

此たとへをもつて、道の理をしるべし。」

(『五輪書』渡辺一郎校注 岩波文庫1991)

 

剣の道において、はやきこと、すなわち鋭い太刀筋は必要ない、と武蔵はいいます。

むしろ名人の技は、ゆるゆるとみえて、決して間が抜けない。「間に合う」ことが勝負を制する道であるとしているのです。

ここで武蔵は能の謡と囃子を例に取り上げていますが、能の大成者世阿弥は「間」をどのように体得したのでしょうか。

 

「見所の批判に云はく、「せぬ所が面白き」など云ふことあり。これは為手の秘する所の案心なり。まづ二曲を初めとして、立ち働き・物真似の種々、ことごとくみな身になすわざなり。せぬ所と申すは、その隙(ひま)なり。このせぬ隙は何とて面白きぞと見る所、これは油断なく心をつなぐ性根なり。舞を舞ひやむ隙、音曲を謡ひやむ所、そのほか、言葉・物真似、あらゆる品々の隙々に心を捨てずして用心をもつ内心なり。

  この内心の感、外に匂ひて面白きなり。かやうなれどもこの内心ありと他に見えて悪かるべし。もし見えば、それはわざになるべし。せぬにてはあるべからず。無心の位にて、我が心をわれにも隠す案心にて、せぬ隙の前後をつなぐべし。これすなはち、万能を一心にてつなぐ感力なり。」

(【言の葉庵】名言名句 第二十四回 花鏡 せぬ隙が面白き)

 

「せぬ隙」とは何もしないことではなく、無心の位に至り、「せぬ隙」の前後、すなわち万能(舞台にいる間の演技のすべて)を一心につなぐことである、と世阿弥は教えます。謡を切った間、舞い留めた間に演者の内面の充実が外に匂い出て、能の美があらわれるのです。

 

 

■近・現代の名人の「間」

 

近代、現代の舞台芸能については、名人の音源や映像の記録データが残っており、その無音・無動の“せぬ隙”に接することができます。

ここでは能、歌舞伎、落語の名人が考える「間」、実際の「間」を再現してみましょう。

 

まずは、能楽小鼓方、不世出の名手とたたえられた幸祥光の芸談より。

 

「観世(寿夫) なんでもそうでしょうけれど、特に能はやっぱり間のいい人でなければだめでしょうね。

(祥光) そうですね。間というのは教えても出来ない。ここはいくつですよ、なんていったって、それは誰だってわかるんだから。人にもよるんだけれど、教えなくても出来る人、教えても出来ない人、そこですよ、そこの違いですよ」

(『能と狂言の世界』平凡社 昭和四十七年)

 

分野を問わず、芸道上「間」は教えられるものではないようで、六代目尾上菊五郎にも、次のような言葉がありました。

 

「教へて出来る間は間(あひだ)と云ふ字を書く。教へて出来ない間は魔の字を書く。私は教へて出来る間を教へるから、それなら先の教へやうのない魔の方は、自分の力で索りあてることが肝腎だ」

(『芸』尾上菊五郎 改造社 昭和26)

 

名人の「間」を目に見えるようにデータ化したものがあります。

落語家、五代目古今亭志ん生の音源を解析して波形化した図です。

 

・古今亭志ん生の落語音声波形化図

http://nobunsha.jp/img/resize0102.jpg

 

 

上の図が、古今亭志ん生、下が三遊亭圓生、それぞれ〈牡丹灯籠〉の同じ部分の音声波形です。下記参照ページより部分引用しました。

この形を見るだけで、あたかも名人の「間」を耳で聞いているように感じられるではありませんか。

 

▽参照ページ

五代目古今亭志ん生さんにおける「間」の研究

http://yojiarata.exblog.jp/17178243/

 

 

■日本画の「間」

 

日本の美術については、そのほとんどが「間」の芸術といっても過言ではありません。

長谷川等伯の〈松林図〉を筆頭として、尾形光琳〈紅白梅図屏風〉、〈燕子花図屏風〉、さらに様々な水墨画・山水画、〈龍安寺石庭〉などの枯山水の庭…。

これらの作品は、描かれた対象ではなく、その「間」を埋める金箔や白砂に日本の美と生命が息づいているのではないでしょうか。

 

日本画の「間」の美については、下記ページに概説があります。

 

▽参照ページ

日本美の再考 ―間の美術とイメージ

http://kinbi.pref.niigata.lg.jp/pdf/kenkyu/1998/98tikaato.pdf#search=%27%E9%96%93%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%27

 

 

 

■言の葉庵HP【日本文化のキーワード】バックナンバー

 

・第五回 位

http://nobunsha.jp/blog/post_122.html

・第四回 さび

http://nobunsha.jp/blog/post_92.html

・第三回 幽玄

http://nobunsha.jp/blog/post_50.html

・第二回 風狂

http://nobunsha.jp/blog/post_46.html

・第一回 もののあはれ

http://nobunsha.jp/blog/post_42.html

 

※「侘び」については以下参照

・[目利きと目利かず 第三回]

http://nobunsha.jp/blog/post_25.html

・[目利きと目利かず 第四回]

http://nobunsha.jp/blog/post_28.html

 

 

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2016年10月 9日 (日)

10/14 NHK〔美の壺〕にて言の葉庵「佐渡状 現代語訳」を放映!

Amagoino_omote01 NHK BSプレミアム〔美の壺〕にて、【言の葉庵】の世阿弥「佐渡状 現代語訳」が紹介されます。
佐渡正法寺蔵、世阿弥鬼の面(雨乞の面)とあわせて、世阿弥の絶筆とされる、
佐渡でしたためた金春禅竹宛書簡、通称「世阿弥 佐渡状」の映像が放映される予定です。
この手紙の中で世阿弥は、大和猿楽の根本たる鬼の芸について、
〔砕動風の鬼〕〔力動風の鬼〕の違いをひきながら、禅竹に能芸の秘奥を指南。
該当部分を正法寺の原文写しと、言の葉庵HP現代語訳によって案内していきます。
今回同番組は「鬼」にまつわる伝統文化に光を当てて、工芸・建築・祭り、
3つの切り口から様々な日本の美を通覧する企画です。
日本文化と造形美にご興味がありましたら、ぜひご覧ください。
■NHK BSプレミアム〔美の壺〕テーマ:鬼
http://www4.nhk.or.jp/tsubo/x/2016-10-14/10/567/2418203/  
放送日 2016年10月14日(金) 19:30~20:00  
案内人 草刈正雄、ナレーション 木村多江
(再放送 10月18日(火)11:00~、10月20日(木)6:30~)

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2016年9月24日 (土)

『傀儡子記』現代語訳

1001 次回、【言の葉庵】メルマガで、大江匡房の『傀儡子記』現代語訳を 公開します。
中世日本芸能史のキーワードである、〔遊女〕と〔傀儡〕。
いわゆる人形使いの嚆矢として知られる「傀儡」は、
わが国初の専門芸能集団と目されています。
中国や半島からの渡来民、あるいは西欧のジプシーの
一派とも みられている「傀儡」のリアルな姿を解き明かすのが、
大江匡房の『傀儡子記』。
多くの謎を含む中世芸能史の中で、第一級の歴史史料とされる
当作品を、はじめて克明・明確な現代語訳でおとどけします。
能や文楽など、今日の伝統芸能の祖形をたどりたい方へ。
●名言名句マガジン【言の葉庵】
http://archives.mag2.com/0000281486/

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2016年3月18日 (金)

太鼓は、神に向かって打つ。〔芸術文化はなぜあるのか 2.〕

01 小寺佐七氏(観世流太鼓方)は、祖父より「なぜ太鼓を打つのか」という問いに対して、次のように教えられたと述懐します。 「能の舞台で太鼓を打つのはお金のためじゃなくて、神様に向かって打ってるんだ」 (『能楽タイムズ』2016年3月号 能楽対談第五七三回) 【言の葉庵】でも以前、能という芸道はそもそも何のためにあるのか、という点について考察しました。 ◆文化芸術は何のためにあるのか http://nobunsha.jp/blog/post_111.html 『風姿花伝』より、世阿弥の言葉を再録してみましょう。 「そもそも芸能とは諸人の心を和らげて、上下の感を為さん事、寿福増長の基、仮齢延年の法なるべし。極め極めては諸道悉く寿福増長ならん」 「寿福増長の嗜みと申せばとて、ひたすら世間の理にかかりて、もし欲心に住せばこれ第一道の廃るべき因縁なり。道のための嗜みには寿福増長あるべし。寿福のための嗜みには、道まさに廃るべし。道廃らば寿福おのづから滅すべし。」 (『風姿花伝』第五奥儀讃嘆云) 「すべての芸術文化は、人類の幸せと長寿を招くためのもの」と、世阿弥は父観阿弥より、その本質を学びました。金儲けやただ己の名声を目指した芸は、それらが手に入らないどころか、やがて身の破滅を招くばかり、と肝に銘じたのです。 この教えは、六百年余の時を超え、今日の能の世界にしっかりと受け継がれました。上のように家訓として代々伝え、実践する能の家が多いのです。 音楽を“神への捧げもの”と考えた、若き日のバッハに以下の言葉があります。 「私がつね日ごろ究極目的といたしておりますのは、ほかでもありません、神の栄光のために、かつまたその御意思にそわんがために、整った教会音楽を上演いたしたい」 (J.S.バッハ/ミュールハウゼン 1708.) 天高く静止する、指揮者のタクトも、太鼓方の撥も、そこに音楽の神が宿る瞬間を待ち受けているのです。ただ、己を虚しくして。

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2016年1月17日 (日)

風流の鬼、博雅の三位。

源融とならび、中世を代表する“風流の貴公子”源博雅をご紹介しましょう。

博雅は、平安中期の貴族で音楽家。醍醐天皇の孫にあたり、官位にちなんで博雅三位の通称で知られます。雅楽を極め、世に並びなき管弦の名手として名を遺しました。

 

能の題材としても高名で、〈蝉丸〉〈玄象〉ではじめて博雅を知った方も多いのではないでしょうか。笛・琵琶・篳篥に通暁し、多くの中世説話集にそのエピソードが見られます。

藤原実資は『小右記』で、

「博雅の如きは文筆・管弦家なり。ただし天下懈怠の白物(しれもの)なり」

と評しました。芸道一筋、風流に命をかけた博雅にとって世事はすべて雑事。「芸術三昧、怠け者の大うつけ」は賛辞であったかもしれません。

 

さて、面白いのはこうした説話集で博雅と風流を競うのが、人ではなく鬼であるということ。鬼と風流は一見かけ離れて見えますが、他の説話・伝承類を見ても古来鬼は歌や音楽を愛したようです。芸の秘奥が鬼神に通ずるたとえとして世阿弥は「巌に花の咲かんがごとし」という名言を遺しました。鬼と日本の芸能については後日稿をあらためるとして、名高い博雅の逸話を『今昔物語集』『十訓抄』より三篇ご案内しましょう。【言の葉庵】現代語訳でお届けします。

 

 

 

■今昔物語集

 

・源博雅が逢坂の関の盲人を訪ねる (巻二十四第二十三話)

 

今は昔、源博雅朝臣という人がいました。醍醐天皇の子、兵部卿親王の子にあたります。よろずの道に通ずる人でしたが、とりわけ管弦を極めていました。琵琶の音は妙技に達し、笛の音は艶やかに響きわたったもの。村上天皇の御代に、とかく評判となった殿上人なのです。

 

さてその頃、逢坂の関に一人の盲人が庵を結んでいました。名を蝉丸といいます。盲人はかつて式部卿の宮、敦実親王のしもべでした。敦実親王は宇多天皇の子で管弦の達人。蝉丸は長年宮の弾く琵琶を聞く内に、琵琶の奥儀を極めるほどになったのです。

 

博雅も琵琶の道一筋に精進。逢坂の関の盲人が琵琶の名手であると聞き、その演奏をいつか聞きたいものだと思っていました。しかし盲人の住まいがあまりにみすぼらしく、訪ねることもできません。そこで内々に人を遣ってこう伝えさせたのです。

「なにゆえかような所に住んでいるのですか。京に来て住めば良いのでは」

蝉丸は言伝を受け取ると、それには答えず一首。

 

世の中はとてもかくても過ごしてむ 宮も藁家もはてしなければ

 

(今生は仮の世。どこでどのように生きても同じことです。立派な宮殿もみすぼらい藁家もそこで永遠に生き続けることなどできないのですから)

 

使者の復命を聞き、博雅は深く心を動かされるのです。

「われはこの一道をひたと追い求め、なんとしてもかの盲人に会いたいもの、と念じてきた。盲人の命には限りがあり、われもまたしかり。琵琶に〈流泉〉〈啄木〉という秘曲がある。これらの曲は後代に伝えねばならぬ。今はかの盲人のみが知るというのだ。どうあっても蝉丸の弾く琵琶を聞かねばなるまい」

と思い、ある夜逢坂の関を訪ねました。庵の外から伺ってみましたが、蝉丸はかの曲を弾くことはありません。その後三年間、夜ごと逢坂の関へ忍び、かの秘曲を今弾くか、今弾くかと立ち聞きを続けたのですが、ついに聞けなかったのです。

 

三年目の八月十五夜。名月が雲からのぞき、さやさやと風は渡っていきます。

「ああ、なんと風流な今宵の月。今夜こそ蝉丸の〈流泉〉〈啄木〉を聞くことができよう」

と、博雅は信じ、逢坂に急いで行きました。庵の外で耳を澄ますと、盲人はいつになく琵琶を神妙にかき鳴らしては、物思いにふける様子。博雅はさてこそと喜んで集中すると、盲人は感極まり独り詠じるのでした。

 

逢坂の関の嵐のはげしきに しひてぞ居たる世を過ごすとて

 

(逢坂をいかにはげしく嵐が吹き渡ろうとも寄る辺のない私はここにしがみつくしかないのです)

 

と、琵琶をかき鳴らす。博雅はこれに涙を流し、心も打ちふるえんばかりです。蝉丸の独白は続きます。

「なんと趣深い夜かな。われ以外風流を解する人も世にないものか。今夜は心ある人こそ待ち遠しい。ともに語り合いたいものだ」

博雅はこれを聞くと、初めて声を出しました。

「都から来た源博雅という者が、ここに居りますよ」

「あなたはいったいどのようなお方でしょうか」

「私はかくかくしかじかの者です。この道にひたすら打ち込んできましたので、この三年間、あなたの庵近くを訪ねていたのです。今夜、あなたに逢うことがかないました」

 

蝉丸はこれを聞くと喜び、博雅も心躍らせ庵に入るのでした。互いに物語りする内、博雅が

「〈流泉〉〈啄木〉をお聞かせいただけませんか」

と願うと、盲人は、

「今は亡き宮はこのように弾かれたものです」

と例の秘曲を博雅に相伝してくれたのです。

 

博雅はこの時琵琶を携えてはいなかったゆえ、口伝えだけでこれを習い、心より感謝しました。やがて夜明けとともに庵を辞すのでした。

 

この話を聞くにつけ、世の芸道はかくありたいものです。しかし近頃はこうしたことはなく、末代には名人達人は世に絶えてしまうかもしれません。まことにこれを感動的な逸話です。

蝉丸、もとは卑しい者とはいえ、長年宮の弾く琵琶を聞き、このような名人となりました。しかし盲人となってしまったゆえ、逢坂に住まいしたのです。これより以降、盲人の琵琶師が世に始まったと語り伝えています。

 

 

・玄象の琵琶が鬼に盗られる (巻二十四第二十四話)

 

今は昔、村上天皇の御代に玄象という名の琵琶がにわかに紛失してしまいました。

これは代々皇室に伝わる尊い宝物。天皇の悲嘆はひとかたならず、

「かけがえのない伝来品が朕の代で失われてしまうとは」

とおっしゃられるのも詮方ないことです。

「誰が盗んだのであろうか。しかし誰であろうと世にかくれもなき名器。隠しおおすことはかなうまい。天皇をよろしからず思う者のしわざで、盗んで壊し、捨ててしまったものか」

と心配されるのでした。

 

さてこの頃、源博雅という殿上人がいました。管弦の道を極めた人でしたので、玄象の紛失にたいそう心を痛めていたのです。

ある夜人々が寝静まった後、博雅が一人清涼殿でいると、南の方から、かの玄象の音色が聞こえてきます。ひどく驚き、空耳かと思ってもう一度よく耳を澄ましてみるとまさしく玄象に間違いありません。博雅ほどの管弦の達人が聞き誤るわけもなく、かえすがえす驚くばかり。

そこで誰にも告げず、直衣姿に沓だけをはき、供の少年一人をつれて侍の詰所を出ました。

しばらく南へ向かうと、さらに南から音が聞こえてくる。さほど遠くではあるまい、と歩く内に朱雀門に着いたのです。しかし依然音は同じように南から聞こえてきます。さらに朱雀大路を南に下っていく。心中に、

「盗人めが玄象を高いやぐらの上でひそかに弾いているのだろう」

と考え、小走りでやぐらに着くとさらに南から、今度ははっきりと聞こえてきます。さらに南へ向かい、とうとう羅生門にたどり着きました。

 

博雅が門の下に立つと、楼上で誰かが玄象を奏でています。

「これは人の弾く音とも思えぬ。きっと鬼などが弾いているに違いない」

と思った瞬間、はたと音が止む。ややあって、また弾きだしたので博雅は、

「いったい誰が弾いておるのだ。玄象が消え失せてより天皇は探していらっしゃる。今宵われが清涼殿に居ると南の方からこの音が聞こえてきた。それでここまで参ったのだ」

というと琵琶を弾き終えたのです。天井より何かが降りてくる。恐ろしさに、一歩引いて見てみれば、玄象をひもでくくり上から降ろしてきたのでした。博雅は恐る恐るこれを取ると、内裏に持ち帰りました。この顛末を奏上し、玄象をたてまつると、天皇は御感のあまり、

「鬼が盗ったのだなあ」

と仰せられたのです。人みな博雅に賛辞を惜しみませんでした。

 

かの玄象は今、御物として宮中に保管されます。玄象はまるで生き物のようでした。下手が手にしてうまく奏でられぬ時は、腹を立てて一向に鳴らないのです。塵がつもり、きれいに手入れをしない時も腹を立て鳴りません。その様子が人に見えるというのです。

内裏で火事が起きた時など、誰も取り出していないのに、玄象はひとりでに出て、庭にあったということでした。なんとも不思議なこと、と人々は語り伝えたものです。

 

 

 

■十訓抄

 

(巻十第二十話)

 

月の明るい夜。博雅三位が直衣姿で朱雀門の前をそぞろ歩いていました。夜もすがら、笛を吹き遊んでいると、同じように直衣姿の男が笛を吹きながら歩いてきます。

「いったい誰であろうか」

と耳をそばだててみると、その者の笛の音は、世に類のないほど美しい。不審に思い近寄って見たものの博雅のまるで知らない人でした。

われも話しかけず、かれも話しかけず。二人はこのようにして月の夜ごとに行き交い、一晩中笛を吹きあったのです。

 

その者の笛があまりに見事なので、ためしに笛を交換してみるとかつて見たこともないほどの名笛でした。その後も月夜ごとに笛を吹き交わしたのですが、かの者は「笛を返せ」ともいわないので、笛はそのまま博雅の手元に残りました。

 

博雅が亡くなった後、帝がこの笛を譲られたため、当時の上手どもに吹かせてみたのですが、誰も博雅のように吹き鳴らせる者はありません。

その後、浄蔵という笛の名人が現れました。帝がこの者を召して吹かせてみると博雅に劣らず吹きこなしたものです。帝は御感のあまり、

「そもそもこの笛の持ち主は朱雀門あたりでこれを得たという。浄蔵よ、そこへ行って吹いてみよ」

と仰せられたのです。月の夜、帝の仰せにしたがい朱雀門へ行きこの笛を吹いてみました。

その時、

「いまだ逸物かな」

と、楼上より雷のごとき音声が落ちてきて、浄蔵の笛を称えたのです。これを帝に奏上したため、はじめてかの笛は鬼のものであったと知れました。

 

これが葉二(はふたつ)と称される天下第一の名笛です。その後、藤原道長に伝わって御物となり、さらに藤原頼通が平等院を造営した時に経蔵に収めました。

笛には葉の絵が二つあります。一つは赤い葉、もう一つは青い葉。毎朝、葉の部分に露を置くといわれたのですが、藤原師実が見た時は、赤い葉が落ち露はつかなかったと、後に藤原忠実殿が語られたとか。

 

笛の逸品は、皇帝(おうだい)、団乱旋(とらんでん)、師子、荒序。これらが、四秘曲とよばれています。これらに劣らず秘蔵されるのが、万秋楽の五六帖。現在笛の最上品は、青葉、葉二、大水龍、小水龍、頭焼、雲大丸です。その名にはそれぞれいわれもありますが、長くなるためここでは略します。

 

(以上三篇 現代語訳 水野聡 能文社2016)

Suzakumon_no_tsuki

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2015年7月12日 (日)

横浜美術館、蔡國強展 「帰去来」開催しています!

http://yokohama.art.museum/special/2015/caiguoqiang/
横浜美術館「蔡國強展:帰去来」を初日に観覧。

100匹のレプリカの狼が、巨大な空間を疾駆、飛翔する作品に鑑賞者はまず圧倒されます。
その他、蔡國強の故郷、中国泉の白磁を燃焼させて制作した「春夏秋冬」の四部作は、日本の<侘び>を現代的な問い直した、刺激的なコンセプチュアルアート。

会場3カ所にて放映される大型4K映像のメイキングムービーおよび、全世界の遺跡・主要建築物で行われた花火のパフォーマンス記録映像は必見です。
広島で、NYワールドトレーディングビル跡で蔡國強のアートが炸裂する!よく、現地の許可が下りたものだ…。

ちなみに「帰去来」は陶淵明の代表的な詩ですね。
今間違いなく、世界最強最高のアーティストの全貌に迫る企画展です。アートに興味があまりない、という人も考えがきっと変わるはず。ぜひ!

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2014年7月31日 (木)

感性は教えられない

『能楽タイムス』8月号の能評某氏の記事に目が留まり、共感したのでシェアしよう。

先月の狂言のとある会、狂言〈川上〉での観客の反応。
妻が夫に三下半をつきつける場面では、会場大いに笑いにつつまれる。
しかし、その夫へ別れ際に愛惜の想いを妻がついもらす場面、
ストーリーからいえば、しんみりほろりともらい泣きすべきところ。
しかしここでも台詞と仕草にのみ反応し、笑いが起こったという。
能評某氏、「この笑いは理解できない」とぼやいた記事であった。

ぼくも能を見て、いくどとなく同じような体験をしている。
シテが曲のもっともつめどころ、最高度の緊張感の中、
一句を謡う、または一瞬の所作をするシーン。
たとえば〈井筒〉の井戸をシテが見込む場面など。
ここで手元の袋やパンフをめくり、がさがさ音を出したり、
まったく関係ないものをみつめていたり(非常口のランプや後見等)、
携帯をいじくるなど…。
「ここは動けないし、息もできるわけないでしょう」と、
毎度思ってしまう。

「お能を見て泣いたことも感動したこともない。どうやったら涙が出るの?」
と、ずいぶん長く能を見て稽古も続けているある知人から質問されたことがある。
これはむろん答えようがない。
感性は人それぞれで、面白いところも、膝を乗り出してみるところも
まったく別だからだ。

井筒のここで感動しなさい…
隅田川のここで泣きなさい…
マニュアル化できなくもないが、それもなんか違うかな、と思っている今日この頃である。

感性を磨きなさい、といわれても磨きようがないので、
せめて「古典原作を読みなさい」、「能を数見なさい」、
としかいいようがないのだけれども。

この〈芸術不感症〉問題は、何も現代だけのものではなく、室町、戦国、江戸時代にもあったんだろうな、と推測している。

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