2015年7月17日 (金)

心の断捨離=メタ認知。【言の葉庵】No.76

言の葉庵メールマガジン、最新号発刊しました。

<今週のCONTENTS>

【1】日本語ジャングル             心の断捨離=メタ認知
【2】名言名句 番外               『葉隠名言集』後篇
【3】イベント情報              2015佐渡薪能カレンダー

言の葉庵の通常カテゴリーに分類されない、ホットな文化トピックスをお届け
するコラム、日本語ジャングル。今回は、認知科学のメタ認知と古来の日本文
化との関わりを発掘しました。葉隠名言集は後編33句をご案内。世阿弥ゆかり
の地、佐渡島の薪能情報をまとめてお知らせします。今年の夏休み、美しい佐
渡をめぐる船旅はいかがですか。

続きはこちらです。↓
http://archive.mag2.com/0000281486/index.htmlPhoto

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年10月23日 (水)

【釈迦の名言】 善い友だちと交われ。

2 善い友だちと交われ。人里はなれ奥まった騒音の少ないところに坐臥せよ。飲食に量を知る者であれ。
(スッタニパータ 第二 小なる章 11、ラーフラ)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年8月13日 (火)

死者を迎える「お盆」とは

「ほんとうに、死ぬことは死ぬ本人の問題であるよりも、むしろ、あとにのこる人々の問題である。私たちが生きているあいだは死は私たちにとって存在しないし、死んでしまえば私たちが存在しないのだから、私たちと死とのあいだには実際的なつながりはすこしもなく、死は私たちにとってだいたいなにも関係のない現象で、せいぜい宇宙と自然とにいくぶんかかわりがあるといえるだけである。」(『魔の山』トーマス・マン)

エピクロス-ディオゲネス-ショーペンハウアーへと続く弁証法的死生観vs.彼岸-此岸ひと続き、死生一如をもととする私たち日本人の仏教的死生観。死者を迎えるお盆に考えてみました。

本日のYahoo News、
「臨死体験の科学的解明に前進、心停止後に「脳が活発化」 米研究 http://p.tl/Xk2a 」

その時いったい“何のために”脳がそうするのか。たぶん科学には永遠に解明できない、と思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年6月 2日 (日)

仏教は誰のためにあるのか。

1949047fr 『沢庵の名言集』訳出にあたり、沢庵の紫衣事件の時代背景を通覧しました。江戸初期、戦国の世を制した徳川幕府は、以降二百六十年続く太平を築くべく、かつてない厳格な統制を社会のすみずみにいたるまで布きました。



その一つである士農工商という身分制度は、支配層としての武士階級に特権と規制を与えると同時に、国民のあらゆる職業・階級に逃れられない鋼鉄の首枷、足枷をはめたのです。宗教を奉ずる僧侶とてそのくびきを逃れることは不可能でした。
ここに近世特有の政教一致・統制宗教が立ち現れます。このため沢庵は己の信仰を守って幕府に反発、出羽の国へ流罪となるのです。


今回のテーマは、「仏教は誰のためにあるのか」。世界の中でも特殊な日本の仏教。その変遷の時代背景をしばらくたどってみようと思います。

続きはこちら↓
http://nobunsha.jp/blog/post_142.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月12日 (日)

現代人を叱れ!

 昨今の日本では、親が子を、教師が生徒を、上司が部下を、全く叱らなくなりました。もし叱れば逆切れされる、叱ってもいうことを聞かないので仕方ない、なるべく面倒を避けたい…。当人にとって叱らない理由、言い逃れはいろいろあるかもしれませんが、結局は相手(わが子、教え子、後輩)に興味・関心を失ってしまったのでは。自分さえよければ将来の日本と世界がどうなろうとも、「そんなの関係ネエ」と。…少し言い過ぎでした。ごめんなさい。

 閑話休題。昔の日本人は実によく目下を叱りました。ぼくも小学校の時、親、先生の鉄拳を食らいました。今、それをありがたいと思っているし、まったく恨みに思ったことなどありません。しかし年齢を重ねた今、誹謗中傷はあるけれど、誰からもほとんど「叱られ」なくなった。いや。稽古事の師匠だけは、いまだ猛然と雷を落としてくれる。でもそれは芸事上のことだけですが。

 さて、叱り方は難しい。ただ遺恨を残し、互いに何もプラスがないのは叱り方がまずいからです。『暮らしの手帳』(花森安冶編集長)の特集

では、「良い叱り」「悪い叱り方」のそれぞれ4ヵ条があるという。

■良い叱り方4ヵ条

(1)その場で短く、(2)自分の言葉で、(3)理由とともに、(4)行動そのものを叱る

■悪い叱り方4ヵ条

(1)感情先行型 (2)人格否定型 (3)責任転嫁型 (4)お説教型

 付け加えるなら、ぼくがかつて在社した、米国の150年企業ではHRノウハウがさすがに蓄積されており、「部下を叱る時は、誰もいない別室に連れて行き1対1で」「部下をほめる場合は、なるべくチームの大勢がいる前で大々的に褒める」、と学び、随分と実践したものです。

 叱り上手が周りにいない現代日本。偉人とされる、古人の言行には学ぶべきものが多いのでは。

以下、師弟、同僚、君臣の間での叱り方、意見の仕方をみてみたいと思います。

 まず最初に、もっとも厳しい上下関係がある芸道関係から「叱り」の例を参照したい。俳句の 

松尾芭蕉は、「挨拶句の名人」と呼ばれている。人を褒め、気分をよくさせて、その美点を伸ばす教育法にも定評があります。しかし、いつも褒めてくれていた師匠が生涯に一度、別人のように激しく弟子を叱る。弟子は初めてのことに戸惑い、うろたえ、起きた事に対処できずに気も失せんばかり。しかし、その果てに忽然と「芸」を悟るのです。さて…。

     前 二ツにわれし雲の秋風 (トやらんなり)    正秀

    中れんじ中切あくる月かげに             去來

 上の句は、膳所の正秀亭で興行した歌仙の第三句。初めは「竹格子 陰も□□□に月澄みて(竹の格子窓の影も□□□に見えるほどに月が澄んで)」と付けたのだが、結局上のように師(芭蕉)が添削修正したものである。

その夜、我は師とともに曲翠の家に一泊。師は、

「汝は、今宵初めて正秀の句会に招かれたのではないか。つまり先様にとって珍客ゆえ、発句はまず我であろう、とあらかじめ覚悟しておかねばなるまい。その上、発句を、と請われたら、巧拙にこだわらず即座に出すべきであった。一夜の時間、いくばくとあろうや。汝がいたずらに時を費やせば、今宵の会もむなしくなろう。これ、無風雅の極みである。あまりの無興ゆえ、我が発句を出だしたゆえんである。されば正秀、たちまち脇をつける。「二ツにわれし」と激しい空の景色を詠んだが、かくのごとき間延びした第三をつけるとは。前句の口をも知らぬ未熟なしわざ」

 と、一晩中厳しい譴責を我に与え続けたのだ。我は、

「その時、[月影に手のひら立つる山見えて]という句を思いつきましたが、ただ月のことさらさやかな景を詠まんとのみ拘泥し、位を忘れていました」

 といった。師は、

「その句を出すならば、どれほどましであったことか。このたびの膳所の恥をすすがん、と思わねばならぬぞ」

 とおっしゃったのである。

原典:「去來抄」『連歌論集 俳論集』日本古典文学大系66 岩波書店

現代語訳:能文社2009

 次は、茶道の千利休の例。利休はともかくことあるごとに門下を叱った。たとえば『茶話指月集 上』の利休関連逸話37話中、10話までが弟子共を叱る話。しかしその作や意に感心した場合、新弟子であっても心より賞賛します。芭蕉とは逆のスタイルであったらしい。『南方録』から、その典型的な指導法を見てみましょう。

ある人が、

「炉と風炉、夏と冬、茶の湯の心得と、その極意をお聞かせ願いたい」

 と宗易に問うた。これに答えて、

「夏はいかにも涼しいように、冬はいかにも暖かなように。炭加減は湯の沸きやすいよう、茶は呑みやすいよう。これにて秘事はすべてです」

 といえば、問うた人は興醒めして

「そんなことは当たり前ではないか」

 というので、

「されば、この心に叶うようにしてご覧ぜよ。宗易、客にまいり、貴殿の弟子となろう」

 と申したものだ。

 同席の笑嶺和尚がこれに、

「宗易申すこと、至極もっとも。かの鳥窠禅師が、諸悪莫作諸善奉行と答えられたのと同然である」

 とおっしゃった。

『南方録 現代語全文完訳』覚書 

2006年5月 能文社

次は友人、同僚など立場が対等な人に注意し、叱る場合です。知見や技術が五十歩百歩の時、人はどうしても己の方が他よりも上、と思いがちなもの。そこを、どう踏み込み相手を説得するのか。上が下を叱ることよりもさらに難易度は高い。次にご紹介する『葉隠』の例は、現在の日常的な場面でもそのまま応用が効くかもしれません。

他人に意見して欠点を改めさせるということは大切なことであり、大慈悲となり奉公の第一と考えている。意見の仕方は大変骨が折れる。他人の善悪を見出すのは安きことである。それを意見するのも、また安きこと。大方は相手が嫌がるような言いにくいことを、言えば親切と思い、受け入れられねば、力及ばずなどという。何の役にも立たない。人に恥をかかせ、悪口を言うのと同じだ。わが胸を晴らすために言うだけのもの。

意見の仕方は、まずその人が意見を受け入れやすいか、そうでないかをよく見分ける。それで親しい間柄となり、自分の言葉を常に信用するように導く。趣味の話などからきっかけを作って、言い方もいろいろ工夫して、時期をはかって、あるいは手紙で、あるいは帰りに誘ってみてもいい。最初は自分の失敗談からはじめて、それとなくわがことに思い当たるように持っていく。まず相手の良い点を褒め立て、気分が良くなるように工夫を尽くすのだ。喉が渇いた時、水を欲しがるように受け入れ、欠点が消える。これが意見の仕方だ。ことのほかやりにくいものである。 

長年の癖というものはなかなか直らない。わが身にも覚えがある。同僚たちと日頃親密になり、癖を直して一心同体となり、主君のご用に立つことが奉公であり、大慈悲となるのである。然るに、他人に恥をかかせて何ゆえ欠点が直るものか。

『葉隠 現代語全文完訳』 聞書一 一四

2006年7月 能文社 

 最後は「叱る」の究極の形をご紹介します。下が上に意見をすること。これを「諫言」といいます。子が親に注意する。弟子が師に疑問を呈す。社員が社長に直言する…。いずれも「礼」に逆行し、ことのほか難しいもの。孔子は、家臣が主君に意見する場合、三度意見して聞き入れられなければその国を「去る」。子が親に意見する時、三度意見して受け入れられなければ、「哭して」後、もはや「何もいわず親に従う」としています。家が滅びる時殉ぜよ、それが儒の道である、というのです。

 さて、『貞観政要』は中国唐の初代皇帝、太宗の政治要諦をつまびらかにした世界的名著です。隋の滅亡を経て、国家存亡の危難を乗り越え、世界にもまれな文化先進国家を創立した、中国史最高の聖帝とよばれる太宗、李世民。彼の偉業を支えたのは、ただひとつの信念。臣下の「諫言を受け入れる」ことでした。神に近いすべての権限を手中した中国の皇帝に諫言することは、臣下にとってはむろん命がけ。以下ご紹介するのは、太宗の皇位を継ぐべき皇太子、承乾と、それを補育する諫臣、張玄素の国家存亡を賭けた凄まじいまでの魂の記録です。

 貞観十三年、太子の右庶子、

(

ちょう

)

玄素

(

げんそ

)

は、太子承乾が狩猟に耽って学問を廃するにおよび、これを上書して諫めた。

「臣は聞いております。『天は選ばれた者に親しむのではなく、ただ徳を積む者を助く』と。まこと天の道に違えば、人にも神にも見棄てられます。いにしえの狩猟の礼は殺生を教えるものにあらず、まさに民のため、害を除かんとするもの。それゆえ聖王湯は、狩場の四面の網をただ一面のみ開けること、と定め、天下はその仁政に従いました。今、太子は苑内で狩を楽しむ。名目こそ野山での狩猟とは異なっておりますが、もし際限なくこれを行えば、ついに正法に背きましょう」

「さらに

傅説

(

ふえつ

)

は、『学問というものは、いにしえを師とするもの。それ以外の方法は聞いたことがございません』という。すなわち道を広めるには、いにしえに学ぶ。いにしえを学ぶためには、必ず師の教えによらねばなりません。恩詔により、すでに孔頴達に侍講させています。願わくは、太子がこの者たちに、しばしば下問なされ、万分の一の補いとなされますように。加えて広く高名で正しい学者を選び、朝夕側近く召され、聖人の書を読み、故事を学んでいただきたい。そして日々、己の足らざるを知り、月々己の為すべきことを忘れざるように。これすなわち、善を尽くし、美を尽くすこととなります。かくなる上は、夏の禹王の子、啓も、周の武王の子、誦も太子の足元にも及びますまい」

「そもそも人の上に立とうとする者は、善行を求めずにはおられぬもの。ただ理性が欲望に打ち克てぬゆえ、物事に耽り、惑わされ、乱をひき起こすのです。これがはなはだしくなると、忠言はついにふさがれてしまう。臣下はいい加減におもねり、君臣の道は徐々に廃れていきます。古人はいいます。『小悪も見逃さず、小善も恥じてなさざることなかれ』と。つまり禍福は、小事より徐々にあらわれ来たるもの。殿下は尊い皇太子の地位におられ、まさに広く善政を敷かれるべきです。しかしながら、狩猟に遊び呆けておられる。これではどうして祖先の祠を司ることができましょうか。

創業時の理想をもって、終わりをまっとうしようとしてさえ、人はなお次第に衰えゆくものです。すなわち始めすら慎まぬ者が、どうして安らかに終わりをまっとうなどできるものでしょうか」

 しかし、承乾はこの言を聞きいれることはなかった。

 そこで玄素は、さらに上書して諫める。

「臣は聞いております。礼によれば、『皇太子といえども、学校での席次は年齢順に扱われる』

と。これは、太子なればこそ、君臣・父子・長幼の道を教えんとするもの。しかし、君臣の意味、父子の情、尊卑の差、長幼の礼儀を心に留め、国外までも広く伝えんとするには、自身の行いにより遠くまで鳴り響かせ、自身の言葉により広く行き渡らせねばなりません」

「伏して思いますに、殿下は素晴らしい素質をお持ちでございます。できることなら、なお学問に励まれ、立派な行いを身につけられますよう。僭越ながら、孔頴達・張弘智両師を拝見するに、ただ徳を備えた大学者というだけではありません。兼ねて高い政見を併せ持つ。できればたびたびこれらの者を招いて講義を受け、物の道理を明らかにし、いにしえを見、今を知り、知恵と徳の光を増されんことを期待しております。

 馬・弓・狩・酒・歌・女・珍物などは、ただ耳目を喜ばせるだけのもの。いずれ精神を汚してしまいましょう。悪習に久しく染まれば、やがて本性も悪となりゆく。古人も、『心は万物の主。節操なく移ろい揺れる時、ついに乱心にいたる』といっております。殿の背徳の源は、これらにあるのではないか、と臣は恐れるのみです」

 承乾は、この書を見てますます怒り、玄素に、

「汝は気でも触れたのではないか」

 といった。

 貞観十四年、太宗は玄素が太子にしきりに諫言していることを知り、銀青光禄大夫、行左庶子に累進、任命した。

 さてこの頃。ある日承乾は宮中で太鼓を叩いていた。その音が外までもれ聞こえてくる。玄素は門をたたき、目通りを願い、厳しく切諫した。承乾はただちに宮内の太鼓を引き出し、玄素の面前で叩き壊す。そして門番に命じ、玄素が早朝に出仕する折を伺い、物陰より馬の鞭で打たせた。玄素は危うく落命するところであった。

 またこの頃、承乾は好んで園亭、楼閣を造築。奢侈を極め、費用は日増しに嵩んでいった。これを見、玄素は上書して諫める。

「愚かなる臣ごときが、天子、皇太子の両宮にお仕えし、無為に位を盗んでおります。これは臣にとって大河、大海のごとき恵みといえましょうが、国にとっては毛ほどの益ともなっておりません。これをもって、愚かなる誠を尽くし、臣下の忠節を尽くそうと思うものであります。

 伏して思いますに、皇太子の責はまことに重いもの。徳を積み威光を広めずに、なにゆえ王業を継ぎ、守ってゆくことができましょうか」

「太宗皇帝と殿下とは、私的には父子の間柄。そして王家の用務は公務を兼ねることから、殿下の経費には制限を設けられませんでした。この決定よりいまだ六十日も経っていないにも関わらず、皇太子の出費は七万を超えています。贅を尽くした奢り、ここに極まれり、といわざるを得ません。

 楼台のもとにはただ工匠だけが集まり、宮苑の内に賢士は一人も見当たりません」

「今、太子を孝敬の点からみれば、視善問竪の礼を欠き、恭順という点では、君主の教えと慈愛の道に背いています。風評を聞いても、学問を愛し、道を好んだ形跡がなく、挙動をみれば、私刑をほしいままとする罪がある。宮中では良臣が側に仕えたことがなく、多くの邪臣やお調子者のみが深宮に巣食っております。太子が愛好する者は、遊び人や身分の卑しい者たち、施しを与えるのは絵描きや彫刻家ばかり。外より伺い見るだけで、すでにこの過失が認められます。内に隠れた悪事は数え切れぬほどでありましょう。太子の禁門は、今や市の門と何ら変わりなく、朝夕雑多な人間が出入りし、悪評は遠くまで鳴り響いております」

「右庶子の趙弘智は、経書に明るく、身を修めた当代の名臣です。臣は、太子が彼をしばしば側近く召し寄せられんことを望んでおります。弘智と語り、談じ合えば、妙計良案を立てる助けとなる。さて、このようにいったところ、臣はかの者を濫りに引き立てる、との嫌疑を蒙りました。これではいくら、『善に従うこと、流るるがごとく』といっても、流れに近寄ることすらできますまい。非を取り繕い、諫言を拒めば、必ず王室に損失をひきおこしましょう。古人もいっております。『良薬口に苦し、忠言耳に逆らう』と。伏して願います。安楽な時ほど危難を案じ、日一日と慎まれますように」

 上書が届くと、承乾は大いに怒り、刺客を遣わし、玄素を葬ろうとした。しかし、まもなく太子を廃せられることとなった。

『貞観政要 全巻和訳』規諫太子第十二 第三章

能文社2009 (近年発刊予定)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月 8日 (日)

日本人は、「畳に正座する」民族である。第一回

日本人とは、一体何か?遺伝子型に基づいた人類学上の定義よりも、単純に「日本語をしゃべる民族」とした方が、納得感が大きいのではないでしょうか。では、言葉以外の文化で見た時には、どうか。生活習慣が欧米化した今日、ほとんど消えかかっていますが、「着物」を着て、「畳」の上にきちんと「正座」するのが、伝統的なジャパニーズスタイルといえましょう。

 今回は「畳」と「正座」の、なぜ?何?いつから?に焦点を当て、日本人独特の思考と行動パターンの源を探っていきたい。「畳」と「正座」が消えつつある今なお、私たち日本人がなぜこうも日本的な発想・価値観を持ち続けるのか。
まず、畳の歴史からその秘密の一端を解き明かしていきましょう。

パラグラフ1【畳とは】

 日本の生活文化は、その多くが中国大陸もしくは半島から伝来したものです。しかし畳は、日本民族の生活の知恵から生まれた固有のもの。湿度が高く、天候の変化が大きい日本独自の風土で生まれ、育まれてきた、優れた「敷物」なのです。畳の歴史を奈良時代より、ざっとたどってみましょう。

・奈良時代(710年~)
 現存する最古の畳は奈良時代のもの。聖武天皇が愛用した「御床畳(ごしょうのたたみ)」がそれで、木製の台の上に置かれ寝具として使用されました。奈良東大寺の正倉院に保管されています。現在の畳とは異なり、真薦(まこも)で編んだゴザのようなものを5、6枚重ねて畳床とし、イグサの菰でおおって錦の縁でかがられている。この木製の台を2つ並べてベッドとして使った、といいます。
古事記にある「瓦畳」「皮畳」「絹畳」。あるいは万葉集に詠まれた「木綿畳」「置薦」などが、この時代の畳で、「御床畳」と同様、発生時の畳は今のゴザのようなものでは、と推測されています。

 あし原のしけき小屋にすが畳 いやさやしきて我二人ねじ
                        神武天皇御歌

・平安時代(794年~)
 平安時代に入り、貴族の邸宅が寝殿造となりました。これにしたがって、板の間に座具や寝具として要所要所に畳が敷かれるようになる。置き畳の上に、貴人や女房たちがくつろぐ様子は、この時代の絵巻物に見られるとおり。また畳は、地位や権力の象徴として住居に取り入れられたのです。

・鎌倉時代(1192年~)
 武家政権の確立により。貴人の住居が書院造へと移行していく。建築様式と生活空間の変化により、それまで客をもてなす座具であった畳は、部屋の周囲に敷き、真ん中だけを残す敷き方になる。そしてついに、部屋全体、床一面に敷きつめる、今日の畳のスタイルが完成されるのです。畳はこれにより、「敷物」から「床材」となりました。

・室町時代(1392年~)
 室町時代、将軍家により書院の一間を囲って、茶の湯がとり行われるようになりました。敷きつめられた畳の間での立ち居振る舞いは、茶道の礼法も相伴って「正座」の習慣化を促した、といわれているのです。(パラグラフ2参照)

・安土桃山時代(1573年~)
 茶道の興隆によって、茶室の様式を取り入れた数奇屋風書院造の建築がブームとなっていきます。茶室の炉の位置によって、畳の敷き方にも様々なヴァリエーションが生まれていく。茶の湯が町人にも親しまれるようになると、畳も町人宅に徐々に敷かれるようになっていきます。

・江戸時代(1603年~)
 将軍家・武家の屋敷に畳は必須の住宅設備となる。しかし一般庶民へと普及するには、江戸中期以降まで待たねばなりませんでした。農村部への普及は、さらに遅れ明治以降。こうして畳が庶民の生活に取り入れられると、様々な文化を育むこととなります。以下の俗諺に「畳」にまつわる庶民感情がよくあらわれています。

 起きて半畳、寝て一畳
 千畳敷に寝ても一畳
 畳の上で死ぬ
 畳の上の水練
 女房と畳は新しい方がよい

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月25日 (木)

あなたは最近誰かに叱られましたか

なんと!1年5ヶ月ぶりの新規エントリーです。

ところで、最近日本人は人を叱らなくなりましたね。「逆ギレ」などという、珍妙なことばが辞典にのり、他人と関わることを極度に恐れているかのような風潮です。先生は生徒を叱れない。親も実の子供に対して叱らない。

人を叱ることは、なじることでも、怒りをぶちまけることでもありません。愛情です。叱って目を覚ましてほしい。一回り成長してほしい。ぼくは、一ヶ月に一度師に叱られます。この年になって、もう誰にも叱られなくなったので、心からありがたい。叱られるときは、とにかく恥ずかしい。穴があったら入りたい、という気持ち。

いにしえの偉人たちは、ことあるごとに人を叱りつけました。

世阿弥は『風姿花伝』で、未熟な者、名人ぶり、おごり高ぶる者、芸道を忘れた者。ことごとく鉄槌を下します。

武蔵は、剣術を売り物にする武芸者、一流を開くことしか頭にない剣術者、印可状、道場だけを鼻にかけ、人を天秤にかける輩をいちいち指摘し、容赦せずたたきます。

芭蕉は、才能溢れる新門弟が、他門の重要な俳席で脇句をつけられず、宿元に戻ってから生涯で初めてというほどの厳しい譴責を下しました。

利休は、それこそ年から年中、相手が当代一の名人であろうが、百万石の大名であろうが、ささいなことから、大きなことまで、いずれの茶書をみても叱らないことがなかったほど、叱りまくっています。

どの達人も、厳しい叱責の裏に相手を本当に信じ、思いやる真心があります。

これらはいわば、自分と同じ道の人、身内に対するもの。では、赤の他人、たとえば相手が外国人ならどうするか。われわれ日本人の感覚でいえば、見て見ぬふりをするところ。先日ドイツの特急列車の中でのこと。傍若無人に大声で長時間、しかも次から次と携帯でしゃべりまくる人がいました。列車内はむろん携帯禁止。周りはかなり辟易ムード。その人は巨体の中国系黒人のおばさん。ついに斜め前にすわっていた、ドイツ人の若者が声をかける。「列車の中で大声で携帯するものではありませんよ」「…すみません」。実際は、その人以外も結構携帯を使っている人が車内にはいたのだけど、その後は誰もかけないようになりました。

昔、やんちゃな子供たちは近所のおじさんおばさんに叱られたものです。本来、「躾」や「教育」であったはずのものが、今は「近隣トラブル」と呼ばれ、刑事事件にまで展開する。共同体の中での秩序調整装置が働かなくなっているのです。それでも勇気をもって叱ろう…などと無責任なことはいえません。実際危害が及ぶかもしれません。

「叱る」という言葉が日本語から消えつつあります。僕の場合のような、限られた共同体の中だけでこの先「天然記念物」として保存されていくのでしょうか。

絶滅危機指定種の「叱る」に対し、遥か以前にすっかり絶滅してしまった「諫める」について、次回繰言を書きたいと思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)