2016年7月 7日 (木)

7/8(金)寺子屋あります。

寺子屋素読の会、明日7月は以下の日程、講座内容にて
実施予定です。

■寺子屋素読の会
http://nobunsha.jp/img/terakoya%20annai.pdf
7月8日金曜日
於 新橋生涯教育センター 毎月第2金曜日開講

・Aクラス:芭蕉「奥の細道」 10:00~11:30

今回は「酒田」「象潟」「越後路」を講読予定。
江戸中期の大地震により、永遠に失われた東北随一の名勝地、象潟。
この地で芭蕉は能因、西行の詩魂を追い、また古代中国の悲しい伝説にも
想いを馳せて名句を吟じます。

・Bクラス:世阿弥「風姿花伝」 13:00~14:30

「第六花修に云」の最終段落では、能は〔相応〕によって
はじめて成功する、という伝を解説。
そしていよいよ、風姿花伝屈指の花の秘伝「第七別紙口伝」へと
読み進めていきます。
能の花とは何か―。
観阿弥、世阿弥の発見した舞台演出と芸の理論が、
今日の日本文化の基底をなしていることに気づき、驚かされます。

初参加も歓迎しますので、岩波文庫版を持参の上、
ぜひ新橋までお運びください。10

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2011年3月26日 (土)

言の葉庵メルマガNo.30 本日発刊

特別編集コラム「東北地震」を含む、【言の葉庵】メルマガ臨時号を発行しました。ぜひご覧ください!

●芭蕉の祈り~松島讃【言の葉庵】No.30
http://bit.ly/dd7PHE

<今週のCONTENTS>
【1】特別編集        東北大地震。芭蕉の祈り~松島讃
【2】能の名人列伝     第四回 観世と柳生の力くらべ
 編集後記…

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2010年9月10日 (金)

西行と芭蕉をつなぐ“能”。最終回

14 当シリーズは、今回で最終回。
最後は、【言の葉庵】謹製の
「芭蕉 能題材句集」をお届けしましょう。
他にはありません。


声よくば謡はうものを桜散る
(砂燕 元禄元年)

なりにけりなりにけりまで年の暮
(俳諧江戸広小路 延宝4年)

花の陰謡に似たる旅寝哉
(真蹟懐紙 元禄元年)




「実盛」
むざんやな甲の下のきりぎりす
(奥の細道 小松 元禄2)

「姨捨」
俤や姥ひとり泣く月の友

十六夜もまだ更科の郡かな
(更科紀行 貞亨5年)

「羅生門」
荻の穂や頭をつかむ羅生門
(蕉翁句集草稿 元禄四年)

「鵜飼」
おもしろうて
やがて悲しき鵜舟かな
(貞亨5年)

おもしろうさうしさばくる鵜縄哉
(阿羅野 巻之三)

「杜若」
杜若語るも旅のひとつ哉
(笈の小文)

杜若似たりや似たり水の影
(続山井寛文7年)

杜若われに発句の思ひあり
(俳諧千鳥掛 貞亨2年)

「景清」
景清も花見の座には七兵衛
(真蹟扇面 貞亨元年)

「熊坂」
熊坂がゆかりやいつの玉祭
(笈日記 元禄2年)

「胡蝶」
胡蝶にもならで秋経る菜虫哉
(後の旅 元禄2年)

「西行桜」
西行の庵もあらん花の庭
(泊船集 貞亨元年)

「遊行柳」
西行の草鞋もかかれ松の露
(笈日記 元禄2年)

田一枚植ゑて立ち去る柳かな

月清し遊行のもてる砂の上
(奥の細道 元禄2年)

「菊慈童」
盃や山路の菊と是を干す
(俳諧坂東太郎 延宝7年)

山中や菊は手折らぬ湯の匂
(奥の細道 元禄2年)

「安宅」
夏草や兵どもが夢の跡

五月雨の降のこしてや光堂
(奥の細道 元禄2年)

「隅田川」
塩にしてもいざ言伝ん都鳥
(俳諧江戸十歌仙 延宝6年)

「敦盛」
須磨寺やふかぬ笛きく木下やみ
(笈の小文)

「海士」
須磨のあまの矢先に鳴か郭公
(笈の小文)

「土蜘蛛」
蝶鳥の浮つき立つや花の雲
(やどりの松 貞亨元年)

「芦刈」
月見せよ玉江の芦を刈らぬ先
(芭蕉翁一夜十五句 元禄2年)

松なれや霧えいさらえいと引くほどに
(俳諧翁艸 延宝年間)

「鉢木」
月やその鉢木の日のした面
(俳諧翁艸 元禄6年)

「吉野天人」
花を宿に始め終りや二十日ほど
(真蹟懐紙 元禄元年)

「歌占」
髭風ヲ吹いて暮秋嘆ズルハ誰ガ子ゾ
(虚栗 天和2年)

「田村」
一里はみな花守の子孫かや
(真蹟懐紙/猿蓑 元禄3年)

名月の見所問はん旅寝せん
(芭蕉翁月一夜十五区 元禄2年)

「邯鄲」
富士の雪慮生が夢を築かせたり
(六百番俳諧発句合 延宝5年)

「三井寺」
三井寺の門敲かばや今日の月
(真蹟懐紙 元禄4年)

「氷室」
水の奥氷室尋ぬる柳哉
(曾良書簡 元禄2年)

「道明寺」
水向けて跡訪ひたまへ道明寺
(俳諧江戸広小路 延宝6年)

「卒塔婆小町」
百歳の気色を庭の落葉哉
(真蹟画賛/曲水宛書簡 元禄4年)

「夕顔」
夕顔の白ク夜ルの後架に紙燭とりて
(武蔵曲 延宝9年)

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2010年9月 5日 (日)

西行と芭蕉をつなぐ“能”。第八回

■芭蕉の名の由来

芭蕉という植物は中国原産のバショウ科の多年草で、バナナと同種。中国南部から渡来し、日本では平安朝から親しまれていました。夏には長く大きな葉を広げ、秋にはその葉がばっさりと落ちるのが特徴です。芭蕉の茎は大木のように成長しますが、「偽茎」と呼び稲、ススキと同様に葉の鞘の部分が巻いているだけなので、辣韮(らっきょう)と同様剥くと中身がなくなってしまう。それ故古来仏教では、この世の存在の無であることの例えにされていたのです。
能『葵上』には「人間の不定、芭蕉泡沫の世の習ひ…」とあり「人間の命の定めなく儚いことは芭蕉の木を剥くように、芭蕉の葉や水の泡のように空しい」と謡われる。また、『芭蕉』の終曲近くに「芭蕉の扇の風茫々と…」とあるように、芭蕉の葉は古来扇に見立てられていました。『井筒』の最後は「芭蕉葉の夢も破れて」と破れやすい譬えとして謡われています。

芭蕉も、この破れやすい植物の芭蕉の無常な様を愛し、自らの俳号として採用しました。
天和元年(1681年)の春に、門人の李下(りか)から贈られたバショウの株を庭に植えたところ、大きく茂って近隣の名物となり、草の庵は誰言うとも無く「芭蕉」の号で呼称されるようになったのです。

芭蕉は、天和2年(1682年)の春、望月千春編「武蔵曲(むさしぶり)」の中で自らも「芭蕉」と名乗り「芭蕉翁桃青」と署名しています。この年の秋、風雨にたたかれる庭のバショウを題材に「芭蕉野分して」の句を吟じています。

老杜、茅舎破風の歌あり。坡翁ふたゝびこの句を侘て、屋漏の句作る。其世の雨を芭蕉葉にきゝて、独寝の草の戸。

芭蕉野分して盥(たらい)に雨を聞く夜哉

また謡曲を愛好する芭蕉は、能の曲名『芭蕉』から自身の俳号を得たとする説もあります(『悪党芭蕉』嵐山光三郎)。
能『芭蕉』の作者、金春禅竹は、深く禅宗に帰依していたことで知られます。
植物の芭蕉=仏教の「無」を象徴→禅宗を信奉する禅竹が、これを題材に能に作曲→謡曲と禅を好む芭蕉が、自庵の芭蕉をきっかけに、自身の俳号に採用。
おそらく芭蕉の俳号の由来はこんなところではないでしょうか。4

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2010年9月 3日 (金)

川柳「暑い夏…」の下の句大募集!

記録的な猛暑です。みなさんしなびていませんか。

さて、川柳、上の句

「暑い夏」

の下の句を考えてみませんか?
大笑いして暑い夏を、ぶっとばしましょう!

(例)当方駄句

暑い夏 あまてらすともいわわれず

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2010年9月 2日 (木)

西行と芭蕉をつなぐ“能”。第七回

芭蕉の句は「禅的」であると評価されています。芭蕉と禅の関係は、いつうまれたのでしょうか。以下、山崎藤吉著 「芭蕉全傳」より、深川に仮住まいしていた禅師、仏頂和尚と芭蕉の邂逅をたどります。


仏頂は常陸白鳥村藤沢の人、延宝二年根本寺に入院し、同八年隠居し、同寺内の別院に起居した、訴訟落着の前の年即ち天和元年に、訴訟の所用で江戸へ来て、深川の臨川庵に停錫した、芭蕉庵と臨川庵とは、僅に小名木川の細流を隔てて隣接して居た所から互いに相知って、朝夕往来して、終に師資の礼を執ったのだといふ、是は仏頂が隠居後のことである、現在根本寺に仏頂の画像がある、それに貞享五年正月二十日附の自賛がある所から見ると、貞享五年までは根本寺の別院に居たことが分る。

芭蕉が参禅した時日は分らないが、参禅した時の仏頂和尚の詩偈(げ)が「芭蕉門古人真蹟」に載って居る。

    竹窓夜静鎖春霖  漸幽吟屈老襟
    灯尽香消高枕臥  却知詩泊(酒)両魔侵

同じ時、引導の僧直愚上人の詩偈。

    繋船蘆萩間    蓬底睡眠閑
    林葉逐風到    良疑雨出山

是によって見れば、仏頂に参禅したことは疑ひないことであらう。


さて、このように仏頂和尚の薫陶を受け、芭蕉はいちだんと句境を深めました。「古池や」の句もそこから生まれたといいます。後年『奥の細道』にも禅的な句境をはしばしに見ることができます。


炎天の梅花、ここに香るがごとし
「奥の細道」羽黒

『禅林句集』(坤巻)の中の「雪裏芭蕉摩詰画。炎天梅蘂簡斎詩」による。「雪裏芭蕉摩詰画」、雪の中の芭蕉の株は摩詰(唐代の詩人・画家)が描いたもの、「炎天梅蘂簡斎詩」、炎天の梅花は簡斎(宋代の詩人)が詩で詠んだものといった意味である。「雪裏芭蕉」と「炎天梅蘂(花)」は、いずれも現実には見られないもの。ところが、禅宗ではこれを鍛錬によって心眼で見えるものとし、一般には珍しいものの例えとされている。

『奥の細道 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 全現代語訳』能文社2008

http://bit.ly/cnNRhWP1010047_3

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2010年8月29日 (日)

西行と芭蕉をつなぐ“能”。第六回

136 ■俳聖 松尾芭蕉

松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日))は現在の三重県伊賀市出身の江戸時代前期の俳諧師である。幼名は金作。通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎。名は宗房。俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、俳聖と呼ばれる。
延宝8年深川に草庵を結ぶ。門人李下から芭蕉を贈られ、庵に植えると大いに茂ったので「芭蕉庵」と名付けた。以降、自身の俳号も芭蕉と改める。

深川臨川寺に止宿する仏頂和尚に参禅し、侘び、寂び、軽み、しおりなど、禅の精神性をたたえる独自の句風を確立。近世日本文化の美的概念形成に大きな影響を与えた。
また、中国の杜甫・李白、また西行・能因など漂白の詩人、歌人に憧れ、生涯の多くを旅に過ごした。多くの名句がその紀行中で生まれたものである。「漂白の詩人」として旅に生き、旅に死ぬ芸術的人生の完遂により、現在も多くの信奉者、追随者が後をたたない。
『野ざらし紀行』・『鹿島紀行』・『笈の小文』・『更科紀行』などの紀行文を残したが、元禄2年(1689年)、弟子の河合曾良を伴って出た奥州への紀行文『奥の細道』は、芭蕉芸術の到達点であり、近世文学の金字塔とも呼ばれる名作となった。
その最期も旅の途中である。大坂御堂筋の旅宿・花屋仁左衛門方で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残して客死した。享年五十一。生前の「(墓は)木曾殿の隣に」との遺言に従い、大津膳所の義仲寺(ぎちゅうじ)にある木曾義仲の墓の隣に葬られた。
大坂俳壇門弟の仲がこじれ、その仲裁にはるばる病の身を押して旅したことが老いの身にはこたえた。複雑な人間関係の中に生涯を閉じたのである。満開の桜の下、望みどおりの大往生を遂げた西行と、なんと対照的な死であったか。

『奥の細道』
http://nobunsha.jp/book/post_7.html

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2010年8月 1日 (日)

奥の細道行脚。最終回「大垣」

Okuno_front_300 【おくのほそ道】

 露通もこの湊まで迎えに来て、ともに美濃国に向かう。駒の助けを借り、大垣の庄に入れば、曾良も伊勢より来たる。越人も馬を飛ばして、みな如行の家に入り集う。前川子、荊口父子、その他親しい人々が昼夜訪ねてきて、まるで死者が蘇生したとでもいうように、ともに悦び、かついたわってくれる。
旅疲れいまだ癒えぬ内、長月六日になれば、伊勢の遷宮を拝もうと、また舟に乗り、


 蛤のふたみにわかれ行秋ぞ


鑑賞(はまぐりの蓋と身が別れるというが、ここで皆と別れ、二見が浦を見に行こうとする。ふたたび相見える時もあるものか、と心細い秋である。「行秋ぞ」は、冒頭の「行春や」と合わせ、紀行文を閉じる)


【曾良旅日記】

○三日。辰の刻、発つ。途中、春老方に寄る。夕方におよんで、大垣着。天気よし。
この夜、木因 が会おうと、息子弥兵衛を呼びに遣わせたが行けず。予より先に越人が到着していたので、これと会う予定があったためだ。

 四日。天気よし。源兵衛 へ会いに行く。

 五日。同。

 六日。同。辰の刻、出船。木因が馳走する。越人は船場まで見送る。如行ともうひとりが、三里のところまで送ってくれた。餞別あり。申の上刻、杉江 へ着く。長禅寺で舟を下り、陸路すぐの大智院へいたる。舟は半刻近く遅れた。七左 ・玄忠由軒も来て、翁に会う。


【奥細道菅菰抄】

露通もこの湊まで迎えに来て、ともに美濃国に向かう。駒の助けを借り、大垣の庄に入れば、曾良も伊勢より来たる。越人も馬を飛ばして、みな如行の家に入り集う。前川子、荊口父子、その他親しい人々が昼夜訪ねてきて、まるで死者が蘇生したとでもいうように、ともに悦び、かついたわってくれる。旅疲れいまだ癒えぬ内、長月六日になれば、伊勢の遷宮を拝もうと、また舟に乗り

露通は俳諧に多く路通と書いている。美濃の生まれ。ある時、乞食の境地に陥っていたが、翁が取り立て僧となし、門人とした。

越人・如行・荊口・前川も、みな大垣に住む。大垣は中山道の往還、戸田侯の城下町である。蘇生は、本字「甦生」と書き、よみがえる、と訓ずる。いたわるは、労の字。古訓ではねぎらう、と読む。長月は九月のこと。『奥義抄』に、「夜ようよう長き故に、夜長月、というところを略して、長月という」とある。

伊勢太神宮の遷宮は、二十一年目にあり、九月晦日の夜。○この一章は、一篇の終章ゆえ、文勢は自然に健やかで急なものとなる。これまた、和漢、文章作成の一つの格で、翁の筆法、隙のないことを知るべきであろう。

蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

『金葉集』、大中臣輔広の歌に、「玉くしげ二見の浦の貝しげみまき絵に似たる松のむら立」と詠まれたものから貝を蛤に転じ、ふたみ、を掛詞としたもの。


※本編は、『奥の細道 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 全現代語訳』能文社 2008年3月より抜粋、再構成しました。
http://bit.ly/cnNRhW

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2010年7月27日 (火)

奥の細道行脚。第十七回「敦賀」

Photo 【おくのほそ道】

 ようやく白根が嶽が隠れ、比奈が嵩があらわれる。あさむづ の橋を渡り、
みれば玉江の蘆には穂が出る。鶯の関 を過ぎて、湯尾峠を越えれば、燧が城
、かえる山に初雁を聞き、十四日の夕暮れ敦賀の津に宿を求めた。
 その夜よく晴れ月が見えた。
「あすの夜も晴れましょうか」
 というと、
「越路の常、明くる夜の陰晴測りがたし 、と申します」
 と、あるじに酒をすすめられて、今宵気比の明神へ夜参することとなる。
仲哀天皇の御廟がある。社殿は神(かみ)寂びて 、松の木の間より月光漏れ来
たり、神前の白砂、霜を敷きつめるがごとし。その昔、遊行二世の上人 が大
願をかけ、自ら草を刈り、土石を運び、泥沼を乾かしたので、参道往来のわず
らいがなくなったということである。この故実により、今も代々の上人が神前
に真砂を運ぶという。
「これを遊行の砂持ち と申します」
 と亭主が語った。


 月清し遊行のもてる砂の上


鑑賞(尊く清らかな月光が、今宵も神前の白砂を照らす。何十代もの遊行上人
がお運びになったありがたい砂である)


 十五夜。亭主の言葉に違わず雨降り。

 名月や北国日和定めなき


鑑賞(せっかくの十五夜に雨となってしまったが、名月よ、北国の変わりやす
い天候を恨まず、遊行上人のように来年も忘れずに来ておくれ)

【曾良旅日記】

一 九日。快晴。日の出過ぎに発つ。今庄の宿はずれ、板橋のたもとより右へ
曲がり、木の芽峠 におもむく。谷間に入る。右は燧が城、十丁ほど行って左に
かえる山があった。下の村では、「かえる」と言っている。未の刻、敦賀 着。
まず、気比明神に参詣し、宿を借る。唐人が橋 の大和屋久兵衛方。食事が済ん
で、金ヶ崎 にいたる。山上まで二十四、五丁。夕べに帰った。河野 への舟を
借りて、色の浜へとおもむく。海上四里。戌の刻、出船(陸路は難所である)。
夜半に色の浜に着く。塩焼きの男に導かれ、本隆寺へ行き、泊まる。

【奥細道菅菰抄】

ようやく白根が嶽が隠れ、比奈が嵩があらわれる。あさむづの橋を渡り、みれば
玉江の蘆には穂が出る。鶯の関を過ぎて、湯尾峠を越えれば、燧が城、かえる山
に初雁を聞き

白根が嶽のことは前述。比奈が嵩は、「雛が嶽」、「日永だけ」とも書く。越前
府中の上の山で、祭神、飯綱権現。あさむづは、「浅生津」とも、「浅水」とも
書く。現在は「麻生津」という。福井の南、往還の駅で、宿の中ほどに板橋あり。
あさふづの橋と呼ぶ。清少納言『枕草子』に、「橋はあさむつの橋」と書かれた
名所である。また「黒戸の橋」ともいうと、歌書にある。『方角抄』、「朝むづ
の橋はしのびてわたれどもとどろとどろとなるぞわびしき」。また、「たれそこ
のね覚て聞ばあさむつの黒戸の橋をふみとどろかす」。

玉江のはしは、この道順で見れば、あさむづより前に書くべき。福井と麻生津と
の間にある。福井の町を上の方に抜け、二町ほど行けば赤坂というところがある。
ここを過ぎた街道に石橋が三つかかる。その真中の橋、高欄のついたものを、
玉江の橋の跡とし、この川をいにしえの玉江としている。『後拾遺集』、「夏
かりの玉江の蘆をふみしだきむれ居る鳥のたつ空ぞなき」、重之。ある人がい
った。「三国の湊に近いあたりに、たうのへ村というものがある。字に書くと、
玉江。この村に橋あり。これがまことの玉江の旧跡である」と。村名を重視す
るなら、ありえる説か。

鶯の関は、関の原という名所である。『方角抄』、「鶯の啼つる声にしきられ
て行もやられぬ関の原哉」。現在、民間に誤って関が鼻といっている。府中と
湯の尾の間で、茶店がある。湯尾峠は小さな山で、嶺に茶店三、四軒あり。い
ずれにも「孫嫡子御茶屋」と暖簾にしるしを出し、疱瘡のお守りを置く。いに
しえ、この茶店の主が疱瘡神と約束し、その子孫には、もがさの心配がない、
と言い伝える。孫嫡子とは、その子孫の直系という意味。

 燧が城は、湯尾の向いの山で、木曾義仲の城跡である。かえる山は、かえる
村という在所の上の山をさすとか。本名は、珻珞山(ばいらくやま)。これを海
路の字と見誤り(鍛冶を瑕治と誤るように)、やがて音が訛って、帰る山と称し
た。名所。『続拾遺集』、「たちわたる霞へだてて帰る山来てもとまらぬ春の
かりがね」、入道二品親王性助。『方角抄』、「雁がねの花飛びこえてかへる
山霞もみねにのぼるもの哉」。これらの歌を踏んで、「初雁を聞く」と書いた
のである。

明くる夜の陰晴測りがたし

孫明復の八月十四日夜の詩に、「銀漢声無くして、露暗に垂る。玉蟾初めて上
って円ならんと欲する時、清樽素瑟よくまず賞すべし、明夜の陰晴いまだ知る
べからず」とある。この句による。

気比の明神へ夜参する

 気比または、笥飯と書く。(笥飯を正字とすべき。理由は下記に。気比は当て
字である)人皇十四代仲哀天皇、行宮の遺跡で(行宮は、巡守などの時の仮の皇
居をさす)、すなわち天皇の霊を祀っている。当国の一の宮である。『古事記』
にいう。「かの建内の宿禰命、皇太子(仲哀天皇)をお連れして、禊をするため、
歴の淡海および若狭国を経過する時、高志の前、角鹿に仮宮を造営し滞在願っ
た」。
『旧事紀』にいう。「二月、角鹿に行幸しすなわち行宮を興して、これに居ら
しむ。これを笥飯の宮という」と。これらのことである。鎮座については、神
功皇后十三年、「初めて笥飯の神を祭る」とある。笥飯の表記を用いるのは、
この地にて天皇が昼食(飯)の弁当箱(笥)をおつかいになったゆえの名であろう。

社殿は神寂びて

寂びては、物静かでさびしいさまである。また、社中の僧、車来の説では、風
の字を用いるという。俗にいう、男ぶり、などの意味で、神寂びては、神振り
ということになる。『日本書紀』、神代の巻には、進の字を用いている。『伊
勢物語』に、「翁さび人なとがめそ」と詠んだのも、翁へと成った、という意
味。また、躬恒の『秘蔵抄』には、上久と書いて、訓読みでさび、と読ませ、
昔を慕う意味もある、と註するという。

遊行二世の上人(中略)泥沼を乾かしたので(中略)これを遊行の砂持ちと申します

遊行宗は、本号、時宗という。一遍上人を元祖とする。熊野権現のお告げに従
い、諸国を遊行。決定往生六十万人の札を衆人に与えた。それゆえ、一般に遊
行宗と称する。本寺は、相州藤沢駅にあり、藤沢山清浄光寺と号し、百石を領
する。この宗義では、諸国を巡教する者を住職とし、本山藤沢の上人は隠居と
している。二世の上人は、一遍の弟子で、他阿弥陀仏という。(伝記、いまだ
確かではない)その後、代々遊行宗では、住職の僧を他阿上人と呼んでいる。
上人とは、『釈氏要覧』によると、「古い師伝では、心に智と徳があり、外見
に勝り進むさまがあり、人の上に立つ者を上人と名付ける」とある。また車来
の説では、「日本では僧綱を賜る場合、法印・法眼・法橋の三つの位がある。
この内、初めの位、法橋の僧を上人と称する。遊行は、禁裏に於いて、ただ遊
行大道心との口宣を受けるのみで、位階の沙汰はない。今、上人と呼ぶのは、
この一派の称号だけである。しかし、参内の式では、はなはだ厳重な称号とな
る」とあった。

遊行の砂持ちは、その後代々の上人が廻国の際、かならずこの地に来たり、砂
石を運び、社頭の前後左右に敷く行事で、今に至るも途絶えたことがない。そ
うして、この社の楼門の外に木履を多く並べ置き、参詣人は履物をこの木履へ
と履き変えて楼門内に入る。遊行の敷いた砂石を踏むゆえ、外の履物の穢れを
憚るのだ。

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2010年7月23日 (金)

奥の細道行脚。第十六回「等栽」

【おくのほそ道】

等栽(とうさい)

 福井 まで三里ほどというので、夕飯をしたためて宿を出たものの黄昏の路

に足元はおぼつかぬ。ここに等栽 という古なじみの隠士がいる。いつの年で

あったか、江戸に来て私を訪ねてくれた。かれこれ十年以上も前のこと。い

かに老いさらばえて しまったものか、はたまた亡くなってしまったのでは、

と人に尋ねれば、まだ生きており、どこそこにいると教える。市中ひそかに

引き込んで、みすぼらしい小家に、夕顔、へちまが茂ってかかり、鶏頭、箒

木が戸口を覆い隠す。さてはこの家にこそと門を叩くと、わびしげな女が出

てきて、

「どちらからいらっしゃった道心のお坊さんでしょうか 。あるじは近所のな

にがしというもののところに出かけています。ご用がございましたら直接お訪

ねになってください」

 という。等栽の妻とわかる。まるでいにしえの物語のような風情かな、とす

ぐに訪ねあてる。その家に二晩泊まって、名月 は敦賀の湊に、と旅立った。

等栽、ごいっしょにお送りしましょう、と着物の裾奇妙にからげ、これぞ旅路

の枝折とうかれ立つ。

【奥細道菅菰抄】

13

福井まで三里ほどというので(中略)黄昏の路に足元はおぼつかぬ

福井は、越前の城下で都会の地である。

黄昏は日の暮れかかる時をいう。和訓の意味は、日の暮れかかる時、物の影確

かに見えず、人を見ても「たれか」、「かれか」、とわからぬおぼろげなさま

をいう。

ここに等栽という古なじみの隠士がいる(中略)いかに老いさらばえてしまった

ものか

 等栽は、もと連歌師。福井の桜井元輔という者の弟子で、等栽は連歌名であ

る。俳名は、茄景というとか。元輔は宗祇の門人で、「さてはあの月が啼たか

ほととぎす」という句を詠んだ者と言い伝える。

隠士は隠者というのと同じ。士は『玉篇』に、「古今に通じ、然らざるを弁ず

る。これを士という。数は一に始まり、十に終わる。孔子のいわく。一を推し

て十に合わするを士という」とある。つまり、才芸などのある者を、あまねく

士といったものと思う。(日本で俗に、士の字をさぶらひと訓じて、武士に限る

ように見なすのは、和訓の偏った読み方による誤りである)

老いさらばえては、『徒然草』に、「むく犬の老さらぼひて」とある。註に荘

子を引用し、髐の字を「さらぼひ」と読ませている。痩せて縮んだ様子である、

という。俊成の歌に、「山陰に老さらぼえる犬ざくら追はなたれてとふ人もな

し」と詠む。

道心のお坊さんでしょうか

道心は、元は心に道徳のあることをいった。出家には限らぬ。後世には、ただ

賤しい僧をさす名のみとされた。むろん、これも仏道執心の意味では、根拠の

ない話ではない。

坊は、防と同じ。つつみ、と訓ず。(土手のこと)ゆえに、これを借りて、長く

続いた家居の名とする。(長屋などの類)僧の坊号は、衆寮より来ている。(

れもまた、長く建ち並んだ家のことで、一の坊二の坊などという)中国で市井

を坊と呼ぶのも、また店が長く建て続いているためである。○現在、隠者など

の別号に、坊の字を用いるのは、ひどい誤りである。せめて房の字を使っても

らいたい。房は、閨房と連用して、閨(ねや)などの形態なので、庵号の意味に

用いてもあながち間違いとはいえぬ。坊号は、何町、何長屋というようなもの。

独居一屋の称には使えない。

名月は敦賀の湊に、と旅立った(中略)旅路の枝折とうかれ立つ

名月は、林道春徒然草の註に、「八月十五夜の月を賞玩すること、おおよそ李

氏唐朝より盛んとなった。古楽府の孀娥怨曲は、漢人が中秋の月が出ぬゆえ作

る、とあるので、漢の世にも楽しんだのであろうか」という。また、欧陽?

翫月詩の序文に、「八月十五夜のことをいう」とある。(長文ゆえここに記さ

)古今、月を愛でる詩歌は枚挙にいとまがない。

つるがは、元角鹿(つぬか)と書いた。以下、言い伝え。「崇神天皇六十五年、

任那(みまな)の人来る。その人、額に角あり。越前笥飯の浦にいたって居るこ

と三年。ゆえにその処を角鹿と名づく」という。今は、敦賀と書く。笥飯も今

気比とする。海を気比の海と呼ぶ。(敦賀はすなわち敦賀郡の浦で、けいは、

つるがの古名である。古歌が多い)越前の大湊で、若州小浜侯の領地である。

『方角抄』、「我をのみ思ひつるがの浦ならば帰る野山はまどはざらまし」。

『万葉集』、「気比の海よそにはあらじ蘆の葉のみだれて見ゆるあまのつり

舟」。(気比の名のことは下にくわしい)

枝折は、刊・栞等の文字を用いる。『尚書』の益稷に、「山に随って木を刮

す。禹貢、山に随って木を栞す。周伯温がいわく、行うところの材木に、そ

の枝を斫り、道の識しと為すという也」と。これは、迷いそうな道の傍らの

木を押し削り、あるいは枝を折って、地面に立てるなどして、後から来た人

の道しるべとすることで、日本では普通、これをしをりとも(しをりは枝折り

)、たつきともいい(たつきは立木)、歌に、たつきもしらぬ、と詠んでいるも

のである。現在、通行人の迷いそうな道の傍らの木の枝に、紙などを結び付

けておくのが、この遺風。しをりの歌は、前段むやむやの関の解説にある。

また、「みよしのの去年のしをりの道かえてまだ見ぬかたの花をたづねん」

西行。

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