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2019年3月 3日 (日)

名言名句 第六十三回 ヴァールブルク 神は細部に宿る

Kometsubu_buddha 神は細部に宿る。

~アビ・ヴァールブルク「1925年ハンブルク大学講義メモ」

 

 

世の多くの名言名句が、作者未詳。それが誰の言葉で、出典・初出が何か明示されないことが多々あります。

絵画・建築・デザイン分野で、人口に膾炙する「神は細部に宿る」も、そうした名言の一つ。

建築家ミース・ファンデル・ローエの言葉ともされますが、典拠の確かさ(19251125日講義メモ)と時系列から、ドイツの美術史家、アビ・ヴァールブルク(Aby Warburg,1866-1929)の言葉である、とする説をとりました。

 

「ヴァールブルクの言葉『親愛なる神は細部に宿る』をめぐって」 加藤 哲弘

https://ci.nii.ac.jp/els/110000189145.pdf?id=ART0000552801&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1405420686&cp=

 

イタリア初期ルネサンスをテーマとした同講義で、ヴァールブルクは、「親愛なる神は細部に宿る」(原文:Der liebe Gott steckt im Detail)と、たしかに書き残しています。

 

原義は絵画の微細な表現、建築パーツやディティールへのこだわりを重視したもの。偉大な芸術作品は、全体の仕上がり以上に、細かなところまで徹底的にこだわりをもって作り込まれており、その最小領域にこそ「美の神が宿る」としたのです。

 

美術や建築にとどまらず、文学・音楽・舞台など、あらゆる表現分野をカバーするコンセプトゆえ、「神は細部に宿る」の作者は、フローベル、ニーチェ、アインシュタインである、とする説も提唱されるほどなのです。

 

さて、この成句が現代日本の人々にどのように捉えられているのでしょうか。

その一端をネットのリアルタイム データからいくつかご紹介してみましょう。

 

 

「単調な生活は余裕をもたらす、余裕があると細かなところに手が届く、神は細部に宿るんだよ、真理はそこにある」

 

「ただの趣味なんだけどさ 私が自分で書いてて楽しんでるだけだけど、自身がもっと楽しむためにより細部を自信持って書きたいなぁ 神は細部に宿るだっけ、あれの意味なんとなくわかった 知識はより細かい描写をするのを助け、そこにリアリティという命を吹き込むんだな」

 

(神は細部に宿る)5年ほど言ってなかったんですがやっぱりここに戻る。丁寧にすることに意味があり、ディテールを大事にする役者でいたい。でないと罰が当たる気がするから()

 

「水しぶきは本体が膨らんでから、パッと弾けた瞬間の水玉から色を変えます。炎も火の粉になった部分が離れたときから変わるのです。よく見ないとわからないくらいの色の差です。神は細部に宿る、仕事の一端から仕上げの繊細さを感じたものでした。勿論これだけで…」

 

「越路 吹雪さん(1924-1980年)、日本人でこんなファッションな人いません。神は細部に宿ると言うけど指先1本1本までオシャレ。本当に撮りたかった。」

 

「神は細部に宿るものです。 そして必ずあなた達を見ていらっしゃいます。 悪い行いから目を背けてはいけません、 そむけてしまえば神も貴方から目を背けてしまうでしょう。 いかに償うかか重要なのです。」

 

「髪の毛の色、一本一本をじっと見る。神は細部に宿る。美しいなあ」

 

「主観としてやっぱりどう考えても去年からダンスが変わったと思っていて。頭から足の先・指先まで意識したダンスをするようになったなと。 慶ちゃんの元々の独特なダンス(褒めてる)と、意識した部分と、自身の新たな魅せ方が進化して「神は細部に宿る」みたいな時が度々あるから見ててすごくグッとくる」

 

(Yahoo Japan リアルタイム検索結果 2019217日より)

 

 

イラストレーター、写真家、工芸家、アニメーター、ダンサー、アクターなど、様々な分野の人たちが、自分なりの「神の美」をディティールに探求していることが垣間見えます。

たとえば、物理学者アインシュタインが見た細部は、宇宙の最小部に宿る神だったかもしれません。量子・素粒子など超微細な領域。人の目に見えぬ、人智の及ばぬこうした領域こそ「神が宿りたもう」と人々は考えたのでしょう。

 

「細部に宿りたもう神」は、視点を広くめぐらせば「万物に宿る神」のイメージへとつながっていきます。

カトリック教義のもっとも重要な秘跡のひとつが、ミサにおける聖体拝領。

ここでは、キリストの肉体が一片のパンに、キリストの血が一滴のぶどう酒に籠るとされ、教義ではたとえではなく、まさしくキリスト自身がそこに内在すると説かれる。ミサ礼拝者が、これを摂ることによって、神と一体化するという儀式です。

なかなか理解の及ばぬ信徒に対しては、次のような問答が展開されました。

 

 

弟子 この秘跡では、主イエス・キリストはご一体でありながら、同時に多数のパンや様々な場所に現れられるのはどうしてでしょうか。

師  もっともな疑問です。これを理解するために、一つのたとえ話をしましょう。

どんな物であれ、一つの物体を多数の鏡の前に置いてみれば、どの鏡にもその影が映るという例があります。物でさえこうしたことができるのですから、ましてや万能のまことの神にてまします主イエス・キリストが、ご一体であられるといいながら、様々な場所で多くのパンに同時に宿ることができないといえましょうか。

弟子 パンを二つに割った時、主イエス・キリストのお身体も分かれるのでしょうか。

師  それは違います。たとえパンをいくつかに分けたとしても、主のお身体は分かれません。分けられたパンの一片一片に完全な形で宿られています。たとえば姿を映した鏡をバラバラに割ったとしても、映した姿は別々に分かれず、破片の一つ一つに元の姿が完全に映されるのと同様です。

 

(『現代語訳どちりなきりしたん』第十 聖教会の七つの秘跡 201710月 能文社)

 

 

 ―わずかなパン一片に、キリストの肉体が完全な形で宿る

 

微小なパーツに宿る神は、部分やミニチュアとしてではなく、「完全な形」すなわち神の存在全体としてこもる、という思想です。

 

 ―草木国土悉皆成仏。

 

細部に宿り、かつ遍く存在する神のイメージは、草木や生命のない石や河川にも仏性が宿る、とした仏教の教えともつながっていきます。

 

神仏はどこにでもいて、かつ人の目には決して見えないもの。

「なんとしても神様をこの目で拝みたい」と願っても、ついにそれは叶いません。

しかし小さなことをあきらめず、コツコツと何年も何十年も探求し続けているとある日、「ほう。なにやら面白そうな」と、自分の肩越しにそれをのぞきこむ存在に気づく瞬間が来る。

それこそ細部に宿る神の姿なのです。

 

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