« 2018年「新山上宗二記講座」スタート | トップページ | 文京アカデミー「千利休の侘び茶の世界」茶の湯の歴史 »

2018年5月 3日 (木)

言の葉庵 名言名句第六十一回「仇をば恩で報うなり」

Atsumori01 仇をば恩で報うなり。

~敦盛『源平盛衰記』巻第三十八「平家公達最後並頸掛共一谷事」

 

 

源平盛衰記に留める、敦盛最期の思いを伝えた言葉です。

 

「仇を恩で報う」

 

今日、対義的な「恩をあだで返す」が一般によく知られていますが、「自分がこうむった恨みを、恩として返す」ことに、わりなさを感じられる方も多いのではないでしょうか。

そもそも仏教の報恩とは、仏や父母など自分が恩を受けた相手に対し、感謝して恩を返していくこと。

 

孔子も論語で、

「直きを以て怨みに報い、徳を以て徳に報ゆ」(憲問第十四、三十六)

と述べ、怨みには正しく対応(返報)しなければならない、としています。

「仇に恩で報いる」思想は、仏教でも儒教でもなく、実は老子です。

 

「怨みに報ゆるに、徳を以てす」(『老子』六三)

 

孔子の考える君子とは、義と礼に従い、社会秩序を守るため、仇に対して正当に処置していくことを求めます。

かたや老子が考える徳をもつ人とは、

「上徳は無為にして、而して以て為にする無し」(同三八)

すなわち何事にもとらわれず、執着しない人は、そもそも怨みを感じることはなく、自分に敵対する人へも平等に徳をもって接していける、とするのです。

 

「隣人を愛し、敵を憎めと命じられている。しかし、わたしはいう。敵を愛し、自分を迫害する人のために祈りなさい」(マタイによる福音書544)

 

仇に対し恩で報う思想は、神の下、平等と友愛を説くキリスト教の教えに、むしろ近いのかもしれません。

「目には目を」と、仇に報復することで、それは無限に繰り返されてしまいます。まず敵をつくった遠因は自分自身にあり、とし、この悪しき連鎖を断ち切ろうとする「仇をば恩で報うなり」は、宗教や人種を超えた人類の叡智ではないでしょうか。

 

悲劇の主人公敦盛と、坂東武者熊谷次郎直実の邂逅と、心理的な葛藤がいきいきと伝えられる、『源平盛衰記』の一段を以下現代語訳にてご紹介します。

 

 

………………………………………………………………………………

 

 

■平家の公達が首を討たれ、最期を遂げた一の谷

 

修理の大夫経盛の子、若狭守経俊は、兵庫の浦まで落ち延びたが、源氏方邦和太郎に討ち取られてしまう。

 

同じく経盛の末子が、無官の大夫と呼ばれる敦盛であった。

紺の錦の直垂に、萌黄おどしの鎧をつけ、白星を打った甲の軍装である。背には滋籐弓と、護田鳥尾の矢を十八差して、鵇毛の馬に乗る。そしてただ一騎、沖の大将船を目指して、一町ほど浮きつ沈みつ漂っていたのだ。

 

さて、武蔵の国の住人、熊谷次郎直実は、この時よき敵を探しつつ、須磨の浦に立って東西を伺っていた。敦盛の姿を見かけるや、馬をざんぶと海へ打ちいらせる。大将軍と見当をつけ、体面もなく海に飛び込んだのであった。

 

「戻せや、戻せ。かくいうは、日本一のつわもの、熊谷次郎直実である」

と呼びかけたところ、敦盛は何を思ったものか、馬の面を引き返し、渚に向かって泳がせてくる。馬の脚が立ったあたりで、弓矢を投げ捨て、刀を抜き、額に当てて声を上げ向かってきたのだ。

熊谷これを待ち受けて、浜に上がる暇も与えず、波を蹴立てて馬同士を駆け並ばせる。

 

馬上で取り組むや、二人は波打ち際にどうと落ちた。上になり、下になり、二度三度と転がるうちに、敦盛は若輩、熊谷は熟練のつわものであったゆえ、ついに上になり、左右の膝で敦盛のかぶとの袖をむずと押さえつけた。敦盛は身動きもならず。

熊谷、腰の刀を抜き、まさに首をかかんと甲のうちを見てみれば、十五、六の貴公子である。

薄化粧にお歯黒をつけ、にこりと笑った。

熊谷は、なんと無残な、これも弓矢取る身の運命か。かほどに若く、上品な貴人のいったいどこに刀を突き立てられよう、と心をくじかれるのである。

 

「はて、あなたはどなたの御子であろうか」

と聞くと、

「さあ、早く斬れ」

という。

「あなたを斬って雑兵の中に捨て置くこともできませぬ。素性も知れぬ東国の野蛮な者とて、名乗ろうとされぬか。それも由あることなれど、われにも一存あっておたずね申すのです」

といった。

敦盛は思う。名乗ろうが、名乗るまいが、ここは逃れられまい。しかるに、この者の一存とは、恩賞のためわれの名を知りたいのであろう。組むも、切るも前世の縁。仇を恩で報うもの。されば名乗らん、と、

「なんじに一存があるならば、いって聞かせよう。これは、故太政入道の弟、修理大夫経盛の末子、いまだ無官ゆえ、無官の大夫と呼ばれる平敦盛、生年十六である」

と告げたのだ。

 

これを聞き、熊谷ははらはらと落涙した。なんと悲しきことであろうか。わが息、小次郎と同年とは。なるほど、その年頃に違いあるまい。

たとえ無情な者であろうとも、わが子への愛は格別なもの。もしてやこれほどたとえようもなく貴い子を失っては、父母も悶え焦がれんことの哀れさよ。

とりわけ小次郎と同年と聞けば、なんともいとおしく助けてさしあげたい。

その上、御心も勇敢な方。日本一のつわもの、と名乗っても、落ち武者の身にして、しかも幼若にもかかわらず取って返した。これは大将軍の器である。しかしこれは義経公の戦。なんとも惜しい命、いかにせん、と思いわずらいためらうところへ、前にも後ろにも武者どもは組んでは落ち、次々と敵を捕らえている。

その中で、熊谷は一の谷でまさに組み押さえた敵を逃がし、人に獲られたと噂がたてば、子孫にとって弓矢の名折れとなろう、と思い返した。

 

「どうにかお助けしたいと思うのだが、源氏の兵はもはやこの地に満ち溢れております。とても逃れられる身にあらず。

あなたのご菩提はこの直実がよくよくお弔い申そう。草葉の陰でご覧じられよ。ゆめゆめ粗略にはいたしますまい」

と、目をつむり、歯を食いしばり、涙を流してその首を掻き落としたのだ。

 

無残というも愚かなり。敦盛は死を恐れず、あきらめず、幼少の身ながらまったく凡庸の器ではなかった。平家の人々は討たれるその時までも風流な心を失わなかったのだ。

敦盛はこの殿軍の陣中でも合間に吹かんと思ったのであろう、古色もうるわしい漢竹の笛を、香を留めた錦の袋に入れ、鎧の引き合いに差して携えていた。

 

熊谷はこれを見つけると、ああ、惜しいこと、このたびも城中で今朝がたも楽の音が聞こえていたのは、この人であったのか。源氏の軍兵は東国より数万騎上ってきたが、笛を吹く者は一人もいない。なぜ平家の公達は、かくも優雅なのであろうか、と涙を流して去っていった。

 

そもそもかの笛は、笛の上手であった父経盛が作らせたもの。砂金百両を宋に送り、上等な漢竹を一枝取り寄せ、節と節との間の最上質な部分を切り取らせた。

天台座主、前の明雲僧正に命じ、秘密瑜伽壇にこれを立てて、七日間の加持祈祷を行い、秘蔵して彫らせた逸物である。子どもたちの中では、敦盛が器量の者である、と七歳にして授けられたという。夜が更ければ更けるほど音色が冴えたゆえ、さえだ(小枝)と名付けられたのだ。

 

熊谷は、この笛と敦盛の首を手に捧げ持ち、子息小次郎を訪ねていった。

「これを見よ。修理大夫の御子で、無官大夫敦盛というお方だ。

生年十六と名乗られたゆえ、お助けしたいと思ったものの、なんじらの弓矢の末を案じ、かくも憂き目を見ることとなってしまった。もしもこの直実が亡き者となろうとも、誓って後世を弔わねばならぬぞ」

 

このようにいい含めた後、熊谷は発心し、以降弓矢を捨ててしまうのである。

 

 

(現代語訳 水野聡 20185)

 

 

 

◆まぐまぐ名言名句マガジン【言の葉庵】

 

名言名句ほか、言の葉庵の最新コンテンツをいち早くお届けします。

現在通算104号を配信中。ご登録はぜひこちらへ!

http://archives.mag2.com/0000281486/

 

|

« 2018年「新山上宗二記講座」スタート | トップページ | 文京アカデミー「千利休の侘び茶の世界」茶の湯の歴史 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 言の葉庵 名言名句第六十一回「仇をば恩で報うなり」:

« 2018年「新山上宗二記講座」スタート | トップページ | 文京アカデミー「千利休の侘び茶の世界」茶の湯の歴史 »