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2014年12月26日 (金)

【禅の言葉】百花春至って誰が為にか開く

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百花春至って誰が為にか開く~雪竇重顕『碧巌録』第五則

 

 

『碧巌録』は12世紀ごろの中国で成立。『無門関』とならぶ、代表的な禅の公案問答集として、わが国でも長く重んじられてきた著です。

 

11世紀ごろ、雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)により、編まれた『雪竇頌古百則』を本編とし、およそ百年後に圜悟克勤(えんごこくごん)が序と注解を付し、今日の『碧巌録』が生まれました。

 

「百花春至って誰が為にか開く」は、同書百則の公案のうち、第五則「雪峰尽大地」の頌(しょう)といわれる詩文にある句です。

まずは、公案の本体ともいえる〔本則〕と〔頌〕を原文と現代語訳でご紹介しましょう。

 

 

■第五則「雪峰尽大地」

 

〔本則〕

雪峰、衆に示して云く、

「尽大地撮(つま)み来(あぐ)れば粟米粒の大きさなり。

面前に抛り向()すも、漆桶不会(しっつうふえ)。鼓()を打って普請して看よ」。

 

〔頌〕

牛頭(ごず)没(うも)れ 馬頭(めず)回()える

曹渓鏡裏 塵埃を絶す

鼓を打って看せしめ来れども君見えず

百花春至って 誰がためにか開く

 

 

〔本則訳〕

ある日、雪峰禅師は弟子どもにいった、

「大地などといっても、わしがつまみあげれば粟や米粒の大きさじゃ。

これをお前たちの前に放りだしたところで、真っ黒の漆桶に入れるようなもの(見えはすまい)

太鼓を鳴らし、みな総出となってこれを探し出してみよ」。

 

〔頌訳〕

女波が退けば男波が打ち寄せるように、人の心は揺れ動いている。

六祖慧能の明鏡には一点の曇りもなかったではないか

(なにゆえ下界に惑わされ真の自己の面目を見ようとしないのだ)

春が来たならばみな一斉に開く花は、一体誰のために咲こうとするのかな

 

※原文 『碧巌録 上』大森曹玄 タチバナ教養文庫1994

※現代語訳 能文社 水野聡 2014

 

 

第五則の公案は、禅の悟りを開く〔自己本来の面目〕をみつけることが鍵となっています。

「百花春至って」の句は、この本来の自己をみつけるただ一つの道筋を教えてくれるもの。

 

春になれば野や山で、小学校の校庭で、マンションのベランダでも色とりどりの花が一斉に開き、咲き乱れます。花には「春になったら咲こう」「他の花よりも早く、大きく、美しく咲こう」などといった心はみじんもありません。

時が来たならば、ただただ植えられた場所でつぼみをもたげ、咲くだけのこと。何かのため、誰かのためといったはからいはかけらもない。

 

花は咲くことにより、虫を招き、実をつけ種をつくり、生命を次につないでいくばかり。

花はぼくたちの目や鼻を楽しませてくれるだけではなく、心までぽかぽかと温かくし、勇気を与えてくれる。しかもそれを誇ることは決してありません。

すべてのはからいを捨て、精いっぱい生きる喜びに満ちて咲く花。

 

仕事や人間関係がうまくいかない。

自分は必要とされていないのではないか。

なぜ自分は生まれ、なんのためにこの先も生きていくのか。

そもそも生命とは何か、存在とは何か、真の自己とはどこにあるのか。

 

幾千万の言葉や論理よりも、花はなんと雄弁に語り、真理を教えてくれるのでしょうか。

 

※【言の葉庵】名言名句 第四十九回 碧巌録 百花春至って誰が為にか開く

http://nobunsha.jp/meigen/post_174.html

 

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