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2014年10月14日 (火)

『風姿花伝』に学ぶ、老いの美学

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五十有余

 このころよりは、おほかた、せぬならでは、てだてあるまじ。麒麟も老いては土馬に劣ると申すことあり。さり ながら、真に得たらん能者ならば、物数はみなみな失せて、善悪見所はすくなしとも、花は残るべし。



 亡父にて候ひし者は、五十二と申しし五月十九日に死去せしが、その月の四日、駿河の国、浅間の御前にて法楽 つかまつり、その日の申楽、ことに花やかにて、見物の上下、一同に褒美せしなり。およそそのころ、ものかずを ばはや初心にゆづりて、安きところをすくなすくなと、色へてせしかども、花はいやましにみえしなり。これ真に 得たりし花なるがゆゑに、能は、枝葉もすくなく、老木になるまで、花は散らで残りしなり。これ、眼のあたり、 老骨に残りし花の証拠なり。

(『風姿花伝』第一年来稽古條々)


「せぬならでは、手だてあるまじ」
「初心にゆづりて、安きところをすくなすくなと、色へてせし」

名役者も老いたるのちは、何もしないという以外やるべきことはない、と老観阿弥は、舞台の非情の論理を世阿弥に伝えました。

舞台の見せ場はすべて若手にゆずり、自分は「少な少な」と手をこまねき、ほんの少し色を添える程度に舞うばかり。

しかし、控えれば控えるほど、裏にまわればまわるほど、
匂やかな花の美が老いた父の舞姿からにじみでてくるのである。
天才ともてはやされた子世阿弥もかぶとを脱がざるを得ませんでした。

人間老いたのち、いかにふるまうべきか。
あるいは、ふるまわざるべきか。
650年の叡智に学びたいものです。

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