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2014年2月 8日 (土)

2/12蒲田産経学園「邯鄲の枕」講座あります。

2/12()10:30~ 蒲田産経学園

●能の神話と伝説 第五回「邯鄲の枕」

http://nobunsha.jp/img/kozalist.pdf

今回は、能「邯鄲」を題材として、〔自と他〕、〔夢と現実〕のはかない区別を説く、中国の哲学小説を読みます。

まずは、能「邯鄲」の原典とされる、中国唐代の小説『枕中記』から、そのあらすじをご案内しましょう。

唐の玄宗の開元年間のことである。

 

 呂翁という道士が邯鄲(河北省、趙の旧都)の旅舎で休んでいると、みすぼらしい身なりの若者がやってきて呂翁に話しかけ、しきりに、あくせくと働きながらくるしまねばならぬ身の不平をかこった。若者は名を廬生といった。

 

 やがて廬生は眠くなり、呂翁から枕を借りて寝た。陶器の枕で、両端に孔があいていた。眠っているうちにその孔が大きくなったので、廬生が入っていってみると、そこには立派な家があった。その家で廬生は清河の崔氏(唐代の名家)の娘を娶り、進士の試験に合格して官吏となり、トントン拍子に出世をしてついに京兆尹(首都の長官)となり、また出でては夷狄を破って勲功をたて、栄進して御史大夫部侍郎になった。

 

 ところが、時の宰相に嫉まれて端州の刺史(州の長官)に左遷された。そこに居ること三年、また召されて戸部尚書に挙げられた廬生は、いくばくもなくして宰相に上り、それから十年間、よく天子を補佐して善政を行い、賢相のほまれを高くした。

 位人臣を極めて得意の絶頂にあったとき、突然彼は、逆賊として捕えられた。辺塞の将と結んで謀叛をたくらんでいるという無実の罪によってであった。彼は縛につきながら嘆息して妻子に言った。

 「わしの山東の家にはわずかばかりだが良田があった。百姓をしておりさえすれば、それで寒さと餓えとはふせぐことができたのに、何を苦しんで禄を求めるようなことをしたのだろう。そのために今はこんなザマになってしまった。

昔、ぼろを着て邯鄲の道を歩いていたころのことが思い出される。あのころがなつかしいが、今はもうどうにもならない‥‥。」

 廬生は刀を取って自殺しようとしたが、妻におしとめられて、それも果し得なかった。ところが、ともに捕らえられた者たちはみな殺されたのに、彼だけは宦官のはからいで死罪をまぬがれ、驥州へ流された。

 数年して天子はそれが冤罪であったことを知り、廬生を呼びもどして中書令とし、燕国公に封じ、恩寵はことのほか深かった。五人の子はそれぞれ高官に上り、天下の名家と縁組みをし、十余人の孫を得て彼は極めて幸福な晩年を送った。やがて次第に老いて健康が衰えてきたので、しばしば辞職を願い出たが、ゆるされなかった。病気になると宦官が相ついで見舞いに来、天子からは名医や良薬のあらんかぎりが贈られた。しかし年齢には勝てず、廬生はついに死去した。

 

 欠伸をして眼をさますと、廬生はもとの邯鄲の旅舎に寝ている。傍には呂翁が座っている。旅舎の主人は、彼が眠る前に黄粱を蒸していたが、その黄粱もまだ出来上っていない。すべてはもとのままであった。

「ああ、夢だったのか!」

 呂翁はその彼に笑って言った、

「人生のことは、みんなそんなものさ。」

 廬生はしばらく憮然としていたが、やがて呂翁に感謝して言った。

「栄辱も、貴富も、死生も、何もかもすっかり経験しました。これは先生が私の欲をふさいで下さったものと思います。よくわかりました。」

 呂翁にねんごろにお辞儀をして廬生は邯鄲の道を去っていった。

〔邯鄲の枕〕伝説は、ぼくたちにとっては荘子の〔胡蝶の夢〕を想起させます。

(原典読み下し)

昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩栩然として胡蝶なり。

自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。 俄然として覚むれば、則ち蘧々然として周なり。

知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。

周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。

(訳文)

以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。

自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。

ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。

荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。

「邯鄲の枕」は、老荘思想と道教の説く「無為」や「道」、あるいは不老不死を信奉した神仙思想に端を発する民間伝承がベースとなったものとされています。

夢と現実の境は、古来多くの思想家、哲学者のテーマとなり、『枕中記』前後にも同テーマでいくつか同様の文学作品が創作されました。

わが国では『太平記』に邯鄲の枕の故事が「黄粱夢事」として取り上げられ、これが能の原作となりました。現代では芥川龍之介の『黄梁夢』、三島由紀夫は『近代能楽集』の中の「邯鄲」が有名です。

さて、能「邯鄲」は、世阿弥が『風姿花伝』第二物学條々で説いた〔唐事〕に分類される、中国物の一作品。世阿弥は唐事のものまねの秘伝として、以下のように伝授しています。

これは、およそ格別のことなれば、さだめて稽古すべき形木もなし。ただ肝要、いでたちなるべし。また、面をも、同じ人と申しながら、模様の変わりたらんを着て、一体異様したる様に、風体を持つべし。(中略)

この異様したると申すことなど、かりそめながら、諸事にわたる公案なり。なにごとか異様してよかるべきなれども、およそ唐様をば、なにとか似すべきなれば、つねのふるまひに、風体変れば、なにとなく唐びたる様に、よそめに見なせば、やがてそれになるなり。

「邯鄲」の実際の舞台を見ると、役者は中国風の側次を着用し、能面はエキゾチックな邯鄲男をつけています。これが「異様したる風体」であり、世阿弥の秘伝によるものです。

庶民はそもそも本物の中国人など見たこともないし、ましていわんや中国の歌や所作など思いもよるまい。見かけを異風につくれば、ハッと心奪われ「ああ。これが中国人か」と即座に納得してしまうものである、と観阿弥から教えられたのでしょう。

「邯鄲」は、装束や外見の面白さだけではなく、演劇としてとてもよく創られた能の名作。さしあたり、段落構成や舞台の仕立て、展開の巧み、意表をつく見せ場など、さすが「六百年の能の叡智」、というほかありません。現代演劇やドラマ、映画作者にとってもよい勉強となるのではないでしょうか。

●能「邯鄲」の見所(特殊演出)

1.中国(唐)風の演出 →女主の側次、唐団扇、黒頭

2. 一畳台・引立大宮と枕の扱い →邯鄲の里のひなびた宿が、豪壮な宮殿に一変する。枕のある/なし、が合図。

3.子方の舞とシテの舞の対比

4. 一畳台中のシテの”楽”+特殊な型「空下り」

5.夢の中の登場人物が退場→シテの一畳台への「飛び込み」の型

(軽業師、曲芸師の空中浮遊技)

6.数百曲ある能の中で、唯一シテが”寝そべる型”をする

2/12、蒲田産経学園にてくわしく能の展開をご案内します。

なお、この2月をもって蒲田産経学園は閉校となりますので、ここでの「能の神話と伝説」クラスは最終回となります。

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