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2013年12月 1日 (日)

能はなぜ映像で再現できないのか

能楽タイムズ12月号より、梅若猶彦師の「能の映像 日本文化の発信」というコラムが連載されはじめた。
コラム第一回目は、「なぜ能は映像として再現されないのか」という非常に興味深いテーマである。

梅若師は指摘する。
「数あるパフォーミングアーツの中でも、能は、突出して映像を記録することが困難である」。

その理由として、映像技術の問題、能そのものの本質の問題、と二つの課題をかかげる。が、今日4K、8K、さらに立体画像の試作へとますます高度化する映像技術により能の映像化は技術としてはクリアしていくであろうと予測している。であれば課題は、能そのものの本質なのか。

「映像化を困難にしている本質とは何なのか。(中略)やはり能独自のものとしてある〔極端に強調された静〕がこの困難な課題自体を構成しているように思えてならない」
と、梅若師は推論しているのだ。
能が表現するのは、動きではなく、静。じっと静止する“間”にこそ、こめられた無限の情報量ではないか。

せぬひまが面白き

と世阿弥は能の面白さは、無言、不動の瞬間にこそすべてある、と喝破。
現代の能役者が「動かぬ故に能」とする、金科玉条である。

この“静”はシテの居クセに極まる。が、なにもシテ一人のみ動かぬわけではない。ワキ、囃子方、狂言方、地謡、後見も働かぬ時は微動だにしない、一幅の絵になりきるのである。これを動画にするのは困難であろう。

「カメラ本体を動かさざるを得ない。ただこのことを一つ間違えば、じっとしていられない子供のような印象を、視聴者は映像から受けるだろう」
(「能の映像 日本文化の発信」)

超高速度で回転するコマはぴたっと静止して見える。回転が弱まると、ぐらぐらと傾き、やがて大きく蛇行して倒れる…。“静”の中には気力・気迫が極限にまで込められており、能役者の身体から発せられる気に、観客は打たれるのである。この気を受けられぬと眠くなるのだが、見慣れぬ客にとっては仕方あるまい。ぼくもいまだに時折眠くなることがある。

この極端に張り詰めた静的な場において、においや振動、空気の動きも際立ってくる。古い装束のにおい、足拍子の地鳴り、扇や袖の扱いによる波動を500人そこそこの小さな能舞台では明瞭に感受することができるのだ。これは将来的にも家庭受像機では再現できまい。よってぼくたちは舞台へと足を運ぶのである。

能はもちろん、実は映画もTVやビデオ向きのソースではないと考える。DVDやビデオ録画は休止したり巻き戻していつでも何度でも再現できてしまう。「また見られるからいいか…」と気楽に散漫に視聴しようとする態度が、一期一会を骨子とする能や茶道の精神にそぐわないのである。室町、戦国時代に動画はおろか写真もなかった。

今を逃せば今後二度とは見られぬ、名人の仕舞、名物の肩衝をそれこそ命がけで見たのである。
能の映像化が困難な理由は、結局受け手と環境の変化に、より多くの要因が求められるかもしれない。

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