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2013年12月30日 (月)

【釈迦の名言】 犀の角のようにただ独り歩め

Photo 本年最後の釈迦の名言は、『スッタニパータ』(「ブッダのことば」中村元訳 岩波文庫)冒頭のもっとも高名な「犀の角」より、以下三句をご紹介しましょう。


◆四方のどこでも赴き
害心あることなく
何でも得たもので満足し
諸々の苦痛に堪えて
恐れることなく
犀の角のようにただ独り歩め。

◆音声に驚かない獅子のように
網にとらえられない風のように
水に汚されない蓮のように
犀の角のようにただ独り歩め。

◆今の人々は自分の利益のために
交わりを結びまた他人に奉仕する
今日利益をめざさない友は得がたい
自分の利益のみを知る人間はきたならしい
犀の角のようにただ独り歩め。


人にひきずられることなく、まっすぐ信念をもって歩み続ける尊さが、釈迦の力強い言葉のリズムをもって朗々と謳われる名段落。
今回、三句のみ取り上げましたが、原文では全40数句が、同じ文末「犀の角のようにただ独り歩め」により、とぎれることなく語り続けられます。

内からふつふつと力のわきあがってくる、何と力強い言葉なのでしょうか。一年の疲れを吹き飛ばし、新しい年を迎える勇気ふたたびを与えてくれます。

『ブッダの名言』(言の葉庵)
http://dp20101654.lolipop.jp/img/ブッダの名言(能文社).pdf

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2013年12月27日 (金)

NHK 100分de名著 『風姿花伝』

NHK 100分de名著 来年1月は『風姿花伝』(2014/1/8~放映予定)。番組HPにはまだ情報がアップされていませんが、1/2の特番終了後、予告があると思います。ぜひ見ましょう!

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2013年12月20日 (金)

NHK Eテレ12/22(日)友枝昭世『清経』放映

来る日曜午後、喜多流シテ方人間国宝 友枝昭世師の能『清経』が放映されます。

◆「国宝能舞台で一期一会の舞」
http://p.tl/Vker
チラシ画像
http://nobunsha.jp/img/resize0321.jpg

・NHK Eテレ
・平成25年12月22日(日)
15:00~16:30
能『清経』 シテ 友枝昭世 ワキ 宝生閑 他
仕舞『砧』 片山幽雪

現存最古の能舞台、西本願寺北能舞台(国宝)にて、16年ぶりに演じられる能です。能楽ファンにとってひいきの役者さんは人それぞれでしょうが、今代表的な能楽師を一人あげるとすれば、おそらく多くの人が指名するに違いない、現代の名人友枝昭世。ワキ方の第一人者宝生閑をはじめ、6人の人間国宝が一堂に会する、とても贅沢な今年最後で最高の舞台となりました。

世阿弥作、修羅能の名作『清経』。庵主が記憶する限り、テレビでの放映は平成の代になってからはなかったかもしれません。
世阿弥が平家物語を題材として、新たな能の一分野〔修羅能〕を創作するまで、武人が活躍する戦の能は、さほど面白いものとは考えられていませんでした。

よくすれども、面白きところ稀なり。さのみにはすまじきなり。
(世阿弥『風姿花伝』第二物学條々 修羅)

しかし、源平の名のある武者をシテとし、花鳥風月を飾りとして作能すれば、なにより面白い演目となろう、と世阿弥が筆を自在にふるい、数々の名作修羅能が生れたのです。

修羅能を演じる上で最大の難所は、ともすれば「鬼の振る舞い」となり、また逆に「舞の手」となってしまうこと。このいずれかにかたよってしまうと修羅能として成立しない、と世阿弥はいいます。しかし、作中に〔曲舞がかり〕があれば、多少舞の手が入っても修羅能として面白く演ぜられよう、とも付け加えています。能以前の民間芸能曲舞を観阿弥が能に取り入れ、この部分が〔曲舞がかり〕とよばれるのですが、今日の能の主要部分である〔クセ〕にその面影が残されているのです。

能『清経』では、クセの部分が〔舞グセ〕となっている。シテは地謡にあわせ、立って舞うのです。ここで主役清経の入水シーンが再現され、この能の最大の見どころとなっています。

友枝昭世師の舞に魅せられているファンは多いはず。『清経』のこの難しいクセを「鬼にならぬよう」「舞にならぬよう」、名人ならではの仕立てで存分に演じてくれるのでは、と楽しみでなりません。
師走のあわただしさを忘れ、名人の名作能の世界にしばし魂を遊ばせてみてはいかがでしょうか。 01

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舞台に舞い降りる能の神「翁」。

さて、いよいよ年も押し詰まり新年を迎える季節となってきました。
能の新年のセレモニーといえば、「翁」。一年でこの季節だけに見られる、もっとも格の高い、本式な能の演目です。

◆能の翁とは?(言の葉庵、「翁」についてのバックナンバーはこちら)
http://nobunsha.jp/blog/post_94.html

「翁」が全国の能楽堂で演ぜられるのは新年、一月の間のみ。来年も各地の能舞台で、元旦より「翁」を含む催しが多数企画されています。

◆能楽公演情報 2014年1月
http://p.tl/kq0h

今年は正月三ヶ日だけで、全13公演が予定されています。
ぜひお近くの能楽堂、能舞台にて初翁を体験してみてくださいね!俗っぽい神社の初詣よりも、よっぽど神聖で、ゾクゾク肌があわ立つに違いありません。千年来、私たち日本人の祖先が「神」と遭遇した儀式がこの能の「翁」なのです。

能にして、能にあらず

と評される「翁」は、世阿弥により、能の根本と位置づけられながらも、他の能の形式から大きく外れることにより、このように呼ばれています。
舞台上でシテが一礼し、面をかけるのも「翁」のみ。
正月、全国の能舞台は注連縄で飾られ、颯々と穢れを払う神聖な気が満ち溢れます。
http://aobanokai.exblog.jp/300927/

ちなみに翁開演中の見所へは出入一切禁止。能楽堂入口扉のドアノブには、紙の帯封がかけられ、開演時間に遅れた客はロビーのモニターで見るハメになります。(庵主も一度経験しました…)

番組中、『翁』とあるのが一番の能。『神歌』は翁の謡のみの声楽曲、『弓矢立合』は翁が複数人舞台にて立ち合う特殊演出です。『翁』の曲中、狂言が演ずるパートを「三番叟」と呼びます。

現行200番ある能の演目中、『翁』は演劇というよりも宗教儀礼に近い厳かな曲。西洋人がクリスマスのミサに参列するように、私たちの祖先が一年に一度、舞台に祈りを捧げた特別な日の特別な行事だったのです。 A0008okina

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2013年12月13日 (金)

「ひとくさり」の意味?

ひとくさり(一齣)とは、謡や語りの一段落のことです。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/185956/m0u/

さて、この「ひとくさり」という古語を探して、
【言の葉庵】のアクセス数が尋常ではないこととなっています。
「謡や語りの一段落」でワード検索すると当HPの「能狂言Q&A集」が2位で表示されます。今、このページに1日500人くらいきています。

おそらくみんなが求めているのは「ひとくさり」の単語だと
推測しますが、数人程度ならどうってことないのですが、
この数字は異常。どんな理由によるニーズが発生しているのでしょうか?

ちなみに「ひとくさり」は、当方がよく謡のお稽古で耳にした言葉。
現場では一段落というより、もっと短く、1文程度の意味で使われていましたね…。

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2013年12月 6日 (金)

【言の葉庵】アクセス数No.1コンテンツ

Photo 【言の葉庵】2005年創設以来、早や8年の歳月が流れました。
エントリー数も徐々に増え、300を超えました。最近当庵を訪れる人にとって、古いコンテンツはなかなか全てご覧になることも難しかろうと推測しています。

さて、当ホームページでは、一般にあまり知られていない、が、内容としては不変の価値を持つ名作古典の数々をご紹介することを使命としています。
出版作品は11作品を数えますが、印刷物では紹介しきれない短文の名作も実はたくさんあります。
今回ご紹介する過去ログは、これまで言の葉庵関連コンテンツ(他のブログも含む)で、代々アクセス数がもっとも多かったものです。

No.1コンテンツは「風狂のバケモノ、寒山拾得」。中国唐代の幻の風流子、寒山と拾得の物語です。中世仏教画の画材としてたびたび歴史的名画家に取り上げられた、寒山と拾得の来歴を明かす秘話。禅の奥儀に触れる普及の名作、『寒山子詩集』から翻訳した作品です。

アクセスNo.2は、「救われる極悪人『今昔物語』」。箸にも棒にもかからない極悪人(讃岐の源大夫)があるきっかけにより、改悛。阿弥陀仏を求める苛酷な旅の末に往生し、世にも美しい奇跡を起こすという逸話です。芥川龍之介の文学作品にもなった、有名な仏教奇譚ですが、やはり原文には及ばなかったかも。【言の葉庵】の新訳でお届けしています。

以上古典の名作中の名作二篇、ぜひこの機会にご鑑賞ください。


■風狂のバケモノ、寒山拾得。
http://nobunsha.jp/blog/post_83.html

■救われる極悪人『今昔物語』
http://nobunsha.jp/blog/post_133.html

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2013年12月 1日 (日)

能はなぜ映像で再現できないのか

能楽タイムズ12月号より、梅若猶彦師の「能の映像 日本文化の発信」というコラムが連載されはじめた。
コラム第一回目は、「なぜ能は映像として再現されないのか」という非常に興味深いテーマである。

梅若師は指摘する。
「数あるパフォーミングアーツの中でも、能は、突出して映像を記録することが困難である」。

その理由として、映像技術の問題、能そのものの本質の問題、と二つの課題をかかげる。が、今日4K、8K、さらに立体画像の試作へとますます高度化する映像技術により能の映像化は技術としてはクリアしていくであろうと予測している。であれば課題は、能そのものの本質なのか。

「映像化を困難にしている本質とは何なのか。(中略)やはり能独自のものとしてある〔極端に強調された静〕がこの困難な課題自体を構成しているように思えてならない」
と、梅若師は推論しているのだ。
能が表現するのは、動きではなく、静。じっと静止する“間”にこそ、こめられた無限の情報量ではないか。

せぬひまが面白き

と世阿弥は能の面白さは、無言、不動の瞬間にこそすべてある、と喝破。
現代の能役者が「動かぬ故に能」とする、金科玉条である。

この“静”はシテの居クセに極まる。が、なにもシテ一人のみ動かぬわけではない。ワキ、囃子方、狂言方、地謡、後見も働かぬ時は微動だにしない、一幅の絵になりきるのである。これを動画にするのは困難であろう。

「カメラ本体を動かさざるを得ない。ただこのことを一つ間違えば、じっとしていられない子供のような印象を、視聴者は映像から受けるだろう」
(「能の映像 日本文化の発信」)

超高速度で回転するコマはぴたっと静止して見える。回転が弱まると、ぐらぐらと傾き、やがて大きく蛇行して倒れる…。“静”の中には気力・気迫が極限にまで込められており、能役者の身体から発せられる気に、観客は打たれるのである。この気を受けられぬと眠くなるのだが、見慣れぬ客にとっては仕方あるまい。ぼくもいまだに時折眠くなることがある。

この極端に張り詰めた静的な場において、においや振動、空気の動きも際立ってくる。古い装束のにおい、足拍子の地鳴り、扇や袖の扱いによる波動を500人そこそこの小さな能舞台では明瞭に感受することができるのだ。これは将来的にも家庭受像機では再現できまい。よってぼくたちは舞台へと足を運ぶのである。

能はもちろん、実は映画もTVやビデオ向きのソースではないと考える。DVDやビデオ録画は休止したり巻き戻していつでも何度でも再現できてしまう。「また見られるからいいか…」と気楽に散漫に視聴しようとする態度が、一期一会を骨子とする能や茶道の精神にそぐわないのである。室町、戦国時代に動画はおろか写真もなかった。

今を逃せば今後二度とは見られぬ、名人の仕舞、名物の肩衝をそれこそ命がけで見たのである。
能の映像化が困難な理由は、結局受け手と環境の変化に、より多くの要因が求められるかもしれない。

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