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2011年12月31日 (土)

【日本文化のキーワード】第五回「位」

Keyword_kurai 言の葉庵HP開設時より続くコラム、「日本文化のキーワード」。今回、第五回目は、「位」をとりあげました。
日本の芸術・芸道や文芸、生活文化など幅広い分野にわたって古来より根源的な通則として重んじられ、継承されてきた概念。「位」の軽重を問うことで、その作品なり、表現の価値が決定された、といっても過言ではありません。


シテの位・ワキの位・ツレの位。鬘物、「定家」の位は重く、「羽衣」は軽い。序の舞と真の序の舞の位取り…。とりわけ、能においては「位」を抜きにしては何も始まらない…というほどに尊重され、すべての基調となっています。曲・三役・役種・段落の違いなど主要なものはもちろん、たとえば、狂言の足袋の色・地謡と後見の襟の色など、瑣末な規則にいたるまで、能においては「位」が、すべてを支配するルール、歴史的規範とされてきました。
和歌や俳句などの文芸、書画、茶道、武道など各分野において「位」は主要概念とされていますが、今回は「位」がもっとも象徴的かつ具体的にあらわれる<能の現場>を見本として試論にまとめてみました。


―目次―

1.『風姿花伝』の位・長・かさ
2.現代の位の定義
3.能における位とは
4.世阿弥の『九位』
5.『兼資芸談』にみる位の現場
6.日本文化のキーワード バックナンバー




1.『風姿花伝』の位・長・かさ


世阿弥の『風姿花伝』第三 問答條々では、「位」について観阿弥、世阿弥父子の間で以下のような具体的な問答が取り交わされています。


問。能に位の差別を知る事、如何。

答。これ、目利きの眼には、やすく見ゆるなり。およそ、位の上がるとは能の重々の事なれども、不思議に、十ばかりの能者にも、この位自れと上る風體あり。ただし、稽古なからんは、自れと位ありとも、徒ら事なり。先づ、稽古の却入りて、位のあらんは、常の事なり。また、生得の位とは、長なり。かさと申すは、ものものしく、勢のある形なり。また云はく、かさは一切に亙る儀なり。位・長は別の物なり。例へば生得幽玄なる所あり。これ、位なり。しかれども、さらに幽玄にはなき爲手の、長のあるもあり。これは、幽玄ならぬ長なり。
 また、初心の人、思ふべし。稽古に位を心がけんは、返すがへす叶ふまじ。位はいよいよ叶はで、あまつさへ、稽古しつる分も下がるべし。所詮、位・長とは、生得の事にて、得ずしては大方叶ふまじ。また、稽古の却入りて、垢落ちぬれば、この位、自れと出で来る事あり。稽古とは、音曲・舞・働き・物まね、かやうの品々を極むる形木なり。
 よくよく公案して思ふに、幽玄の位は生得のものか。長けたる位は却入りたる所か。心中に案を廻らすべし。


『風姿花伝』では、「位」「長」「かさ」を、それぞれ芸位を測る基準として、まずは取り入れています。これらの尺度は現代ではどのように定義付けられているのでしょうか。一般的な辞書の解釈を以下ご紹介してみましょう。

▼続きはこちら
http://nobunsha.jp/blog/post_122.html

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2011年12月13日 (火)

逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎(お)かず。

Senjo 〔原文〕
子、川上に在りて曰く、
「逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎(お)かず」と。

~孔子『論語』子罕第九


〔訳文〕
川のほとりで、先生はこういった、
「過ぎ去るものはみなこの川の流れのようなもの。昼も夜も、休むことはない」と。

〔解説〕
一般に「川上(せんじょう)の嘆」として知られる、論語の高名な一節です。論語の他の名句と同様、時間、場所、対話者が特定されないため、古来この句の解釈も大きく二つの方向に分かれてきました。
「川上」とは、川の上流ではなく、川のほとり。滔滔と絶え間なく流れゆく大河にのぞんで、時を得ず、志も遂げられぬまま老境を迎えつつあるわが身を嘆じて吟ずる老いた旅人。晩年故郷の魯を出国し、理想の国主を求めて放浪、遊説の旅を続ける途上、孔子がもらした悲嘆の言葉とするのが、古くからの解釈でした。

古注にこの句を引いて、包咸は、
「逝は往也。凡そ往く者は川の流れの如し」
とし、鄭玄は新出の注で、
「逝は往也。人の年の往くこと水の流れ逝くが如きを言う。道有りて用いられざるを傷む也」
と、孔子の悲嘆を指摘しています。

冉冉として三つの光り馳せ
逝く者は一に何ぞ速やかなる
中夜寝ぬる能わず
剣を撫して起ちて躑躅す
彼の孔聖の嘆きに感じ
此の年命のあわただしきを哀しむ

「文選」司馬彪の詩は、この句に悲嘆を読み取って作られた六朝の代表的な作品といえましょう。

さてまた、それとは正反対に、この句を希望の語ととる説があります。
宋儒は新注で、昼も夜も一刻たりとも停止することのない宇宙の活動が、この川の水によって示されている。その無限の持続、無限の発展の中に人間もまたいる、と解釈します。
朱子は、「学ぶ者の時時に省察して、毫髪もおこたり、断ゆることなきを欲する」と見、程子も、「君子自らつとめてやまず」とする、易の発現をこの句に読み取っているのです。

続きはこちら↓
http://nobunsha.jp/meigen/post_121.html

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2011年12月 9日 (金)

言の葉庵講座初!1月「狂言」のクラス開講。

9513127 来たる1/17(火)、東急セミナーBE二子玉川校、
「能の秘密を解き明かす」講座にて
言の葉庵としてはじめて「狂言」をとりあげます。

http://www.tokyu-be.jp/seminar/2011100005AH66601.html

・室町期の狂言の名人「二人の槌大夫」
・狂言の語源は
・狂言はいつ能から分かれた
・狂言の言葉はいつできた
・狂言の特色
・狂言の役柄と装束、面
・和泉流、大蔵流、鷺流の歴史
・現代狂言名人の名舞台

ご興味ありましたらぜひご参加くださいね!

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