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2011年7月 1日 (金)

『千利休由緒書』 第二回

今回は「由緒書」から、利休の祖父、田中千阿弥と師、武野紹鴎に関するくだりをご紹介しましょう。

 利休の祖先は代々足利将軍家に同朋衆として仕えたという。祖先は姓を「田中氏」と名乗り、利休の祖父は田中千阿弥(せんあみ)と名乗った(初めは専阿弥と号していた)。東山公方慈照院(じしょういん)義政公の同朋衆である。

 応仁元年五月、山名持豊入道宗全と細川右京大夫勝元が反目しあい、それがもとで天下の大乱を招いてしまった。この時、公方の御所内に山名方と内通し、将軍へ謀反を企てる近習十二名がいると、細川勝元が言上。これにより、同年八月二十三日、その近習どもは御所を立ち退くこととなった。一行は、一色式部少輔、佐々木右京太夫、上野刑部宮下野守、結城下野守、伊勢備中守、荒尾、三上、斎藤等十二名で、利休の祖父田中千阿弥の名もその中に含まれたという。

 千阿弥は堺へ立ち退き、名字を変えて潜伏した。文明五年、山名宗全、細川勝元がともに病没。その年、東山公方義政公は隠居し、その子義尚公が将軍家の家督を継ぐ。この方が常徳院殿である。田中千阿弥は帰洛を果たし、義尚公に仕えることとなった。
 長享元年、公方常徳院義尚公が近江の陣中にて亡くなられる。田中千阿弥は出家し、泉州堺へ隠居。千阿弥の子、与兵衛は田中姓を改め、父の千を姓として千与兵衛と名乗ることとなる。そして堺今市町で商家を営んだ。その子、与四郎も今市町で父の商売を継いだが、茶道を好むようになり、後には武野紹鴎に弟子入りし、剃髪して千宗易と名乗った。

(質問)
宗易の師、紹鴎とは何者か。

 宗左の返答は以下であった。紹鴎の祖父は、元若狭の国の国主、武田大膳大夫元信。その二男伊豆守仲清は応仁の乱にて討ち死にした。その子、五郎信久は幼少にて牢人となり、泉州へ落ち延びたという。信久の子、武田因幡守仲村が紹鴎である。
 永正八年、船岡山合戦の際、細川右馬頭政賢に従い戦功をあげるが、政賢が討ち死にを遂げ落人となってしまう。再び堺へ戻り、武田姓を「武野」と改め、南ノ端に住居する。茶の湯は珠光・宗珠に習った。後、京へ上り四条夷堂の隣に居を構える。「大黒庵紹鴎一閑と号して茶道一流を開いた。当時堺の津では、北向道陳がまた茶道一流の大祖であったが、紹鴎と友であったという。紹鴎は、弘治元年十一月、京都にて病没した。


「千利休由緒書」全文現代語訳は、『ものの見方が変わる。千利休の名言』能文社 2011年7月に所収

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