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2011年4月29日 (金)

『山上宗二記』の真実 第八回

Resize0119 「珠光一紙目録」、今回は今日の茶道具の眼目である、“茶碗”の段落を読み進めましょう。

茶碗の事

一 松本茶碗 代五千貫

 曜を五つあらわした青磁の茶碗。上に吹墨あり。口径五寸二分、高さ一寸八分、底一寸七分。よい茶碗とはこういうものをいう。口伝。総見院殿の御代に焼失する。

一 引拙茶碗

 右の茶碗と様子が少し違うが、よい茶碗である。総見院殿の変で焼失する。

一 安井茶碗

 この茶碗も、先の二つの茶碗と同じ。関白様より、豊後太守に遣わされた。

 天下の三茶碗というものは、右に記した茶碗のことである。口伝する。

一 珠光茶碗、総見院殿の御代に焼失する。

 唐物茶碗。醤色、へら目二十七あり。宗易より三好実休へ渡る。値千貫。似たようなものが薩摩屋宗忻にある。さらに口伝がある。

一 こんねん殿茶碗

 青磁物である。楊貴妃のうがい茶碗という説あり。いかがか、疑わしいもの。堺、満田方にあり。口伝。

一 善好茶碗

 昔、紹鷗・道陳が所持していた。数寄道具とのこと。堺、宗及にあり。

一 井戸茶碗

 これ、天下一の高麗茶碗。山上宗二が見出した二十の名物の一である。関白様にある。

 そうじて茶碗でいえば、唐茶碗はすたれた。当世は、高麗茶碗、瀬戸茶碗、今焼茶碗ばかりである。なりさえよければ、数寄道具となる。

(『山上宗二記 現代語全文完訳』能文社2006)

http://nobunsha.jp/meicho.html

「茶碗の事」、文頭には村田珠光高弟、松本珠報、鳥居引拙らの名物茶碗がまず挙げられます。そして当代、若き利休がひたむきに惚れ込んだ「珠光青磁茶碗」が登場。唐物青磁でありながら、下手の粗い作行が、侘びの心に叶ったものでしょうか。

似たようなものが薩摩屋宗忻にある―。

当時、珠光青磁手にはいくつか類物があったようですが、現在、銘「清滝」と呼ばれる、耕三寺博物館収蔵の珠光青磁茶碗は南宋時代(13C)の作。産地は中国南部、浙江省と推定されている。釉は灰褐色か黄褐色で薄手に作られ猫掻文といわれる引っ掻き模様が施されているのが特徴。宗二記では「へら目」と表現されていますね。この茶碗は現存する珠光青磁手の名品で、片桐石州の箱書があります。

利休の使用した茶碗を年代順に見ていくと、唐物から高麗、国焼へ、「見立て」から「創作」へと利休の侘びが発展・深化していった推移が明確にたどれます。

以下は、『松屋会記』『天王寺屋会記』『宗湛日記』から五一ある利休の茶会記をひろったもの。天文十三年(1544)利休二十三歳から、天正十八年(1590)利休最晩年の六十九歳までの記録です。

珠光茶碗(中国) 五  →利休ニ三~三八歳

天目茶碗(中国) 一六 →利休三九~六三歳

天目茶碗(日本) 四  →利休三九~六三歳

天目茶碗(不明) 二  →利休三九~六三歳

高麗茶碗(朝鮮) 一三 →利休四五~六九歳

楽茶碗(日本)  三  →利休六六~六九歳

総見院殿の変で焼失―。

天正十年、本能寺の変にて信長は天下統一の途上で突然命を落とします。その跡を継いだのが秀吉。そして天下人秀吉の筆頭茶頭となった“利休の茶”がまたたく間に日本中を席巻します。それまで、武野紹鴎の跡を「師のごとく一器の水一器に移すように」(宗二記 又十体)、敬い倣い、目利きと見立ての茶の本道を歩み続けた利休。しかし、秀吉の茶頭となってよりその「分別」は、がらりと変貌します。すなわち「創作」の時代のはじまり。樂焼を頂点とする、利休の国焼茶碗が茶の湯の座敷の主役へと躍り出ます。

さて、次に注目したいのが「井戸茶碗」。唐物時代に続き、壮年期の利休が愛した高麗茶碗です。「挽木の鞘」など、象嵌青磁手もありますが、今日なんといっても高麗といえば井戸。

天下一の高麗茶碗。山上宗二が見出した二十の名物の一。

山上宗二自身が見立てた、もとは高麗庶民の卑しい飯茶碗。侘びの眼目とされる茶碗です。自分が見立てたゆえか、つつましく「茶碗の事」の段落末尾に置かれています。が、晩年まで師利休も愛し続けた高麗井戸は、桃山期舶載品最後の見立て道具と呼べる、茶碗の逸品中の逸品です。特に、孤篷庵蔵「国宝喜左衛門大井戸茶碗」は、大坂の商家竹田喜左衛門より、本多能登守、中村宗雪、塘氏と所有が移り、安永年間、松平不昧が家中の反対を押し切って金五百五十両をもって購ったといういわくつきの名品。井戸独特の風姿と品格が時代を超えて数奇者を狂わせるのでしょうか。

段落最後、「そうじて茶碗でいえば、唐茶碗はすたれた。当世は、高麗茶碗、瀬戸茶碗、今焼茶碗ばかりである。なりさえよければ、数寄道具となる」と宗二は締めくくります。

山上宗二記では、唐物や前時代の名物道具に対して「当世はいかが(今日の時代にはあわない)」の寸評が、繰り返し繰り返し与えられます。宗二自身の評価ともいえますが、おそらく師利休の無言の教えを体現した言葉といえましょうか。

ちなみに上では、「なり」さえよければ数寄道具、とありますが、他の写本では「ころ」となっているものもあります。「なり()」と「ころ(大きさ)」では意図するところが違います。天正十七年板部岡江雪斎への伝書では「なり」、天正十六年雲州岩屋寺宛のものでは「ころ」となっていますが、相伝する弟子によって教えを変えたものでしょうか。他の芸道相伝ではよくあることですが。

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