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2011年2月12日 (土)

『山上宗二記』の真実 第二回

「山の上の宗二は、囲裏に火床と云て切炭にて井筒のごとくにくみて中三寸計にしてそれへ灰しかけ、さて炭おき流入一段よき物也。某も久用之たる也。客なき時は釜つりさげ一日一夜有物也。其時分には火きれざるを手柄とせし也。
かの山の上の宗二、薩摩屋とも云し、堺にての上手にて物をもしり人におさるる事なき人也。いかにしてもつらくせ悪しく口悪きものにて人のにくみしもの也。小田原御陣の時、秀吉公にさへ御耳にあたる事申してその罪に耳鼻そがせ給ひし。其子を道七とて故相国様の茶道して御奉公申せし。又父の伝をうけ、短気の口わる物にて上様御風炉の内あそばれし跡をみてつきくくし仕なをしけるによりて御改易に逢。牢人して藤堂和泉殿伊予在国の時下向しその申し開きなどして、我も有合て一冬はなせし也。」
『長闇堂記』久保権太夫 江戸寛永年間

「山上宗二は、囲炉裏の火床と称して、炉に切り炭を井筒の形にして中を三寸ほどあくように組んで用いた。これは炭次の点前にことのほか都合よきものであった。それがしも久しくその方法を用いた。そうして客がない時にも釜を終日吊り続ける。当時(不時の客を待ち)炉に火を絶やさぬことが茶人の心得であったのだ。

さて山上宗二、別名薩摩屋は堺の茶の湯上手。茶の秘伝に通じ、決して人に劣ることのない人であった。しかしながら、なんとも無愛想で口も悪く、人には憎まれた。北条小田原の陣では、太閤秀吉にすら耳障りなことを申して、その罪により耳鼻削がれ命を落としてしまったのである。宗二の子が道七。故相国様、徳川家康公の茶頭を勤めていた。この者もまた父の遺伝を受け、短気な口悪者である。家康公が点前した風炉灰を見て、突き崩しすっかりやり直してしまう。これにより改易放逐となった。牢人中、藤堂和泉殿が伊予在国中やってきてかの一件の申し開きをしたのだが、たまたまそれがしもそこに居合わせ道七とその冬よく話しこんだものである。」
(同書 訳 能文社2011)


今日の茶道史では、必ず引用される山上宗二の唯一の詳細な履歴が、この『長闇堂記』の一文です。宗二が利休切腹の前年、北条小田原の陣で秀吉に処刑されたのは有名な事実。しかしその息子、道七まで父のよろしからぬ遺伝を受け、それがため仕えていた家康から放逐されてしまうのです。この親にして、この子あり。茶の湯創成期のひたむきな茶人の横顔が垣間見えるエピソードです。

さて、山上宗二については以下の略歴が知られています。

〔生没〕 天文13年~天正18年(1544-1590) 享年48歳
〔出生地〕 泉州堺
〔名号〕 本名 山上宗二。屋号 薩摩屋。別号 瓢庵。諡号 瓊林(古渓宗陳命)。
〔職業〕 茶匠。生家は和泉堺の商家、薩摩屋。
〔家族〕 父 山上宗壁。子 伊勢屋道七。
〔主君〕 織田信長、豊臣秀吉。
〔師〕 千利休(二十年間師事)。天正三年、笑嶺宗訢により印可。
〔弟子〕 伊勢屋道七(子息)、桑山修理大夫、板部岡江雪斎、皆川山城守(山上宗二記を相伝)。
〔所持道具〕 霊照女図、痩馬図、虚堂智愚墨蹟達磨七百年忌香語、井戸茶碗、紹鴎小霰釜。
〔茶会〕 自会28、参会24(記録のあるもの)。茶会デビューは永禄八年、宗二二十二歳の時。

〔生涯〕 天正十一年 秀吉に追放され北国へ。
天正十二年 堺へ戻る。
天正十四年 秀長茶会への参会を最後に公式記録から姿を消す。
天正十五年 高野山へ。
天正十六年 小田原北条氏のもとへ。『山上宗二記』成る。
天正十八年四月 小田原城脱出後、秀吉により処刑される。

〔評価〕 古田織部とならび、村田珠光伝書(珠光一紙目録)を相伝された、利休の高弟であり一の愛弟子である。純粋でひたむきな“侘び茶”の求道者。当代屈指の茶道具目利き。性格は直情的かつ偏狭か?
『長闇堂記』では、秀吉に逆らい「耳鼻そかせ給ひ」処刑されたこと、また「人におさるる事なき」茶の湯上手であったこと、『草人木』では「宗二は侘び人」などと評されている。

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