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2011年2月22日 (火)

『山上宗二記』の真実 第三回

●千利休"侘び茶"の正統を伝える書、『山上宗二記』とは

利休が侘び茶を大成したその絶頂期に、もっとも信頼する高弟が書きとめた正確かつ客観的な茶道伝書と評価されています。以下に当著の特長を要約。

・珠光以来の名物茶器の解説と利休侘び茶大成の足跡を詳述。
・茶道具の目利きと茶道史研究のためのもっとも信頼できる第一級史料。
・宗二の学んだすべてを弟子に相伝するための遺書ともいえる秘伝書。
・観念的・情趣的表現を避けた、簡潔で客観的な記述。
・権力に媚びない、真の茶人、真の修行者の姿を体現。

『山上宗二記』は、利休存命中に弟子の山上宗二が、茶の湯の弟子に送った、村田珠光伝書をもととした利休流茶道秘伝書です。宗二による自筆原本は伝わっておりません。が、次の宛名による何種類かの写本が現存。多少内容に異同はあるものの、その大意にほぼ変わりはありません。

 一 天正十六年正月 伊勢屋道七宛
 二 天正十六年二月 桑山修理大夫宛
 三 天正十六年二月 雲州岩屋寺宛
 四 天正十六年五月 林阿弥宛
 五 天正十七年二月 板部岡江雪斎宛
 六 天正十八年三月 皆川山城守宛

 『山上宗二記』は、『茶器名物集』の別名をもっています。当著の主要な部分をなすのが、「珠光一紙目録」。茶の湯の創始者、村田珠光による、奈良流茶の湯の正統を伝える秘伝書です。これは珠光の弟子宗珠、さらに紹鴎、利休へと相伝され、山上宗二に渡っていきました。
内容はその名のごとく名物茶器の目利きと、その伝来・由来等の総目録といえるもの。『山上宗二記』は、この「珠光一紙目録」が師から弟子へと相伝されるたびに、紹鴎・利休・宗二等が、次々と奥伝を追加・補筆してゆき、成立したものです。

本編の各段落目次は以下。

・序
・珠光一紙目録
・茶の湯者覚悟十体
・追加十体
・茶の湯者の伝
・師に問い置いた秘伝と拙子の注
・材木の事
・玉かん八軸の讃
・道守君の補注
・別本 山上宗二記奥書

次回、「序」より各段落本文要旨を一回、一章で読み進めていきましょう。

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2011年2月12日 (土)

『山上宗二記』の真実 第二回

「山の上の宗二は、囲裏に火床と云て切炭にて井筒のごとくにくみて中三寸計にしてそれへ灰しかけ、さて炭おき流入一段よき物也。某も久用之たる也。客なき時は釜つりさげ一日一夜有物也。其時分には火きれざるを手柄とせし也。
かの山の上の宗二、薩摩屋とも云し、堺にての上手にて物をもしり人におさるる事なき人也。いかにしてもつらくせ悪しく口悪きものにて人のにくみしもの也。小田原御陣の時、秀吉公にさへ御耳にあたる事申してその罪に耳鼻そがせ給ひし。其子を道七とて故相国様の茶道して御奉公申せし。又父の伝をうけ、短気の口わる物にて上様御風炉の内あそばれし跡をみてつきくくし仕なをしけるによりて御改易に逢。牢人して藤堂和泉殿伊予在国の時下向しその申し開きなどして、我も有合て一冬はなせし也。」
『長闇堂記』久保権太夫 江戸寛永年間

「山上宗二は、囲炉裏の火床と称して、炉に切り炭を井筒の形にして中を三寸ほどあくように組んで用いた。これは炭次の点前にことのほか都合よきものであった。それがしも久しくその方法を用いた。そうして客がない時にも釜を終日吊り続ける。当時(不時の客を待ち)炉に火を絶やさぬことが茶人の心得であったのだ。

さて山上宗二、別名薩摩屋は堺の茶の湯上手。茶の秘伝に通じ、決して人に劣ることのない人であった。しかしながら、なんとも無愛想で口も悪く、人には憎まれた。北条小田原の陣では、太閤秀吉にすら耳障りなことを申して、その罪により耳鼻削がれ命を落としてしまったのである。宗二の子が道七。故相国様、徳川家康公の茶頭を勤めていた。この者もまた父の遺伝を受け、短気な口悪者である。家康公が点前した風炉灰を見て、突き崩しすっかりやり直してしまう。これにより改易放逐となった。牢人中、藤堂和泉殿が伊予在国中やってきてかの一件の申し開きをしたのだが、たまたまそれがしもそこに居合わせ道七とその冬よく話しこんだものである。」
(同書 訳 能文社2011)


今日の茶道史では、必ず引用される山上宗二の唯一の詳細な履歴が、この『長闇堂記』の一文です。宗二が利休切腹の前年、北条小田原の陣で秀吉に処刑されたのは有名な事実。しかしその息子、道七まで父のよろしからぬ遺伝を受け、それがため仕えていた家康から放逐されてしまうのです。この親にして、この子あり。茶の湯創成期のひたむきな茶人の横顔が垣間見えるエピソードです。

さて、山上宗二については以下の略歴が知られています。

〔生没〕 天文13年~天正18年(1544-1590) 享年48歳
〔出生地〕 泉州堺
〔名号〕 本名 山上宗二。屋号 薩摩屋。別号 瓢庵。諡号 瓊林(古渓宗陳命)。
〔職業〕 茶匠。生家は和泉堺の商家、薩摩屋。
〔家族〕 父 山上宗壁。子 伊勢屋道七。
〔主君〕 織田信長、豊臣秀吉。
〔師〕 千利休(二十年間師事)。天正三年、笑嶺宗訢により印可。
〔弟子〕 伊勢屋道七(子息)、桑山修理大夫、板部岡江雪斎、皆川山城守(山上宗二記を相伝)。
〔所持道具〕 霊照女図、痩馬図、虚堂智愚墨蹟達磨七百年忌香語、井戸茶碗、紹鴎小霰釜。
〔茶会〕 自会28、参会24(記録のあるもの)。茶会デビューは永禄八年、宗二二十二歳の時。

〔生涯〕 天正十一年 秀吉に追放され北国へ。
天正十二年 堺へ戻る。
天正十四年 秀長茶会への参会を最後に公式記録から姿を消す。
天正十五年 高野山へ。
天正十六年 小田原北条氏のもとへ。『山上宗二記』成る。
天正十八年四月 小田原城脱出後、秀吉により処刑される。

〔評価〕 古田織部とならび、村田珠光伝書(珠光一紙目録)を相伝された、利休の高弟であり一の愛弟子である。純粋でひたむきな“侘び茶”の求道者。当代屈指の茶道具目利き。性格は直情的かつ偏狭か?
『長闇堂記』では、秀吉に逆らい「耳鼻そかせ給ひ」処刑されたこと、また「人におさるる事なき」茶の湯上手であったこと、『草人木』では「宗二は侘び人」などと評されている。

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2011年2月11日 (金)

寺子屋、3月より再スタート!

施設工事のため年末よりお休みしていた「寺子屋素読ノ会」。3月より全教室再開いたします。

20代から70代まで、古典と日本文化を愛する老若男女のみなさまが楽しく古典名著を大きな声で読みすすめています。もちろん庵主もその中に紛れて毎回学びの新発見!この機会にぜひ新橋教室をのぞいてみませんか。わきあいあいとした少数交流の学びの場。

寺子屋素読ノ会

http://bit.ly/alUNRw

●次回寺子屋予定

3/7(月) 17:30-19:00 Aクラス「葉隠」

次回講読箇所は、岩波テキスト(上)P.54の七五より。「大雨の感」、「学問は危うきものなり」など、葉隠の名言を学びます。孔子のいう「中庸」、仏教の「中道」から武士として何を大切にするのか…(八三)。他7~8篇の予定。

3/7(月) 19:30-21:00 Bクラス「風姿花伝」

次回講読箇所は、岩波テキストP.80の「花修第六 花修に云」より。父観阿弥急死により弱冠にして観世座を引き継がねばならなかった世阿弥。世阿弥は亡父の等身大の教えが息づくこの部分を、朝昼晩全身全霊をかけ頭と体に叩き込んだのでしょう。「第六花修」は、実践的な能の作劇方法・演技の秘伝があますところなく伝えられる章段です。「良い能、悪い能とは?」「舞台が成功する時、失敗する時」など、陰陽五行思想をバックボーンとしながら、精緻な舞台理論が展開されます。

3/28(月) 17:30-19:00 Cクラス「山上宗二記」

次回講読箇所は、岩波テキストP.16の「珠光一紙目録 大壷の次第」より。東山以来天下の三名物とされた大壷「松島・三日月・象潟」の由来と名人の目利きが伝えられます。宗二記成立の天正十六年当時、本能寺の変により、上2つの壷はこの世にはない。以降、どの壷が数奇の眼目となっていったのか。また、三好実休、宗三や銭屋宗訥、誉田屋宗宅ら当時の数奇大名・大商人入り乱れて名壷を奪い合った足跡がたどれます。

3/28(月) 19:30-21:00 Dクラス「南方録」

次回講読箇所は、岩波テキストP.214の「滅後」冒頭より。いよいよクライマックス。利休賜死の真相を他の茶書・史書もひきながら探っていきましょう。まず「滅後」の冒頭では著者南坊が、茶道修業の真意を師利休に問う部分からはじまります。利休は自分の死後、「茶の湯はますます繁盛。老いも若きも茶の湯に狂い、二畳敷がやがて二十畳敷となって、茶の正道はついに断絶するであろう」と予言するのです。はたしてその心やいかに。

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