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2011年1月 3日 (月)

戦国武将と茶の湯「松永久秀」第二回

引き続き、そのユニークな生涯をいくつかの逸話をひきながらご紹介しましょう。

・逸話3

宣教師ルイス・フロイス『日本史』の中にも、松永霜台(そうだい)こと久秀のことを、「その知力と手腕によって自ら家臣であるにもかかわらず公方様と三好殿をいわば掌握してしまいました。すなわち彼ははなはだ巧妙、裕福、老獪でもありますので、公方様や三好殿は、彼が欲すること以外なにもなし得ないのです。」と、記されている。

・逸話4

中風の予防のため、毎日時刻を決めて頭のてっぺんに灸をすえていた。自害の直前でさえ、灸の用意を命じ、家臣から「この期に及んで養生も」と言われたが、「いざ腹を切る時に、中風のせいで失敗したら(腹を切るに及んで)臆したと思われる。今までの武名が一時に廃れるではないか」と言って灸を据えさせた後、自害したという。

ある老人、「年老いて身の養いもいらぬものなり」と言いしを、ある人諫めて、「一夜の宿も雨露もりぬるはよからず、むかし松永、信長公に戦まけて 自害に及ばんとせしに、百会に灸して言いしは、
「これを見る人いつのための養生ぞやと、さこそおかしく思うべけれど、我つねに中風をうれえぬ。死にのぞみて、もし卒爾に中風発して、五体心にまかさずば、臆したりとやわらわれなん、さあらんには我いまゝでの武勇こと ゞくいたずらごとなりぬべし。百会は中風の神灸なれば、当分その病をふせぎて、こゝろよく自害すべきとのためなり」
とて、灸をしすまして腹切りしとなり。其の名を惜しむ勇士は、かくこそあらまほしけれ」
といいけり。
『備前老人物語』

・逸話5

実は信貴山で死なず逃げおおせて、平蜘蛛茶釜を葛城山に隠し、自身は、秀吉の御伽衆になったという説もある。戦乱後、信貴山城跡から出土して信長が手に入れたという平蜘蛛茶釜が現存し。しかし同じものであるかどうかは不明である。

・逸話6

俳人の松永貞徳は久秀の孫という。儒学者の松永尺五は曾孫に当たる。また茶道三千家の祖である千少庵の父であるとする説が古くからある。 (宮王三郎三入に嫁入した宗恩が、すでに久秀の胤を宿していたとする)

・逸話7

永禄9年(1566年)、日本で最初に降誕祭(クリスマス)を理由に、三好三人衆との戦で休戦を命じたという。流行のキリシタン武将であったのかもしれない。

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