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2011年1月12日 (水)

戦国武将と茶の湯「松永久秀」最終回 平蜘蛛の釜

000555871323 「つくも茄子」とともに、いや、それ以上に松永久秀の名とともに記憶されている名物茶道具が、「古天明平蜘蛛」。蜘蛛がはいつくばったような異態・奇形の茶釜です。信長が喉から手が出るほどほしがったという希代の名物は、久秀自身とともに信貴山城で砕け散ったと伝えられている。別説では、剣術の祖、柳生宗厳に伝わった、いや、現存する…とも。これら謎に満ちた平蜘蛛の釜の足跡をたどり、松永久秀の回の終章としましょう。


■古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)

古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)は、戦国武将松永久秀所持とされる大名物の古釜。
「平蜘蛛」という名前の由来は、一般的な茶釜に比べて、蜘蛛が這いつくばっているような低く平らな形をしていたことから、付けられたという。

・久秀の首とともに爆破

織田信長へ臣従の証しとして大名物九十九髪茄子茶入を献上した久秀。しかし、この「平蜘蛛釜」は、たびたび差し出すようにと信長に強要されても、生涯手放すことはなかった。
後に信長への離反で久秀は信貴山城にて自害する事になるのだが、この時平蜘蛛が信長の手に渡るのを嫌った松永久秀は、自害の際に爆薬を平蜘蛛に仕込み平蜘蛛を抱いたまま爆死したとも言われている。

信貴山城落城の前日、佐久間信盛の使者が城を訪れ、平蜘蛛の釜を献上するなら救命されよう、と信長の意思を久秀に伝える。しかし、久秀はこれを拒否。わが首に平蜘蛛の釜を鎖で結びつけ、近臣に命じ火薬を仕掛け、もろともに爆破させたと伝える。享年六十八。永禄十年十月十日。奇しくも十年前、東大寺大仏殿を焼き払った同月同日であったという。

平蜘の釜と我等の頸と、二ツは、信長殿御目に懸けまじきとて、みじんこはいに打ちわる。言葉しも相たがわず、頸は鉄炮の薬にてやきわり、みじんにくだけければ、ひらぐもの釜と同前なり。
『川角太閤記』

霜台は秘蔵の茄子の茶壷、平蜘蛛と云釜を打ち砕きて其のち自殺す。
『老人雑話 巻上』

しかし一方で平蜘蛛現存説もある。静岡県浜松市の美術博物館には「平蜘蛛釜」とされる釜がある。その由来によると、松永久秀とは関係がなく、「信貴山城跡を掘り起こしたらこの茶釜が出土し、信長の手に渡り愛された」としている。

また、『探訪日本の城』では平蜘蛛茶釜は懇意にしていた柳生宗厳(柳生新陰流の継承者)にすでに渡っていたという説を紹介している。『多聞院日記』には、

「昨夜松永親子切腹自焼了、今日安土ヘ首四ツ上了」

と記載されており、切腹した松永親子の首が安土城に送られている。これらによりただちに「爆死はなかった」とは言えないが、松永久秀の希有な人生から想像され諸説が生まれたものであろう。また『大和志科』によると久秀の胴体は達磨寺に葬られ、丁重に埋葬したのは宿敵であった筒井順慶と記載されている。

・平蜘蛛釜の評価

平蜘蛛。松永氏に失す。当世在りても不用。
「山上宗二記」

簡素な侘びの美を尊ぶ利休茶の湯の時代、宗二によれば、平蜘蛛のような異態・奇形を喜ぶ価値観はすでに過去のものという。平蜘蛛滅失は、久秀のごとき謀略・下克上を身上とする梟雄の時代が終わり、智略・合理をもって天下を統べる信長、秀吉等新しいリーダーの到来を象徴するものであったかもしれない。

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