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2010年12月10日 (金)

茶人列伝 第六回「わび茶人 善法と丿貫」

茶人列伝最終回は、利休とはまったく違うわび茶の道を歩んだ、伝説の茶人二人をご紹介しましょう。

■粟田口の善法

「京、粟田口の善法。燗鍋(かんなべ)ひとつにて、一生の間、食事をも茶をもまかなった。この善法の楽しみ、胸中きれいなるものとして珠光は称讃した。」

『山上宗二記』


■山科の丿貫(へちかん)

「山科のほとりに、丿貫といえる侘びありしが、常に手取りの釜ひとつにて、朝毎みそうず(雑炊)という物をしたため食し、終わりて砂にてみがき、清水の流れを汲みいれ、茶を楽しむこと久し。一首の狂歌をよみける

  手どりめよ おのれは口がさし出たぞ 増水たくと人にかたるな

ある時、利休、
「日比聞きおよびたる侘び也。たずねてみん」
 とて、これかれ伴いまいられたれば、丿貫が家の外面に石井あり。休、人馬の軽塵(けいじん)いぶせかりけるを見て、
「比の水にて、茶は飲まれず。各いざ帰らん」
 といいて、やや過ぐるを、丿貫聞きつけ、表に出てよびかけ、
「茶の水は筧(かけい)て取るが、それでもお帰りあるか」
 という。休、その外の人々、
「それならば」
 とて立ちかえり、茶事こころよく時をうつされけるとなん。」

『茶話指月集』


「利休は幼き時は心いとあつき人なりしに、今は志薄くなりて昔とは人変われり。人も二十年づつにして志の変ずるものにや。われも四十才にして自ら棄つるの志気とはなれり。
利休は人の盛んなことまで知りて、惜しいかなその衰うるところを知らざるものなり。世の移り変われるを飛鳥川の淵瀬にたとえぬれども、人は変われることそれより疾し。かかれば心あるものは身を実土の堅きにおかず、世界を無物と観じて軽くわたれり。みなかようにせよとにはあらねど、情欲限りありと知れば身を全うし、知らざれば禍を招けり。
蓮胤(鴨長明)は蝸牛にひとしく家を洛中に曳く。われは蟹に似て他の掘れる穴に宿れり。暫しの生涯を名利のためにくるしむべきやと、いとおしくおもう。」

柳沢淇園『雲萍雑誌』より。丿貫が利休を評した文。


〔粟田口の善法〕

粟田口善法とは、みやこ粟田口に、囲炉裏ひとつという草庵に住み、客をもてなすにあたっては囲炉裏に懸かった釜で飯を炊き、そのごその釜を清めて茶を点ててもてなしたという、侘びた風情の極致ともいえる伝説の茶人である。


「粟田神社の前の細い東海道をなおも日ノ岡峠に向かうと良恩寺があります。
 このお寺の宝として、少し変わった釜が残されています。この釜にまつわることとして次のようなお話が残されています。

 昔、粟田口に住む善法さんと言う人が珍しい釜を持っていました。
 釜の形は茄子型で口がツンと突き出し、善法さんは余程、この釜が気に入っていたとみえ、片時も離さず、何をするのもこの釜で済ませていました。飯を炊いて食事をしたり、道行く人に一服の茶を与えたり、・・・このことを聞いた秀吉はこの釜で茶会をするよう利休に命じました。
 善法さんはこのことを知って、この釜があるからこのようなつまらないことを言われるのだ・・・と言って大事にしてきた釜を石で打ち砕いてしまいました。
 これを聞いた秀吉は、「善法は本当の茶人」と感心し、似せた釜を二つ造り、一つは秀吉、一つは善法さんに与えました。
 現在、これが良恩寺の寺宝となって大切に保管されています。」
(東山三十六峰の内、第二十峰 粟田山より)
http://www.geocities.co.jp/Athlete/4001/yama20.htm



〔山科の丿貫〕

戦国時代後期から安土桃山時代にかけての伝説的な茶人。名の表記は、丿恒、丿観、別貫などとも。なお「丿(ヘツ、ヘチ)」は、カタカナの「ノ」ではなく、漢字である。
京都上京の商家坂本屋の出身とも、美濃の出とも言われる。一説に拠れば医師曲直瀬道三の姪婿だといい、武野紹鴎の門で茶を修めたという。山科の地に庵を構えて寓居し、数々の奇行をもって知られた。久須見疎安の『茶話指月集』(1640年)によれば、天正15年(1587年)に豊臣秀吉が主催して行われた北野大茶湯の野点において、丿貫は直径一間半(約2.7メートル)の大きな朱塗りの大傘を立てて茶席を設け、人目を引いた。秀吉も大いに驚き喜び、以後丿貫は諸役免除の特権を賜ったという。

江戸時代中期に成立した藪内竹心の『源流茶話』によれば「丿貫は、侘びすきにて、しいて茶法にもかかはらず、器軸をも持たず、一向自適を趣とす」「異風なれ共、いさぎよき侘数奇なれば、時の茶人、交りをゆるし侍りしと也」と書かれており、当時盛行していた高額な茶器などは用いず、独自の茶道を追求していたようである。同じく久須見疎安の『茶話指月集』には、丿貫が手取釜1つで雑炊も煮、茶の湯も沸かしたなど、清貧ぶりを伝えている。いっぽうで、当時の茶人・数寄者との交流もあり、特に千利休とは親交していたという。ただし江戸後期の柳沢淇園『雲萍雑誌』には、利休と茶道を争い、世間に媚びることの多い友・利休の茶風を嘆いたとも書かれている。巷間では、千利休を自庵へ招待した際、庵の前に落とし穴を設けて利休を陥れ、沐浴させて新しい着物を供したなどとの逸話も伝えられているが、伝説の域を出ない。
晩年は薩摩へ下ったという。薩南学派の南浦文之の詩文に丿貫との交流を伺わせる詩句がある。同地で没したと思われ、『三国名勝図会』鹿児島郡西田村に「丿恒石」なる塚が記されている。
表千家の良休宗左(随流斎)の記述によれば、露地で履く雪駄は、元は丿貫の意匠から出たものだという。

(Wikipediaより)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BF%E8%B2%AB

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2010年12月 6日 (月)

茶人列伝 第五回「織部と遠州」

利休なき後、天下の茶匠は古田織部、後に小堀遠州へと移っていきました。
ともに利休茶をそのまま移すことなく、新しい時代を切り拓くべく独自の茶を創作した「作意」の人。
今回は、織部・遠州の人となりをしのぶ逸話を拾いました。

■古田織部

 利休、各々昼の参会の席にて、
「勢多の橋の擬法師(ぎぼし)(擬宝珠)の中に、形(なり)のみごとなるが二つ有り。見分くる人なきにや」
 とたかたる。
 その座に古織居られたるが、俄(にわか)に見えず。何(いず)れもあやしむ所に、晩方かえりまいられたれば、休、
「何の御用候えつるぞ」
 といえば、
「いや、別儀も候わず。彼のぎぼうし、試(ためし)に見分け申さんため、はや打ちにて勢多へ参り、只今かえり候也。さて、二つの擬法師は、東西のそこそこにてや候」
 と問われたれば、休、
「いかにもそれにて候」
 と答う。一座の人々、古織の執心、ことに感じ申されき。

〔ひとこと〕
美を追求せずにはいられない業。それは、師にも弟子にもついには悲劇を招いてしまいました。たかが、ぎほしひとつ。つかれたように瀬田へ馬を疾走させる、夕闇の織部の姿に"数奇の鬼"をありありと感じさせる逸話です。

■小堀遠州

雲山といえる肩衝、堺の人所持したるが、利休など招きて、はじめて茶の湯に出だしたれば、休、一向気に入らぬ躰(てい)也。亭主、客帰りて後、
「当世、休が気にいらぬ茶入、面白からず」
 とて、五徳に擲(なげう)ち破(わ)りけるを、傍(かたわ)らに有りける知音の人もろうて帰り、手ずから継ぎて茶会を催し、ふたたび休にみせたれば、
「是でこそ茶入見事なれ」
 とて、ことの外(ほか)称美(しょうび)す。よて此の趣き、もとの持ち主へいいやり、
「茶入秘蔵せられよ」
 とて戻しぬ。その後、件の肩衝、丹後の太守※、値千金に御求め候て、むかしの継ぎ目、ところどころ合わざりけるを、
「継ぎなおし候わんや」
 と小堀遠州へ相談候えば、遠州、
「此の肩衝破れ候て、つぎめも合わぬにてこそ利休おもしろがり、名高くも聞こえ侍れ。かようの物は、そのままにて置くがよく候」
 と申されき。

古織、全き茶碗はぬるき物とて、わざと欠きて用いられしことあり。

※丹後の太守 京極高広(慶長4年1599年~延宝5年1677年) 丹後宮津藩の第ニ代藩主。

〔ひとこと〕
貴重な唐物名物を眉ひとつ動かすことなく、無慈悲に打ち割る、紹鴎、利休、織部。師から弟子へ、数奇の系譜がたどれる逸話です。しかし「当世、休が気にいらぬ茶入、面白からず」は、かの天正19年2月28日、美の終焉を予期させる不吉な予言ではなかったでしょうか。

■織部と遠州

桑山左近、宗易へ露地のしつらいよういかが、と尋ね申され候時、

 樫の葉のもみぢぬからにちりつもる 奥山寺の道のさびしさ

この古歌一首にて御得心候えとなり。

附たり
遠州公も、去る人のもとへ庭の心入れ是にて御合点候えと御つかはし候発句、

 夕月夜海すこしある木間かな

古織は、山のあらわなるをきらいて、木間よりみゆるを、山に天井張りてよし、といわれしなり。遠州、古織の意にかなうものならし。

〔ひとこと〕
桑山左近と織部は、利休門下において犬猿の仲といわれる険悪な間柄。しかし、茶の湯の場では、こんな心温まるエピソードがあります。
http://nobunsha.jp/blog/post_93.html

茶庭に露地をしつらえ、たんなる庭を一期一会の精神的な修行の場とした利休。
利休は露地石について「渡りを六分、景気を四分」とし、織部は「景気を六分、渡りを四分」としました。渡りは歩行、つまり機能性。景気は景色、美的風景。利休はあくまで機能に根ざす美を露地庭に追求した。織部は機能重視主義の「山のあらわなる」を嫌いました。てのひらにおさまり、点てやすく、また服のよい楽茶碗ではなく、茶の場を独特の存在感で支配する「へうげもの」の織部茶碗を創作したのです。そして、遠州は織部の美を受け継いだが、美のため腹を切ることは決してありませんでした。

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