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2010年11月22日 (月)

茶人列伝 第三回「山上宗二」

千利休の商人茶人中、一番弟子とされる。侘び茶の未来を嘱望されるが、天正18年(1590)小田原征伐の折、当の北条家中にて茶の湯の指南に従事。攻め手の秀吉と対面を果たすが、「秀吉公にさへ、御耳にあたる事申て」(長闇堂記)逆鱗に触れ、耳・鼻を殺がれるという極刑をもって一命を落とした。師、利休切腹の前年に冥土へと旅立ったのである。主著「山上宗二記」は、珠光~紹鴎~利休へといたる侘び茶の系譜を今に伝える、茶道史の第一級史料。今回は、「山上宗二記」からその主要部分をご紹介します。


茶の湯者覚悟十体

一 上を粗相に、下を律儀に。これを信念とする。
一 万事にたしなみ、気遣い。
一 心の内より、きれい好き。
一 暁の会、夜話の会の時は、寅の上刻 より茶の湯を仕込む。
一 酒色を慎め。
一 茶の湯のこころ。冬・春は雪をこころに昼、夜ともに点てる。夏・秋は初夜 過ぎまでの茶席を当然とする。月の夜は、われひとりであっても深更まで釜をかけおく。
一 われより上の人と交わるがよい。人を見知って伴うものだ。
一 茶の湯では、座敷・露地・環境が大事である。竹木・松の生えるところがよい。野がけには、畳を直に敷けることが大事となる。
一 よい道具を持つことである。(ただし、珠光・引拙・紹鷗・宗易などの心に掛けた道具をいう)
一 茶の湯者は、無芸であること一芸となる。紹鷗が弟子どもに、
「人間六十が寿命といえども、身の盛りはわずか二十年ほどのこと。絶えず茶の湯に身を染めてはいても、なかなか上手になれはせぬ。いずれの道でも同じである。まして他芸に心奪われては、皆々下手となってしまおう。ただし、書と文学のみ、心にかけよ」
 といわれた。


追加十体

一 目明き
 茶の湯道具はいうにおよばす、いずれの品であっても、見たままに善悪を見分け、人の誂え物を殊勝に好むよう始めることがまず第一である。してはならぬ目利きは、名品に似たものばかりを偏好することである。

一 点前
 薄茶を点てることが、専らの大事となる。これを真の茶という。世間で、真の茶※を濃茶としているが、これは誤りである。濃茶の点てようは、点前にも姿勢にもかまわず、茶が固まらぬよう、息の抜けぬようにする。これが習いである。そのほかの点前については、台子四つ組、ならびに小壺・肩衝の扱いの中にある。

一 囲炉裏(いろり)・風炉(ふろ)・炭・灰の事
 朝は、炭が自然とくずれ面白いように置くものである。冬は、寅の刻より、茶の湯をしかける。そうすれば日の出に炉中のさまが面白い。茶事の前にあっては、湯が早く沸くように無心に炭を置くこと。また、客人帰り間際には、面白く置く。日中は炭の形にこだわらず、成り行きにまかせ置くのである。日暮れから夜話の席では、夜が更けるにしたがって面白く置くべし。灰については、炭の手際を真に入り、粗相に見えるよう灰を入れるのである。口伝する。

一 所作。花の生け方。絵・墨跡掛物。
一 台天目での茶の飲みよう。同じく、数の台※と万の台の時。
一 濃茶の飲みよう。床への道具、上げ下ろし。
一 四方盆に飾った小壺・肩衝。客となって、拝見の事。
一 風炉、小板に釜を真に据える仕方。同じく、囲炉裏の釜の釣り方。そのほか、手元の所作全般。
一 懐石の場合、点前は色々と毎度変わるものである。正しい作法なるものは、毎日何度してもよいものである。珍しい手立ては、十回の茶席にせいぜい一度か二度か。名物を所持した、若い出世人の衆など三度も四度も珍しい手立てをするものだ。名物を用いて、粗相に見えるように点前することが大切である。おおかた茶の湯で作意をなす場合は、第一、懐石、または暁の茶会に客を呼ぶか、客の方から押しかけてくる時。第二、道具の飾り方が変わった場合、または給仕が珍しい場合。女に給仕させる場合もあるのだ。ただし、人の作意を真似てはならぬ。貴人をお招きする時は、珍しい手立てをすべし。紹鷗の時代より十年以前には、金銀散りばめた道具を使ったり、二の膳、三の膳まで出したものである。

一 客の振る舞いこそ、一座建立※の要である。細部にわたって秘伝の多いもの。初心者のため、その意義を紹鷗は語り伝えた。ただし、当時このように教えることを宗易は嫌ったもの。それで、夜話のついでにぽつりぽつりと語ったのである。一番大事なことは、朝会夜会に寄り集まった間合いであれ、道具披き、口切の茶会はいうにおよばず、普段の茶会であっても、露地に入り、露地より出づるまで、一期に一度の会と思い、亭主を畏敬することである。世間話は無用。夢庵※の狂歌、

  わが仏 隣の宝聟(むこ)舅(しゅうと) 天下の軍(いくさ) 人の善悪

 この歌にて心得るべきである。もっぱら茶の湯の事、数寄談義を語るべし。

一 茶の点前は無言でなす。次に亭主ぶりとは、心の底より客人を敬うこと。貴人で茶の湯上手はいうにおよばず、平凡な参客をも、心の底で名人のごとく思うべし。かように客となり亭主となって招き合うことが第一である。道具披きには、客一人か。

一 数寄雑談のこと。古人が言い伝えてきた、古い名物の評判や茶会の話題をなすべし。達人に二十年以上は習うべきものである。

一 茶の湯では、習い・基本・法度が大事であるが、まずもって数寄になるということである。秘伝である。達人の弟子となり、尋ねるべし。ただし、この五箇条ことごとく究めるといえども、創作がなければ、若狭屋宗可※・梅雪※のように立ち枯れてしまう。茶の湯の作法・習いは伝統に専ら従うべき。創作は新しいかどうかが命。独自の風を確立した先達に学ぶべし。また、その時代に合うように思案するのだ。

一 茶の湯の師と袂(たもと)を分かった後、すべての分野の上手を師とする心がけをもつ。仏法・歌道ならびに、能・乱舞・剣法の上手に、さらにまた端々の所作までをも、名人の仕事を茶の湯と目明きの手本とするのだ。茶の湯の師たる心がけで、茶の湯ひとすじに三十年身を抛ち、己の茶の湯に精進し、こと茶に関しては決して茶坊主にはなるまい、と逼塞(ひっそく)する目利きをば、おのずから天下は呼び出すものである。わが茶の湯のたけを取り違え、天下一と茶頭ぶるものは、梅雪同然落ちぶれる。茶席での控え方は、右に述べたような心がけでなすものである。さらに口伝する。

 以上十体ともに秘伝がある。

 子曰く、「われ十五にして、学に志すと云々」※。
 この句を、紹鷗・道陳・宗易の秘伝とする。

 十五より三十までは、万事師に打ち任せる。三十より四十一までは、わが考えを出す。習い、基本、法度、数寄批評は、心に任せてよい。しかし、十の内、五まで我を出すべし。四十より五十までは、師とは西東、全く反対のやり方で万事なす。その中で、自己流を打ち出して、上手の名を取るのである。茶の湯を若返らせるのだ。また、五十より六十までの十年間は、かつて師匠がなしたごとく、一椀の水をそのままもう一椀へと移すようにする。名人の所作を万事手本となすのである。七十にして、宗易今の茶の湯の風体、名人にあらざれば真似することは出来ぬ。この年、六十八歳にふさわしい位である。紹鷗は五十四で亡くなった。このほかに、細々と口伝がある。

一 茶の湯は禅宗より出る。すなわち僧の行を専らとする所以。珠光・紹鷗、みな禅宗である。

一 大名、もしくは唐物名物所持の人の給仕には、稚児(ちご)のように髪を分けた子供に袴ばかりを付けさせて用いる。また、喝食(かつじき)※をも用いるのだ。武士・若衆は使わず。十二、三の沙弥(しゃみ)※も使う。これは貴人から下々まで、どんな客にもふさわしいもの。近頃宗易がいうには、二畳敷ほどの侘茶の湯には、給仕しかるべからずとのことである。


※真の茶 本来は台子飾りの濃茶を重きものとみなしていたが、利休侘び茶の理念により、薄茶を「真の茶」へと価値の転換をしたのである。
※数の台 七つ台のこと。「珠光一紙目録」
※一座建立 さまざまな人が寄り合い、心を一つにして茶会を成り立たせるという、茶の湯の根本精神を意味することば。
※夢庵 室町時代の連歌師、牡丹花肖柏(一四四三-一五二七)。
※若狭屋宗可 室町末-安土時代の堺の商人・茶人。村田宗珠門下。
※梅雪 京都上京、新在家在住の茶人。村田宗珠門下。号、不住庵。信長の茶頭をつとめるが罷免される。
※子曰く、「われ十五にして、学に志すと云々」 『論語』学而篇より。
※喝食 禅寺で、食事時を大声で呼ばわる役柄の僧。のちには髪を伸ばした侍童。
※沙弥 仏門に入ったばかりの人。


『山上宗二記 現代語全文完訳』能文社2006/5
http://bit.ly/bY9WYv

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