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2010年10月29日 (金)

能面・能装束入門 第一回

1237898 今回より、「能面・能装束」についての基礎知識を学んでいきたいと思います。
画像は、能の女面の最高傑作とされる、金剛流孫次郎作の重要文化財能面「孫次郎」。
初回は能面の定義と歴史についてざっと見ていきましょう。


・能面とは

能面は能において、主人公であるシテや助演者であるツレが使用する仮面である。面と書き、(おもて)と発音する。古くは神や鬼神・怨霊など、霊的な存在を表現するために使用されていた。のちに、演劇の素材として実在する人間や歴史的な人物をかたどった面も作成されるようになる。
能面は大別すると、翁・老人系・鬼神系・女面系・男面系・怨霊系に分類できる。小面(こおもて)や般若(はんにゃ)と言うように名称で分類すると、基本形は70種類程度。さらに白般若や赤般若・黒般若等、同一種を細分化すると、200種類以上あるといわれている。

・能面の歴史

能面は能と同様、室町時代に今日の形に発展・大成された。能面の起源とされる鬼神面が発生した鎌倉時代、猿楽(能)の劇内容もさほど複雑ではなかったため、面の種類も多くはなかった。鎌倉・南北朝時代の初期能面は、鬼神面・老人の面・男面・女面程度のシンプルな分類であったとされる。この時代の能面と能面作者について、世阿弥の『申楽談義』に以下のような記述がある。

「面の事。翁は日光打。弥勒、打手也。この座の翁は弥勒打也。(中略)近江には赤鶴(サルガク也)、鬼の面の上手也。近比、愛智(えち)打とて(中略)女の面上手也。越前には石王兵衛、其後竜右衛門、其後夜叉、其後文蔵、其後小牛、其後徳若也文蔵打の本打也。この座に年寄りたる尉、竜右衛門。恋の重荷の面とて名誉せし笑尉は、夜叉が作也。老松の後などに着るは、小牛也。男面、近比よき面と沙汰有し、千種打也。若き男面は竜右衛門也。出会いの飛出、この座の天神の面、大べし見、小べし見、皆赤鶴也」

時代的にいえば、これらの面打師は南北朝時代から室町時代の初期に活躍したと考えられる。能面の面打には、古く聖徳太子・弘法大師・春日など極めて実在性の薄い、神聖化された説話的な名も挙げられるが弘安年間(1278~1289)活躍した赤鶴がその最初とされている。面打師についての記録はこれ以降、室町時代をつうじてほとんどない。が、ようやく室町末期から桃山時代にかけて世襲面打家が輩出してくる。それをまとめて編纂されたのが、寛政七年(1795)喜多古能によっての「仮面譜」である。古能は面打師を次のように分類している。

一.神作 聖徳太子・淡海公・弘法
大師・春日
二. 十作 日光・弥勒・夜叉・文蔵・
龍右衛門・赤鶴・永見(氷見)・越智・
小牛・徳若 
三. 六作 増阿弥・福来・春若・宝来・
千種・三光坊
四. 古作 般若坊・真角・東江・千代
若・ヒコイシ・虎明・等月
五. 中作 愛若・慈雲院・宮野・財蓮・
吉常院・智恩坊・大光坊
六. 中作以後 角ノ坊・ダンマツマ・
山田嘉右衛門・野田新助・棒屋孫十郎
七. 世襲面打家 井関家・大野出目家・
越前出目家・児玉家・弟子出目家

なお現在では、作者の年代別に、第一
期(飛鳥~奈良時代)、第二期(鎌倉~室
町時代)、第三期(戦国時代)、第四期
(安土桃山~江戸時代)の四つに区分され
ている。

能面作者一覧表↓
http://bit.ly/9ETI93

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2010年10月27日 (水)

11/1 「葉隠」「風姿花伝」の講座

Pa080083 寺子屋素読ノ会11月
「葉隠」17:30~
「風姿花伝」19:30~
http://bit.ly/alUNRw

11月度講座、来週月曜日新橋にてあります。
一回のみの見学も歓迎!
老若男女関わらず、日本文化の好きなみなさまご参加されています。
岩波文庫テキストのみお持ちの上ぜひおいでください。

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2010年10月24日 (日)

名言名句 第三十回 葬は蔵なり。『旧唐書』長孫皇后

長孫皇后は、中国唐二代皇帝太宗の皇后です。太宗の偉大な治世「貞観の治」を内助の功により支えた、中国史上もっともすぐれた皇后と目されています。
 隋大乱後の困難な皇業を内から支え続けた人生。貞観八年、三十四歳にて病を得、二年後三十六歳で亡くなりました。「葬は蔵(かくす)なり」は、臨終の床にあって、皇帝太宗に託した遺言の中のことば。『礼記』壇弓上篇からの引用です。「くれぐれも私の葬式は質素に」、これが長孫皇后人生最後の願いでした。またこの時、唐建国の功臣、房玄齢が太宗の怒りに触れ、自宅に謹慎していました。皇后はまずこのことから、太宗に後事を託そう、と次第に細くなる息で語り始めました。

「玄齢は、陛下にもっとも古くから仕え、細心で慎み深く、国家の秘策は一言も漏らしたことがありません。国に災いをもたらすということがなければ、玄齢を見捨ててはなりません。
また私の一族は幸いにも陛下の姻戚となりました。この関係は、よほど徳を積まねば危機を避けることがかなわないもの。姻戚として永く関係を保つには権勢の地位につけず、ただ外戚として儀式に参列するだけにしていただけましたらさいわいです。
私はもう生きてお役に立つことができません。しかし死んでも手厚い弔いはどうかご無用に。葬とは隠すこと(葬は蔵なり)。人に屍を見られなければ、それで良いのです。いにしえより聖人賢人はみな葬儀を簡略にしていますね。ただ道のない世でのみ、大きな山陵を作り、無駄な労力と費用を尽くして、世間の物笑いとなっているのです。私をただ、山に葬ってください。土盛りした墳など必要ありません。何重ものお棺もいりません。葬具はみな、白木と素焼にしてください。質素なお葬式、これが私の思い出となりましょう」
(『旧唐書』長孫皇后伝 長孫皇后)

続きはこちら↓

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2010年10月21日 (木)

戦国武将と茶の湯「佐々木道誉」第六回

佐々木道誉篇、今回最終回です。


■道誉逸話3「道誉都落ち楠正儀への馳走」
「太平記」巻第三十七

康安元年十二月、南朝方と連合した細川清氏は幕府軍を破り入京。将軍義詮は後光厳天皇を擁しつつ近江へ逃れた。導誉はこの時、自邸を敵方の大将が占領するであろうと考えたが、邸宅を焼き払うことなく、逆に飾り立てたのである。まず美しく清掃した上で、六間の客殿に紋付の大畳を並べ、中央と両脇に掛軸・花瓶・香炉・茶釜・盆に至るまで整えた。

ここに佐渡判官入道々誉都を落ちける時、
「我宿所へは定めてさもとある大将を入れ替んずらん」
とて、尋常に取りしたゝめて、六間の会所には大文の畳を敷きならべ、本尊・脇絵・花瓶・香炉・鑵子・盆に至るまで、一様に皆置き調へて、書院には義之(ぎし・王羲之は書道史上最も優れた書家で書聖)が草書の偈(げ)・韓愈(かんゆ・文学者。唐宋八大家の一人)が文集、眠蔵には、沈の枕に鈍子の宿直物を取り副へて置く。
十二間の遠侍には、鳥・兔・雉・白鳥、三竿に懸けならべ、三石入りばかりなる大筒に酒を湛たへ、遁世者二人留め置きて、
「誰にても此宿所へ来たらん人に一献を進めよ」
と、巨細(こさい)を申し置きにけり。
楠一番に打入たりけるに、遁世者二人出向きて、
「定めてこの弊屋へ御入ぞ候はんずらん。一献を進め申せと、道誉禅門申し置かれて候」
と、色代してぞ出で迎へける。道誉は相摸守の当敵なれば、この宿所をば定めて毀ち焼くべしと憤られけれども、楠この情を感じて、その儀を止めしかば、泉水の木一本をも損はず、客殿の畳の一帖をも失はず。あまつさへ遠侍の酒肴以前のよりも結構し、眠蔵には、秘蔵の鎧に白太刀一振置きて、郎等二人止め置きて、道誉に交替して、又都をぞ落たりける。

道誉が今度の振舞ひ、なさけ深く風情有りと、感ぜぬ人も無かりけり。例の古博奕(古だぬき)に出しぬかれて、幾程なくて、楠太刀と鎧取られたりと、笑ふ族も多かりけり。


導誉の当意即妙で粋な計らいが彼の屋敷を結果として守ったと言える。一方で「太平記」は正儀が古狸に図られて鎧と太刀を取られたと笑いものにしているが、こちらも粋に対して粋で返した見事な振る舞いというべきであろう。そもそも導誉と正儀はそれぞれの陣営において南北和平派の重鎮であり、敵味方を越えた交流があったとしても不思議ではない。導誉の振る舞いも相手を謀るというより、撤退においてもあさましい姿は見せまいというバサラの心意気によるものであったろう。
 京攻撃失敗後、清氏は四国に逃れ、従兄弟・頼之と戦い討ち死に。一時は天下に権勢を誇った男のあっけない最後であった。
Ikebana

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2010年10月19日 (火)

戦国武将と茶の湯「佐々木道誉」第五回

■道誉逸話2「大原野花見の宴」
「太平記」巻第三十九

バサラ大名佐々木道誉が、晩年に催した芸能尽くしの一節を太平記が伝えている。今をときめく管領斯波高経が大宴会を御所にて計画したのに対抗して、高経の日頃の専横に泡を吹かせてやろうと、その向うを張って同日に大宴会を催すくだりである。

道誉かねては参るべき由領状したりけるが、わざと引き違へて、京中の道々の物の上手ども、ひとりも残らず皆引き具して、大原野の花の本に宴を設け席を敷きて、世に無類遊をぞしたりける。

すでにその日に成りしかば、輕裘・肥馬の家を伴ひ、大原や小塩の山へぞ趣きける。麓に車を駐め、手をとつて碧蘿を攀づれば、曲径幽処に通じ、禅房に花木滋し。寺門に当つて湾溪の水を渉れば、路羊腸をめぐりて、橋雁歯(がんし・橋のきざはし)の危ふきをなせり。高欄をば金襴を以てつつみ、ぎぼうしには銀薄を押し、橋板には大唐の氈、蜀都の錦、色々に敷きのべたれば、落花上に積つて朝陽の溪陰に到らざる処、横橋一枝の雪を留め得るに相似たり。踏むに足冷じく、歩むに沓かんばしくして、遙かに風磴(ふうとう)を登れば、竹筧(ちくひ)泉を分けて、石鼎(せきてい)に茶の湯をぞ立てたりける。松籟(しょうらい)声を散じて芳甘春濃やかなれば、一碗の中にたちまちに天仙をも得つべし。紫藤の屈曲せる枝ごとに、平江帯を以て青磁の香炉を釣り、金糸の卓を立て鷄舌の沈水(けいぜつのじんすい・丁字の香料)を焼き上げたれば、春風匂ひ暖かにして、覚えず栴檀(せんだん・白檀)の林に入るかとぞ覚えたる。瞳を千里に供じ首を四山に回らすに、烟霞重疊として山川まじはり、そばだちたれば、筆を丹青に仮らずして、十日一水の精神を云にあつめ、足寸歩を移さずして、四海五湖の風景を立ちどころにぞ得たりける。

一歩三嘆して遙かにのぼれば、本堂の大庭に十囲の花木四本あり。その本に各一丈余の鍮石(ちゅうせき・真鍮)の花瓶を鋳懸けて、一双の立花に作り成し、その際に両囲の香炉を両机に置きて、名香一斤を一度に焼きたれば、香風四方に散つて、皆人の浮香世界の中に在るが如し。その陰に幔幕を引き、曲彔(きょくろく・椅子)を立て並べ、百味の珍膳を調え、百服の本非を呑みて、懸物山の如くに積み上げたり。

舞工(ぶこう・猿楽師)一度回鸞の翅を翻し、楽家濃やかに春鴬の舌を暢ぶれば、座中の人々色々様々に、小袖・直垂・大口を解いて投げ与ふ。興闌け酔ひに和して、帰路に月無ければ、松明天に耀き、鈿車軸轟き、細馬轡を鳴らして馳せ散り、叫喚たる有様は、ただ能く三巳・百鬼の夜深けて巷を過ぐるに異ならず。花開き花落つる二十日、一城に人皆狂せるが如しと、牡丹妖艶の色を風せしも、誠にかくこそありつらめと思ひ知らるるばかりにて、見聞の諸人皆耳目をぞ驚かしける。


道誉の反骨躍如もさることながら、花木の周りを真鍮の花瓶で囲んで、生きた桜の木をさながら立花のように演出したり、その間に巨大な香炉を並べて香りを楽しむところ、また猿楽師や白拍子に芸能三昧を尽くさせるところなどは、まさにバサラの美学がたどりついた幽玄の境地というべきだろうか。
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2010年10月17日 (日)

戦国武将と茶の湯「佐々木道誉」第四回

日本史上もっとも派手な英雄、道誉の話題にはこと欠かない。今シリーズでは、さしあたり「太平記」から代表的な逸話を三回にわたってご紹介します。
まずは皇族に対する、恐れを知らぬ「バサラ」の狼藉ぶりを見てみましょう。

■道誉逸話1「妙法院焼打」
「太平記」巻第二十一

高師直、土岐頼遠とならんで、”バサラの三傑”とされる佐々木道誉。そのバサラぶりを伝える代表的な逸話が、太平記巻第二十一にある妙法院焼打事件である。その被害者、妙法院門主は天台座主亮性法親王で、光厳・光明両天皇の連枝であった。

この頃ことに時を得て、栄耀人の目を驚かしける佐々木佐渡判官入道々誉が一族若党ども、例のばさらに風流を尽くして、西郊東山の小鷹狩して帰りけるが、妙法院の御前を打過ぐるとて、跡にさがりたる下部どもに、南底の紅葉の枝をぞ折らせける。
時節、門主御簾の内よりも、暮れなんとする秋の気色を御覧ぜられて、
「霜葉紅於二月花なり」
と、風詠閑吟して興ぜさせ給ひけるが、色殊なる紅葉の下枝を、不得心なる下部どもが引き折りけるを御覧ぜられて、
「人やある、あれ制せよ」
と仰せられける間、坊官一人庭に立ち出でて、
「誰なれば御所中の紅葉をばさやうに折ぞ」
と制しけれども、敢て承引せず。
「結句御所とは何ぞ。かたはらいたの言や」
なんど嘲哢して、いやなお大なる枝をぞ引き折りける。折節御門徒の山法師、あまた宿直して候ひけるが、
「悪ひ奴原が狼籍かな」
とて、持ちたる紅葉の枝を奪ひ取り散々に打擲して門より外へ追ひ出だす。
道誉これを聞き、
「いかなる門主にてもをわせよ、このごろ道誉が内の者に向かつて、左様の事かけん者は覚えぬ物を」
と怒りて、自ら三百余騎の勢を率し、妙法院の御所へ押し寄せて、すな
はち火をぞ懸けたりける。折節風すさまじく吹きて、余煙十方に覆ひければ、建仁寺の輪蔵・開山堂・並塔頭・瑞光菴同時に皆焼け上がる。門主は御行法の最中にて、持仏堂に御座有りけるが、御心早く後の小門よりかちはだしにて光堂の中へ逃げ入らせ給ふ。御弟子の若宮は、常の御所に御座有りけるが、板敷の下へ逃げ入らせ給ひけるを、道誉が子息源三判官走り懸かりて打擲し奉る。そのほか出世・坊官・児・侍法師共、方々へ逃げ散りぬ。夜中の事なれば、時の声京白河に響きわたりつゝ、兵火四方に吹き覆ふ。在京の武士共「こは何事ぞ」とうち騒ひで、上下に馳せ違ふ。事の由を聞き定めて後に馳せ帰りける人ごとに、
「あなあさましや、前代未聞の悪行かな。山門の強訴今に有りなん」
と、云はぬ人こそ無かりけれ。

この時代、比叡山といえば、権威の象徴であった。また、独自の僧兵を養い、政治的・軍事的な面においても絶大な力を持っていた。それを相手に乱暴狼藉の限りを尽くしたのであるから、人々は「あなあさましや」といいつつも、拍手喝采したのである。
道誉は、この事件の責任をとって、上総に流されることとなるが、その道中は流人というより、ならず者の行進のようであったという。

道誉近江の国分寺まで、若党三百余騎、打ち送りの為にとて前後に相したがふ。その輩ことごとく猿皮をうつぼにかけ、猿皮の腰当をして、手ごとに鴬かごを持たせ、道々に酒肴を設へて宿々に傾城を弄ぶ。事の体尋常の流人には替はり、美々敷くぞ見へたりける。これもただ公家の成敗を軽忽し、山門の鬱陶を嘲弄したるかかりなり。

猿はいうまでもなく日吉大社(延暦寺)の神使。まさに、比叡山・妙法院に対し猿の皮をはいで見世物とし、面当てをした訳である。道誉父子に一目置いていた幕府の流罪処置はそもそも山門への申し訳程度のもの。一行の配流は、出羽はもとより上総にすら達さず、この近江国分寺から先は行方知らずとなってしまったという。
また宿々に傾城を弄んだというのであるから、道誉のバサラぶりは常軌を逸したすさまじさであったといわねばならない。
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来週のカルチャー新講座

来週、10月期新講座が、渋谷・銀座にて2教室開講となります。

http://bit.ly/dvmz6b

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10/19(火)
〈東京渋谷・東急セミナーBE〉「能の奇跡を観る」~奇跡と異聞の傑作能鑑賞入門~

毎月 第3火曜日 13:00~14:30
■今期は、主題の面白さ、演劇としての醍醐味にあふれる名作能をとりあげました。能のビデオとともに、謡曲詞章・出典文学をあわせて鑑賞・解説。はじめての方にも、能の演目・演技・ルールなどの鑑賞法がわかる入門講座です。6ヶ月コース

10/21(木)
〈東京中央区・銀座おとな塾 産経学園〉「千利休と侘び茶の世界」―和敬清寂。『南方録』を読む

毎月第3木曜日 10:30-12:00
■茶道の名著「南方録」を読む講座。南方録の「覚書」「台子」「墨引」など全七編から、名文・名段落を選んで、受講生とともに音読。利休の茶の骨法を当時の武人や名茶人のエピソードなども交えながら、初級者向けにくわしくやさしく解説していきます。6ヶ月コース

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2010年10月15日 (金)

戦国武将と茶の湯「佐々木道誉」第三回

今回は、現代茶道大成期以前の茶の姿、中世の「闘茶」と「茶寄合」の風俗をご紹介しましょう。

■闘茶とは

闘茶(とうちゃ)とは、中世に流行した茶の味を飲み分けて勝敗を競う遊び。日本では回茶・飲茶勝負・茶寄合・茶湯勝負・貢茶、中国では茗茶・銘闘などの異名がある。
中国の唐代に始まって宋代に発展したと考えられているが、日本に伝来後は中国・日本ともにそれぞれ独自の形式を確立させた。
日本において本格的に喫茶が行われるようになったのは、鎌倉時代に入ってからである。後期に入ると各地で茶樹の栽培が行われるようになったが、産地間で品質に差があった。最高級とされたのは京都郊外の栂尾で産出された栂尾茶で、特に本茶と呼ばれ、それ以外の地で産出された非茶と区別された。最初の闘茶も本茶と非茶を飲み分ける遊びとして始められた。『光厳天皇宸記』正慶元年6月5日(1332年6月28日)条に廷臣達と「飲茶勝負」を行ったことが記されている。また、『太平記』には、佐々木道誉が莫大な景品を賭けて「百服茶」を開いたことが記されている。こうした流行に対して「群飲逸遊」という倫理面での批判や闘茶に金品などの賭け事が絡んだこともあり、二条河原落首では闘茶の流行が批判され、『建武式目』にも茶寄合(闘茶)禁止令が出されている程である。

室町期の書「喫茶往来」には、唐物による座敷飾が施された”喫茶の亭”で、禅院風の茶事が催された後、四種十服の茶勝負が繰り広げられ、都鄙善悪が判じられたという。

闘茶の方法には複数あるが、闘茶の全盛期であった南北朝時代から室町時代初期にかけて最も盛んに行われたのが、四種十服茶(ししゅじつぷくちゃ)であった。さらに前述佐々木道誉の「百服茶」をはじめ「二種四服茶」・「四季茶」・「釣茶」・「六色茶」・「系図茶」・「源氏茶」などがあった。

東山文化へと移行していく15世紀中頃からこうした闘茶は衰退の様相を見せ、更に村田珠光・武野紹鴎・千利休によって侘び茶が形成されていくと、闘茶は享楽的な娯楽・賭博として茶道から排除されるようになっていった。それでも、闘茶は歌舞伎者らによって歌舞伎茶(茶歌舞伎)として愛好され続け、また侘び茶側でも茶の違いを知るための鍛錬の一環として闘茶を見直す動きが現れた。闘茶は十七世紀、如心斎宗左により千家七事式に「茶カフキ」として付け加えられ、今日に至っている。


■茶寄合とは

中国宋代の文人茶会が源流。日本では宋の”茶競べ”を模して闘茶会として茶寄合が開かれるようになった。ここでは多数の武士が集まり、闘茶のみならず、囲碁、双六、連歌などが盛んに催される。基本的には自由な酒食を伴う、娯楽的な集まりである。のちには茶会と呼ばれるようになり、受容層も貴人から庶民へと移行していき、やがて茶の湯、今日の茶会となっていく。

その具体的な風俗が、画像の「祭礼絵草子」にみることができる。右の室では、唐絵・唐物を掛け並べた座敷で、人々が茶を喫す。その手前には、州浜風の盆栽も見える。
左の室では、書院・棚飾りのある部屋に続いて、簀子の部屋があり、手前では男が茶を点てている。簀子の部屋の真ん中には水がたたえられており、その中に水がめも見えるのは、当時「淋汗」とよばれた夏風呂とみられるが、異説もある。

この茶寄合の中でも、唐物を中心とした数奇の茶の傾向がうかがえる。しかし、その主目的は「賭け茶」であった。
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2010年10月13日 (水)

戦国武将と茶の湯「佐々木道誉」第二回

「ばさら大名」道誉。南北朝時代一世を風靡し、のちに「カブキ物」と呼ばれるようになる、「ばさら」とはいったい何でしょうか?

■ばさらとは

ばさらとは、日本の中世、南北朝時代の社会風潮や文化的流行をあらわす言葉であり、実際に当時の流行語として用いられた。
婆娑羅など幾つかの漢字表記があり、梵語(サンスクリット語)で「vajra = 金剛石(ダイヤモンド)」を意味するが、意味の転訛は不明であるとされる。

1.《仏教関係の語に冠して》堅固・最勝の意。もと、金属中で最も堅い物の名。
2.非常に堅く、こわれないこと。「―の身」
3.「金剛石」「金剛身(=すぐれた身体、すなわち仏身)」「金剛杵(しょ)」などの略。
<岩波国語辞典より>

身分秩序を無視して公家や天皇といった時の権威を軽んじて反撥し、粋で華美な服装や奢侈な振る舞いを好む美意識であり、後の戦国時代における下剋上の風潮の萌芽となった。足利尊氏は幕府の基本方針である『建武式目』においてばさらを禁止した。ばさらに対して批判的な古典『太平記』には、源家足利氏筆頭執事の高師直や近江国の佐々木道誉(高氏)や美濃国の土岐頼遠などのばさら的な行動が記されている。これらの大名は「ばさら大名」と呼ばれる。自身の実力に目覚めた新興武士層の衒いのない生活意識・美意識の表現である。古い権威の徹底した否定を第一義とし、もののあわれや、無常観を説く王朝の価値観と真っ向から対立。万事に派手で豪壮、かつ率直な形をとることである。
Izumookuni11

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2010年10月12日 (火)

戦国武将と茶の湯「佐々木道誉」第一回

1222220 戦国武将と茶の湯シリーズ、今回は「バサラ大名」として名高い、室町・南北朝の雄、佐々木道誉。
室町幕府、政所執事や守護として政権を荷いながら、和歌・連歌・茶道・能・花・香などに通じる「文化大名」の嚆矢としてもその名は知られる。世阿弥を三代将軍足利義満に紹介したのも、実は道誉であるらしい。
まずは道誉のプロフィールから見てみましょう。

■佐々木道誉

 永仁4年(1296年)~応安6年(1373年)。佐々木 導誉(ささき どうよ)/京極 導誉は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。導誉は法名で、諱は高氏(たかうじ)。一般的に「佐々木佐渡判官入道(佐々木判官)」や「佐々木道誉」の名で知られる(自署は「導誉」であるが、同時代の文書に「入道々誉」と記されたものが多いため)。官位は左衛門尉、検非違使、佐渡守など。

近江国の地頭である佐々木京極家に生まれ、執権北条高時に御相供衆として仕える。後醍醐天皇の綸旨を受け鎌倉幕府を倒すべく兵を挙げた足利尊氏に従い、武士の支持を得られなかった後醍醐天皇の建武の新政から尊氏と共に離れ、尊氏の開いた室町幕府において政所執事や六ヶ国の守護を兼ねた。

ばさらと呼ばれる南北朝時代の美意識を持つ婆沙羅大名として知られ、『太平記』には、謀を廻らし権威を嘲笑し粋に振舞う、導誉の逸話を多く記している。失脚した細川清氏が南朝の楠木正儀らと京都を占拠した際に、自邸に火をかけずに立花を飾り、宴の支度をさせた事や、幕府内で対立していた斯波高経の花見の誘いを無視し、大原野(京都市西京区)で大宴会を催した事などである。

・文化

また和歌、連歌などの文芸や立花、茶道、香道、さらに近江猿楽の保護者となるなど文化的活動を好み、幕政においても公家との交渉を務めていることなどから文化的素養の深い人物であると評価されている。

〔和歌・連歌〕
「新続古今和歌集」小鳥の詠所収。「新玉津嶋歌合」。「群書類従」三首の詠所収。連歌「筑波集」に八十余首所収。

〔猿楽〕
近江猿楽、犬王道阿弥を愛顧。観阿弥・世阿弥父子を二条良基、将軍義満に推盤したのも道誉といわれる。

〔所有唐物〕
九十九茄子・京極茄子(織田茄子)、

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2010年10月10日 (日)

別冊太陽『世阿弥』発刊!

100928_5 文化と画像が融合した、ハイクオリティビジュアル誌、別冊太陽。
さて、今回はじめて能を大成した『世阿弥』号が発行されました。
http://bit.ly/doe1pT

能狂言のファンはもとより、中世日本文化に興味のある方は必見です。
美しい最新画像と初心者向けのわかりやすい誌面構成。また、通もうなる「二条良基」「犬王道阿弥」「田楽増阿弥」の独立コラムもあります。
お近くの書店へ、今すぐ!

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2010年10月 6日 (水)

源氏・平家物語と能の名作

次週10/13(水) 13:00~よみうりカルチャー川崎にて
「源氏・平家物語と能の名作」新講座がはじまります。
古典名作と名作能の関連を歴史の縦軸、文化の横軸で
総合的に解明していく試みです。

能を一度も見たことがない、古典は苦手…
という方こそ大歓迎。
川崎駅改札から徒歩1分の川崎BEにて開校です。
一回のみの見学も可。この機会にぜひ一度覗いてみてください!
ビデオも見ます!
http://nobunsha.jp/img/kozalist.pdf
Photo

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2010年10月 5日 (火)

能の伝説と物語「西行」第六回

道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ
新古今集、山家集

西行がとりわけ桜を愛したことから、西行庵にある老木の桜を題材に能「西行桜」が世阿弥によって作られました。室町後期になって、観世信光(1435~1516)は、西行が那須芦野で詠んだこの歌の柳を主題にして、能「遊行柳」を創作します。むろん、大先達世阿弥の名曲「西行桜」を意識したものであることはいうまでもありません。とかく比較対照されやすい西行ゆかりの名曲二曲。故観世栄夫師は「(西行)桜より、(遊行)柳は強く」と、芸の秘訣を近藤乾之助師に語ったとか。
今回は「遊行柳」をご紹介しましょう。


■能 遊行柳(ゆぎょうやなぎ)
【分類】三番目物(鬘物)
【作者】観世小次郎信光
【主人公】前シテ:老翁、後シテ:老柳の精

あらすじ

遊行柳 相模国(神奈川県)藤沢の清浄光寺(遊行寺)の遊行上人一行が念仏勧進して白河の関を越えたところまで来ると道が幾筋かに分かれている。
広い道を行こうとすると、老人が現れ、先代の遊行上人も通った道だと昔の街道を教え路傍にある名木「朽木の柳」に案内した。
上人は朽木の柳のたたずまいを見て謂われをたずねると
「昔、西行法師が、道のべに清水流るる柳かげ、と詠んで以来、今の世までも語り傅えられた名木である」
と教え、上人に十念を授けられるとそのまま柳の陰に姿を消してしまうのであった。
上人は所の人に朽木の柳のいわれを聞き、読経し、念仏を唱え月の冴え渡る中、仮寝の床につく。やがて烏帽子狩衣の典雅な姿の柳の精が白髪の老人となって現れ、上人の十念によって草木の身ながら成仏出来たことを喜び、さらに柳にまつわる和漢の故事を語り、報謝の舞を舞うが、「とてもその身は朽木の柳、風に漂うように倒れ臥す…」と見て上人の夢は破れ、ただ柳の古木が残るだけであった。

この能は、本来なら優美な舞を女に舞わせる「三番目物」に準じた曲。しかしシテは朽木の柳の精であり、装束・面は神体のいでたちである。閑寂な情趣の中に品位をもった、優美とはまた異質の美しさを作り出している。

「隣忠秘抄」に、「西行桜の対の能にて位甚だ大事なり。茲にかようの習ありという事はなし、只一番の大意を一番の習とす。上手、年功の外、若輩のせざる能なり」とあり、この能の狙いを的確に言い当てている。

また戦国期、松永貞徳「戴恩記」によれば、諸芸に通暁した細川幽斎が打った「遊行柳」の太鼓を聞き、当時、太鼓方第一人者であった金春又右衛門が感動のあまり涙を流したという。

作者、観世信光は、「船弁慶」「安宅」「道成寺」などショー的要素の強い作品を意欲的に作った能作者である。晩年世阿弥の閑雅幽玄の世界に触発されて、この能を作ったといい、世阿弥の自信作、老体の桜の精をシテにした能「西行桜」を意識した作品だといわれる。
世阿弥の理路整然とした作風に対し、この能は和漢の故事や詩歌・教典が、物語の展開に脈絡なくつづられているようにも思われる。一つ一つの事柄はそれぞれ味わい深く、例えばサシからクセにかけての展開のように、理解を超えた複合味の感銘を覚えるのだ。

遊行聖は時宗の僧。時宗の開祖一遍上人は鎌倉中期の人で、熊野権現の啓示を受け「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と書いた名号札を配って遊行した。歴代の法主も、これに習って全国を巡教し念仏勧進。これを遊行と呼び、遊行上人、遊行宗、遊行寺の名が生まれた。

『奥の細道』で芭蕉は、この地を訪れ

田一枚植えて立ち去る柳かな

の句を残した。西行ゆかりの柳の下にたたずんで思わず時を過ごしてしまったとの感懐で、西行の「しばしとてこそ」を「田一枚植えて」に具象したという。
二つの歌と句をならべて鑑賞する時、一本の老柳を介して五百年の時間を、詩魂は一瞬にして飛び越え、感応しあうのだ。 02023

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2010年10月 3日 (日)

明日10/4夜「寺子屋 素読ノ会」あります。

名作古典をみんなで音読する「寺子屋素読ノ会」。
明日、17:30~東京新橋で開催します。

武士道「葉隠」、能「風姿花伝」を読んでいます。
申し込み不要。入会金不要。参加費1回¥1500です。
途中からの初参加、1回のみの見学、大歓迎です。
お気軽に覗いてみてください。
http://bit.ly/alUNRw

※現在、葉隠は岩波文庫(上)聞書一、風姿花伝は第五奥儀に賛嘆して云くの章段を読んでいます。
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2010年10月 2日 (土)

能の伝説と物語「西行」第五回

01 西行をモデル、題材とした能では以下の三番が著名です。

「江口」
「西行桜」
「遊行柳」

西行自身がワキとして登場するもの、また西行の歌をモチーフとしたものがあります。
今回は能「江口」をご紹介。西行が江口の遊女の家に宿を借りたことは、撰集抄第九に見られます。

 一つ家に遊女もねたり萩と月 (奥の細道)

後世、撰集抄を読んだ松尾芭蕉は”清き歌聖”西行法師が遊女に宿を借りる着想の面白さについ筆が弾み、虚構「一振」を奥の細道にさしはさんだのです。


■能 江口

江口(えぐち)
【分類】三番目物(鬘物)
【作者】金春禅竹
【主人公】前シテ:里女、後シテ:江口の君

能本作者註文では世阿弥の作とし、二百十番謡目録では金春禅竹の作としている。また、禅竹集収録の一休題頌に、この曲のクセに相当する文章が含まれていることから、長い間、一休の作とも考えられていた。

 現在では、「江口能 金春殿」と頭書した世阿弥直筆の謡本が残っていること、また、世阿弥の著書である五音の中に「江口遊女 亡父曲」とあることから、観阿弥が原作したものを世阿弥が引き継ぎ、それをさらに禅竹が譲り受けたものと思われる。
 なお、禅竹の歌舞髄脳記には、閑花風の例としてこの曲を挙げている。

 西行が江口の遊女の家に宿を借りたことは、撰集抄第九に、次のように出ている。
「過ぎぬる長月二十日あまりの頃、江口といふ所を過ぎ侍りしに、家は南北の川にさしはさみ、心は旅人の往来の船を思ふ。 遊女の有様いとあはれにはかなきものを見立ちし程に、冬を待ち得ぬ村時雨の、さえくらし侍りしかば、賤が伏屋にたち寄り、晴間待つ間をかり侍りしに、あるじの遊女許す気色の見えざりしかば、何となく、

『世の中を厭ふまでこそかたからめ、かりの宿りを惜しむ君かな』
とよみて侍りしかば、あるじの遊女うちわらひて、

『世をいとふ人とし聞けばかりの宿に、心とむなと思ふばかりぞ』
と返して、急ぎ内に入り侍りき。 ただ村雨のほどの暫しの宿とせんとこそ思ひ侍りしに、この歌の面白さに、一夜のふしどとし侍りき。 この主の遊女、今は四十余りにもやなり侍らん、みめことがらさまもあてにやさしく侍りき」


 この贈答歌は新古今集巻十の覇旅歌にも、西行の歌として出ていて、その詞書には、

「天王寺へ参り侍りけるに、俄かに雨降りければ、江口に宿をかしけるに、かし侍らざりければ、よみ侍りける」

として、返歌の主を「遊女妙」としている。

 また、遊女が普賢菩薩となって現れたことは、撰集抄第六のほか、十訓抄第三、古事談などにも見られる。ちなみに十訓抄第三では以下の通り。

「書写の性空上人、生身の普賢を見奉るべき由寤寐に祈請し給ひけるに、或夜転経疲れて、経をにぎりながら脇息によりかかりて、暫しまどろみ給へる夢に、生身の菩薩を見奉らんと思はば、神崎の遊女の長者を見るべき由示すと見て夢覚めぬ。 奇異の思ひをなして、かしこへ行き向ひて、長者が家におはし着きたれば、只今京より上日の輩下りて遊宴乱舞のほど也。長者横座に居て鼓を打ちて、乱拍子の次第を取る。その詞に曰く、『周防むろづみの中なるみたらひに、風は吹かねどもさざら波立つ』と。
 上人閑所に居て信仰恭敬して、目をふさぎて居給へり。この時長者忽ちに普賢菩薩の形に現じ、六牙の白象に乗りて、眉間より光を放ちて、道俗貴賎男女を照らす。 即ち微妙の音声を出して、
『実相無漏の大海に五塵六欲の風は吹かねども、随縁真如の波の立たぬ時なし』
と仰せらる。感涙仰へ難くて、目を開きて見れば又もとの如く女人の姿となりて、周防むろづみの詞を出す。 眼を閉づる時は又普賢の形と現じて法門を演べ給ふ。かくの如き度々、敬礼して泣々帰り給ふ時、長者俄かに座を立ち、間道より上人の許へ来りて、『この事口外に及ぶべからず』といひて、即ち俄かに死す。異香空に満ちて甚だ香ばし」

 以上のように本曲は、西行が江口で遊女に宿を借りようとした話と、遊女が普賢菩薩になったという話を組み合わせて、脚色を加えたもの思われる。


●白州正子著『老い木の花 友枝喜久夫の能』書評より。

友枝喜久夫(81歳)喜多流能の名人が演じた「江口」を観て幽玄という言葉では表現しきれぬ至芸に感動。友枝さんの美しい芸に報いたいという想いで筆を起こした後世に残る一冊。
さて、この演能で、白州さんは友枝喜久夫の謡いが水晶の玉のように透明で澄み切った音声。人間の肉声でなく、他界からひびいてくる精霊のささやきのようだと表現する。
さらに舞、装束のまといかた、足はこびに幽玄という言葉であらわしきれない新鮮な感動を伝えている。
この感動を次のように表現。
「この歳になって(来年80歳になる)、こんな美しいものに出会えるとは夢にも思わなかった。また気が付くと前の席の若いお嬢さんが涙をこぼしている。ジーパン姿の青年、ネクタイ姿の会社員風まで涙を拭いている。」
また白州さんは次のようにもいう。
「能を難解なものにしたのはインテリが悪いので、世にもありがたい”芸術”に祭あげ、専門家がそれに乗っかって、一種の権威主義を造り上げたのだ」
友枝喜久夫がかくも能に縁遠い若者や外国人に共感を与えるのは、
「ひたすら己を虚しうして稽古に打ち込んでいるいるからで、もはや芸というよりも魂の問題である」
としめくくった。

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