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2010年9月15日 (水)

戦国武将と茶の湯「信長」第三回

Photo さて、信長と茶の湯といえば「御茶湯御政道」と「名物狩り」が歴史上名高い。もしも戦国時代に生まれなかったら、間違いなく日本を代表する"大芸術家"になっていたであろう、とされる信長。その類稀なる美的感性は、家老平手政秀、そして九十九髪茶入との出会いによって開花しました。

後に、秀吉、家康へと継承される「茶の湯の政治利用」の発端を以下探ってみましょう。

■お茶の湯御政道

 戦国時代の大名達は武功を立てた家臣たちに恩賞として領土を与えていた。それは織田信長も同じ。だが信長は島国である日本の限りある土地の代わりになるものを探し始めた。それが、当時堺や京の庶人の間で流行しはじめていた茶の湯である。

 信長は配下の武将に対し、茶の湯接待を主催できるか否かの序列を決めた。これにはずれる者には茶の湯を禁じる許可制を敷く。むしろ人々の茶の湯への関心はいっそう高まり、その影響は町衆にもおよんだのである。いわゆる「御茶湯御政道」。また、天下の名物ありと聞けば、いわゆる「名物狩り」により半ば強制的に召し上げ、条目まで発布したという。天正年間に茶数寄がもてはやされた背景には、信長の大きな存在がある。

 当時いまだ茶道という言葉は認知されておらず、茶は接客手段としてその場を楽しむための嗜みであり、道具は財力と権力の象徴であった。信長が蒐集した名物も、唐物と呼ばれる中国龍泉窯などの磁器や朝鮮半島からもたらされた陶器、絵画が中心であった。
 信長は、それまで単に接客手段や道楽であった「茶の湯」を、独自の感覚で政治の手段に利用し、名物と目される茶道具を、土地や金銭に代わる新たな価値として創出することに成功したのである。名物をもつ事は、名士としてはなはだ高いステータスを示した。いくつかの茶道具は一国一城に匹敵する価値をもつに至ったのである。
 こうした茶の湯の政治化は信長によって確立。豊臣秀吉によっておしすすめられたが、江戸時代に入ると、茶の湯の政治性は徐々に薄れていく。

■名物狩り

 信長が茶の湯に本格的に関わるようになるのは、永禄十一年(1568)の上洛以降のことである。松永久秀より九十九茶入、今井宗久より松島の壺と武野紹鴎遺愛の茄子茶入を献上された信長は、さながら天下の宝を一つ残らず手中にせんと名物の蒐集に熱中しはじめる。それは単なる骨董趣味ではなく、一国を支配するものは一国の珍宝をも支配せねばならぬ、という足利幕府の前例にならったもの。つまりは日本を支配する権力者を自任した結果によったものであろう。

 翌永禄十二年(1569)には、松井友閑と丹羽長秀に命じて、大文字屋宗観から「初花肩衝茶入」、祐乗坊から「富士茄子茶入」、法王寺の竹の茶杓、池上如慶の「蕪なしの花入」など天下の名物といわれる茶道具を入手させている。元亀元年(1570) には、菓子の絵(天王寺宗及)・小松嶋(薬師院)・柑子口(油屋常祐)・鐘の絵(松永久秀)を入手し、多額の金銀を遣わした。以降、天正七年ごろまで6~7度におよんで、国内の大名物を自主献上もしくは強制的に蒐集したという。(参照 信長と茶道具関連年譜)

名物狩の様子は以下のようであった。

「金銀八木(米)遣わはし、召し置かれ」「即ち代物金銀を以って仰せ付けられ候ひき」『信長公記』太田牛一
「信長は元来慾深く物を惜しむ人で、誰かが名物を持っていると聞けば、人を遣わしこれを求め、それを断ることは不可能であった。所持者は免れることは出来ないと考え、求めを待たずに進物とした。そうしておけば信長がいくぶんかの義理を感じてくれるからであった」
『フロイスの日本史』

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