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2010年9月20日 (月)

戦国武将と茶の湯「信長」第六回

茶数奇をめぐる悲喜こもごも、二話を。

茶興行の許認可を信長から、まんまとせしめた秀吉。今回は、柴田勝家・滝川一益、名物道具をめぐる二人の確執、明暗を見てみましょう。勝家は朝倉を、滝川は武田を、それぞれ征伐した織田軍最大の功労者。しかし、信長の二人に対する処遇は全く異なるものでした。しかしまた、二人の行く末を見るとはたしてどちらが幸運だったのか、と首をかしげざるを得ない。一益は引退後茶数奇三昧、勝家は秀吉に攻められ北ノ庄の露と消える。まさに「茶服はあざなえる縄の如し」でしょうか。


2.一益と珠光小茄子

 天正十年三月、信長の武田討伐で、先陣をつとめた滝川一益は一番の武功をあげた。これまでの戦功を賞せられ、すでに北伊勢五郡の大名、長島城の城主となっていた一益の願いは領地の加増にはなく、ただ信長所有の大名物「珠光小茄子」を与えられることにのみあったのだ。
京の茶人太郎五郎につき、茶の湯に入れ込んでいた一益は、すでに茶の湯許可を得ていた明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉等諸将の後塵を拝することが無念でならぬ。このたびこそ戦功として珠光小茄子を掌中とし、数奇の道に心置きなく打ち込めようと勇み立ったのである。
 武田侵攻の恩賞沙汰がうわさに上ったとき、一益は信忠を通じ、その思いを上申してみた。しかし、これは一笑に付される。信長からは恩賞として、上野国と信濃小県・佐久二郡が与えられ、「関東八州の御警固」および「東国の儀御取次」を申し付けられた。これに対し滝川一益は、太郎五郎への書簡でこう嘆いている。
「今度 武田討果し候。自然希もこれ有るかと御尋も候はゞ、小なすびをと申し上ぐべき覚悟に候ところ、さはなく、遠国にをかせられ候条(ゆえ)、茶の湯の冥加はつき候」
 今回 武田氏を討った。信長公が望は何かとお尋ねになったならば、小茄子の茶入れをいただきたいと申し上げるつもりだった。ところがそれはなく、このような遠国に置かれてしまい、もはや茶の湯の冥加も尽き果てた、というのである。落胆する一益の様子が目に浮かぶ手紙の内容といえよう。しかもこの二ヵ月後に本能寺の変が起こる。一益の夢は生涯かなえられぬものとなってしまった。やがて秀吉の天下となって隠居し、滝川入道入庵と称し、数奇三昧の道に入ることとなる。

※参照 信長より茶の湯興行の認可を受けた家臣
柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、羽柴秀吉、織田信忠

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3.柴田勝家と姥口の釜

 俗に瓶割り柴田、鬼柴田の異名により、猛将とされる柴田勝家も数奇にのめりこんだ武将の一人。勝家が想いを掛けた名物は、釜の口が歯の抜けた老女の口元を思わせることから命名された「姥口の釜」であった。勝家は念願かなってこの名物を拝領するが、その授受の場面には信長らしからぬユーモラスな空気がただよっている。
 勝家、ある時、上様(信長公)え申し上げられる様子は、 ..
「はやばや老後に及び申し候間、あはれ御秘蔵のうは口の釜を御預け成され候へかし」 ..
と、申され候処に、(信長公)御意には、
「釜おしむにては更になし。心持ちこれ有る間、今少し待ち申し候へ」 ..
 との御意にて、其の時は遣わされず候。
 それより二三年過ぎ候て、朝倉を御追罰成され、其の跡職一圓に、勝家拝領仕られ候なり。 ..
 越前より次目の御禮として安土へ参られ候。色々大きなる進上を上らせられ候。其の時御釜を御召し寄せ、
「其の方、内々望み申され候此の釜、今までおしみたるにてはなし。其の方、百萬石に成られ、此の釜遣るべし」
 と思し召され候。
「最早(もはや)此の釜持ち候ても苦ならず身上に候間、遣わされ候」
 とて、御自筆に狂歌を遊ばされ、御釜御添え成され遣わされ候釜よ。其の時勝家頂戴仕られたる御釜なり。 其の狂歌に、

    なれなれて そひあかぬ中の うは口を
             人にすはせん 事おしそおもふ

 美濃殿逗留の内に、朝数寄に三度の数寄、二度以上五度まで数寄に相申し候事。此の頃、各々の大名小名、秀吉殿も勝家殿も、かくの如く「互に負けじ」と茶数寄を競うなり。

『川角(かわすみ)太閤記(たいこうき)』

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