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2010年8月31日 (火)

友枝昭世第十四回厳島観月能ツアー開催!【言の葉庵】No.25

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2010年8月29日 (日)

西行と芭蕉をつなぐ“能”。第六回

136 ■俳聖 松尾芭蕉

松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日))は現在の三重県伊賀市出身の江戸時代前期の俳諧師である。幼名は金作。通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎。名は宗房。俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、俳聖と呼ばれる。
延宝8年深川に草庵を結ぶ。門人李下から芭蕉を贈られ、庵に植えると大いに茂ったので「芭蕉庵」と名付けた。以降、自身の俳号も芭蕉と改める。

深川臨川寺に止宿する仏頂和尚に参禅し、侘び、寂び、軽み、しおりなど、禅の精神性をたたえる独自の句風を確立。近世日本文化の美的概念形成に大きな影響を与えた。
また、中国の杜甫・李白、また西行・能因など漂白の詩人、歌人に憧れ、生涯の多くを旅に過ごした。多くの名句がその紀行中で生まれたものである。「漂白の詩人」として旅に生き、旅に死ぬ芸術的人生の完遂により、現在も多くの信奉者、追随者が後をたたない。
『野ざらし紀行』・『鹿島紀行』・『笈の小文』・『更科紀行』などの紀行文を残したが、元禄2年(1689年)、弟子の河合曾良を伴って出た奥州への紀行文『奥の細道』は、芭蕉芸術の到達点であり、近世文学の金字塔とも呼ばれる名作となった。
その最期も旅の途中である。大坂御堂筋の旅宿・花屋仁左衛門方で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残して客死した。享年五十一。生前の「(墓は)木曾殿の隣に」との遺言に従い、大津膳所の義仲寺(ぎちゅうじ)にある木曾義仲の墓の隣に葬られた。
大坂俳壇門弟の仲がこじれ、その仲裁にはるばる病の身を押して旅したことが老いの身にはこたえた。複雑な人間関係の中に生涯を閉じたのである。満開の桜の下、望みどおりの大往生を遂げた西行と、なんと対照的な死であったか。

『奥の細道』
http://nobunsha.jp/book/post_7.html

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2010年8月25日 (水)

西行と芭蕉をつなぐ“能”。第五回

120124793183616100351  花見んと群れつつ人の来るのみぞ
     あたら桜の咎にはありける

今回は西行を題材とした能の名作「西行桜」をご紹介しましょう。
古来より日本人にとって花といえば、ただ桜の一種のみをさしました。日本人の心の中に咲く花はいつの時代にも桜。秋は月見、春は花見です。

現在の”飲めや歌えや”ドンちゃん騒ぎの花見は、実は豊臣秀吉の醍醐の花見から始まったといわれています。慶長3年3月15日京都の醍醐寺において、約1300名の類縁者、家臣を集めて開催された秀吉生涯最後の一代イベントでした。むろん平安、鎌倉時代にも秀吉ほどではないにせよ、上つ方より下々に到るまで花見の宴は、日本人のもっとも楽しみとする春のイベントでした。
西行の隠棲する山奥の庵に毎年見事な花をつける桜樹があったことが、そもそも事件の始まり。一人静かに散る桜に、去り行く春の名残を愛でようとした庵主が、騒々しい花見客を揶揄したのが、冒頭の歌でした。
 以下、能「西行桜」の概要をお伝えします。


■能 西行桜

曲名: 西行桜《さいぎょうざくら》
作者: 世阿弥  出典:『山家集』 季節: 春(旧暦3月)
場所: 京・西山西行庵  分類: 三番目物・一場  上演時間: 約1時間30分
登場人物:〔シテ〕桜木の精、〔ワキ〕西行法師、〔ワキツレ〕花見の人々、〔アイ〕西行庵の能力[寺の下働きの男]


〈解説〉

世阿弥『申楽談儀』に「西行・阿古屋の松、大かた似たる能也。後の世、かかる能書く者や有まじきと覚へて、此二番は書き置く也」と述べられています。また『五音』には「西行歌」として、現在の「西行桜」のワキの謡と同じ詞章がのせられているので、「西行の能」は「西行桜」のことであろうと考えられます。「西行桜」は、桜の老木のもとで眠る西行の夢の中に、桜の精が老翁の姿で現れて舞を舞う、老体の能として書かれています。老体の能は、世阿弥『風姿花伝』によれば「たゞ、老木に花の咲かんがごとし」といった、幽玄で趣の深い能。曲種としては三番目ですが、老体の神が舞う初番目にも近い、高雅な春の能といえましょう。

〈あらすじ〉

京都、西山に隠棲する西行の庵室。春ごとにここは見事な桜の花にひかれ貴賤群集が訪ねて来る。西行は思う所があって今年はここでの花見禁制を召使いに申しつける。しかし都の人々は例年通り春に浮かれ、この西山に花見のために押しかける。
 西行は一人花を愛で、梢に咲き上がっていく春の花に悟りを求める向上心を見、秋の月が水に姿を映す様に悟りに遠い衆生を教え救う志を思い、そうした自然の啓示がそのまま仏を見、注文を聞く縁となるのだと観ずる。
 花見人たちが案内を乞う。静かな観想の時を破られた西行は、しかし、遙々訪ね来た人々の志に感じ、庵の戸を開かせる。世を捨てたとはいえ、この世の他には棲家はない、どうして隠れたままでいられようかと内省し、「花見んと群れつつ人の来るのみぞあたら桜の咎にはありける」と詠ずる。西行は人々とともに夜すがら桜を眺め明かそうと木陰に休らう。
 その夢に老桜の精が現れる。埋もれ木の人に知られぬ身となってはいるが、心には未だ花やかさが残るといい、先程の西行の歌を詠じ、厭わしいと思うのも人の心であり、非情無心の草木に咎はないと西行を諭す。老桜の精は桜の名所を数えあげ、春の夜のひとときを惜しみ、閑寂なる舞を寂び寂びと舞う。
 やがて花影が仄かに白むうちにも西行の夢は覚め、老桜の姿は消え失せ、老木の桜が薄明かりのなかにひそやかに息づいているのであった。

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2010年8月22日 (日)

西行と芭蕉をつなぐ“能”。第四回

Eguchi02 ■隠棲趣味と閑寂の美の先人、西行

「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」
『後鳥羽院御口伝』

西行は藤原俊成とともに新古今の新風形成に大きな影響を与えた歌人であった。
歌風は率直質実を旨としながらつよい情感をてらうことなく表現するもので、季の歌はもちろんだが恋歌や雑歌に優れていた。院政前期から流行しはじめた隠逸趣味、隠棲趣味の和歌を完成させ、研ぎすまされた寂寥、閑寂の美をそこに盛ることで、中世的叙情を準備した面でも功績は大きい。また俗語や歌語ならざる語を歌のなかに取入れるなどの自由な詠みくちもその特色で、当時の俗謡や小唄の影響を受けているのではないかという説もある。

■旅を人生そのものとする歌人の系譜

後世に与えた影響はきわめて大きく、後鳥羽院をはじめとして、連歌師宗祇・俳聖芭蕉にいたるまでその流れは尽きない。特に室町時代以降、単に歌人としてのみではなく、旅のなかにある人間として、あるいは歌と仏道という二つの道を歩んだ人間としての西行が尊崇されていたことは注意が必要である。宗祇・芭蕉にとっての西行は、あくまでこうした全人的な存在であって、歌人としての一面をのみ切り取ったものではなかったし、『撰集抄』『西行物語』をはじめとする「いかにも西行らしい」説話や伝説が生れていった所以もまたここに存する。例えば能に遊女を題材とする『江口』があり、長唄に『時雨西行』があり、あるいはごく卑俗な画題として「富士見西行」がある。

・西行をモデル、題材とした能
「江口」
「西行桜」
「遊行柳」

■500年の時を越えた、西行と芭蕉の出会い

松尾芭蕉は西行を敬慕し、「奥の細道」の旅に出たとも言われている。つまりそれは西行の歩いた奥州を、そして西行の詠んだ歌枕をなぞる旅。しかも奥の細道の旅は、西行の五百年忌に行われているのだ。たとえば奥の細道「遊行柳」に下の句がある。

田一枚植て立ち去る柳かな 芭蕉

那須にあるこの柳は

 道の辺に清水流るる柳かげ
  しばしとてこそ立ちとまりつれ

と西行が詠んだ旧跡。西行の詠んだ『遊行柳』のあるこの道の辺は、芭蕉にとって旅の前半においてもっとも重要な場所のひとつだったと推測される。ここで芭蕉はしばし能の中のワキ、遊行僧となって柳の精であり、西行の詩魂でもある幻のシテに邂逅したのかもしれない。

また「象潟」では次のように西行を偲んでいる。

先能因嶋に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。
(「象潟」の章段)

「花の上こぐ」は、西行の次の歌から引用したものである。

  象潟の桜は波に埋れて
   花の上漕ぐ海士の釣り舟

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2010年8月20日 (金)

西行と芭蕉をつなぐ“能”。第三回

日本文芸の双璧、西行と芭蕉については、現代の大作家司馬遼太郎も強い憧れをもって、その足跡をたどっています。かの地の歌枕を里程標として、司馬はエッセイ「街道をゆく」で、偉大な歌魂と句魂の交わりを再現する。しばし本文を鑑賞してみます。


平安末期、西行(1118~90)がはじめて陸奥へ旅をしたのは、出家して数年後のことで、当然ながら歌枕の聖地をたずねるのが目的だった。
はるか五百数十年後に江戸中期の芭蕉(1644~94)が一代の事業として白河の関を越え『奥の細道』の旅をした。西行の跡を慕い、歌枕の地を見たいためであった。

芭蕉が唐詩(とくに李白、杜甫、白楽天)の影響をふかくうけていたことはみずからも書いている。かさねて、王朝以来の文化的遺産ともいうべき歌枕の地をたずねることによって、自己の文学を完成させようとした。
ただ、西行も芭蕉もいまの宮城県が太平洋岸における足跡の北限だった。
(「街道をゆく―北のまほろば」全集65 文芸春秋)


江戸期の芭蕉は能因を古人として好ましくおもっていたが、それ以上に好きだったのは、源平争乱の世を見た西行法師(1118=90)だった。
若いころ北面の武士(佐藤義清)だった西行も、能因と同様、恋によってこの世の苦さを知った。そのすえに出家したというより、能因と同様、自由の境涯をのぞんだのであろう。能因が漢籍に通じていたのに対し、西行は仏典に通じていた。かつは武芸の達者でもあった。

西行はたしかに漂白した。といって無銭飲食というようなものではなく、この人には田地があった。
だから能因のように国司として下向する公家にくっついて旅をするというみみっちいことをせずにすんだ。また文覚がおそれたといわれるほどの武芸者でもあったから、安全のためにおおぜいに立ちまじって旅をせねばならぬということもなかった。おそかく供ひとりぐらいをつれた豪胆な旅であったのにちがいない。

西行はその生涯で二度奥州の地を旅した。晩年の旅は『吾妻鏡』に出ているから、年代がはっきりしている。最初の奥州紀行が何歳のときだったか、よくわからないが、諸説を見ると、26から30歳ごろだったにちがいない。

西行は能因を先行の人として尊敬していた。能因が杖をとどめた以上、象潟へも行ったにちがいない。確実とはいえないらしい。・・・ただ私は研究者ではないから、西行が象潟にきたということを、一義もなく信じている。
江戸期の芭蕉もむろんそのように信じていた。かれは能因や西行の跡をたどるべく奥州・羽州の山河を歩いたわけで、白川の関をこえるときも、ふたりの古人をおもって感動した。

  風流の初めや奥の田植歌

という句に、芭蕉の胸のときめきを感じねばならない。「風流の初めや」というのは、なだらかに解すれば、単に「田植歌をきいて奥羽の風流の最初のものに接したよ」という意味になるが、その底に能因や西行をかさね、奥羽こそ詩歌の基礎(はじめ)なのだ、という心がこめられていつかと思える。
(「街道をゆく―秋田散歩」全集60 文芸春秋)

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2010年8月19日 (木)

西行と芭蕉をつなぐ“能”。第二回

Basho01 ■芭蕉の能(謡曲)嗜好

「謡曲は俳諧の源氏」(俳諧の母)と言われてきた。蕉門筆頭の宝井其角はじめ、蕪村の一番弟子であった几董も「謡は俳諧の源氏也」と『新雑談集』で述べている。芭蕉の句が全時期に渡って謡曲的なものより創意されているということが、加藤楸邨、山本健吉、尾形仂、井本農一ら芭蕉研究家によって確認、提唱されている。
芭蕉の作品には平安、鎌倉期の古典・歌集を直接踏まえたものではなく、謡曲を介しての摂取と見られるものが相当ある。古川久は、「能楽が幕府の式楽に定められると、封建制下の大名諸侯は争って能役者を召し抱へた。藤堂家に出仕していた若い芭蕉・当年の松尾宗房にとって、謡曲は耳からはいったものとしてその曲節ながらに深く影響したものに相違ない。後になって、時には意味よりも音調の上で、謡曲を摂取したかと見られる節があるのも、ここにまづ環境として、謡曲が芭蕉に及ぼした力を考へて置く必要がある」と述べている。芭蕉の謡曲的環境としては、藤堂家出仕時代の環境のみならず、大津の能太夫本間主馬との交わりや宝生家の宝生太夫重友の第三子沾圃が芭蕉門であった事などが知られている。

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2010年8月18日 (水)

西行と芭蕉をつなぐ“能”。第一回

Saigyou01 能の題材として、多く取り上げられる、平安歌人の西行法師。そして、西行に憧れて陸奥を行脚し「奥の細道」を創作した、俳聖松尾芭蕉。実はこの二人をつなぐ文化的背景が、和歌ではなく、能と謡曲だったのです。
今回は、数百年の時を超えて、和歌→能→俳諧の歴史をたどってみたいと思います。

まず、世阿弥の能楽秘伝書「風姿花伝」に、能作の基本は「本説正しいこと」が第一条件に挙げられています。

一、能の本を書くこと、この道の命なり。極めたる才学の力なけれども、ただ、巧みによりて、よき能にはなるものなり。大方の風體、序破急の段に見えたり。
 殊さら、脇の申樂、※本説正しくて、開口より、その謂はれと、やがて人の知る如くならんずる來歴を書くべし。
 しかれば、よき能と申すは、本説正しく、珍しき風體にて、詰め所ありて、かかり幽玄ならんを、第一とすべし。
(花傳第六  花修云)

※本説正しく 由緒ある出典、古典籍・漢籍、和歌よりの引用。

能の詞章作成に際して、名作古典からの引用を世阿弥は奨励します。これは盗作ではなく、古典作品の背景・情趣を借りて、能の作品世界に深い奥行と物語性を付加しようとするテクニックです。能の分野に限らず、先行文芸の引用は「本歌取り」と呼ばれ、古くから日本文学の一般的な手法でした。


●本歌取

本歌取(ほんかどり)とは、歌学における和歌の作成技法の一つで、有名な古歌(本歌)の一句もしくは二句を自作に取り入れて作歌を行う方法。主に本歌を背景として用いることで奥行きを与えて表現効果の重層化を図る際に用いた。
例えば、


『万葉集』巻一 額田王
「三輪山の しかも隠すか 雲だにも 心あらなも かくさふべしや」

『古今和歌集』巻二 紀貫之
「三輪山の しかも隠すか 春霞 人に知られぬ 花や咲くらむ」

この、二作品を比較すれば明らかなように、貫之は額田王の第一句・第二句をそのまま採用して第三句以後を自作としている。
こうした本歌取については様々な受け取り方があった。六条藤家の藤原清輔はこれを「盗古歌」(こかをとる)ものとして批 判的に評価した。これに対して御子左家の藤原俊成はこれを表現技法として評価している。

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2010年8月13日 (金)

「漢字」は誰が発明したのか?

Resize0094  四方を海でかこまれながらも、建国以来多くの海外の文物が日本に伝来され
ました。学問、宗教、法律、芸術、医療、料理から茶法にいたるまで…。ぼく
たちの日本文化は実に多くの恩恵を隣国あるいは、遠国から受けている。数あ
る伝来物から「文化」という視点で見た場合、その貢献度、影響力からみて
ダントツ ナンバー・ワンなのは、お隣中国から渡った「漢字」ではないでし
ょうか。

 今回は「漢字」の誕生秘話や古代文字の美しい実画像も交えながら、4000年
にもおよぶ「漢字」のプロフィールを駆け足でスクロールしてみたいと思いま
す。

漢字は世界最古にして、現存する人類唯一の「オリジナル文字」

 さて、世界史的にみて「文字」を自ら発明したのは人類はじまって以来、
たった四民族のみです。

1.エジプト人 → ヒエログリフ(象形文字)
2.シュメール人 → 楔形文字(刻画文字)
3.インディアン古族 → マヤ文字(象形文字)
4.中国人 → 漢字(象形文字/表意文字)

 1.ヒエログリフ、2.楔形文字、3.マヤ文字はすでに絶滅しており、世界で現
存する文字は、自国およびアジア各地域で連綿と生命をつなぐ「漢字」だけな
のです。ぼくたちが今日も使い続けている「漢字」。片仮名、平仮名も漢字か
ら生まれた。国字・和字すら漢字の部品を流用、アレンジして作られている。
いうまでもなく日本人の文字の祖先は、この「漢字」なのです。

 言語は文明。人を動物の階層からジャンプさせる。文字は文化。人をより高
次の精神的存在へと、天高く羽ばたかせる。漢字はいつ、どこで、誰により発
明され、長い年月を経てどのように変化・発展してきたのか。まずは、その誕
生の瞬間に立ち会いましょう。

漢字の起源伝説

 漢字は周知の通り、中国で生まれた中国人のオリジナル文字。現物で今確認
できる最古の文字は、紀元前十四世紀、殷(商)の時代のものです。少なくとも
3400年以前に、文字は存在していた。かの国には、その誕生を伝える興味深い
伝説、言い伝えがあります。三つの代表的な「漢字起源伝説」を以下にご紹介
しましょう。

【伝説1】
有史以前、中国太古の時代の皇帝、伏犠氏がはじめて「文字」というものをつ
くった。これは、天地自然現象を観察し、シンボル化した「八卦」から起こる。
たとえば、坎の卦(上が短い横棒二本、真中が長い横棒一本、下が短い横棒二本
でできた記号)から水、離の卦(上が長い横棒一本、真中が短い横棒二本、下が
長い横棒一本)から火、というように作られたものが文字の祖先。これを書契と
呼んだ。

【伝説2】
 上の伝説で、文字を作ったのは伏犠氏ではなく、竜馬が八卦の図を背負って、
黄河から出現した、という説。

【伝説3】
 伏犠より後の時代に文字は生まれた。黄帝の時代、史官の蒼頡が鳥や獣の足
跡にヒントを得て書契を考案し、それまでの結縄に代えたのが、文字のはじま
りである、とする。

 これらは有史以前の遠い遠い昔の物語。伏犠が蛇身人首、黄帝が人身牛頭で
あったといわれる頃。むろんそのまま鵜呑みにできる話ではありません。史実
に基づき、それが特定の個人または集団の手になるもの、とはできませんが、
おそらく絵文字のようなものから自然発生し、長い年月をかけて徐々に整えら
れていったもの、とみるべきでしょう。三つの伝説は、とてもロマンティック
ではありますが。

なぜ、「漢字」と呼ばれるのか

 中国、漢民族により作られ、使用されてきたので「漢字」と呼ばれます。
 しかし、古く周の時代には単に「名」といいました。日本の文字「真名(漢字
)」と「仮名(片仮名、平仮名)」も、この呼び名にちなむもの。

 時代が下り、春秋・戦国時代には「文」または「字」と呼ばれるようになる。
「文」とは単一の絵文字のこと。「字」とは、この文を二つ以上組み合わせた文
字のこと。偏と旁からなる現在の漢字の形を想像してください。
 秦時代以降は、この「文」と「字」を合わせて「文字」と呼ぶ。あるいは、単
に「文」もしくは「字」とも呼び、今日に至っています。

 この文字を「漢字」と呼ぶのは日本だけ。日本で作られた「国字」や「和字」
に対して、中国伝来の文字を「漢字」と呼びならわしてきました。
 欧米の文字が表音文字であることに対し、漢字は一字のみで意味をもつ表意
文字。かつ、一文字だけで固有の音と意味をもつ、世界的にも特殊な文字なの
です。その総数はおよそ五万文字。中国より、朝鮮半島や日本へと伝播され、
それぞれの国で正字として採用されました。この特殊な文字である「漢字」。
発生以来、3400年をかけどのように変遷してきたのか、主に形態(書体)の面か
ら見ていきましょう。

最初の文字は、亀の甲羅に刻まれた「おまじない」

 現存する最古の文字は「甲骨文字」<a href="http://nobunsha.jp/img/koukotsu.jpg ">(画像はこちら)</a>と呼ばれます。正式には、「亀甲獣骨文字」といい、亀の甲羅、または牛の骨
に刀で刻みつけられたものでした。これは紀元前十四世紀頃、殷王朝中期のも
の。十九世紀も末となって、河南省安陽郡小屯村から多数の亀の甲、牛の骨が
発掘され、それらに刻まれていたのが最古の文字であることがわかりました。
 殷の時代には、天意、神意がはなはだ重視され、王室の行事、祭礼、政治、
軍事、天候、作物等を占うために、亀の甲羅に占うべき事項を刻み、これを焼
きました。そこに現れたひび割れの形状により、吉凶を占ったのです。甲骨文
字はこのト問のための辞であり、その結果を記録するもの。主に刀により刻み
付けられました。はるかに時代が下る、とされる筆による、朱や墨で下書きさ
れたものも少数ながら見つかっています。

 甲骨文字の総数は、およそ3500。その内、今日解読できているものが1800。
同一文字でも、字体部分の要素が違っていたり、偏と旁が逆転していたり、要
素の大小が確定していないなど、その書法にはいまだ統一性、整合性が認めら
れません。文字成立のごく初期的な段階にあるものと推察され、これが最古の
文字であることの傍証ともなっています。

骨の次は、金属に文字は刻まれた

 殷の時代、文字は甲骨に刻まれた「おまじない」の言葉でした。時代は下り、
周(西周/BC11~7、東周/BC7~2頃)の世では、盛んに青銅器が鋳造されるよ
うになる。そしてこれらに銘文として文字が鋳込まれます。金属に記された文
字、という意味でこれらは「金文文字」と称されました<a href="http://nobunsha.jp/img/kinbun.jpg ">(画像はこちら)。</a>
 鼎や鬲などの青銅器が宗室の祭器であったため、記された銘文は、
1.祖先の名
2.氏族名・作者名
3.年月日
 などの数文字から、3~40文字程度の短いものでした。しかし西周以降、王
の詔勅や官位叙任などの公式記録が刻印されだし、全500文字にもおよぶ長文
のものが見られるようになる。前代の殷が鬼神を尊び、盛んに亀トを行ったの
に対し、周は礼を優先し、封建制を打ち立てたため、甲骨文は廃れ、官制記録
としての銅器金文のみが継承されていったのです。
 この時代まで、文字は画像のような象形文字で、地方や時期により書法にも
バラつきがありました。さてでは、いったい誰が今日のように、万民共通で使
える文字を作ったのでしょうか。

中国全土も、文字も統一した皇帝の名は?

 万里の長城造築で有名な秦の始皇帝。天下を平定したのは、紀元前221年のこ
とでした。度量衡や各種器具・器物の規格統一とともに、全国共通の文字を制
定したのも、始皇帝の功績です。臣下の学者等に命じ、「蒼頡篇」、「爰歴篇」

「博学篇」などの字典・字書が相次いで編まれ、秦の統一文字普及が大いに推
進される。文字の書体については、許慎の「説文解字」序文によれば、秦時代に
は書の「八体」と呼ばれるものがありました。

1.大篆(タイテン) 籀文のこと。小篆に先行する文字
2.小篆(ショウテン) 大篆を改良。公文書など、広く一般に普及した
3.刻符(コクフ) 勅命を符契に書く専用文字
4.虫書(チュウショ) 字画の最初を虫の頭にかたどり、末尾を曲げた書体
5.暮印(ボイン) 印章用の書体
6.署書(ショショ) 扁額用の書体
7.殳書(シュショ) 殳などの兵具に刻まれた書体
8.隷書(レイショ) 官獄に使われた簡素な文字

 これらの内、均整がとれ荘重美麗な字形の小篆と、筆記に容易で簡略な隷書
が広く一般に流通し、今日にも印鑑や石碑などに用いられています。
<a href="http://nobunsha.jp/img/shouten.jpg ">小篆の画像はこちら</a><a href="http://nobunsha.jp/img/reisho.jpg ">隷書の画像はこちら</a>

今使われている漢字の祖先は、監獄で生まれた。

 始皇帝の中央集権体制では、徹底した厳罰制度、法治主義がしかれました。
当然、牢屋は罪人で満杯。獄吏はかつてないほどの大忙し。当時の正字体であ
る、小篆は古代文字の名残をとどめる、絵画的で曲線の多い書体。殺人的に膨
大な事務処理に追われていた獄吏にとって、書写におそろしく手間のかかる厄
介な代物だったのです。
 そこで、監獄の役人、程邈(テイバク)は、小篆の筆画をできるだけ直線
化し、
簡素で能率のよい事務処理用の文字をつくります。これを官獄の隷人(下級役
人)に使用させたため、「隷書」と呼ばれるようになりました。
<a href="http://nobunsha.jp/img/reisho.jpg ">画像はこちら</a> 複雑よりも簡素、難解よりも平易に流れるのが世の常。隷書はやがて、小篆
を駆逐し、前漢から後漢にかけて、広く中国全土で普及することとなる。ちな
みに秦から漢にかけて、文字は石刻、竹簡、木牘、つまり石や竹や木片に書か
れるようになっていきます。

楷書→行書→草書と文字はくずれていった、…これはウソ!

 一般にきちっとした正体文字である楷書から、徐々に字体がくずれ、行書、
草書という順で変化していった、と思っている人が多いようです。しかし、
その発生順にいえば、

1.草書 → 秦末~前漢
2.行書 → 後漢
3.楷書 → 後漢末

 とされ、楷書から行書が生まれ、行書から草書が生まれたわけではありま
せん。

【楷書】
後漢末、隷書から次第に変化して独立していきます。創始者は王次仲ともいわ
れますが、彼は羽化登仙した道人という説もあり、定かではない。
楷書の名のいわれは、字画厳正で一点一画すべて規矩にかなう、ということか
らきています。唐の太宗皇帝の頃、異体が整理され、字体が統一。隋・唐には
じまる中国の印刷術の興隆にともなって、楷書がその正体として採用され、全
土に普及、流通していきました。

【草書】
秦代末頃、小篆・隷書より、変化、発生しました。その名は、草稿(下書き)、
草創より生まれ、筆画を省略し、早く筆を続けたことからきています。当初は
一文字のみ崩す筆法でしたが、晋以降、数文字をつなげて書く連綿体として、
現代のような草書に発展していきました。

【行書】
草書より遅れ、後漢頃に成立。創始者は、劉徳升ともいわれています。当初は
隷書の筆画を少し省略した程度。楷書ほどかっちりせず、かといって草書ほど
連綿とはならない、中間的な書体です。

 この楷書・行書・草書が、書の三体として今日にいたっているのです。

「民」の字源は、「目を突き刺され、盲目とされた奴隷」。

 最後に今日、ぼくたちが普通に使っている漢字について、古代文字の字型から

その書体の(隠された)意味を読み取ってみましょう。

【仁 ジン】<a href="http://nobunsha.jp/img/jin.jpg ">画像はこちら</a>「仁」は「人」と声・義ともに同じ、とされています。本来、字型からは、二人
の人間がいっしょにいるカタチ、とされていますが、画像にある古文・金文の文
字は、人の下に二つの小さな点が加えられている。この「ニ」は敷物をあらわす

二枚の敷物の上で、人が温かく心地よく過ごすことが「仁」の原義である、とす
る説があります。

【民 ミン】<a href="http://nobunsha.jp/img/tami.jpg ">画像はこちら</a>金文の字型をみると、目を針で刺しているカタチとなっている。古代中国では異
民族の捕虜が奴隷化され、神に捧げられていました。神に仕える者、楽人などは
目を突かれ、盲目とされる。後に、その語義が拡大解釈され、新しく帰属した異
民族すべてが「民」と呼ばれるように。「民」も「人」も本来は本族以外の者を
さす言葉だったのです。

【税 ゼイ】画<a href="http://nobunsha.jp/img/zei.jpg ">像はこちら</a>
「税」という文字は、「禾=稲」+「兌=八+兄(大きな頭の人の意)」で、成り
立ちます。兌の上にある「八」は、左と右に引き離す、人から着物を脱がせるこ
とを意味しています。つまり「兌」は「脱」の原字。もう、いうまでもありませ
んが、「税」とは、人民からその豊かな蓄えを、ごっそり奪い去ることが語源で
す。

〔参考資料〕
新訂 字統 白川静 著 2004.12.15 平凡社
漢字の起源 藤堂明保 著 1983.4.5 現代出版
亀が語る歴史 甲骨文字と漢字の起源 孟世凱 著 S.59.11.26 狼烟社
漢字の話 上・下 藤堂明保 著 1986.7.20 朝日新聞社
漢字文化の源流を探る 水上静夫 著 1997.12.20 大修館書店
新漢和辞典 携帯版 諸橋轍次 他編 S.46.3.1 大修館書店

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2010年8月 9日 (月)

「標準語」って一体何だ?

 今回のテーマは「標準語」。【言の葉庵】ずばり、直球勝負です。かくいう
わたくし、生粋の神戸っ子。実は関西人やねん…。関西人はすべて、関西弁が
正しい日本語、標準語であると考えています。ところが時々、無意識に頭の中
で”標準語=東京語”で考えていることがある。これはなぜか?そもそも標準
語って何? 何が標準語に採用され、何が捨てられたのか?
 今回以下にご紹介する著作をナビとしながら標準語成立の謎に迫りたいと思
います。

『標準語の成立事情 日本人の共通ことばはいかにして生まれ、育ってきたの
か』真田信治 PHP研究所 1987
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569576079/249-0291854-9135550

Mangekyo_095  本著は「社会言語学の視点で標準語成立事情を追究」した作品です。標準語
そのものの定義や歴史など教科書的な説明は↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%99%E6%BA%96%E8%AA%9E


でご確認いただくとして、日本語ジャングルでは、トリビア的視点に立ち、そ
のエッセンスのいくつかを拾い読みしていきたいと思います。



1.江戸以前の正しい日本語は、”京都ことば”。

 安土桃山時代、布教のため来朝したポルトガルの宣教師たち。教義を日本人
によく理解させるためには、日本人共通のことばで説教をしなければなりませ
んでした。彼らが「標準語」として採用したのが上(畿内)の京都ことば。京都
の上層階級の人々が用いることばでした。このことばにより日本初の外国人に
よる日本語辞典が生まれました。

『日葡辞書』1603・1604 長崎刊
『日本大文典』1604・1608 長崎刊 J.ロドリゲス編


2.「行かない。都さ上るべい」が”東ことば”。

 京都ことばに対する、東(あずま)ことば。東日本の語法上の特徴を『日本大
文典』から見ます。

 a.打ち消しには「ぬ」の代わりに「ない」を使う。上げない、読まない、申
 さない、など。
 b.未来にはさかんに助辞「べい」を使う。上ぐべい、読むべい、申すべい、
 など。
 c.移動の「へ」の代わりに「さ」を使う。「都さ上る」など。

 「べい」は、今の首都圏若者語にも「おめー、いねーべ」などと使われてい
 ますね。


3.講義・スピーチのスタイルから標準語は生まれる。

 時代は下って、江戸。享保年間、京都、石田梅岩によっておこされた石門心
学は、神・儒・仏教を総合、折衷した学問。この講義=道話により、全国各地
庶民へ、教えをわかりやすく伝える独特の「講話」のスタイルができあがり、
普及しました。

 心学道話と現代標準語の成立事情は、以下のようにたどれます。

「抄物→江戸講義物(心学道話等)→明治講義物→演説→標準語の口語は、一本
の連続線上にあるのではないかという予想を述べたが、道話に対する今回の小
調査に関する限り、この予想を裏切る否定的要素がなかった」森岡健二

「演説調・講義調・説教調のように、ことばの型が定まってくるスタイルがで
きると、ことばの訛り・語法の乱れは次第におさえられ、多数の聞き手に理解
されやすいことば遣いが整ってくる。現在のニュースや天気予報のスタイルも
同じプロセス」田中章夫

 ロジカルな思考を行っている時、プランニングをしている時など関西人のぼ
くも無意識で”標準語”で考えている。これは上のように、標準語が新しい知
識を伝えるため、理性に訴えるべく整えられ、成立した言語だからなのかもし
れません。どなたか正しい根拠を知っていれば、ご教授ください(庵主)。


4.標準語化が生んだもの。”ダ体・デス体・デアリマス体”。

 明治の標準語化を強力に推進したのが「言文一致運動」。当時の小説家たち
が作品の中で実験的に用いた文体が、今日の標準的な日本語表記として定着す
ることとなります。以下が、それらの作家、作品と文体。明治20-24年に一挙
に出揃いました。

 『浮雲』二葉亭四迷 “ダ体”
 『胡蝶』山田美妙 “デス体”
 『野末の菊』嵯峨の屋御室 “デアリマス体”
 『二人女房』尾崎紅葉 “デアル体”(デゴザイマスとダ体の中間)

 当時、言文一致運動に「落語」の話法がヒントを与えたというユニークな逸
話があります。以下、二葉亭四迷のエッセイ『余が言文一致の由来』より。

「もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何か一つ書いて見たいと
は思つたが、元来の文章下手で皆目方角が分からぬ。そこで、坪内(逍遥)先生
の許へ行つて、何うしたらよからうかと話して見ると、君は円朝の落語を知つ
ていよう、あの円朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。
 で、仰せの侭にやつて見た。所が自分は東京者であるからといふ迄もなく東
京弁だ。即ち東京弁の作物が一つ出来た訳だ。早速、先生の許へ持つて行くと、
篤と目を通して居られたが、忽ちはたと膝を打つて、これでいい、その侭でい
い、生じつか直したりなんぞせぬ方がいい、とかう仰有る。
 自分は少し気味が悪かつたが、いいと云ふのを怒る訳にも行かず、と云ふも
のの、内心少しは嬉しくもあつたさ。それは兎に角、円朝ばりであるから無論
言文一致にはなつている」


5.標準語化が奪ったもの。”方言摘発・撲滅運動”。

 明治時代の言語統一の考えは、戦前まで続きます。各地のお国ことば、方言
は、標準語普及にとって、邪魔な物、無用の物、社会的な「悪」とまでみなさ
れてしまいます。
 この「悪」をつみとるために実施されたのが、”方言撲滅運動”。方言を使
用する教師が摘発、生徒が告発されることとなりました。方言を使用した生徒
に懲らしめとして「方言札」なるものが、首からぶら下げられたり、背中に貼
られたりしたのです。
 方言を禁じることは、方言使用者が自由に意見をいうことまでをも禁じるこ
と。むろん、このような政策が受け入れられることも、成功するはずもありま
せんでした。


6.「ゴ注文ハヨロシカッタデスカ?」は、語法の乱れではなく、方言。

 たとえば、「コワイ」「オッカナイ」「オソロシイ」などの言葉が、全国に
どのように分布し、標準語化とどのように関わるのかを解明している章があり
ます。
 ここで面白い例は「おはようございます」の方言。北海道、四国、中国の一
部に「ございます」の部分を過去形にした「オハヨウゴザイマシタ」がある。
これは、意味的にはむろん過去ではなく、丁寧な表現になるということです。
 よく耳にする、若者/接客用語の「よろしかったでしょうか」。文法的には”
過去の時点での確認”とする解釈もあるようですが、現在も現地で使われてい
るこの”丁寧語方言”由来であるとした方が、すっきり説明できるようにも思
えますね。


7.コトバは年速0.6kmで旅をする。

 本書にコトバの伝播について面白い実験があります。ある一点で使用されて
いる語形が、どのくらいのスピードで周辺地方に伝わってゆくのかを調べたも
のです。

・「行く」の否定形過去は、東日本・北日本では「行かなかった」、京都では
「行かなんだ」。
・「行かなんだ」は現在、中部・首都圏・山陰・中国地方で使用されている。
・「なんだ」語形初出は、1477年成立の抄物、『史記抄』に。しかし、実際の
発生は約50年ほど前か。
・「なんだ」分布範囲は、京都を中心に上の地方へと、半径330kmの円の中にぴ
ったり収まっている。
・これらの地方への伝播は現在までで、約550年かかっている。試算すると伝播
スピードは年速(km/年)0.6kmとなる。


8.共通語は「現実」であり、標準語は「理想」である。

 戦後「標準語」に代わり、「共通語」という用語が登場してきます。「標準
語」という言葉がもつ統制というニュアンスが嫌われたためだと思われます。

・「共通語」の原義は、異なった言語間のコミュニケーションに用いる第三の
言語をさす。インドネシアのマレー語/東アフリカのスワヒリ語/英語など。

・『国語学大辞典』による、現代の標準語・共通語の定義。

「共通語は現実であり、標準語は理想である。共通語は自然の状態であり、標
準語は人為的につくられるものである。したがって、共通語はゆるい規範であ
り、標準語はきびしい規範である。言いかえれば、共通語は現実のコミュニケ
ーション手段であるが、標準語はその言語の価値を高めるためのものである」
柴田武

・「地域共通語」の一例。和歌山県中部の一部では、改まった席では、大阪こ
とば(関西中央部方言)が使われる。

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2010年8月 6日 (金)

万葉集は韓国語で詠まれていた

4 万葉集には「難訓歌」とよばれる歌がある。ようするに、読みが難しい。解
 釈が難しい。つまり、学者にもなんのことか、さっぱりわからない、という歌
 が非常に多いのです。それは、万葉の歌の大半が韓国語、それも古代韓国語で
 詠まれていたからといいます。さて、このとんでもない歴史的・文学的スキャ
 ンダルをすっぱ抜いたミラクル ブックを紹介しましょう。それは…
 
 「もうひとつの万葉集 李寧熙(いよんひ)」文春文庫1991
 
 本作骨子を、カバー裏解説から引用します。
 
 ―万葉集が編まれてからおよそ千二百年。今、韓国語によってまったく異相の
 万葉集が浮かび上がる。これまでに誰にも読み解くことのできなかった謎の難
 訓歌も、韓国語でみごとに完全解読。雄略天皇、額田王、柿本人麻呂、山上憶
 良などの歌に秘められた真の意味とは何か?今こそ文学史が書き改められる―
 
 【原文】雄略天皇の詠んだ代表的な難訓歌である(巻一の一)
 籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち
 この岡に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね
 そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ
 しきなべて 我こそいませ 
 我こそば 告らめ 家をも名をも
 
 【従来の解釈】
 籠も 良い籠を持ち ふくしも 良いふくしを持ち
 この岡で 菜をお摘みの娘さんよ 家を聞きたい 名のっておくれ
 〈そらみつ〉この大和は ことごとく わたしがすべている国だ
 すみずみまで わたしがおさめている国だ
 
 【真の意味】古代韓国語による読解
 狛よ 瑞穂の狛たちよ 復旧よ 瑞穂の復旧の者たちよ
 この丘に 私は(先代と)並び立ち
 ここに家を作り 告げて住もうと思う
 さろみつ やまとの国は 押さえおきて 統治者は私一人である
 鎮めねかして 私は自ら位に就く
 私は急ぎ来て 告げる ここに来る 出てくると
 
 狛は狛族、すなわち韓国人の総称。復旧(ふく)は、占領し服属させた領土の
 ことです。
 「菜摘ます児」の韓国語の読みは「なたらそご」。我は並び立つ(先代王と)と
 いう意味になります。この歌の前半は、岡で菜摘む娘への牧歌的な問いかけな
 どではなく、眼前にひれ伏す非占領民に対する、高らかで威圧的な新天皇即位
 宣言だったのです。
  もちろん万葉集すべてが、韓国語で詠まれたわけではなく、日本語ですんな
 り解釈できる歌もある。しかし、時代が古くなるほどに、難訓歌の割合も増え、
 そのほとんどが調べると古代韓国語で詠まれている、と著者は指摘しています。 

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2010年8月 1日 (日)

名作古典を音読する、楽しいサークル。

1cf968204c7564d7dfd0687e3066410b 名作古典を参加者全員で声に出して読む勉強会、「寺子屋 素読ノ会」。
http://bit.ly/alUNRw

老若男女問わず、みんなで楽しく、毎月勉強しています。みなさんが参加された動機。たとえば、こんな声が聞かれます。

・昔読んだ、大好きな古典作品をもう一度学びなおしたい。
・若い頃一度読んで強く印象に残った作品。本当に正しく意味を理解していたのかなぁ…。
・「…にて候」「…なり」「…たり」「さりながら…」。古語の格調高い文章を味わいたい。
・これまで本を黙読しかしたことがない。音読してみると、ずいぶん印象が変わり、新しい発見がある。
・古典を同好する仲間たちと、日本文化や歴史を語り合いたい。


明日8/2(水)、寺子屋素読ノ会17:30より新橋にて開講します。どなたでも参加OK。もちろん初参加、途中受講大歓迎です。

■Aクラス「葉隠」 毎月第一月曜 17:30-19:00
■Bクラス「風姿花伝」 毎月第一月曜 19:30-21:00
■〈8月新規開講〉Cクラス「山上宗二記」 毎月第四月曜 17:30-19:00
■Dクラス「南方録」 毎月第四月曜 19:30-21:00

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奥の細道行脚。最終回「大垣」

Okuno_front_300 【おくのほそ道】

 露通もこの湊まで迎えに来て、ともに美濃国に向かう。駒の助けを借り、大垣の庄に入れば、曾良も伊勢より来たる。越人も馬を飛ばして、みな如行の家に入り集う。前川子、荊口父子、その他親しい人々が昼夜訪ねてきて、まるで死者が蘇生したとでもいうように、ともに悦び、かついたわってくれる。
旅疲れいまだ癒えぬ内、長月六日になれば、伊勢の遷宮を拝もうと、また舟に乗り、


 蛤のふたみにわかれ行秋ぞ


鑑賞(はまぐりの蓋と身が別れるというが、ここで皆と別れ、二見が浦を見に行こうとする。ふたたび相見える時もあるものか、と心細い秋である。「行秋ぞ」は、冒頭の「行春や」と合わせ、紀行文を閉じる)


【曾良旅日記】

○三日。辰の刻、発つ。途中、春老方に寄る。夕方におよんで、大垣着。天気よし。
この夜、木因 が会おうと、息子弥兵衛を呼びに遣わせたが行けず。予より先に越人が到着していたので、これと会う予定があったためだ。

 四日。天気よし。源兵衛 へ会いに行く。

 五日。同。

 六日。同。辰の刻、出船。木因が馳走する。越人は船場まで見送る。如行ともうひとりが、三里のところまで送ってくれた。餞別あり。申の上刻、杉江 へ着く。長禅寺で舟を下り、陸路すぐの大智院へいたる。舟は半刻近く遅れた。七左 ・玄忠由軒も来て、翁に会う。


【奥細道菅菰抄】

露通もこの湊まで迎えに来て、ともに美濃国に向かう。駒の助けを借り、大垣の庄に入れば、曾良も伊勢より来たる。越人も馬を飛ばして、みな如行の家に入り集う。前川子、荊口父子、その他親しい人々が昼夜訪ねてきて、まるで死者が蘇生したとでもいうように、ともに悦び、かついたわってくれる。旅疲れいまだ癒えぬ内、長月六日になれば、伊勢の遷宮を拝もうと、また舟に乗り

露通は俳諧に多く路通と書いている。美濃の生まれ。ある時、乞食の境地に陥っていたが、翁が取り立て僧となし、門人とした。

越人・如行・荊口・前川も、みな大垣に住む。大垣は中山道の往還、戸田侯の城下町である。蘇生は、本字「甦生」と書き、よみがえる、と訓ずる。いたわるは、労の字。古訓ではねぎらう、と読む。長月は九月のこと。『奥義抄』に、「夜ようよう長き故に、夜長月、というところを略して、長月という」とある。

伊勢太神宮の遷宮は、二十一年目にあり、九月晦日の夜。○この一章は、一篇の終章ゆえ、文勢は自然に健やかで急なものとなる。これまた、和漢、文章作成の一つの格で、翁の筆法、隙のないことを知るべきであろう。

蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

『金葉集』、大中臣輔広の歌に、「玉くしげ二見の浦の貝しげみまき絵に似たる松のむら立」と詠まれたものから貝を蛤に転じ、ふたみ、を掛詞としたもの。


※本編は、『奥の細道 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 全現代語訳』能文社 2008年3月より抜粋、再構成しました。
http://bit.ly/cnNRhW

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