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2010年7月27日 (火)

奥の細道行脚。第十七回「敦賀」

Photo 【おくのほそ道】

 ようやく白根が嶽が隠れ、比奈が嵩があらわれる。あさむづ の橋を渡り、
みれば玉江の蘆には穂が出る。鶯の関 を過ぎて、湯尾峠を越えれば、燧が城
、かえる山に初雁を聞き、十四日の夕暮れ敦賀の津に宿を求めた。
 その夜よく晴れ月が見えた。
「あすの夜も晴れましょうか」
 というと、
「越路の常、明くる夜の陰晴測りがたし 、と申します」
 と、あるじに酒をすすめられて、今宵気比の明神へ夜参することとなる。
仲哀天皇の御廟がある。社殿は神(かみ)寂びて 、松の木の間より月光漏れ来
たり、神前の白砂、霜を敷きつめるがごとし。その昔、遊行二世の上人 が大
願をかけ、自ら草を刈り、土石を運び、泥沼を乾かしたので、参道往来のわず
らいがなくなったということである。この故実により、今も代々の上人が神前
に真砂を運ぶという。
「これを遊行の砂持ち と申します」
 と亭主が語った。


 月清し遊行のもてる砂の上


鑑賞(尊く清らかな月光が、今宵も神前の白砂を照らす。何十代もの遊行上人
がお運びになったありがたい砂である)


 十五夜。亭主の言葉に違わず雨降り。

 名月や北国日和定めなき


鑑賞(せっかくの十五夜に雨となってしまったが、名月よ、北国の変わりやす
い天候を恨まず、遊行上人のように来年も忘れずに来ておくれ)

【曾良旅日記】

一 九日。快晴。日の出過ぎに発つ。今庄の宿はずれ、板橋のたもとより右へ
曲がり、木の芽峠 におもむく。谷間に入る。右は燧が城、十丁ほど行って左に
かえる山があった。下の村では、「かえる」と言っている。未の刻、敦賀 着。
まず、気比明神に参詣し、宿を借る。唐人が橋 の大和屋久兵衛方。食事が済ん
で、金ヶ崎 にいたる。山上まで二十四、五丁。夕べに帰った。河野 への舟を
借りて、色の浜へとおもむく。海上四里。戌の刻、出船(陸路は難所である)。
夜半に色の浜に着く。塩焼きの男に導かれ、本隆寺へ行き、泊まる。

【奥細道菅菰抄】

ようやく白根が嶽が隠れ、比奈が嵩があらわれる。あさむづの橋を渡り、みれば
玉江の蘆には穂が出る。鶯の関を過ぎて、湯尾峠を越えれば、燧が城、かえる山
に初雁を聞き

白根が嶽のことは前述。比奈が嵩は、「雛が嶽」、「日永だけ」とも書く。越前
府中の上の山で、祭神、飯綱権現。あさむづは、「浅生津」とも、「浅水」とも
書く。現在は「麻生津」という。福井の南、往還の駅で、宿の中ほどに板橋あり。
あさふづの橋と呼ぶ。清少納言『枕草子』に、「橋はあさむつの橋」と書かれた
名所である。また「黒戸の橋」ともいうと、歌書にある。『方角抄』、「朝むづ
の橋はしのびてわたれどもとどろとどろとなるぞわびしき」。また、「たれそこ
のね覚て聞ばあさむつの黒戸の橋をふみとどろかす」。

玉江のはしは、この道順で見れば、あさむづより前に書くべき。福井と麻生津と
の間にある。福井の町を上の方に抜け、二町ほど行けば赤坂というところがある。
ここを過ぎた街道に石橋が三つかかる。その真中の橋、高欄のついたものを、
玉江の橋の跡とし、この川をいにしえの玉江としている。『後拾遺集』、「夏
かりの玉江の蘆をふみしだきむれ居る鳥のたつ空ぞなき」、重之。ある人がい
った。「三国の湊に近いあたりに、たうのへ村というものがある。字に書くと、
玉江。この村に橋あり。これがまことの玉江の旧跡である」と。村名を重視す
るなら、ありえる説か。

鶯の関は、関の原という名所である。『方角抄』、「鶯の啼つる声にしきられ
て行もやられぬ関の原哉」。現在、民間に誤って関が鼻といっている。府中と
湯の尾の間で、茶店がある。湯尾峠は小さな山で、嶺に茶店三、四軒あり。い
ずれにも「孫嫡子御茶屋」と暖簾にしるしを出し、疱瘡のお守りを置く。いに
しえ、この茶店の主が疱瘡神と約束し、その子孫には、もがさの心配がない、
と言い伝える。孫嫡子とは、その子孫の直系という意味。

 燧が城は、湯尾の向いの山で、木曾義仲の城跡である。かえる山は、かえる
村という在所の上の山をさすとか。本名は、珻珞山(ばいらくやま)。これを海
路の字と見誤り(鍛冶を瑕治と誤るように)、やがて音が訛って、帰る山と称し
た。名所。『続拾遺集』、「たちわたる霞へだてて帰る山来てもとまらぬ春の
かりがね」、入道二品親王性助。『方角抄』、「雁がねの花飛びこえてかへる
山霞もみねにのぼるもの哉」。これらの歌を踏んで、「初雁を聞く」と書いた
のである。

明くる夜の陰晴測りがたし

孫明復の八月十四日夜の詩に、「銀漢声無くして、露暗に垂る。玉蟾初めて上
って円ならんと欲する時、清樽素瑟よくまず賞すべし、明夜の陰晴いまだ知る
べからず」とある。この句による。

気比の明神へ夜参する

 気比または、笥飯と書く。(笥飯を正字とすべき。理由は下記に。気比は当て
字である)人皇十四代仲哀天皇、行宮の遺跡で(行宮は、巡守などの時の仮の皇
居をさす)、すなわち天皇の霊を祀っている。当国の一の宮である。『古事記』
にいう。「かの建内の宿禰命、皇太子(仲哀天皇)をお連れして、禊をするため、
歴の淡海および若狭国を経過する時、高志の前、角鹿に仮宮を造営し滞在願っ
た」。
『旧事紀』にいう。「二月、角鹿に行幸しすなわち行宮を興して、これに居ら
しむ。これを笥飯の宮という」と。これらのことである。鎮座については、神
功皇后十三年、「初めて笥飯の神を祭る」とある。笥飯の表記を用いるのは、
この地にて天皇が昼食(飯)の弁当箱(笥)をおつかいになったゆえの名であろう。

社殿は神寂びて

寂びては、物静かでさびしいさまである。また、社中の僧、車来の説では、風
の字を用いるという。俗にいう、男ぶり、などの意味で、神寂びては、神振り
ということになる。『日本書紀』、神代の巻には、進の字を用いている。『伊
勢物語』に、「翁さび人なとがめそ」と詠んだのも、翁へと成った、という意
味。また、躬恒の『秘蔵抄』には、上久と書いて、訓読みでさび、と読ませ、
昔を慕う意味もある、と註するという。

遊行二世の上人(中略)泥沼を乾かしたので(中略)これを遊行の砂持ちと申します

遊行宗は、本号、時宗という。一遍上人を元祖とする。熊野権現のお告げに従
い、諸国を遊行。決定往生六十万人の札を衆人に与えた。それゆえ、一般に遊
行宗と称する。本寺は、相州藤沢駅にあり、藤沢山清浄光寺と号し、百石を領
する。この宗義では、諸国を巡教する者を住職とし、本山藤沢の上人は隠居と
している。二世の上人は、一遍の弟子で、他阿弥陀仏という。(伝記、いまだ
確かではない)その後、代々遊行宗では、住職の僧を他阿上人と呼んでいる。
上人とは、『釈氏要覧』によると、「古い師伝では、心に智と徳があり、外見
に勝り進むさまがあり、人の上に立つ者を上人と名付ける」とある。また車来
の説では、「日本では僧綱を賜る場合、法印・法眼・法橋の三つの位がある。
この内、初めの位、法橋の僧を上人と称する。遊行は、禁裏に於いて、ただ遊
行大道心との口宣を受けるのみで、位階の沙汰はない。今、上人と呼ぶのは、
この一派の称号だけである。しかし、参内の式では、はなはだ厳重な称号とな
る」とあった。

遊行の砂持ちは、その後代々の上人が廻国の際、かならずこの地に来たり、砂
石を運び、社頭の前後左右に敷く行事で、今に至るも途絶えたことがない。そ
うして、この社の楼門の外に木履を多く並べ置き、参詣人は履物をこの木履へ
と履き変えて楼門内に入る。遊行の敷いた砂石を踏むゆえ、外の履物の穢れを
憚るのだ。

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2010年7月23日 (金)

奥の細道行脚。第十六回「等栽」

【おくのほそ道】

等栽(とうさい)

 福井 まで三里ほどというので、夕飯をしたためて宿を出たものの黄昏の路

に足元はおぼつかぬ。ここに等栽 という古なじみの隠士がいる。いつの年で

あったか、江戸に来て私を訪ねてくれた。かれこれ十年以上も前のこと。い

かに老いさらばえて しまったものか、はたまた亡くなってしまったのでは、

と人に尋ねれば、まだ生きており、どこそこにいると教える。市中ひそかに

引き込んで、みすぼらしい小家に、夕顔、へちまが茂ってかかり、鶏頭、箒

木が戸口を覆い隠す。さてはこの家にこそと門を叩くと、わびしげな女が出

てきて、

「どちらからいらっしゃった道心のお坊さんでしょうか 。あるじは近所のな

にがしというもののところに出かけています。ご用がございましたら直接お訪

ねになってください」

 という。等栽の妻とわかる。まるでいにしえの物語のような風情かな、とす

ぐに訪ねあてる。その家に二晩泊まって、名月 は敦賀の湊に、と旅立った。

等栽、ごいっしょにお送りしましょう、と着物の裾奇妙にからげ、これぞ旅路

の枝折とうかれ立つ。

【奥細道菅菰抄】

13

福井まで三里ほどというので(中略)黄昏の路に足元はおぼつかぬ

福井は、越前の城下で都会の地である。

黄昏は日の暮れかかる時をいう。和訓の意味は、日の暮れかかる時、物の影確

かに見えず、人を見ても「たれか」、「かれか」、とわからぬおぼろげなさま

をいう。

ここに等栽という古なじみの隠士がいる(中略)いかに老いさらばえてしまった

ものか

 等栽は、もと連歌師。福井の桜井元輔という者の弟子で、等栽は連歌名であ

る。俳名は、茄景というとか。元輔は宗祇の門人で、「さてはあの月が啼たか

ほととぎす」という句を詠んだ者と言い伝える。

隠士は隠者というのと同じ。士は『玉篇』に、「古今に通じ、然らざるを弁ず

る。これを士という。数は一に始まり、十に終わる。孔子のいわく。一を推し

て十に合わするを士という」とある。つまり、才芸などのある者を、あまねく

士といったものと思う。(日本で俗に、士の字をさぶらひと訓じて、武士に限る

ように見なすのは、和訓の偏った読み方による誤りである)

老いさらばえては、『徒然草』に、「むく犬の老さらぼひて」とある。註に荘

子を引用し、髐の字を「さらぼひ」と読ませている。痩せて縮んだ様子である、

という。俊成の歌に、「山陰に老さらぼえる犬ざくら追はなたれてとふ人もな

し」と詠む。

道心のお坊さんでしょうか

道心は、元は心に道徳のあることをいった。出家には限らぬ。後世には、ただ

賤しい僧をさす名のみとされた。むろん、これも仏道執心の意味では、根拠の

ない話ではない。

坊は、防と同じ。つつみ、と訓ず。(土手のこと)ゆえに、これを借りて、長く

続いた家居の名とする。(長屋などの類)僧の坊号は、衆寮より来ている。(

れもまた、長く建ち並んだ家のことで、一の坊二の坊などという)中国で市井

を坊と呼ぶのも、また店が長く建て続いているためである。○現在、隠者など

の別号に、坊の字を用いるのは、ひどい誤りである。せめて房の字を使っても

らいたい。房は、閨房と連用して、閨(ねや)などの形態なので、庵号の意味に

用いてもあながち間違いとはいえぬ。坊号は、何町、何長屋というようなもの。

独居一屋の称には使えない。

名月は敦賀の湊に、と旅立った(中略)旅路の枝折とうかれ立つ

名月は、林道春徒然草の註に、「八月十五夜の月を賞玩すること、おおよそ李

氏唐朝より盛んとなった。古楽府の孀娥怨曲は、漢人が中秋の月が出ぬゆえ作

る、とあるので、漢の世にも楽しんだのであろうか」という。また、欧陽?

翫月詩の序文に、「八月十五夜のことをいう」とある。(長文ゆえここに記さ

)古今、月を愛でる詩歌は枚挙にいとまがない。

つるがは、元角鹿(つぬか)と書いた。以下、言い伝え。「崇神天皇六十五年、

任那(みまな)の人来る。その人、額に角あり。越前笥飯の浦にいたって居るこ

と三年。ゆえにその処を角鹿と名づく」という。今は、敦賀と書く。笥飯も今

気比とする。海を気比の海と呼ぶ。(敦賀はすなわち敦賀郡の浦で、けいは、

つるがの古名である。古歌が多い)越前の大湊で、若州小浜侯の領地である。

『方角抄』、「我をのみ思ひつるがの浦ならば帰る野山はまどはざらまし」。

『万葉集』、「気比の海よそにはあらじ蘆の葉のみだれて見ゆるあまのつり

舟」。(気比の名のことは下にくわしい)

枝折は、刊・栞等の文字を用いる。『尚書』の益稷に、「山に随って木を刮

す。禹貢、山に随って木を栞す。周伯温がいわく、行うところの材木に、そ

の枝を斫り、道の識しと為すという也」と。これは、迷いそうな道の傍らの

木を押し削り、あるいは枝を折って、地面に立てるなどして、後から来た人

の道しるべとすることで、日本では普通、これをしをりとも(しをりは枝折り

)、たつきともいい(たつきは立木)、歌に、たつきもしらぬ、と詠んでいるも

のである。現在、通行人の迷いそうな道の傍らの木の枝に、紙などを結び付

けておくのが、この遺風。しをりの歌は、前段むやむやの関の解説にある。

また、「みよしのの去年のしをりの道かえてまだ見ぬかたの花をたづねん」

西行。

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2010年7月20日 (火)

奥の細道行脚。第十五回「金沢」

【おくのほそ道】

 卯の花山 ・くりからが谷 をこえて、金沢に七月十五日につく。ここに大坂より通う商人、何処というものがいる。これと旅宿をともにする。一笑というもの、この道に打ち込み名が折々に聞こえ、世に知られた人であったが、去年の冬早世してしまったゆえ、その兄が追善句会を催した。


 塚も動け我泣声は秋の風


鑑賞(早世を悼み私の慟哭する声が秋風となり粛々と吹きすさぶ。亡者の魂へと届いて、塚をもゆり動かすことであろう)


ある草庵に招かれて
 秋涼し手毎にむけや瓜茄子


鑑賞(秋風の涼しい季節となった。句を詠む口をしばしとめて、秋茄子・秋瓜をめいめいの手でむいていただこうではないか。一笑に「手向け」の意もあり)


途中吟
 あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風


鑑賞(残暑の陽は容赦なく照りつけるが、長い夏にあきあきしたものか、夕風はそ知らぬ風に涼しくふいてくるものだ)

【曾良旅日記】

一 十五日。快晴。高岡を発つ。埴生八幡を拝す。源氏山 ・卯の花山がある。
倶利伽羅峠を見て、未の中刻、金沢に着。
京屋吉兵衛に宿を借りて、竹雀・一笑に連絡をとる。即座に竹雀・牧童 が連れ立って参り事情を話す。一笑が去る十二月六日死去したという。

一 十六日。快晴。巳の刻。竹雀より籠にて迎えを寄越す。川原町、宮竹屋喜左衛門方へ移る。徐々に門弟が集まり、一堂に会す。

一 十七日。快晴。翁ひとり源意庵へ遊ぶ。私は病気ゆえしたがわず。今夜、丑のころより雨が強く降り、暁には止む。

一 十八日。快晴。

一 十九日。快晴。みなが来る。

一 二十日。快晴。松幻庵にて一泉がもてなす。俳諧、一折あって、夕方野端山に遊ぶ。帰って夜食をしたため散会。子の刻となった。

一 二十一日。快晴。医師の高徹 に会い、薬をもらった。翁は北枝・一水と同道し寺に遊ぶ。十徳二枚、十六四 。

一 二十二日。快晴。高徹が見舞う。また薬をもらう。この日は、一笑の追善句会。□□寺 にて興行する。参加者は朝飯の後より集まった。私は病気のため、未の刻より参会。暮れ過ぎ、みなに先立って帰る。亭主は丿松。

一 二十三日。快晴。翁は雲口 に連れられ宮の越 に遊ぶ。私は病気のため参らず。江戸へ便りをしたためていた。鯉市・田平・川源 などへ出す。高徹より薬が届く。以上六枚である。今宵、牧童・紅爾等が引き止めに来た。

一 二十四日。快晴。金沢を発った。

【奥細道菅菰抄】

卯の花山・くりからが谷をこえて

卯の花山は、くりから山と続いており、越中礪波郡、となみ山の東にある。源氏が峰という人もいる。木曾義仲の陣所があったところ。義仲の妾、巴と葵(山吹女)、二人の塚もこのあたりにある。(由緒は長くなるので略す)卯の花山は名所である。『夫木抄』、「日かげさすうのはな山の小忌衣たれぬぎかけて神まつりてん」、小侍従。(この他古歌が多い)

くりからが谷は、くりから山の谷である。くりから山は、越中今石動の駅と加賀竹の橋の宿との境にあって、峰に倶利伽羅不動の堂あり。これによって山の名とした。現在は、またの名、栗柄山とも書いている。平家・義仲の合戦の地。「一騎打ち」と呼ぶ、岩間のいたって狭い道がある。この山の麓、越中に羽生村の八幡宮がある。木曾義仲が大夫房覚明に平家追討の願書を書かせ奉納した神社で、これは現存している。

『奥の細道 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 全現代語訳 』 松尾芭蕉他著 水野聡訳 能文社 2008
http://bit.ly/cnNRhW
Ankojizou

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2010年7月17日 (土)

奥の細道行脚。第十四回「一振」

 六月、象潟を発ち日本海沿いを下向する芭蕉一行の足取りはにわかに速度を増

します。序破急の位でいえば、旅も終わりに近づき、「急」の位を予感させる。

 今回の行路は、いままでのような名所・旧跡にとぼしいためか、人と人との関わりが大きくクローズアップされます。二人の俳友との再会。ひとりはすでに黄泉の国の住人ですが。また、越後から伊勢詣へと下る遊女との相宿。悲しくも、胸騒ぐ旅の風情がそこかしこと翁の発句に立ち上ります。

 終着点大垣では、門人たちが大集合し旅人を迎え無事を喜び合う。しかし伊勢遷宮を拝まんと、これら門人たちとも袖を分かち、長島にてふたたび舟に棹差し、『おくのほそ道』は幕を閉じるのです。

●一振

【おくのほそ道】

一振(いちぶり)

 今日、親知らず・子知らず・犬戻り・駒返し などという北国一の難所を越えた。疲れ果て、枕を引き寄せ寝ていると、一間隔てた表の方から、若い女の声二人ばかりが聞こえてくる。年老いた男の声もまじり、その話を聞くと、越後の国新潟というところの遊女 らしい。伊勢参宮 に行くという。この関まで男が送り、明日戻るというのでふるさとに届ける文をしたためて、はかない言伝をしているようだ。白浪の寄せる汀に身をやつし、海人がこの世を わびしく落ち下るように、定めなき契りを結ぶこと。日々の業因はいかなる前世のむくいによるのだろう、と物語るのを聞くともなく眠りに落ちた。翌朝、旅立つわれわれに、

「行方も知れぬ旅路の辛さ、あまりに心細く悲しく思われます。見えつ隠れつ、お坊さま方のお跡をおしたいさせていただけませんでしょうか。仏のお情けに、大慈悲の恵をたまわり、仏道へ結縁させていただきとうございます」

 と涙を流す。不憫には思ったが、

「私どもは、所々立ち寄る先が多いのです。ただ、伊勢詣での人々の流れにまかせ、ついていきなされ。神明のご加護によって、旅は必ずつつがなく運びましょう 

 と言い捨てて発ったものの、不憫な心はしばらく止むものではなかった。

 一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月

鑑賞(ひとつ屋根の下奇しくも遊女と泊まり合わせる。庭の萩の花もおりから

の十五夜の月に冴え冴えと照らされている。仏縁に導かれ全く境涯の違う二

人が出遭い、また別れゆく運命の不思議さよ)

【曾良旅日記】

○十二日。天気快晴。能生を発つ。早川 で翁がつまずき、衣服が濡れてしまった。河原でしばし干す。午の刻、糸魚川 に着く。新屋町、左五左衛門方で休む。大聖寺のソセツ師より伝言あり。母親は無事に到着。当地は安全だとのこと。申の中刻、市振(いちぶり)に着。泊まる。

○十三日。市振発。虹が立つ。玉木村 まで市振から十四、五丁ある。

【奥細道菅菰抄】

今日、親知らず・子知らず・犬戻り・駒返しなどという北国一の難所を越えた

 親知らず・子知らずは、越後の国、歌という宿より一振までの街道で、山の下

という。一方は険山であり、その下の波打ち際を行き来する。そのため、波が来る時は岩陰に隠れ、引く時に出て走る。つまり波の引く間、わずかの内に走るため、「親をも顧みず、子をも思わず」という心でこの名がついた。

 犬戻りは中屋敷というところより、長浜の宿までの間にあり、岩石の間を渡る。

 駒返しは、遠海と歌との間、いずれも越中への街道にある海辺である。

越後の国新潟というところの遊女らしい。伊勢参宮に行くという

 新潟は、越後の国、蒲原郡、海辺の町であり、信濃川(信州では筑摩川と呼ぶ

)、奥州会津の大河が合流し、運送の便よく、当国第一の大湊、繁華の地である。

 遊女を中国では、妓という。(日本で、清盛の時、妓王、妓女といった。白拍子の名は、これによる通称である)『書言故事』に、「いにしえ未だ妓有らず。漢武はじめて官妓を置き、軍士のこれ妻無き者に侍らす」という。遊女の名は、『詩経』に、「漢に遊女あり」の詞より出たのであろうか。しかし、詩経の意は、ただ漢水の辺を遊行する女である。芸妓のことではない。日本では、播州室津の遊女を初めとする、と聞く。あるいは、周防(すおう)の国、室積の妓が起こりとも。また、『朝野群載』には、「江口ではすなわち観音を祖と為し、蜑島ではすなわち宮城を宗と為し、神埼ではすなわち河菰姫を長者と為す」とある。しかしこれらは、どの時代のことか不明。また、ある書では「わが朝の妓は、いつの時代起こったものか知られていない。おおよそ鳥羽の院の御宇に始まった」というが、『後拾遺和歌集』に、遊女宮城の歌を載せ、『源氏物語』、関屋の巻では、光源氏が住吉へ詣でる装いを、江口・神埼の遊女が船を浮かべ見物したと記す。ということは、後一条院の頃、すでに遊女がいたものか。

 また『万葉集』に、遊行の婦女というものがあり、遊女のようにも思えるので、

孝謙の御宇にもあったのであろうか。また、「鳥羽院の御宇、永久三年、洛陽に島の千歳・和歌の前という二人の女、盛んに教坊舞をなし、遊女の舞はこれより始まる」と『年代広記』に記す。『前太平記』には、藤原正澄の妓女、松世というものを、兄澄友が奪ったことを記す。また一説では、鳥羽院の御宇、通憲入道が、妾の磯禅師に、烏帽子水干を着せ、太刀を帯させ舞わせた。これを男舞と称する。すなわち遊女の舞のはじめである、と『源平盛衰記』にあるという。案ずるに、『新古今集』には、遊女、奥州という者の歌を載せていたと覚える。いずれにしろ、その始まりは、ずいぶん古いことであろう。

 また、傾城の号は、『前漢書』、外戚伝にいう。「李延年の妹は絶世の美女。

延年はこれを皇帝に侍らす。酒宴たけなわなる時、歌っていわく。北方に佳人有り、絶世にして独り立す。ひとたびかえり見れば、人の城を傾け、ふたたびかえりみれば、人の国を傾く。城と国とを惜しまざらん。佳人はふたたび得難し、と。この歌より、美人を傾城・傾国といい、後ついに妓の通称となる」。

 伊勢参宮は、太神へ参詣することをいう。内宮は、天照皇太神にて、宇治の郡

御裳濯川の上にまします。外宮は、豊受皇太神にて、度会の郡、山田原にまします。いずれも鎮座は、垂仁天皇二十六年冬十月という。

白浪の寄せる汀に身をやつし、海人がこの世をわびしく落ち下るように(中略)

日々の業因はいかなる前世のむくいによるのだろう

 白浪の寄せる汀とは、『新古今集』、「白なみのよする汀に世をすぐすあまの

子なれば宿もさだめず」、読み人知らず。この歌を取って、うかれ女の名に寄せて書いたものであろう。

 海人がこの世は、すなわち「あまが子」との掛詞である。業因は、前世でなし

た業を、今の世へ持ち来ることをいう。

神明のご加護によって、旅は必ずつつがなく運びましょう

 10 加護は、「まもりをくわえる」と訓ずる。『法苑珠林』に、「この加護方便を

為すことを得る」とある。つつがなく、の解説は前述。

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2010年7月14日 (水)

人間国宝による厳島神社能イベント!

現代最高の能役者、人間国宝友枝昭世師による
「第十四回友枝昭世厳島観月能」が、10/5
世界遺産である宮島厳島神社能舞台で開催されます。

昨年は「紅葉狩」。
舞台にありえない自然による奇跡が起こりました。
当方もその場におり、実際に体験しました。
場の霊力と舞手の神がかった芸の力によるものです。
今年は「八島」を舞われます。
どのような素晴らしい舞台となるか、予想もつきません。

さて今年も当方の能楽ガイド付で、観月能観劇ツアーを
企画しています。詳細は8月頭頃お知らせいたします。
能楽堂では絶対に味わえない、神々の競演。
ぜひ一度ご鑑賞してみてください!

(参照)第十三回厳島観月能レポート
http://bit.ly/aLsG8o
Tn20091015008201

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2010年7月10日 (土)

奥の細道行脚。第十三回「象潟」

P1010054 【おくのほそ道】

 海山川陸の佳景を見尽くした上、今、心は象潟へとせきたてられている。
酒田の湊より東北方面へ、山を越え、磯を伝い、砂子を踏んでその距離十里。
日影やや傾くころ、潮風がふいに真砂を吹き上げ、雨朦朧として 鳥海山を隠してしまう。暗中に莫索して「雨もまた奇なり 」とすれば、雨上がりの晴色、また楽しからずや、と海人の苫屋に膝を入れて雨の止むのを待つ。
 翌朝、天よく晴れ上がり、朝日はなやかに差し出でるころ、象潟に舟を浮かべる。まず能因島に舟を寄せ、能因法師三年幽居の跡を訪ねた。

 向かい岸に舟を上がれば、「花の上こぐ」と詠んだ桜の老い木、西行法師の記念が残る。

 水辺に御陵あり。神宮皇后のお墓だという。
 寺の名は干満珠寺。ここに行幸されたこと、いまだ聞かぬ。いかなることであろうぞ。

 この寺の方丈に座して、簾を巻き上げれば、風景一望の内に見渡され、南に鳥海山、天をささえ、その影が映って水上にあり。西は、むやむやの関 まで道が続き、東には堤を築いて、秋田へ通う道遥か。海は北にかまえ、波が江に入るところを汐こしという。
 入り江の縦横約一里。俤は松島に通じて、また異なるもの。松島は笑うがごとく、象潟は恨むがごとし。寂しさに悲しみを加えて、この地は魂を悩ますかのようである。

 象潟や雨に西施がねぶの花

鑑賞(雨に煙る象潟は、西施が長いまつげを伏せて眠る凄艶な美しさ、合歓の花を想わせる)


 汐越や鶴はぎぬれて海涼し

鑑賞(汐越の浅瀬をゆったり水遊びしている鶴。あの長い足なら着物も濡れず、江の内一里の涼しさをひとり占めできようものを)

祭礼

 象潟や料理なにくふ神祭 曾良

鑑賞(汐越の熊野権現の祭礼には魚肉を食わぬそうな。せっかくの名所のお祭にもったいないことよ)

美濃の国の商人
 蜑の家や戸板を敷て夕涼み 低耳(ていじ)

鑑賞(浜辺の海人の家では、今日も漁を終え、みなみな小屋の戸板をはずし、敷き並べて涼んでいる)

岩上に雎鳩(みさご)の巣をみる

 波こえぬ契ありてやみさごの巣

鑑賞(古人が「末の松山波も越えなむ」と固く契りを交わしたが、鳥類ですら夫婦となればあのような高い巌(いわお)の上にさえ巣をかけ、波も越せぬ一世の契りを誓うものか)

【曾良旅日記】

○十五日。象潟へおもむく。朝より小雨。吹浦に着く前より豪雨。昼頃、吹浦に雨宿り。この間、六里。砂浜に船渡し場が二ヶ所ある。佐吉の添え状が届く。晩方、番所へ書状に裏印をつき届ける。

○十六日。吹浦発。番所を過ぎると雨が降り出す。一里で女鹿。これより難所である。馬では通れぬ。番所に手形を納める。大師崎とも、三崎ともいう。一里半あった。小砂川 は直轄領。鶴が岡藩の預かり番所となる。入領に手形は不要。塩越まで三里。途中に関という村あり(これより
六郷庄之助殿 の領地である)。うやむやの関と呼ぶ。この間雨強く、はなはだ濡れる。船小屋に雨宿りする。
○昼におよんで塩越に着く。佐々木孫左衛門をたずね休む。衣類を借り、濡れ衣を干す。うどんを食う。地元の祭りで女客があるというので、向かいの旅籠にうつり泊まる。まず、象潟橋へ行き、雨暮れの景色をみる。今野加兵衛たびたび訪れる。

十七日。朝、小雨。昼より止んで日が照る。朝飯をとって、皇宮山蚶満寺へ行く。道々の眺望を楽しむ。帰ると地元の祭り行列が出る。通り過ぎ、熊野権現の社 へ行き、踊りを見る。夕飯が終わって、潟へ船を出した。
 加兵衛が、茶・酒・菓子など持参してくれる。帰って夜に入り、今野又左衛門 来訪。象潟の縁起などが絶えてしまったことを嘆く。翁も同感。弥三良低耳、十六日にあとより追いつき、方々へ同行する。

【奥細道菅菰抄】

今、心は象潟へとせきたてられている

 象潟は羽州由利郡にある。日本十景のひとつであり、当国第一の名所、佳景の地。八十八潟、九十九森あると言い伝える。江の形がきさに似ている。ゆえに、きさかたという、と。(きさとは、象の和名)また、蚶潟ともいう。

 蚶(かん)は小さな蝸牛(かたつむり)に似た貝。関東の子供がもてあそぶ、きさごというのがこれである。(上方では、しただみという)この江はいたって浅瀬であり、かろうじて蚶などが生育するのみ。それでこのように名付けたものらしい。(この地の寺を、蚶満寺と名付けたところからおして、
蚶潟を正字とすべきであろうか。なお以下にくわしくある)江中の広さ、松島になかなか劣るものではないが、舟を操るにはすべて棹を用いる。艪を立てることはない。これまたかけ離れたところである。もろこしの西湖も、大船を入れることはできない。ただ遊覧船のみという。この江と比較して語るべきであろう。

雨朦朧として鳥海山を隠してしまった。暗中に莫索して「雨もまた奇なり」とすれば、雨上がりの晴色、また楽しからずや、と海人の苫屋に膝を入れて

 「雨朦朧として」とは、『詩経』に、「楼閣朦朧たり細雨の中」という風情をあらわし、朦朧は、『円機活法』に、「日いまだ明らかならざるなり」とある。物がおぼろげに見えることをいう。

 鳥海山も由利郡すなわち象潟の上の山であり、高さは月山と拮抗する。年中雪に覆われる。祭神は、羽黒山と同じ。大物忌太神と称す。当国一の宮である。

 「暗中に莫索して」とは、俗に暗がりで、探ってみてもわかる、ということである。ここでは、ただ闇中に坐って、近辺を知りえぬことの形容と解釈すべき。

 「雨もまた奇なり」とすれば、雨上がりの晴色、また楽しからずや、とは、東坡の西湖の詩に、「水光斂灔として晴れ偏に好し。山色空濛として雨も又奇なり。西湖を捉えて西子に比せんと欲すれば、淡粧濃抹また相よろし」。
 この詩に取材したものである。この詩は本朝では必ず象潟の形容となる。ゆえに祖翁もまた象潟眺望の吟に、西施の寝顔を詠もうとして、まずかすかにその意を予告する。これは漢文にも尊ぶところであり、文書にもこの修辞法がある。またわが翁の文では、奇中の妙と呼ぶべきものである。

 「海人の苫屋に膝を入れ」とは、小屋の狭苦しい中に、ようやく坐るさまをいう。もともと象潟には海人の苫屋を詠む歌が多い『後拾遺集』、「世の中はかくてもへけりきさがたのあまの苫やをわが宿にして」、能因。
『新古今集』、「さすらふやわが身にしあればきさがたやあまの苫屋にあまたたび寝ぬ」、藤原顕仲朝臣。『方角抄』、「象潟や蜑の苫屋にきぬる夜は浦風寒みたづ鳴きわたる」の類である。

 「膝を入れる」は、陶潜の帰去来の辞に、「膝を容るるの之安じ易きをつまびらかにす」という文を取ったものである。

三年幽居の跡を訪ねた

 能因奥羽下向のことは、『袋草紙』に説がある。前述。能因幽居の句も右に記した。

「花の上こぐ」と詠んだ桜の老い木、西行法師の記念が残る

 「花の上こぐ」と詠んだ桜は、干満寺(かんまんじ)の境内、地蔵堂の前の汀に、水面へ伸び出して生えている。古木は枯れ、現在は若木である。西行の歌、
「きさがたの桜は波にうづもれてはなの上こぐあまのつり舟」。
 西行は、『和漢三才図会』によると、俗名、佐藤兵衛の尉藤原の憲清。秀郷九世の子孫、武衛
校尉、藤原の康清の子である。弓馬に達し、管弦を習い、和歌をよくする。奥州より出て、鳥羽法皇に仕え奉り、北面の武士となった。しかし、世を厭う心が起こり、ついに出家。円位と号す。後に、西行と名乗った。建久四年二月十五日入寂。

 記念(かたみ)の解説は前述した。

○象潟遊覧船のこと。明和二年常州水戸の三日坊五峰という俳人が、この象潟へ来た時、銭一貫文を奉納。永代この地にいたる風流の人へ、島々一見の船賃として、長途行脚の費用を負担した。その風流心に感ずるべきである。よって、今ここに贅し、世の中にその志を伝えるところである。

水辺に御陵あり。神宮皇后のお墓だという。寺の名は干満珠寺

 神功皇后は、人皇十四代仲哀天皇の妃、応神天皇の母君で、気長足姫と号す。干満珠寺は、別名干満寺ともいう。または、蚶満寺とも書く。禅宗で、千体仏を安置する。山門などあって、巍巍たる荘厳である。
○案ずるに、この寺は蚶潟のほとりにあるため、元は蚶満寺と号していたのだが、いつの頃よりか、干満と書き改める。やがて好事家が、神功皇后が三韓征伐の時、干珠満珠の二つの玉を携えたことを付会して、干満の下に珠の字を書き加え寺号となし、また、この二つの玉をここに埋めたとも伝えたのだ。(地元の説にいう)そして皇后の御陵をも造立したものであろうか。
 この近く、汐越川の中に、烏帽子岩という石があり、蕉翁行脚の時、「むかし誰岩に烏帽子をきせぬらんかたかたとしてよい男也」、という戯れ歌があったので、その後この石を蚶満寺の庭上に移し、親鸞上人の腰掛け石と名付けた、とする地元の話を聞いたものだ。その石はいまなお寺庭にあり、傍らに標札を立て、親鸞腰掛石と書いている。皇后の御陵もあるいはまた、この手の虚構であろう。

この寺の方丈に座して、簾を巻き上げれば

 方丈は、寺の勝手向きの間をいう。『釈氏要覧』にいう。「唐の顕慶二年、王玄索を西域に遣わせた。比耶離城に到る。維摩居士の石室あり。手板(笏のことである)でこの石室の縦横を測ってみると、笏の十の長さであった。ゆえに、僧室を方丈と名付けた」と。

 笏は(日本のしゃくのことである)元一尺を基準とした。(日本の手板を尺というのも、すなわちここから来ている)十笏は、一丈である。石室の縦横一丈ずつあったので、方丈という。(一丈四方)

 簾を巻くとは、王勃の滕王閣の詩に、「朱簾暮に捲く、西山の雨」という形容である。

西は、むやむやの関まで道が続き

 むやむやの関は、別名うやむやの関ともいう。その跡とされるところが二ヶ所ある。いずれも名所、「武士の出さ入さにしをりするとやするとやどりのむやむやの関」。

 また、うやむやの関と名付けたのは、ある説に、「この山に鬼神が住んでいた。折々出ては道を行く人を獲る。ここにうやむや(有や無や)と鳴く鳥がいて、その鬼神の有無を報せる。通行人は、鳥の鳴き声を聞き分け、鬼神の有無を判断して往き来した。ゆえに、うやむやの関という」と。この
関跡、一ヶ所は、象潟の南、小砂川という里と、汐越駅との間の海辺、関村というところ。ここであるとする。もう一ヶ所は、『歌林良材』に『八雲御抄』を引用していうところの以下の地点である。「むやむやの関は、陸奥と出羽との間にある。ただし、関は出羽よりに位置する。草木茂り、通行人は、枝折を目印に行くという。ここは、現在笹屋越えといって、出羽より陸奥へ行く山路。すなわち奥羽の境であり、今も木が鬱蒼と茂り、物さびしい場所である」。

○案ずるに、関の名を「むやむや」としたのは、元よりここに草木が、むやむやと生え茂っていたからであろう。ゆえに、旅人も枝折したのである。うやむやとは、音の聞き違いにより、有無の響きと結びつき、やがて鬼神のことなどを取り合わせた作り話であろうか。右にいう、羽州、関村のあ
たりは、海沿いの平地であり、山にほど遠く、昔であっても林木茂り通行人の迷うようなところではない。いわんや鬼神などの住む地であるはずもなく、「出さ入さにしをりする」と詠むべきいわれがない。しかれば、『良材集』の、陸奥と出羽の間、現在の笹屋越えなるものを、この関の正しい場所としたい。汐越は、あら海より象潟へ、潮の行き来する川の名で、橋がかかる。しほこし橋という。南北の人家を汐越町といい、秋田への街道の宿駅である。

象潟や雨に西施がねぶの花

 この句に、西施が立ち入ったいわれは、前にくわしく記した。また、『尺牘無雙魚』に、「道の傍ら雨中の花を見る。湘娥、面上の啼跡彷彿たり」とある。この句の面影に似ていようか。

汐越や鶴はぎぬれて海涼し

 この句、翁の自筆が現在汐越町庄官のもとに残り、五文字が「腰だけや」となっている。しほこし川の中ほどに、腰だけと呼ぶ浅瀬がある。そこに鶴が舞い降りたのを見ての即興であると言い伝える。


7/13(火)「奥の細道」講読会↓
http://bit.ly/alUNRw

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2010年7月 6日 (火)

奥の細道行脚。第十二回「羽黒」

2 【おくのほそ道】

 八日、月山に登る。木綿しめ を身に引きかけ、宝冠に頭を包み、強力と
いうものに導かれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏んで登ること八里。この
まま日月の軌跡に乗り、雲関に入ってしまうのではないかと不安となり、
息もあがり身も凍えて頂上に至れば、日は沈み月が現れる。笹を敷き、篠
を枕に伏して、夜明けを待つ。日が出て雲が消えたので、湯殿山へと下った。

 谷のかたわらに鍛治小屋 というものがある。この国の鍛治は、霊水を選
び、ここに潔斎沐浴して剣を打つ。最後に「月山」と銘を切り、世間に賞せ
られる名刀となる。かの竜泉に剣を鍛えると聞く、干将・莫耶の故事 にな
らうものか。道の達人、執心浅からぬことを思い知らされる。岩に腰掛け
しばらく休んでいると、三尺ほどの桜のつぼみが半ば開いている。降り積も
る雪の下に埋もれても、春を忘れぬ遅桜の花の心がいじらしい。炎天の梅花 、
ここに香るようである。行尊僧正の歌 の哀れも思い出され、それにさえ勝
って感じられる。そもそもこの山中の詳細は、行者の法度として他言を禁じ
ている。よって筆をとどめ、記すわけにはまいらぬ。坊に帰れば、阿闍梨の
求めに応じて、三山巡礼の数句短冊に書く。


 涼しさやほの三か月の羽黒山


鑑賞(すっとした三日月が、黒々とした羽黒山にかかっている。里に下りて
もなお高山の冷気が思い起こされ清々しいものだ)


 雲の峰幾つ崩れて月の山


鑑賞(昼間は湧き上がる入道雲の峰に隠されていたが、夜となって冴え冴えと
月光が雲を割り、厳かな山の峰を顕した)


 語られぬ湯殿にぬらす袂かな


鑑賞(法度により語ってはならぬ湯殿山中の神々しさを、思うにつけてもあ
りがたく、袂もこうして濡れるのだ)


 湯殿山銭ふむ道の涙かな 曾良


鑑賞(山中の禁制に地に落ちたものは、拾ってはならぬという。道に落ちた
賽銭の上を無心に歩む道者の尊さに自ずと感涙をもよおすばかり)


【曾良旅日記】

○六日。天気よし。登山する。三里で強清水 。二里で平清水 。二里で高
清水に着く。ここまでは馬でも登れる道である(人家、小屋がけあり)。弥
陀原 に小屋あり。昼食をとる。(ここから、補陀落、にごり沢、御浜など
へかかるという)難所となる。御田がある。行者戻り には小屋がある。申
の上刻、月山頂上に至る。まず御室を拝して、角兵衛小屋に行く。雲が晴
れて、御来光は見えなかった。夕方には東に、明け方には西に見えるとい
う。

○七日。湯殿山へ行く。鍛冶屋敷に小屋あり。牛首 (これより本道寺へも、
岩根沢 へも行ける)に小屋あり。不浄垢離の場、ここで水浴びする。少し
行ったところで草鞋を履き替え、木綿締めをかけなどして湯殿山神社神前
に下る(神前よりすぐのところに注連掛口(しめかけ)の注連寺・大日坊 を
通って鶴が岡へ出る道がある)。ここから奥は、所持した金銀銭を持って
帰ることはできない。下に落としたものすべて、拾うことも禁じられる。
浄衣・法冠・木綿しめだけで行くのだ。昼時分、月山に帰る。昼食をとり、
下向。強清水まで光明坊から弁当を持たせ、逆迎えにくる。日暮れに及ん
で南谷に帰る。はなはだ疲れる。

△草鞋脱ぎ替え所より、志津 というところへ出て、最上へ行く。
△道者坊 に一泊。宿賃は、三人で一歩。月山では一夜宿。小屋
賃、二十文。あちこちの拝観料が二百文以内。賽銭も二百文以内。あれや
これやで、銭は一歩もあまらなかった。


【奥細道菅菰抄】

木綿しめを身に引きかけ、宝冠に頭を包み、強力というものに導かれて(中
略)日月の軌跡に乗り、雲関に入ってしまうのではないかと不安となり(中
略)日は沈み月が現れる

月山・湯殿に登るには、潔斎修行しなければ許されない。

木綿しめは、こよりで仕立てた修験袈裟のこと。当山へ登る人は、潔斎中よ
り下山まで、これを襟にかける。この木綿しめ、および旅硯・銭袋・蓑笠な
ど、後に翁の門人、惟然坊に伝わり、その弟子、播州姫路千山に帰属する。
千山の子、寒瓜が、同国増位山に風羅堂を造立し、これらの調度ならび、惟
然坊作の翁の木像を納めた。

宝冠は、白い布で頭を包むことをいう。

強力は、修験の弟子で、笈などを担がせ従わせた者。すなわち登山の案内先
達である。ゆえに、別名先達ともいう。

 日月の軌跡に乗り、雲関に入るとは、『詩経』に、「平歩雲霄に入る、
というがごとし」。高山に登るさまを、雲を凌ぐ、とたとえたのだ。雲関は、
道家の説に、天上の六関などという。(例が多いので他は記さず)

谷のかたわらに鍛治小屋というものがある(中略)かの竜泉に剣を鍛えると聞
く、干将・莫耶の故事にならうものか。道の達人、執心浅からぬことを思い
知らされる

鍛治は、本字、鍛冶。たんやと読むべき。日本の俗字、瑕治と混同し、その
音にて誤って綴ったものであろう。月山の鍛冶小屋は現在後嗣が絶え、ただ
名のみ残って、道者の宿となっているばかり。

 竜泉に剣を鍛えるとは『史記』、荀卿の伝の註、晋の太康の地理記にいう。
「汝南の西、平原に、竜淵水あり。刀剣を用いて淬すべし」とある。淬すと
は、俗にいう水で刀を鍛えることである。

 干将(かんしょう)・莫耶(ばくや)は、いにしえの鍛冶の名工の名。『呉越
春秋』にいう。「干将は呉の人である。欧冶子と同じ師につき、闔閭(こうり
ょ)より二本の剣を作るよう命ぜられる。その一を干将といいい、二を莫耶と
いう。莫耶は干将の妻の名である。金鉄を炉に入れたが、なかなか溶けぬ。
干将夫妻は、すなわち髪を断ち、指を切って、炉中に投じる。たちまち溶け、
ついに剣となった。陽剣には干将が亀紋を刻み、陰剣には莫耶が縵様を入れ
る。干将は陽剣を隠し、陰剣をもって闔閭に奉じた」。『太平広記』にいう。
「干将・莫耶の剣はすべて銅をもって鋳る。鉄ではない」と。

炎天の梅花、ここに香るようである

 この句はきっと出典があるはずだ。いまだ判明せず。
(訳者注 『禅林句集』(坤巻)の中の「雪裏芭蕉摩詰画。炎天梅蘂簡斎詩」に
よる。「雪裏芭蕉摩詰画」は、雪の中の芭蕉の株は摩詰(唐代の詩人・画家)が
描いたもの、「炎天梅蘂簡斎詩」の、炎天の梅花は簡斎(宋代の詩人)が詩で
詠んだものといった意味である。「雪裏芭蕉」と「炎天梅蘂(花)」は、いずれ
も現実には見られないもの。ところが、禅宗ではこれを鍛錬によって心眼で見
えるものとし、一般には珍しいものの例えとされている)

行尊僧正の歌の哀れも思い出され

 行尊は『元享釈書』にいう。「諫議大夫。行尊は源の基平の子である。十二
の年、三井寺の明行に預け、出家させられる。もとより托鉢修行を好む。十
七の年、ひそかに園城寺を出て、名山霊区を跋渉する。永久四年、園城寺の
長吏に補せられる。保安四年、延暦寺の座主を任じ、長承三年、勅を受け衆
僧の上座となる」と。

 僧正は、日本の僧爵。(行基より始まることは前述)

 歌の哀れとは、『金葉集』に、大峰にて思いがけず桜の咲く景色を見て詠む、
とある。
「もろともにあはれと思へ山ざくら花より外にしる人もなし」行尊。

湯殿山銭ふむ道の涙かな 曾良

 この山中の掟で、下に落ちた物を拾うことはできない。ゆえに道者の投げ捨
てた金銀は、小石のごとく、銭は土砂に等しい。人は、その上を行き来する
のだ。

芭蕉の名言講座 7/14より
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2010年7月 5日 (月)

きのふの我に飽くべし。松尾芭蕉

Okunofront_300 俳聖芭蕉の名言、「きのふの我に飽くべし」。

師にもよらず、流派にもよらず、素質にもよることは決してない。ただ、日々句を案じ、吟じ続け、あれもだめ、これもつまらない、と昨日の句、昨日の自分自身に"飽きる"ことが、名人につながるただ一筋の道である、と芭蕉は説きます。
いくら上達して、名人といわれようとも、自分に満足してしまえば、そこですべては終わってしまうのです。
最晩年のチャップリン、「あなたのこれまでの最高傑作は?」という質問に、「もちろん、次回作だ」とウィンクして答えたといいます。

芭蕉名言講座
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2010年7月 2日 (金)

「一期一会」の意味は?

Rakuten 「一期一会」は、千利休の茶道書『山上宗二記』が初出の言葉です。その本当の意味は、「一生に一度のチャンス」ではなく、「毎日会う人をこそ、大切にせよ」ということ。

客の振る舞いこそ、一座建立の要である。普段の茶会であっても、露地に入り、露地より出づるまで、一期に一度の会と思い、亭主を畏敬することである。
(山上宗二記 現代語全文完訳 2006 能文社)

名言名句の講座あります。
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