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2010年6月29日 (火)

奥の細道行脚。第十一回「立石寺」

【おくのほそ道】

 山形 領内に立石寺 という山寺がある。慈覚大師の開基であり、ことに清浄閑寂の地である。一見の価値ありと人々も勧めるので、尾花沢よりとって返す。その間七里ばかりであった。
 日はいまだ暮れぬ。麓の坊に宿を取っておき、山上の堂に登る。岩に巌を重ねて山とし、松栢年を経、土石老いて苔なめらかに、岩上の僧院はみな扉を閉じ、物音一つ聞こえず。崖をめぐり 、岩を這って 仏閣を拝し、佳景寂寞として心が澄み行くばかりの心地がする。


 閑さや岩にしみ入蝉の声


鑑賞(人の気配も絶え、静寂無音の真夏の山寺。時間さえも止まり、ただ蝉の声だけが苔むした岩にしみ透っていくようだ)


【曾良旅日記】

○二十七日。天気よし。辰の中刻、尾花沢を発ち、立石寺(りゅうしゃくじ)へとおもむく。清風より馬で館岡 まで送られる。尾花沢から二里で本飯田 。
一里、館岡。一里、六田 。馬継ぎのところで内蔵 に会う。二里余、天童 (山形へ三里半)。一里半足らずで、山寺 。未の下刻に着く。参拝者用の宿をとる。当日、山上・山下の巡礼が済む。ここから山形へ三里。
山形へ行こうとするが、中止。ここから仙台への道がある。関東道を九十里余りとなる。


【奥細道菅菰抄】

山形領内に立石寺という山寺がある。慈覚大師の開基であり、ことに清浄閑寂の地である

 山形は、最上郡の城下で、町の長さは二里ばかりである。現在の最上郡は、この山形のみであるとか。立石寺、俗に山寺という。村山郡最上川の東の山だ。麓の里を、山寺村と呼ぶ。現在、官領の地。立石寺は、千五百石を領し、武州東叡山に属す。慈覚大師入定の地という。山中にその跡あり。
 坊舎多く、様々の奇岩があり、絶景の地である。

 慈覚大師は、名を円仁という。『元享釈書』にいう。
「釈の円仁、姓は壬生氏。野の下州、都賀郡の人である。延暦十三年に生まれる。九歳にして、同郡大慈寺、僧広智に仕え、十五歳で伝教を師とする。
 二十三歳、和州東大寺にて具足戒を受けた。承和五年、遣唐使藤原常嗣に従って入唐。十四年帰朝。仁寿四年四月、叡山の座主に任ぜられる。
 貞観六年正月十四日、入寂。享年七十二。八年、諡慈覚大師を賜った」。

○山寺の地元民に伝承がある。慈覚大師には悪運がついていたと。(俗にいう剣難である)世人は伝える。この因縁を持つ者は、必ず刃傷沙汰を起こすのだ。これを悟り、大師は常に恐れ慎んでいた。はたして大師が立石寺にて入寂の後、叡山と葬所の争いが起こり、叡山より衆徒ども来たって、ついに大師の首を斬り、叡山へ持ち帰ったと伝えている。

松栢年を経

 栢(はく)は、柏の俗字で(今一般に、柏をかしわと訓じているが、はなはだしい誤りである。理由は下に述べる)中国の柏は種類が多い。『本草綱目』に詳しい。(日本では、檜のこととも、あすなろの木のことともいっており、はっきりしない)一説によると、栢の字をかや、と訓ずるのは誤りであると。かえ、と訓ずるべきであろう。(すなわち柏の和訓)かえぬの木の略であり、この木は秋になっても黄葉しないからである。かやは、かやりの木の略で、榧の字を用いる。この木を蚊遣りとするためという。

崖をめぐり、岩を這って仏閣を拝し、佳景寂寞として心が澄み行くばかりの心地がする

 崖をめぐりとは、境内右の山に、胎内潜りという岩がある。岸壁の飛び出した下を背をかがめてくぐるのだ。この岩へ行くには、はしごを登り、鉄の鎖にすがる。胎内潜りを抜け出したら、しばしの間、岩の端をつたい歩く。はなはだ危険な箇所である。これらをいう。
 岩を這うとは、左の山の出先に、天狗岩と呼ぶ、恐ろしい大岩石が直立する。これへの道は、斜めになった磐石を十間ばかり登るのだ。石の表面は滑らかで上を歩けるものではない。ただ腹ばいとなって(俗に四つんばいという)やっと登ることができる。これをいう。
 閣は、『正字通』に、「楼観である」としている。仏殿の巍巍たるを称した名であろう。寂寞は、二字ともに、さびし、しづかとも訓ずる。法華経、法便品に、「寂寞として人声無し」とある。一般に、しんしんとする、という意味。ものの静かな様子である。

閑さや岩にしみ入蝉の声

 年忌の年であろうか、最上林崎駅の壺中という俳士が、この山中に翁の塚を築き、この短冊を埋めて、蝉塚と名付けた。


『奥の細道 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 全現代語訳』能文社 2008
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2010年6月27日 (日)

6/28(月)寺子屋素読ノ会「奥の細道」

明日、6/28(月)夜、寺子屋素読ノ会あります!「奥の細道」17:30-19:00、「南方録」19:30-21:00。初参加、途中受講大歓迎です!どうぞお気軽に新橋生涯教育センターまでお越しくださいね。
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2010年6月26日 (土)

奥の細道行脚。第十回「松島」

Thumb5  五月九日(新暦六月二十五日)、芭蕉一行は今回の旅の目的地のひとつである、松島に到着。感極まった芭蕉は、ここでは句をよんでいない。代わりに、松島賛美の文を堂々たる漢文調「賦の体」で記します。

 平泉では奥州藤原三代のいにしえに涙し、「夏草やつわものどもが」の句を得、盗賊の出る山刀伐峠を命からがらに越して、当初予定になかった山寺(立石寺)へ五月二十七日(新暦七月十三日)巡行。巍巍たる禅刹の威容に、

「閑かさや岩にしみいる」

の名句を得ます。

 かくて奥州の真中を横断し、行者姿となって羽黒山、出羽三山に登頂、祈念。
 修験道最高の霊場にて生まれ変わり、新たな生を授かる。
 一行は日本海側酒田にはじめて出、最上川の激流に翻弄されて下り、ついに象潟へ棹を差します。日本第一とされたこの名勝は、江戸文化年間の大地震で永遠に失われてしまいました。その面影を、ここでも芭蕉屈指の名文により、彷彿とできる喜びをかみしめたいと思います。


●松島

【奥の細道】

 そもそも言い古されたことではあるが、松島は扶桑第一の佳景であり、およそ洞庭、西湖 に恥じぬ。
 東南より入り江となり湾の内は三里、浙江のごとき潮をたたえる。島という島がここに集まり尽くして、そばだつものは天を指さし、伏すものは波に腹這う。あるものは二重にかさなり、三重に畳んで、左に分かれ右に連なる。背負う形、抱く形あり。児孫をあやすかのように見える。
 松の緑こまやかに、枝葉は潮風に吹きたわめられ、自然が曲げ、伸ばした作品のようである。その景色神秘的にして、美人の顔を粧う 。
ちはやぶる 神の昔、大山祇の成せるわざか。この天然の造形に、筆をふるわず、言葉を尽くさぬものなどいようか。

 雄島の磯は、地続きで浜から海に出た島である。雲居禅師の別室跡、座禅石などがある。
 また、松の木陰に世捨て人の住処もまばらに見えて、落穂・松笠などの煙たなびく草庵にひっそりと住む。どこの誰とも知りはしないが、まずなつかしく立ち寄れば、月が海に映り、昼の眺めとはまたあらたる。

 浜辺に戻り、宿を求めれば、窓を開いた二階建て。風、雲の中に旅寝してこそ、あやしいほどに妙なる心地となろうもの。


 松島や鶴に身をかれほととぎす   曾良


鑑賞(古歌に、千鳥が借りたという鶴の毛衣。この松島の絶景に、ほととぎすもその化粧を借り、美々しく鳴き渡ってくれればよいが)


 私はただ口を閉ざして眠ろうとするが、眠れるものではない。旧庵を別れるとき、素堂に松島の詩 を、原安適に松がうらしまの和歌を餞される。袋を解いてこれを今宵の友とした。また、杉風、濁子の発句もる。


【曾良旅日記】

一 九日。快晴。辰の刻、塩竈明神参拝。戻って出帆する。千賀の浦・籬島・都島 等諸所遊覧し、午の刻松島に着船。茶など飲んでから瑞岩寺詣で。残らず見物した。開山は法身和尚(真壁平四良)である。中興は雲居。法体の北条時頼がこもった岩窟あり。無相禅窟の額があった。

 これより雄島(御島と書くところもある)をあちこち見る(富山も見えた)。御島には、雲居の座禅堂あり。その南に、一山一寧の碑文があった。北に庵あり。修行者が住むようだ。帰った後、八幡社・五太堂 を見る。慈覚大師の作。松島に宿泊する。久之助方。
加衛門の案内状だ。

【奥細道菅菰抄】

そもそも言い古されたことではあるが、松島は扶桑第一の佳景であり、およそ洞庭、西湖に恥じるものではない。東南より入り江となり湾の内は三里、浙江のごとき潮をたたえる

 そもそも(抑)は、和文においては、さて(扨)、という言葉の重いものであり発端に用いられる。漢語の抑とは意味が違う。

 扶桑は、いにしえより日本の異名として使われてきたが、実は別の国の名である。『准南子』の註に、「扶桑は東方の野なり」。『楚辞』の註に、
「扶桑は木の名である。その下より日がでる」。
 『和漢三才図会』に、
「扶桑国は大漢国の東にあり、その地には扶桑の木が多い。葉は桐に似て、実は梨のごとく」
 という。これらである。ただし、ここ(奥の細道本文)では、俗言にしたがって日本のこととみるべきである。

 第一とは、松島はどの島にも松の木ばかりがあり、他の木はない。ゆえに、第一と称えたのだ。

 およそ(凡)は、『辞書』では、皆と註する。一般にいう総体と同じ。

洞庭は、中国で名高い山水の地である。洞庭湖あり(別名太湖)。半分は潭州に属し、半分は岳州に属すという。

 西湖は、鄂州にある。これらの風景は、王弇州の『四部稿』、および『熙朝楽事』等にくわしく載る。

 浙江は、中国三大江の一である。『字彙』にいう。

「浙江は銭搪にあり、歙県の玉山より出る。河水が逆流して激しく、湾口に波を巻き上げることにより、浙江と呼ばれた」

 と。日本の九州の西に当たり、日本へ往来する船舶の港。繁華の地であり、なおかつ景色無双であるという。その潮を称えて『詩経』に、

「廬山の烟雨、浙江の潮。いまだ到らざれば千般すれども、恨み休ませず。到り得て帰り来たれば別事なし、廬山の烟雨、浙江の潮」

 とある。

○一考すると、松島は日本第一の絶景の地であるため、特別にこれを称讃するべく、ここの段落はしばらく文法を変え、賦の体となした。ゆえに文頭に、そもそも(抑)の字を置いて、稿を改めたのは、史記列伝の始め、伯夷の伝の頭に、それ(夫)の字を置いたのと同様である。翁の文飾の巧みさを、これらのことに目をつけて、よくよく考えてみるべきであろう。

そばだつものは天を指さし、伏すものは波に腹這う

 この両句は、島と岩の形容である。そばだつの元の字、「欹」は、あるいは「倚」と通ずるか。偏り、立つことである。腹這う(匍匐)は、両手をついて腹ばうことをいう。『詩経』の大雅に、

「誕にまことに、匍匐す」

 とある。

児孫をあやすかのように見える

 杜甫の望獄の詩に、「諸峰羅立して、児孫に似たり」とある。

美人の顔を粧う。ちはやぶる神の昔、大山祇の成せるわざか。この天然の造形に、筆をふるわず、言葉を尽くさぬものなどいようか

 美人の顔を粧う、とは、東坡の『西湖の詩』に、「西子に西湖を把えて比せんと欲すれば、淡粧濃抹また相よろし」とする意味である。

 西子とは、西施のことである。越王勾銭の臣、茫蠡が、呉王夫差に贈った美人の名である。

 淡粧濃抹は、薄化粧、または濃く化粧することをいう。

 ちはやぶるとは、『百人一首季吟抄』に、「ちはやぶるとは、神を詠む時の枕詞である」という。
 この他にも諸説あったが用いなかった、と定家卿の説があることを伝える。考えみれば、この説には、埒がない。ある神書では、ちはやぶるを千釼破(せんけんは)と書いて、素盞鳴尊を神々が攻めた時、尊が埋め隠しておいた千の剣を踏み、破り捨て、ついに尊を屈服させたなどといっているが、これまた様々な説がある。私にも管見がなくもないが、その家の者ではないので、しばらくこれを捨て置く。

大山祇は、大山祇の神をいう。山の神ゆえに、成せる業と申されたのであろう。(この神の出生の話は日本書紀に見える。ここでは不要のためくわしくは記さぬ)

雲居禅師の別室跡

 雲居禅師は、真壁平四郎の家人、沢庵と同時代の人である、という。伝説未詳。平四郎のことは以下にある。

窓を開いた二階建て。風、雲の中に旅寝してこそ、あやしいほどに妙なる心地となろうもの

 この段は、『詩経』の

「軒窓を月のため開くという。いずくんぞ似たる、山中白雲に臥すことを」

 などという風情に着想を得たものである。文、簡にして尽くした、と称えるべきであろう。妙なるは、奇妙な、という意味。

松島や鶴に身をかれほととぎす 曾良

 この句の趣向は、古歌を踏むと見る。今、失念してしまった。
(訳者註 鴨長明『無名抄』で取り上げられている祐盛法師の歌をいったもの。寒夜千鳥と云う題に、「千鳥も着けり鶴の毛衣」と詠んだ)

素堂に松島の詩を、原安適に松がうらしまの和歌を餞される。(中略)杉風、濁子の発句もある

 素堂は、隠者の山口氏。初めは信章、中頃来雪、晩年に素堂と称した。芭蕉の親友である。(一説では、俳諧も翁と同門であったとする。最初、信章と称していたことを考え合わせると、あるいは元、信徳の門人ではあるまいか)

 原安適は、医者で深川に住む。歌人であり、この人も翁の友である。その息子は鈴木庄内といって、県令の小吏を勤めて死んだ。その息子、庄右衛門という者も父親に先立ってしまい、今は跡がない。

 杉風のことは最初に述べた。濁子も翁の門弟である。


★奥の細道講読会「寺子屋 素読ノ会」6/28(月)
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2010年6月25日 (金)

奥の細道行脚。第九回「飯塚」

【奥の細道】

 その夜は飯塚泊。温泉があるので湯に入り宿を借りると、土間に莚を敷いた卑しい貧家であった。灯火もなければ、囲炉裏の火陰に寝床をもうけて伏す。夜に入って、雷鳴雨しきりに降る。伏せる上から雨漏りはする、蚤、蚊に責められては眠れず。持病さえ起こってしまい、気も失せるばかりとなった。
 短夜の空、ようよう明ければ、また旅立つ。なお夜の苦痛が尾を引き、心進まず。馬を借り桑折の駅に出た。遥かな行く末をかかえて、このような病ではおぼつかなしとはいえど、覉旅辺土の行脚、捨身無常の観念。道端に死のうと、これ天命なりと気力いささか取り直し、道縦横に踏んで伊達の大木戸を越す。


【曾良旅日記】

一 瀬上より佐場野に行く。佐藤庄司の寺がある。寺門からは入れぬ。西へ回る。堂がある。堂の後方には庄司夫婦の石塔。堂の北はずれに兄弟の石塔。そのかたわらに竹が生えている。兄弟の旗棹を差したので、はた出しと呼ばれている。毎年、二本ずつ同じように生えてくるという。寺には判官殿の笈、弁慶の書いた経典などがある由。系図も残るという。

 福島より二里。桑折よりも二里。瀬上より一里半。川を越え、十町ほど東に飯坂 というところがある。湯が出る。村の上には庄司の館跡。下りは、福島より、佐波野・飯坂・桑折と行くべし。上りは、桑折・飯坂・佐場野・福島と出たという。昼より雲って夕方より雨となる。夜に入り、強くなる。飯坂に泊まり、湯に入る。

一 三日。雨降り。巳の上刻に止む。飯坂を発つ。桑折(伊達郡の内)へ二里。時折小雨。

一 桑折と貝田の間に伊達の大木戸は位置する(国見峠という山あり)。越河と貝田との間に福島領(今、桑折より北は代官の地)との国境がある。左手に重ねた岩あり。大仏石というそうである。斎川より十町ほど手前に馬牛沼・万牛山あり。その下の道に鐙毀(あぶみこわし)という岩あり。二町ほど下って右手に継信・忠信の妻の御影堂 がある。同夜、白石宿。一二三五。


【奥細道菅菰抄】

馬を借り桑折の駅に出た

 桑折は往還の宿。名所にあらず。

覉旅辺土の行脚、捨身無常の観念

覉旅および行脚は、前掲。辺土は、片田舎の土地である。捨身は、道のため身命を顧みぬことをいう。無常は、定めのないことをさし、いずれも儒仏家の用いる語。観は、心眼で見ること、念は心に絶えず思い続けることである。

伊達の大木戸を越す

伊達郡の入口。要塞の地、領主の封関(ほうかん)をもうける。


 次回、七月に芭蕉一行は、壺の碑に千年の歴史をまざまざと見、旅の前半のお目当て「松島」に到着予定。奥州藤原三代の栄華の夢を平泉でたどりつつ、「閑かさや岩にしみいる」の句を得た、立石寺から、羽黒山で魂の巡礼へと向かいます。


『奥の細道 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 全現代語訳』能文社 2008
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2010年6月22日 (火)

奥の細道行脚。第八回「しのぶの里」

P1040196 【奥の細道】

 明けて、しのぶ文字摺りの石を尋ね、忍ぶの里に行く。遥か山陰の小村に石がなかば埋もれて出ている。里の童が来て教える、
「昔はこの山の上にありました。往来の人が、畑の麦の葉を荒らしては、この石で摺って試すので、これを憎みこの谷に突き落としたのです。それで石の表面が下となってこのように埋まってしまいました」。
 そういうこともあるのだろうか。


 早苗とる手もとや昔しのぶ摺


鑑賞(早苗をとる早乙女たちの手もとをみれば、昔この石で文字摺りをしたゆかしい習慣がしのばれるのではあるが)


【曾良旅日記】

 二日。快晴。福島を出る。町外れを十町ほど行くと、五十辺村の外れに川がある。この川は越えず右手へ七、八丁行って阿武隈川を船で渡る。岡部の渡しという。ここから十七、八丁山の方へ行くと谷間に文字摺りの石があった。古い柵がある。草葺観音堂あり。杉、檜六、七本。虎の清水という小さく浅い泉がある。福島の東方。このあたりを山口村という。ここから瀬上へ行くには、岡部の渡し下流の月の輪の渡しより越えることになる。ここを渡れば十四、五丁で瀬上に着く。山口村から瀬上までは二里ほどである。


【奥細道菅菰抄】

福島に泊まる…
しのぶの里…
明けて、しのぶ文字摺りの石を尋ね、忍ぶの里に行く

福島は、往来の駅で板倉家の館下である。絹を産する。世に福島絹と呼ぶ。
ここから、しのぶの里にいたるまで、すべて信夫郡となる。

文字摺りは、『古今集』、「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆへにみだれんとおもふ我ならなくに」、河原左大臣。
『後拾遺集』、「君にかくおもひみだるとしらせばやこころの奥のしのぶもぢずり」、後法性寺関白。などという、証歌が残り、名物である。(今、福島よりもぢずりという染め絹を産出する。模様は石目、または紅縞でしのぶ草の葉で染める)

『童蒙抄』にいう。「もぢずりとは、陸奥信夫郡で摺りだす、摺染めの名。摺り重ね、乱れ紋様を打ち出す」。

栄雅の説によると、信夫郡に大石が二つあったという。石の表面は平らで、捩れた紋様がある。これに押し当て藍で染め出した布を、むかし年貢に奉った。天智天皇の御代のことである。

『八雲御抄』では、忍ぶ草を紋様にした摺り染めであるという。

『奥の細道 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 全現代語訳』能文社 2008
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2010年6月20日 (日)

奥の細道行脚。第七回「白川の関」

【奥の細道】

 こころもとなく日数を重ねるままに、白川の関 にかかり旅心が定まった。古人が「いかで都へ」と便りを求めたのも道理である。中でもこの関は、奥羽三関の一で、風騒の人は心ひかれるところ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢なおあわれである。卯の花の白妙に、茨の花の咲きそえて、雪の中をこえるような心地がする。古人が冠を正し、衣裳をあらためた故事など、清輔の筆にもとどめ置かれたと聞く。

 卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良

鑑賞(古人が正装して越えた関という。われら風狂の旅人であれば、今を盛りに咲き誇る卯の花をかんざしに差し、これを晴着にこの関越えるがふさわしかろう)


【曾良旅日記】

○白河の古関跡は、簱の宿の下へ一里ほど下野にある。追分というところに関の明神があるという。相楽乍憚より聞く。以下、丸印の文は乍憚よりの聞書き。
○忘れず山は、今は新地山という。但馬村というところより半道ほど東に行く。阿武隈河の側。
○二方の山は、今は二子塚村という。右、忘れず山より阿武隈河を渡って行く。二ヶ所とも関山より白河方面にあり、旧道となる。二方の山を詠んだ古歌がある。

 みちのくの阿武隈河のわたり江に
人(妹とも)忘れずの山は有りけり

○うたたねの森は、白河からも近く、鹿島神社からも近い。今は木が一、二本残るのみ。

 かしま成うたたねの森橋たえて
いなをふせどりも通はざりけり
(八雲御抄にあるという)

○宗祇(そうぎ)戻し橋は、白河の町より右手(石山からの入口である)、鹿島へ行く道のえた町にある。その片側に、なるほどそれらしき橋があった。むかし、結城氏 が何代目かに白河を知行したおり、一門衆が寄り集まって、鹿島で連歌興行 を催した。この時、難句あり。三日経っても誰にも付け句できない。旅行中の宗祇が宿でこれを聞き、鹿島へ行こうとすると、四十がらみの女がやってきて、宗祇に
「何用にて、何処方(いずかた)まで」
 と問う。右の由、説明すると、女、
「それは、妾、さきほど付けました」
 と答えて消えた。

月日の下に独りこそすめ

 付句
 かきおくる文のをくには名をとめて

 と、書いてあったので、宗祇は感じ入り、その橋から引き返したと伝える。


【奥細道菅菰抄】

白川の関にかかり

この関は、奥州の入口、宮城郡の名所で古歌も多い。
○調べてみると、白河の手前、白坂という駅の南に、下野と陸奥との境がある。境の明神といって、ここに二社が立ち並ぶ。南を下野、北を陸奥の社であるという。ここが、あるいは昔の関跡ではなかろうか。今、白河といっているのは榊原家の城下にある宿駅のことである。

「いかで都へ」と便りを求めたのも道理である

『拾遺集』、「便りあらばいかで都へ告やらんけふ白川のせきはこゆると」、平兼盛。

三関の一で

旧説によると、逢坂・鈴鹿・不破を三関という。白川の関を三関の一とすること、いまだ聞かず。

風騒の人

本字は「風繰」と書き、風雅に遊ぶことをいう。あるいは、通称にて、風藻、風操とも書いている。

秋風を耳に残し

『後拾遺集』、「都をば霞とともに出しかど秋風ぞふくしら河のせき」、能因法師。
清輔の『袋草子』にいう。
「能因、実際奥州に下向してはいなかった。この歌を詠むために、ひそかに篭居(ろうきょ)。それで人々に能因は奥州にいった、と風聞をたてさせたとか。二度下向しているともいう。一度くらいは行ったのであろうか。八十島記を書いた」と。
『古今著聞集』にいう。
「能因は際立った数寄者で、この歌を都に居ながらにして出したのでは能がない、と考えた。人に知られず久しく籠って、自宅で日に当たり日焼けした後、陸奥の方へ修行に出かけた途路に詠んだもの、と披露した」。

紅葉を俤にして

『千載集』、「もみぢ葉の皆くれないに散しけば名のみ成けり白川の関」、左大弁親宗。

青葉の梢なおあわれである

「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉ちりしくしらかはのせき」、頼政。
ただし、本文のあわれは、「頼政の身のなれはてはあわれなりけり」、と詠んだあわれのごとく、天晴れという意味である。

卯の花の白妙に

『千載集』、「見て過ぐる人しなければうの花の咲(さく)る垣根やしら河の関」、藤原季通朝臣。

茨の花の咲きそえて

読み解くと、この句前後の言葉はすべて、古歌故事を折りはさんだ、ひたすら優美のみで、いわば歌人の文に似ているが、この一句をはさむことにより、すべてが俳文となったのだ。文章を学ぼうとする人、これを亀鑑(きかん)とすべきであろう。

雪の中をこえるような心地がする

『千載集』、「東路も年も末にやなりぬらん雪ふりにけり白川の関」、僧都印性。

古人が冠を正し、衣裳をあらためた故事など、清輔の筆にもとどめ置かれたと聞く

清輔の『袋草子』にいう。
「竹田の大夫国行という者、陸奥下向の時、白川の関を越える日は、ことさら装束を飾りつくろい、向かったと伝える。ある人が、その理由を聞いたところ、答えて、古曾部の入道が、『秋風ぞふく白川の関』と詠まれたところを、なぜ普段着などで通れようか、といった。殊勝なことである」。(古曾部の入道は能因のこと。伝来は以下にある)

『奥の細道 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 全現代語訳』能文社 2008
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2010年6月17日 (木)

奥の細道行脚。第六回「那須」

1 【奥の細道】

 那須の黒羽というところに 知人がある。これより野を横切って、近道を行こうとした。遥かに一村落を見、たどり着くと雨が降り日も暮れる。農夫の家に一夜の宿をかり、明ければまた野中を行く。放し飼いの馬あり。草刈男に嘆きよれば、野夫とはいうものの さすが情けを知らぬものではない。
「さて、どうしたものか。馬をお貸ししたとて、この野は縦横無尽の分かれ道。不案内な旅人では道に迷うかもしれない。迷いそうになったら、この馬に任せば自然と進み、止まる。それより馬をお返しください」
 と貸してくれた。幼いもの二人、馬のあとをしたい、駆けてくる。一人は小さな姫で、名を「かさね」という。聞きなれぬ名が優美に思え、


 かさねとは八重撫子の名成べし 曾良


鑑賞(人里はなれた野にも可憐な花が咲くもの。小さな姫の名はかさね。花びらを重ねる、八重撫子に名をもらったのであろうよ)


 やがて人里に出たので、駄賃を鞍つぼに結びつけ馬を返した。


【奥細道菅菰抄】

那須の黒羽というところに

黒羽根は、那須七騎の内、大関家の領地で、館がある。

これより野を横切って

この野は、那須野をさす。名所である。『夫木抄』、「道多きなすの御狩の矢さけびにのがれぬ鹿のこえぞ聞こゆる」、真実。

野夫とはいうものの

野は、いやし、と訓じる。野夫は、礼儀をわきまえない軽輩の称であり、今民間に「やぼ」というのも、ここから出た。

この野は縦横無尽の分かれ道

那須野の道が多いこと。前の古歌にも見える。

「この馬に任せば自然と進み、止まる。それより馬をお返しください」と貸してくれた

馬は道を知るものである。韓非子にいう。「斉の桓公が狐狩りに出かけた。春に出発。冬帰還。道に迷い方向を失う。管仲が、老馬の知恵を借りましょう、という。そこで老馬を放って、これについていったところ、ついに進むべき道がわかった」と。

名を「かさね」という

調べてみると、世間で、祐天上人が教化した、鬼怒川の与右衛門の妻、かさねというものは、もしかすると、この小姫が成長したものではあるまいか。おおむね時代も一致するし、鬼怒川もこのあたりに近い。


『奥の細道 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 全現代語訳』能文社 2008
http://bit.ly/cnNRhW

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2010年6月14日 (月)

「千利休名言集」できました。

Tikyu62 家は洩らぬほど、食事は飢えぬほどにてたる事なり。
叶うはよし、叶いたがるは悪しし。
一期一会。
夏は涼しいように、冬は暖かなように。
心の師とはなれ、心を師とせざれ。

茶道史に不滅の金字塔を打ち立てた、茶聖千利休の名言をコンパクトに
”千利休名言集”
http://bit.ly/bqvOe0
にまとめてみました。それぞれの名言にご興味ありましたら、解説は「名言名句」過去ログをご参照ください。
http://bit.ly/cgGMB0
『ものの見方が変わる。千利休の名言』
水野聡著 能文社 2011年
税込価格2,310円

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2010年6月13日 (日)

奥の細道行脚。第五回「日光」

四月一日、みずみずしい青葉、まぶしい陽光に迎えられ、芭蕉一行は日光山を参詣します。道に迷った那須黒羽の野で、たまたま愛らしい姫二人と邂逅。芭蕉の乗る馬のあとを無邪気に慕う小さな姫の名は、「かさね」。八重なでしこにもらった名であろう、と曾良が句を即興に詠みました。殺生石・遊行柳の旧跡を経、当初の目的地「白川の関」へ。古人の歌に思いをはせ、古い俳友と旧交を温めながら旅を続けます。しかし、しのぶの里、飯坂(飯塚)の宿では旅の感興をそぐ小さな「とげ」に悩まされる。芭蕉はめげずに気力をふるいおこし、力強い足取りで、ついに奥羽への入り口、伊達の大木戸を踏み越えるのです。


●日光

【奥の細道】

 卯月一日、お山に参詣した。その昔、このお山を二荒山と書いていたが、空海大師開基の時、日光と改められた 。千年の未来を悟られたものか、今この御光は一天に輝き、恩沢八荒にあふれ、四民安堵にして住みか穏やかである。これよりは多言憚りあって、筆を置くとしよう。

 あらたうと青葉若葉の日の光

鑑賞(青葉、若葉にこぼれる日の光。み仏の恵みが聖山にあまねくあふれ行き渡り、自ずと手を合わせられるありがたさ、尊さである)

 黒髪山には霞がかかり、雪がいまだ白く見える。

 剃捨てて黒髪山に衣更え 曾良

鑑賞(髪を剃り出家の体で旅立ったものだが、この黒髪山にて奇しくも四月の衣替えとなった。装いも新たに長旅への誓いもいっそう強められるようだ)

 曾良は、氏は河合、名を惣五郎という。芭蕉の葉の下に軒を並べ、私の薪をとり、水を汲む労を助けてくれる。このたび松島・象潟の眺めをともにすることを悦び、かつ羈旅の難をいたわろうとするもの。旅立ちの暁に髪を剃り、墨染め衣に姿を変え、惣五改め宗悟とする。これにより、黒髪山の句がなった。「衣更」のふた文字、力がこもって聞こえる。

 二十余丁山を登って滝あり。岩洞のいただきより飛流すること百尺。千岩の碧潭にどうと落ちる。岩窟に身をひそめて入り、滝の裏よりみるゆえ、これを「うらみ」の滝と申し伝えるとか。

 暫時(しばらく)は滝に籠るや夏(げ)の初

鑑賞(初夏、清冽な滝の裏ふところに観じ入れば、その轟音と涼気でもって世俗妄念を吹き払い、しばし夏安居の修行僧となったようだ)

【曾良旅日記】

一 同二日、天気快晴。辰の中刻、宿を出る。裏見の滝(一里ほど西北に位置する)、含満が淵をめぐり、ようやく昼となる。鉢石を発ち、那須、太田原へ向かう。通常は今市へ戻って大渡というところから行くのだが、五左衛門が近道を教えてくれた。日光から二十丁ほど下り、左へ曲がる。川を越え、瀬の尾、川室 という村へかかり、大渡という馬次に着いた。三里にやや届かないほどの距離。


【奥細道菅菰抄】

その昔、このお山を二荒山と書いていたが、空海大師開基の時、日光と改められた

空海は、弘法大師のこと。『元享釈書』に、
「釈の空海は、俗姓佐伯氏、讃州多度郡の人。父は田公、母は阿刀氏。母は、梵僧が懐に入る夢を見た。そうして身ごもり、胎内にあること十二ヶ月、宝亀五年に生まれ出る。母はその夢のお告げにちなんで、幼名を貴物と名付けた。成人後、沙門勒操につき、法を受け、落髪。最初の名は教海。後に自ら改め、如空と称した。延暦十四年、東大寺の壇に昇り、具足戒を受け、さらに空海と改めた。二十三年、遣唐使に従って入唐。元和元年秋八月に帰る。大同太上皇、空海を壇に入れて灌頂。帝者の密灌が、これより始まる。弘仁七年、紀州の相勝の地に遊説し、高野山に上り、金剛寺を創建。承和二年三月二十一日、空海はこの地で、結跏趺坐し入定する。延喜二十五年冬十月、弘法大師の謚を賜った(大師・国師の号は、みな帝王の師たる称号である。よってほとんど死後の謚として賜るのだ)」
とある。
空海を日光山の開基とし、さらに山名を改めたということは、日光山の記および、他の書にもいまだ見えない。

恩沢八荒にあふれ

恩沢は俗に、「おかげ」ということで、慈恩のうるおいをいう。八荒の文字は、『山海経』・『神異経』・『准南子』等にあり、荒は遠方をさす。八荒は四方四隅の(俗に八方という)遠い場所である。

四民安堵にして住みか穏やかである

四民は、「士農工商」をいう。『前漢書 食貨志』に見える。安堵は、通常「案堵」と書き、歴史書中に散在している。安居と同じ。落ち着いて居ること。

黒髪山には霞がかかり

黒髪山は、上野国の名所で、上野・下野の境となる。
『続古今集』、「むば玉のくろかみ山を朝こえて木の下露にぬれにける哉(かな)」、人丸。
『方角抄』、「旅びとの真(ま)菅(すが)の笠やくちぬらむ黒髪やまのさみだれの比(ころ)」。

薪をとり、水を汲む労を助け

『晋書』陶淵明の伝記にいう。「陶潜が彭沢の令となった。一人の力を息子に送っていう。このものを従え、自ら雑用をするな。この力を遺(のこ)し、汝の薪水の労を助く」と。
力とは、下僕のこと。薪水とは、朝夕の炊事のことである。また、釈尊が、檀特山にて、阿羅羅仙人に師事した時、採果汲水の業をなしたことなどとの取り合わせであろう。

かつ羈旅の難をいたわろうと

羈は、本字は「覉」であり、よる、と訓じる。羈は仮音である。覉旅は、旅に居ることをいう。『左伝』に見える。

岩洞のいただきより飛流する

洞は、「峒」と通じる。岩峒は、岩屋のことである。

碧潭にどうと落ちる

碧は、みどりと和訓する。瑠璃色をいう。潭は、淵である。水の深いところは、瑠璃色に見えるため、このように名付ける。

岩窟に身をひそめて

岩窟も岩屋をさす。

 暫時は滝に籠るや夏の初

 夏(げ)は、もと結夏(ゆげ)といい、略して夏とした。僧が家にこもって修行する時の名である。
『五雑組』にいう。「四月十五日、国中の僧と尼が禅刹に行き塔に滞留する。これを結夏、または結制(ゆせい)という。また、安居(あんご)と名付けた」と。
『釈氏要覧』にいう。「心身が静謐なことを安、と申す。一定時期住むことを居、という」と。安居は、寂然(じゃくねん)として過ごすことをいう。

○友人の僧、懶庵の説である。
「天竺の一年は、春夏冬の三季のみにて、秋がない。ゆえに一季は中国の四个月に相当する。中国の当月十五日より、翌月十四日までを一月として、上旬の十五日間を黒月と呼ぶ。下旬の十五日を白月とする。中夏に、上弦下弦とするようなものである。一夏九十日とは、夏一季の内、結制する日をいう。九十日が一季のすべてではない」。
『奥の細道 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 全現代語訳』能文社 2008

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2010年6月11日 (金)

6/14(月) 中世日本文化講座「茶道、日本建築と庭」

Taian_3 中世日本文化の基礎を学ぶ公開講座が、6/14、ちよだプラットフォーム・スクウェア(神田錦町)にて開催されます。

今回は、"禅"をキーワードに、茶の湯、日本庭園、建築、それぞれの発生と歴史、文化的価値を解明。豊富な画像資料・文献をもとに、私たち日本人の精神性と美意識のルーツをシンプルに学んでいきます。どなたでもご参加いただけます。

6月14日(月)13:45~16:00
日本文化体験交流塾
【禅と中世日本文化講座】
第4回「茶道、日本建築と庭」
http://bit.ly/98aNU4

◆講座6「茶道とは」
・茶道の歴史
・千利休
・禅と茶道

◆講座7「日本建築と庭」 
・日本建築の歴史と様式
・日本庭園の歴史と様式
・禅と庭

主催 NPO法人日本文化体験交流塾
会費 3,300円(一般) 2,600円(会員)

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2010年6月10日 (木)

奥の細道行脚。第四回「仏五左衛門」

【奥の細道】
 三十日、日光山のふもとに泊まる。ここの主が、
「わが名、仏五左衛門と申します。なにごとも正直を旨といたしますゆえ、人もこのように申しますもので。一夜の草枕、打ち解けてお休みなさいますよう」
 という。いかなる仏が、この濁世塵土に現れ出でて、このような桑門の乞食巡礼ごときものをお助けくださるのかと、主のなすことに心をつけて見ていると、ただ無知無分別にして馬鹿正直なるものであった。剛毅木訥は仁に近し、というが、生まれついての清らかなこころ、もっとも尊ぶべきであろう。


【曾良旅日記】
一 四月一日、前夜より小雨降る。辰の上刻、宿を出る。やんでのち、時々小雨となる。終日曇り。午の刻、日光に着。雨上がる。清水寺の書を養源院 へ届ける。大楽院へ使いの僧をつけてくれた。折悪しく大楽院に別客あり。未の下刻まで待って、お宮を拝見することができた。その夜は、日光上鉢石町の五左衛門というものの方に泊まる。一五二四。


【奥細道菅菰抄】
三十日、日光山のふもとに泊まる

日光山は、下野の国河内郡にある。祭神は、事代主の命。開山は、勝道上人である。東都より北へ三十六里。

濁世塵土に現れ出でて

 濁世は、『法華経』・『阿弥陀経』等にいう「五濁悪世」をさす。五濁とは、業濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁のこと。五塵は、眼・耳・鼻・口・心の塵汚をいう。あるいは、色塵・声塵・香塵・味塵・触塵をいうとも。五濁五塵ともに、娑婆世界の嫌悪すべきものすべてをさしている。

このような桑門の

 桑門は、沙門の音便という。沙門は、僧の梵語である。

剛毅朴訥は仁に近し

『論語』に、「剛毅木訥は仁に近し」とある。剛毅は気質のしっかりしたこと。木は樸と通じ、つくろい飾らぬさまをいう。訥は言葉の不調法なことをいい、いずれも律義者の形容である。


一行は室の八島を経由し、4月1日日光のふもとまでたどり着きました。芭蕉の本文ではふもとの五左衛門宿に泊まったのは、3月晦日となっていますが、これは物語構成上の潤色で、月がかわり気分も新たに、翌日4月1日に日光山拝観、としたかったのでしょう。

序章の名文は、平家物語、方丈記の冒頭などと同様、原文で暗記されている方も多いと思います。高校古文で必ず記憶させられるところですね。菅菰抄の解説は非常に役に立ちます。
「仏五左衛門」は、奥の細道前半で、庵主の特にお気に入りのキャラクターです。熊の毛皮のちゃんちゃんこを着ていそうです。人物描写から、宿の土間の間取りから、囲炉裏の具合、表へと続く険しいけもの道のようすまで、生々しく想像できますね。無愛想な主人と師匠を懸命に取りもつ、曾良の人のよさそうな愛想笑いも想い浮かびます。

さて、次回一行は尊い日光東照宮を拝観し、裏見の滝で禅僧たちの初夏を味わい、黒羽へと向かいます。

『奥の細道 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 全現代語訳』能文社2008
http://bit.ly/cnNRhW

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2010年6月 7日 (月)

奥の細道行脚。第三回「室の八島」

【奥の細道】
 室の八島に詣でる。同行の曾良が、
「ここの神さまは、木の花咲くや姫と申して、富士浅間神社と一体です。神話では、お姫さまが無戸室(うつむろ)に入り火を放って誓を立てる。その最中にお生まれになったのが火々出見の尊。これにちなんで室の八島と申します。また八島に煙を付け合せて歌を詠むこともこのいわれによります」
 と語った。さらに、当社にはこのしろという魚を禁じる 縁起も伝わっている。


【曾良旅日記】
一 二十九日、辰の上刻、間々田を出る。
一 小山まで一里半。小山の屋敷は右手にあった。
一 小山より飯塚まで一里半。木沢というところより左へ曲がる。
一 この間、姿川を越える。飯塚より壬生まで一里半。飯塚の宿外れより左へ折れ、小倉川の河原を進み、川を越え、惣社河岸という船着場の上手にかかり、室の八島へ行く(乾の方角へ五町ばかりである)。すぐに壬生へ着く(毛武という村がある)。この間、三里とするが、実際は二里あまりである。
一 壬生から楡木までは二里。壬生より半道ほど行くと、金売り吉次の墓が、右手二十間ほどの畑の中にあった。
一 楡木より鹿沼まで一里半。
一 昼過ぎより曇り。同夜、鹿沼(より文挟まで二里八丁)に泊まる。(文挟より板橋まで二十八丁、板橋より今市へ二里、今市より鉢石へ二里)


【奥細道菅菰抄】
室の八島に詣でる

神社。下野の国、総社村にある。室の八島大明神と号す。祭神は、富士浅間の祖神であるという。すなわち木花開耶姫のことで、以下に見る。

同行の曾良

信州諏訪の生まれ。東武に遊学し、翁に随身する門人である。

木の花咲くや姫と申して(中略)室の八島と申します

『日本書紀』にいう。「当時この国に美人がいた。名を鹿葦津姫(またの名を神吾田津姫、または木花開耶姫)という。皇孫これを愛す。すなわち一夜にして子を授かった。皇孫がこれを疑ったので、鹿葦津姫は怒り、恨んだ。無戸室をつくり、これに入って誓っていう。
『妾が身ごもったのが天孫の子でなければ、必ず焼け死ぬこととなるでしょう。またもし、それがまことの天孫の胤であれば、火も妾を害することはできないはず』
と。すなわち火を放ち無戸室を焼く。はじめに熾った煙のかげより生まれでた子を、火闌降命(ほすせりのみこと)と名付ける。次に炎熱より避難した場所より生まれでた子を、火火出見尊(ほほでみのみこと)と名付けた。(下略)」
無戸室は、俗に塗籠めというように、出入りの戸口のない家である。

八島に煙を付け合せて歌を詠むこともこのいわれにより

『詩花集』、「いかでかは思ひありともしらすべきむろのやしまのけぶりならでは」、藤原実方朝臣。このほかに、煙を詠んだ歌は、千載・新古今・続古今集などに見える。一説には、「この野中に清水あり。その水蒸気が立ち昇って煙のごとし」。これを室の八島の煙と呼んだという。

さらに、当社にはこのしろという魚を禁じる

コノシロは、鱅・鰶の字を用いてきた。俗に、鮗と書いているが、鰶の誤りであり、鮗は辞書にはない。これらの類はほとんど、小野篁の歌字尽くしという書物の過失から出ている。この書物は子供に与えてはならぬ。
○むかしあるところに住むものに可愛らしい娘があった。国主これを聞き、この娘を召し出そうとするが、娘は拒んで行かぬ。父母もこれがただひとりの子ゆえ、差し出すことを望まなかった。とかくする内に、召し出しの使いが数度におよぶ。国主の怒りが激しいことを聞き、仕方なく、娘は死んだと偽って、鱅魚をどっさり棺に入れて焼いた。鱅魚を焼くにおいは、人を焼くそれと似ているゆえである。この話により、この魚を、このしろと名付けたとか。
歌に、「あづま路のむろの八島にたつけぶりたが子のしろにつなじやくらん」とある。この話は、『十訓抄』にあったように覚える。このしろは、子の代であり、子供の代わりという意味。ちなみに、この魚を上方では、つなじと呼ぶ。

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2010年6月 6日 (日)

6/7(月)夜、大人の「寺子屋」あります。

古典名作を音読、鑑賞する「寺子屋素読ノ会」。
http://bit.ly/alUNRw

6/7(月) 「葉隠」17:30-19:00
「風姿花伝」19:30-21:00

新橋生涯教育センターばるーん(JR新橋駅徒歩3分)にて開催します。
※新規受講、途中参加大歓迎!
※入会・予約・申込、不要です。岩波文庫テキストのみ各自ご用意ください。

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2010年6月 4日 (金)

奥の細道行脚。第二回「旅立ち」

【奥の細道】
 弥生も末の七日。あけぼのの空朧々として、月は有明、光も収まろうとする中に富士の峰がかすかに見える。上野、谷中の花のこずえ、またいつ見られようかと心細く思われる。親しいもののみ、宵より集い、舟に乗り込み送ってくれた。千住という所で舟より上がれば、前途三千里の思い万感となって胸ふさがり、今は幻のようなちまたに離別の涙をそそぐ。


 行春や鳥啼魚の目は泪


鑑賞(今、遥か遠くへと旅立って行く。別れを惜しみ、また行く春を惜しむかのように鳥も泣き、魚すら涙を流しているように思われてならぬ)


 この句を旅の矢立はじめとしたものの、足取りはなかなかに進むものではない。人々が途中に立ち並び、後姿の見える間は、と見送ってくれるからであろうか。



【曾良旅日記】

  巳三月二十日、芭蕉とともに発つ。深川で舟に乗る。巳の下刻、千住にて下舟。
一 二十七日夜、粕壁に泊まる。江戸より九里余り。

一 二十八日、間々田(ままだ)に泊まる。春日部より九里。前夜より雨が降る。
 辰の上刻、雨が上がったので宿を出た。しかしまた降りだした。午の下刻にやむ。この日、栗橋の関所を通る。手形を願い出たが、不要であった。


【奥細道菅菰抄】

弥生も末の七日

三月二十七日のこと。三月は草木が盛んに生長する時なので、「いやおい月」とする。いよいよ生じる、と意味である。略して「やよい」という。

月は有明、光も収まろうと

『源氏物語』箒木の巻の文章より。

富士の峰がかすかに見える

駿河の国、富士郡にあり。孝謙天皇五年六月、一夜にして出現したという。祭神は、木花開耶姫、浅間権現と称する。鳥居の額に、三国第一山、とあるゆえに「不二山」とも書く。むろん名所であり、世人の知るところ。

上野、谷中の花のこずえ

上野は東都の牛寅にあって、山を東叡、寺を寛永という。寛永年間、慈眼大師開基の霊場であり、西都の比叡山を模すという。この地はもと、藤堂家の館地であり、地勢が伊賀の上野の城に似ているため、この名があるという。今、山口に車坂・屏風坂などがあるが、みな伊賀上野の坂の名をもらったという。谷中は上野の西。感応寺という天台宗の大伽藍があり、上野に隣接する。この二つの地域には、特に花木が多く、遊覧の地である。

宵より集い

つどいは、「湊輳」の字を用いる。より集まることである。

千住という所で

奥州往来の最初の宿駅。

前途三千里の思い

この五文字は、古詩文中の一句であることは間違いない。出典は調査中。あるいは、『古文前集』に、「此を去って三千里」という意味か。前は「すすむ」と訓じる。途は「みち」で、前途は「行く先」ということである。

幻のようなちまたに

『詩経』にも、「夢幻泡影の如く、露の如く、また電の如く」と説き、俗に夢の世というように、人生のはかなさを喩える。

 行春や鳥啼魚の目は泪

 杜甫の春望の詩に、「時を感じては花も涙をそそぎ、別れを恨みては鳥も心を驚かす」。『文選』の古詩に、「王鮪河岬をおもい、晨風(鷹のこと)北林を思う」。『古楽府』に、「枯魚河を過ぎて泣く、いずれの時か還りてまた入らん」。これらを趣向とした句であろう。


『奥の細道 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 全現代語訳』能文社2008
http://bit.ly/cnNRhW

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2010年6月 2日 (水)

奥の細道行脚。第一回「序章」

今回スタートする「奥の細道行脚」は、三百年前芭蕉が、奥の細道の旅でたどったコースを、ほぼ同じ日程でヴァーチャルに行脚していこうとするものです。

具体的には、現在のリアルな日付とほぼ同じ日程にて、奥の細道本文を、『奥の細道全現代語訳』(能文社2008)
http://bit.ly/cnNRhW
より、該当段落をご紹介。ともに読み進めてきます。誌上の旅であっても、よりリアルにより深く、おくのほそ道を体感していただくために、同著所収の『曾良旅日記』と『奥細道菅菰抄』も、該当段落を併載します。

芭蕉と弟子の曾良は、元禄二年旧暦三月二十七日(新暦五月十六日)深川芭蕉庵より旅立ちます。奥羽、北陸を巡遊する、所用全日数百五十五日、総行程六百里の大旅行でした。旧暦九月六日(新暦十月十八日)、終着地の大垣を経て、伊勢長島から伊勢神宮をめざし再出発する場面で、この紀行文は閉じられます。

江戸出発は五月十六日。ちょうど今頃ですね。今回は、日本文芸史上極めつけの名文といわれる、おくのほそ道の序、「月日は百代の過客にして…」を読み、江戸深川より出発。最終回には「大垣」へと、約半年かけて到着する予定です。

●序章

【奥の細道】
 月日は百代の過客であり、行き交う年もまた旅人である。舟の上に生涯を浮かべるもの、馬のくつわを取って老いを迎えるものは、日々これ旅にあり、旅を住みかとしているのだ。古人も多く旅に死んだという。私もいつ頃よりであろう、ちぎれ雲のように風にさそわれては、漂泊の思いやまず、海辺をさすらったものである。去年の秋、江上の破れ小屋に蜘蛛の古巣を払い、ようよう年も暮れる。春立つ霞の空に、白川の関を越えてみたいもの、とそぞろ神にとりつかれ心乱され、道祖神にも招かれては取るものも手につかぬありさま。股引きの破れをつくろい、笠の緒すげかえ、三里に灸をすえなどしているが、松島の月、いかがであろうかとまず心にかかる。それゆえ住まいは人に譲り、杉風の別宅に引っ越すにあたって、

 草の戸も住替わる代ぞひなの家

鑑賞(古びたこの草庵も、住む人が変われば、代替わりするもの。愛らしい雛など飾る若やいだ家にもなるのであろうか)

 これを発句に、表八句を庵の柱へと掛け置いた。


【奥細道菅菰抄】
月日は百代の過客であり、行き交う年もまた旅人である

『古文真宝後集』、春夜桃李園に宴する、の序に、「それ天地は万物の逆旅、光陰は百代の過客」と、天地の運旋、日月の軌跡を旅にたとえている。逆旅は、旅籠屋、光陰は太陽の移り行くこと。過客は旅人という意味である。

舟の上に生涯を浮かべる

生涯は、俗に、一生というようなもの。『荘子』に、「わが生や涯り有りなり」とある。

古人も多く旅に死んだという

ここまでが序文の発端の詞にあたる。

私もいつ頃よりであろう

ここから本序となる。

ちぎれ雲のように風にさそわれては

『詩経』の、「一片の孤雲、吹を逐って飛ぶ」という風情である。

漂泊の思いやまず

漂泊の二文字はすべてただよう、と訓じる。さまよい歩くこと。

海辺をさすらったものである

吟行と書くべし。これも「さまよう」の意であり、文選の『漁父の辞』に見える。左遷という意味ではない。

江上の破れ小屋に

江上は、江都などというのと同じ。江戸をさす。
(訳者注 漢文、日本の古文ともに江上は、水面または、川のほとりという意味である。深川芭蕉庵のことであろう)

春立つ霞の空

『拾遺集』、「春立つといふばかりにやみよし野の山もかすみてけさは見ゆらん」、忠岑。

白川の関を越えて

古歌の立ち入れである。以下の「白河」の項目にくわしい。

そぞろ神にとりつかれ心乱され、道祖神にも招かれては

「坐」の字をそぞろと訓じてきた。が、ここでは「倉卒」の字を用いるべきだ。心のあわただしい様で、神は比喩である。祖は門出の祭名といい、旅立ちの祭りである。黄帝の妹、累祖という人は、遠出を好み、ついに途上にて亡くなった。これにちなんで岐路の神として祀る。日本においては、猿田彦命を分かれ道の神とする。神代に天津彦火瓊瓊杵尊、下界に降臨の時、迎え導いた神で、『日本書紀』にくわしい。後世、仏教徒が青面金剛を伝来し、これを庚申と称した。道路に庚申の像を置き、巷の神とするのはこれゆえである。

松島の月、いかがであろうかとまず心にかかる

松島は奥州の名所であり、以下にくわしい。『新勅撰』、「心あるあまのもしほ火焼すてて月にぞあかす松が浦島」、祝部成茂。『新後撰』、「まつしまや雄島の磯による波の月の氷に千鳥鳴也」、俊成。

杉風の別宅に

 杉風(さんぷう)は、翁の門人、東都小田原に住む。本名、鯉屋藤左衛門といい、魚店を営む。


○ここまでが序文である。

 草の戸も住替わる代ぞひなの家

頃は二月末、上巳の節に近いため、雛を売る商人が、翁の空いた庵を借り、売り物を入れて倉庫としたゆえ、この句があるという。もちろん雛の家箱には、あるものは二つの人形を一緒に入れ、またあるものは大小に箱を入れ替え、と毎年収蔵時に定めのないものなので、「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」の心にて人生の常ないさまを観想した句といえよう。

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2010年6月 1日 (火)

6/3(木)名古屋「茶と能」定期講座のご案内

6/3(木)名古屋栄・中日文化センターにて以下茶と能の文化史2講座を開講します。

■『能と物語文学・伝説』第三回 景清物語(平家物語より)
13:00~14:30
東北から九州まで、全国に散在する景清伝説を追いかけます。名人、十四世喜多六平太の舞台も鑑賞!http://bit.ly/awi1Ck

■『戦国武将と茶の湯』第三回 松永久秀「平蜘蛛」
15:30~17:00
久秀とともに信貴山城で消滅したとされる平蜘蛛釜は、実は現存していた? http://bit.ly/awi1Ck

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