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2009年12月14日 (月)

いろは歌は、古代の怨念とSOSのメッセージ〈後編〉

 前回、いろは歌に隠されていた暗号は、

1.「咎無くて死す」
2.「かきのもとひとまろ」

であった、というところまで見ていきました。それではさっそく、村上通典『いろは歌の暗号』の続きをどうぞ。


●江戸時代には知られていた

 大正時代には「咎無くて死す」は議論されていたそうです。筆者は、江戸期の人々にも、「いろは歌」を折り句にした時の暗号が広く知られていた節があると推理しています。
 その証拠のひとつが、お芝居の「仮名手本忠臣蔵」だと言います。有名な赤穂四十七士の討ち入りの話ですが、歌舞伎の題名が一風変わっています。「仮名手本忠臣蔵」という題名は、一種の暗号だと言うのです。
「蔵」が大石蔵之助を指していることは容易に分かります。
では「仮名手本」とは何でしょうか。江戸時代、仮名のお手本は「いろは歌」以外にありません。
「いろは歌」がどうして仇討ちになるのでしょうか?そこに、上記の折り句での沓があって「咎無くて死す」がすでに公認の符丁であったと知られるわけです。四十七士が、 全員切腹を命じられたのは「咎無くて死す」だと暗号で示しているのです。
討ち入りの人数を四十七人にしたのは「ん」を除く「いろは四十七文字」を意識したものでしょう。
また、 ストーリーの中に寺子屋のシーンを入れたりして暗号をカモフラージュしています。
もとより江戸幕府の五代将軍綱吉を正面切って批判することなど、 到底出来る相談ではありません。
時代を鎌倉に設定し、 名前を替えて、芝居は作られています。淨瑠璃の題名「菅原伝授手習鑑」も 同じく、 「手習いの鑑」つまり「いろは歌」を示唆しています。


●源為憲の「口遊」

 江戸期に徳川幕府を批判する方法は暗号でした。では平安期に藤原家の批判をする方法は? やはり暗号であったことでしょう。
ここに、 万葉集、 古事記に潜んだ暗号を読み解く作業の重要性があります。
 古事記、 最古の写本は、 名古屋市「真福寺」に伝わるものです。
このお寺は元岐阜県羽島の大須庄にあった観音堂を、江戸時代初期に僧能信が現在の名古屋市中区に再建したものです。 (一般に大須観音と呼んでいますので、 真福寺はどこですか? と聞いても大抵の名古屋人は分かりません. 国宝級の図書館であるとの認識はゼロです)
 尾張の真福寺は、京の仁和寺、紀伊の根来寺と並び、本朝三文庫と評される貴重なもので、 羽島から名古屋への移築を命じたのは、 他ならぬ徳川家康でした。
 今に伝わる古事記真福寺本(大須本)の恩人です。
 村上通典の著書でも引用されている、 源為憲の「口遊」( くちずさみ) も、真福寺に伝わる写云々と(90 頁) 書かれています。古事記の序文が偽書であることを、 かなり解明できたきっかけとなった、「口遊」が真福寺に伝承されていたとの記事に私は注目しました。
「口遊」は一種のパズル收集本です.碁盤目に繋がる和歌だとか、数学の問題などが盛り込まれています。
この本の著者、 源為憲( ~1011) が、「 いろは歌」の作者ではないかと、筆者は推理しています。
そして万葉集や、 古事記の中に柿本人麿、 山上憶良の暗号を仕込んだ人でもあると考察しています。

 その元となる多数の文献が、真福寺 一か所に集中して保存されていたことは、やはり
源為憲説の有力な証拠と言えるでしょう。つまり村上が確認した事を、かつて解読した人物がいて、 その結果集中的にこれらの書物を揃えたのだと思えるです。
 暗号の存在を知っていた人物でなければこんな本は集めなかったでしょう。


●字母歌「あめつち」と「たゐに」

 源為憲の「口遊」には「いろは歌」に先行して作られた字母歌「あめつち」と「たゐに」も同時に收録されています。彼が、これらを下敷きにして「いろは歌」を作ったと見る根拠です。
「あめつち」「たゐに」は「いろは歌」ほど完成された字母歌ではありませんが、それだけ露骨に分かる暗号が組み込まれて作られています。これらを解読すると、「あめつち」からは「柿本人猿」「山上憶良」が表れ、「たゐに」からは「名を伏せよ」「名を直せ」と、「山上憶良」「稗田阿礼」が浮かび出て来ると証明されています。
參考までに「あめつち」と「たゐに」を紹介して置きますが、これだけで、もし「山上憶良」「稗田阿礼」を発見できたら、あなたは暗号の天才かもしれません。

「あめつち」

春 あめ つち ほし そら 天地星空
夏 やま かは みね たに 山川峰谷
秋 くも きり むろ こけ 雲霧室苔
冬 ひと いぬ うへ すゑ 人犬上末
思 ゆわ さる おふせよ 硫黄 猿 生ふせよ
恋 えのえを なれゐて 榎の枝を 馴れ居て

(解読への並べ方)ふたつのT字型、( )印「ひえたあれ」

(あ) め つ ち ほ
し そ 「ら」 や ま ← や ま
か は み ね (た)
に 「く」 も き り
む ろ こ け (ひ)
と い ぬ う へ ← う へ
す (ゑ) ゆ わ さ
る 「お」 ふ せ よ
(え) の (え) を な
(れ) ゐ て

「やま」と「うへ」と「もきり」の文字列の下に(た)と(ひ)を
入れて出来る「山」字、その「山」の上に「く」と「ら」がある
もう一つの(え)で囲まれたT字の中心に「のお」がある。
これで、「やまのうへ のお くら」が見える。

「たゐに」

た ゐ に い て 田居に出て
な つ む わ れ を そ 菜摘む我をぞ
き み め す と 君召すと
あ さ り お ひ ゆ く 求食り追ひ行く
や ま し ろ の 山城の
う ち ゑ へ る こ ら 打酔へる子ら
も は ほ せ よ 藻は干せよ
え ふ ね か け ぬ え舟繋けぬ


(解読への並べ方)

た い に い
て な つ む
わ れ を そ
き み め す
と あ さ り
(お) ひ ゆ (く)
(や)(ま) し ろ
(の)(う) ち ゑ
(へ) る こ (ら)
も は ほ せ
よ え ふ ね
か け ぬ


「口遊」は時代が下ると内容の意味が分からなくなってしまったようです。「口遊」は、良く見る文献ですが、古い原本としては真福寺本しか伝わっていません。他に伝わらなかったのは、文学としての価値が低かったせいでしょう。 暗号本は分かって始めて意味がある書物です。


●暗号が狙ったものとは

 最後に、読み解かれた結論を要約して置きます。
古事記の序文には、二十八歳で記憶力の良い稗田阿礼という人物が、古代から伝えられた史書を口述し、 太安万呂がそれを記述したと書かれています。しかし本当は、 一人の人物山上憶良が古事記を書き上げたのだと言います。
一度、 出家した僧弁基を還俗させ、憶良の名で再登場させたのだそうです。彼が書き上げた日本史は、 それまであった倭国の国王史を、 改ざんし、 中国に対抗する国家の風格を作ることにありました。それが古事記であり、 これを下敷きに日本書紀が作られたと言います。
(以下、あくまで村上の解読した説です)
 藤原氏の命令とは言え山上憶良は生涯、 この作業に従事したことを悔いていました。
太安万呂も稗田阿礼も、 山上憶良の存在を隠すためにでっち上げた架空の人物でした。
柿本人麻呂は、 実は三輪高市麻呂のことで、 またの名を高市黒人のことだと言います。
持統6 年3 月3 日に伊勢行幸を諌め、 中納言の位を辞した三輪高市麻呂の行動と、柿本人麻呂が、 この年以後、 天皇の行幸に同行していないこととが一致するのが根拠と
して上げられています。
さて、源為憲は、 万葉集の中に暗号をはめ込み、 これら山上憶良の偽書作成の苦痛や、 藤原不比等のライバルであった三輪高市麻呂の悲歌を、柿本という仮名を使って、 堂々と載せることに成功しました。そして仕上げとして、 いろは歌を用意し、 柿本人麻呂とはあの 「咎無くて死す」の三輪高市麻呂のことなんですよ、と伝えたと言うのが本著『いろは歌の暗号』の結論です。


 「いろは歌」に、「咎無くて死す」と「柿本人麻呂」の二つの謎が組み込まれていることは、ほぼ間違いないことでしょう。
それに先行する「あめつち」「たゐに」を整理すると、「名を伏せよ」と読め、「山上憶良」「稗田阿礼」が浮かび出て来るとの証明にも無理がありません。これらの情報から、平安中期に藤原一族の支配に悲憤をいだくパズル好きな貴族がいて、「古事記」の作者は、稗田阿礼ではなく山上憶良だとする鍵をひそかに埋め込んだように思えます。
そして、これに触発された誰か(源為憲?)が今度は「万葉集」の歌人「柿本人麻呂」に注目し「咎無くて死す」と伝えられた良く知られた話を盛り込んで「いろは歌」を作りあげたのでしょう。本著では、「いろは歌」の暗号は、柿本人麻呂こと三輪高市麻呂の無実の刑死への、隠された悲憤、怨念のメッセージであると読み解いています。



 さて、次は、篠原央憲『いろは歌の謎』より、隠された全く別の暗号=メッセージと、人麻呂のその後を追う、歴史認識を脱構築する大胆な推理を見ていきましょう。


まず、篠原は「いろは歌」の特性を以下のように整理しています。


つまり「いろは歌」は、
(1) かな文字をすべて使用、無重複で、語呂のなめらかな歌にしあげ
(2) しかも、その歌には意味の深い仏教の教えをテーマにし、なお叙情性のある格調高いものにしてある
(3) それを表面のテーマにし、わずか二字の読み分けによって、その意味が逆転するすさまじい怨念の歌に変わる
(4) それに加えて、末尾に、自分の運命をひそかに伝えるための暗号「咎なくて死す」をさりげなく組み入れ
(5) さらに最終目的としての重大な依頼をこめた、第二、第三の暗号をも、巧妙な方法でひそめてある(後述)


●第三の暗号とは

最古の文献である「金光明最勝王経音義」記載の「いろはうた」は、全文が万葉仮名で書かれてあるが、ただ一字だけ、くずされた草がなであるところの平かなが入っている。それは第一行目の下から二段目の「へ」である。「とかなくてしす」の最下段の暗号文のすぐ上に、全体が万葉かなのなかのただ一字だけの、ひらかな「へ」がある。この「へ」は上代においては「上」という意味をもっていたのである。「うへ」という単語のウが母音に融合して消え「へ」となったもので、「上」「このあたり」「かかわるところ」などの意味がある。つまり、「上を見よ」あるいは「上に注意せよ」ということの暗示、または指示であろう。「あめつち」のばあいは「うへ」のすぐ上の段に、葉は落ち「散りぬるを」とあった。「いろはうた」のばあいも同じように暗号文があるかもしれない。

い ろ は に ほ へ と 
ち り ぬ る を わ か 
よ た れ そ つ ね な 
ら む う ゐ の お く
や ま け ふ こ え て
あ さ き ゆ め み し
ゑ ひ も せ す 

 それで、「へ」の上の段を横に読むと「ほ・を・つ・の・こ・め」となる。万葉かなで「本・乎・津・能・己・女」である。このことばに何かの意味があるだろうか。こういうばあい、漢字かな混じり文で読むとわかりやすい。すると「本を津の己女」となる。なんだか意味がありそうだ。普通「ほ」は漢字では「保」と書く場合が多い。現在のひらかなの「ほ」は、いうまでもなく、「保」をくずしたものである。ところが、最古のこの「以呂波」は、
わざわざ「本」にしてある。本とは、つまり文字通り本であり、また本にまとめた原稿のことである。「古事記」や「万葉集」などの記事中には、しばしば「ある本にいわく」とか「ただし古本この歌を云々」とかというふうにでてくる。すると、この「本を津の己女」という意味は「本にまとめた大切な原稿を津の里の私の女に預けてある」あるいは、「津の里にいる私の妻に届けてほしい」ということのようである。つまり、う「へ」の上にならんだ文字は、明らかにそのことを依頼する、重要な伝達の暗号文であったのだ。これが「いろは歌」の第三の暗号文である。


●救出された人麻呂と万葉集

「いろは」や「あめつち」の暗号によって、「万葉集」も発見されたのであり、人麻呂の居場所もわかったのである。居場所もわかって、妻や知人の死をいたむ歌などがそこに載っているわけであるが、しかしそれらの歌に出てくる地名、たとえば鴨山、あるいは石川などもはっきりせず、状況も、岩根し枕ける、貝に交じる、川の雲をしのぶ、波によりくる玉を枕に、荒野に置きて、とてんでばらばらの感じなのだ。
 これらのことを勘案して、私は「原万葉集」は、柿本人麻呂の死そのものをカムフラージュしたものであって、この時点では人麻呂はまだ死んでいなかったと見るのである。「いろは」「あめつち」などの暗号解読により、人麻呂はひそかに救出されたと見る。

 表面的には、和銅元年四月二十日、従四位下の柿本朝臣佐留卒す、と発表されたのである。そして、人麻呂はいったん身を隠す。藤原不比等というやりての官僚(このときすでに右大臣に上りつめていた)の謀略によって追い落とされた人麻呂は、不比等の目の黒い間は身を隠すよりほかなかったのだ。その不比等は養老四年(七二○)八月、六十二歳で死んだ。四年後の神亀元年、人麻呂は山部赤人と改名して再び作歌をはじめたのである。この年、聖武天皇即位、山部赤人は以来十二年間作歌活動をしたことが認められている。つまり天平八年(七三六)年代の明らかな最後の歌が万葉集に記載されている。和銅元年(七○八)人麻呂が鴨山の歌を読んでから二十八年が過ぎている。それで、人麻呂(山部赤人)の年齢を考えてみると、持統三年(六八九)草壁皇子尊のもがり宮の時の歌を詠んだときが最初とすると、そのとき二十四、五歳とする説は多く、それで考えると、七十一、二歳ということになる。これは決して考えられぬほど高齢ということはない。翌七三七年、天然痘によって不比等の息子の房前ら四兄弟が次々に死に、人麻呂の崇拝者的実力者、橘諸兄が翌七三八年右大臣となる。その頃人麻呂(山部赤人)が判者となって、「万葉集」の撰集がなされたのであろう。山部赤人、柿本人麻呂、橘諸兄が「万葉集」を撰したとの伝承は多くある。特に「栄花物語」(平安後期の物語)の赤染衛門説は信頼性が高いものであった。
 柿本人麻呂は、いったん死んだことになっていて、「原万葉集」などに辞世を残したものの「いろは歌」や「あめつち詞」などをつくり、そこに巧妙に暗号を組み入れ、それによってひそかに情報を知人らに伝え、救出されていたのだ。そして藤原不比等の死を確認したのちは、山部赤人として名を変え、ふたたび歌人として活躍し、「万葉集」撰集にも参加したのであった。



4.暗号はイエスキリストのメッセージ

 いろは歌が古代暗号ブームを巻き起こした余波として、その中に、6世紀キリスト教の教えを暗号として埋め込み、説いたものである、との説まで出てきました。本稿、最後にこの「イエスのメッセージ説」と、「いろは歌」英語版/独語版をご紹介しましょう。

 まずは、空海が中国で学んだ景教(ネトリウス派キリスト教)の暗号であるとする、中島尚彦著HP「いろは歌が語る古代日本の謎」より。
http://www.naritacity.com/journal/iroha/index.asp


●いろは歌は空海の景教のメッセージ

「いろは歌」の作者である弘法大師は中国の奥地でキリスト教の一派である景教を学び、その聖書の教えに感銘し、その教理を暗号文として日本国民に教えるべく「いろは歌」を書き上げ、その中に神の名であるヤーウェー、旧約聖書に登場する偉大な預言者のモーセス、そして新約に登場する救世主イエス・キリストの名前を秘めたと察することが出来ます。そしてその信仰への情熱が後の日の真言密教へと発展していったのではないでしょうか?


(え)あ や ら よ ち (い)
い さ ま む た り ろ
も き け う れ ぬ は
せ ゆ う い そ る に
(す)め こ の つ を ほ
み え お ね わ へ
(し)て く な か (と)


 古代ロマンいっぱいの「いろは歌」。その真相を解き明かすにあたって、まず「いろは歌」が書かれた目的を考えてみましょう。「いろは歌」が折句を多用した暗号文書であるということは、その作者が当時何らかの理由で一般的に受け入れられない大切なメッセージを歌の中に隠し入れて後世に残したかった、という理由が考えられます。それ故に表面的なテーマとしては何ら差し障りの無い格調高い仏教的教理を打ち出すことにより、当時のエリート層に容易に受け入れられるようにしたのです。次の目的として、一般大衆もその暗号メッセージをいつしか解き明かしできるように、ひらがなの全てを学ぶことのできる最良の手習い歌として社会全般に普及させることを試みたと考えられます。こうして長い年月を経て多くの日本国民はいつの間にか「いろは歌」を日本語の歌として誰もが覚えて語り継ぐようになりました。その暗号文の謎がやっと解けてきたのです。

 いろは歌」は表面的には七五調に見えますが、実際は空海弘法大師の時代において多用された五七五七七調で構成される折句に中心的メッセージが隠されています。「いろは歌」をごく自然に右上を始点として左上、斜め右下、左下、右上と続けて読み、最後に一文字ずつ飛ばして右上から右下、そして左下に一貫して読んでみましょう。

いちよらや あえさけいつわ とかなくて しすみこいれり いはほとなて

 この歌の意味は「救いを与える良い神は、神隠し(八重桜)のごとく逸話となり、罪も無いのに、死んで神の御子となり、巌となった。」と解釈できます。「いろは歌」の折句を正しく理解するためには、まず中心のテーマが角読みで一目瞭然の「使徒イエス」であることを覚えておくことが大事です。また空海が中国で学んできたギリシャ語(新約聖書)、及びヘブライ語(旧約聖書)の影響を受けていることを理解するだけで、一気に視野が広がります。例えば「いろは歌」の最後の句は「えひもせす」です。これは上段に含まれているヤアエという言葉がモーセの神であるということをepi Mosesというギリシャ語で答
えているのです。モーセはギリシャ語でモセスと呼ばれ、エピという言葉は「何から」とか「何の」という意味で使われるため、「ヤアエ、エピモセス」は「モーセの神」と解釈できます。厳密には定冠詞が中間に入るのですが、日本語では存在しないため省かれています。


 最後に、日本語を学ぶ外国人の方向けに、「いろは歌」を英訳、独語訳したHPから、ご紹介。

いろは歌日本のアルファベット・英語版日本文化の日本語訳
http://www.watanabesato.co.jp/jpculture/letters/irohaj.html


●英語訳版 いろは歌

(英訳用日本語)
美しい人も花のように散っていく。
この世で誰が永遠で有り得ようか?
今日も現実の世界の困難を乗り越えて、
僅かの良い目も見たがそれに酔ってはいられない。


(英語への直訳)
As colors smell but fall.
Who are eternal in our world?
Today、 I went through deep mountain of existing form、
and saw a shallow dream without being drunken.

 色は詩の中では美とか魅惑をあらわすことがよくあります。今でも "彼女は色気がある" といえば "She is sexy"だ、という意味ですが。最初の二行は比較的分かりやすくて誰の解釈も似たものです。後半の二行は難しくて解釈が分かれるところでしょう。有為は現実の世界と解釈しています。奥山を越えるは困難を乗り越えると解釈しています。夢は普通は幸せなものを期待します。日本人は幸せに酔いしれることがありますが、外国の人はどうなんでしょう。幸せはかなり酒と似てませんか?


(独語版)
Die Blüen duften zwar、 doch sind sie abgefallen.
Wer denn in unserer Welt wird unvergänglich sein?
Die Berge fernab von den Wechselfällen (des Lebens) heute überschreitend、
werde ich keine seichten Träme mehr trämen bin auch nicht berauscht.

(上の和訳)
花(栄光)は香るが、落ちて行く。
この世で誰が不死であり得ようか?
今日、奥山(浮沈の激しい人世)を越えて、
もはや浅い夢も見なくなり、酔うこともなくなった。



【言の葉庵】メールマガジンより
http://nobunsha.jp/anshu.html#melma

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コメント

柿本人麻呂に関係するものとして紹介させていただきたいのですが。安土桃山末期、江戸初めの1608年に、ロドリゲスというポルトガル人が日本に布教に来て30年ほど滞在し、日本語教科書を作るため、茶道を含む、日本文化を幅広く聞き書き収集して著した、「日本大文典」という印刷書籍です。400年前の広辞苑ほどもあるような大部で驚きです、さらに家康の外交顧問もしていました。スペイン国王からはメキシコに帰る難破船救助のお礼に、「家康公の時計」をもらっています。
この本の終わりに、当時ヨーロッパ外国人が聞き書きした、日本の歴史が記載され、この頃あった、古代から伝えられてきた日本の歴史について知ることができる タイムカプセル でしょうか。これが戦国時代直後までの古代史の認識で、倭国年号が522年善記から大宝まで記載され其の後に慶雲以後の大倭年号が続きます。明治以後にはこの歴史認識は失われてしまったようです。日本語研究書と見做され、日本大文典の倭国年号のこの内容は、実物を手に取った人にしか分からない状態になっています、ウィキなどにも倭国年号の存在は記載されていませんので、ぜひ一度手にとってご覧いただければ幸いです。
ついでに
倉西裕子著 『「記紀」はいかにして成立したか』 続日本紀記載の720年「日本紀」は普通古代史専門家はこれを「日本書紀」と読み替える前提ですが、理由無く読み替えられない、別物という論証がされています。
宜しくお願いします。

投稿: いしやま | 2013年12月27日 (金) 20時21分

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