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2009年12月28日 (月)

日本文化のキーワード第二回【風狂】

「死にとむない」。

“破戒禅”で日本禅史上、最も名高くユニークな傑僧、一休宗純。『本阿弥行状記』によると、彼の臨終のことばは、何と「死にとむない」であったといいます。大悟のひと、この世のあらゆる執着から解き放たれ、真の自在境にあった、そのひとが晩年最愛の伴侶、盲目の森女に看取られながら、死にたくない、とひとこと洩らしてこの世を去った。一見、煩悩と執着とも思えるこのことばこそ、偽悪者・風狂の権化ともいわれる怪僧一休の真実の姿をありのままに伝えるものだと思っています。

 文明十三年(1481)、一休、八十八歳。持病の瘧が悪化し十一月二十一日早暁、遷化。酬恩庵において「泊然として寝るがごとくにして座逝(一休年譜)」したとあります。世に広く伝えられる一休の遺偈。

須弥の南畔
誰か我が禅を会す
虚堂来るも
半銭に値せず

この広大な人間世界のどこを探しても、我が禅を知るものなどひとりもいない。最高の師祖、虚堂が迎えにきてくれたとしても、今の我禅には半銭の値打ちもない。
この偈もまさしく、一休禅の真骨頂。孤絶の禅僧、一休の生涯は”風狂”そのものといわれました。西行、宗祇、雪舟、芭蕉とつながる日本文化のキーワード、”風狂”を今回は一休の足跡をたどることで明らかにしていこうと思います。

一休とは何者か

 一休の概略を以下ざっと追いましょう。
よく知られているように、一休は後小松天皇の御落胤だとも言われています。生まれたのは応永元年(1394)正月元旦。幼名千菊丸。6歳で安国寺の侍童となり、13歳で建仁寺に入り慕哲につく。漢詩の素養はここで鍛えます。
 17歳から、西金寺の謙翁(為謙宗為)の門に参じ無一物を決意して、粉骨砕身研鑽。しかし一休21歳のとき、突然、師謙翁示寂。唯一無二と頼んだ師を失った一休の落胆と失望は深刻で、なんと瀬田の唐橋から投身自殺しようとしています。偶然命拾いした一休は、江州堅田の禅興庵に華叟宗曇をたずねて、入門。華叟は峻厳で鳴る老師、大徳寺派を代表する無骨一徹の人。この師のもと一休は、徹底的に己の目指す禅に没入します。このころ自分が理想とする精神の原型が南宋の名僧・虚堂智愚にあることを発見。しばしば「虚堂七世の孫」を自称するようになります。
 一休は「洞山三頓の棒」の公案と、琵琶湖のほとりで座禅中に聞いたカラスの鳴き声で開悟したと伝えています。華叟の死後は、京都、堺の処々を転々とし街頭禅を実践。民衆を大いに接化します。大徳寺に住持として招請された後(実は一日しか寺にいなかったとか)、晩年七言絶句の偈頌の集大成、風狂子一休の代表作『狂雲集』を著述。
一休が晩年盲目の森侍者と同棲をしたらしいことは、広く有名な話。水上勉『一休』では、77歳から88歳までの10年間ほどを、一休は森女を愛し、森女もまた、一休に尽くして添い遂げたということになっています。『狂雲集』、「住吉薬師堂並びに叙」のあたりに森女を詠みこんだ漢詩が多く並び、森女を菩薩ともひとしい形容で称えます。

女犯・男色・飲酒・肉食三昧…。破戒僧として名を天下にはせた一休。まず、世の人にはどのように評されていたのでしょうか。

「おなじく禅門の明匠とて数を知らずきこえ侍れども、今の世に行儀も心地も世の中の人に変わり侍ると聞こえぬるは、一休和尚なり。万のさま世の人にはるか変わり侍ると、人々かたり侍り」(連歌師 心敬『ささめごと』)

応仁の乱をはじめ、相次ぐ戦乱、飢饉、悪疫、一揆などに日本中が、未曾有の混乱に陥ったこの時代、困窮する民をかえりみず享楽に耽る為政者、腐敗・堕落を極める禅林大刹。一休のとった時代糾弾の武器は、まず「偽悪」。そして、偽善を完全防御するための鎧、法衣こそ”風狂”だったのです。後述しますが、”狂”こそは大悟へいたる禅の大いなる意識段階。女犯・飲酒など仏業の戒律をやぶる、これら”狂”の行いを逆行、堅く戒律を守る正しい修業を順行と呼びます。そもそも、「順行」「逆行」とは何か。はたして、一休の破戒三昧の行を単純に「逆行」としてよいものか、どうか。

「仏教の場合、戒律を忠実に守り、これにしたがって(順)いとなむ生活実践『順行』に対して、あえて、これを破る破戒の行動を『逆行』という。その思想的源流は大乗仏教の『煩悩を断ぜずして涅槃に入る』『破戒の比丘、地獄に堕ちず』などの知見であり、『維摩経』仏道品第八の『その時、文殊師利、維摩詰に問うていわく、菩薩いかにして仏道に通達せん。維摩詰いわく、若し菩薩、非道を行ずれば、これを仏道に通達すとなす』の提示がそれである」(市川白弦)

 少し整理していうと、大乗仏教では、煩悩をもったままでも人は涅槃にいたり、破戒僧も地獄に堕ちることはない。菩薩業とは、むしろ非道をなすものを仏の道へと導くものだ、ということ。ましてや世は戦乱、人すべて日々生き地獄にあえぐ中、一休は決して手をこまねくこともせず、傍観もしません。

「一休が生きる世界は、庶民と同じく、修羅、地獄である。無智迷妄である。地獄のほかに仏土はなく、迷いをはなれて悟りはない。泥まみれの巷を、正気と狂気のさかい目を、この人は歩いてゆく」(『一休』水上勉)

「悟りは狂うこと、すなわち通常の意識レヴェルたる知的レヴェルを超えることだ、悟りは何か異常なものだ」(『禅と日本文化』鈴木大拙)

 さて、このように塗炭の苦しみを民衆とともに味わい、これを接化につとめ、乱れ爛れた腐敗政治と堕落宗教に”狂”の刃をつきつける一休の”風狂”とは一体どのようなものだったのでしょうか。

一休の“風狂”実践

 一休の言動を題材とした民間説話は、日本中に実におびただしく存在します。いわゆる青頭の小坊主「頓知の一休さん」がポピュラーですが、これらは99%後世の作り話だと思ってください。実際、一休の”風狂”は、ウィットやユーモアなどというものであしらえるような生易しいものではありませんでした。いくつかその”風狂”の足跡をたどってみましょう。

「正月元旦、世間の人々がいちように晴れやかな思いで目出たく長寿と平和を祝って楽しんでいる。そうしたところ一休は、墓場で拾った髑髏を竹の先に貫き、家々の門をまわりながら、
『このとおり、このとおり、ご用心、ご用心』と大声でわめき歩き、門口に髑髏を差し入れる。見かねたある人、
『せっかくの目出度い正月、なにしに縁起でもない髑髏など持ち歩かれるのか』
と問いただしたところ、得たりと、
『この髑髏よりほかに目出度きものはなし。目出たるあなのみ残りしをば、めでたしといふなるぞ』
と答えたという」(『一休咄巻二第四話』)

またある頃、自身仏僧であるもかかわらず腰に長大な朱鞘の太刀を帯び、堺の街をのし歩いたといいます。
「師四十二歳。會って泉南に在り。出でて街市に遊ぶ毎に、一木剣を持って鋏を弾ず。市人争って師に問う、『剣は殺を以って功と為す。師が比の剣を持つは、是れなんの用ぞ』答えて曰く、『汝等、未だ知らずや、今諸方の贋知識、比の木剣に似たり。室に収在するときは殆ど真剣に似たれども、室より抜き出すときは、只だ木片なる耳。殺すことすら猶お能くせず、況や人を活かすことをや』人皆之を咲う。瑞子、師の像を絵き、曲彔牀角によりかかりて以って烏藤に代う。讃して『吹毛三尺、煙塵を発動す』の句あり」(『年譜』)

「能書家として知られる一休。ある時、比叡山の山法師より
『ながながとして読みやすき大文字、一文字』
と所望され、不動坂の上から山麓の坂本までつないだ長い紙の上を、ただひとすじに筆を走らせ、あざやかに『し(死)』の一字を書いて見せた」(『一休咄巻二第九話』)

「一休十八歳の時。壬生宝徸寺では、清叟仁蔵主の肖像を敬い、これに当時禁制の金襴の袈裟をかけていた。この噂を耳にした将軍義持が、前触れなく寺にあらわれる。義持は、このころ仏教界にも干渉し、その弊風を刷新しようとしていたところで、突然のことに関係者一同震え上がった。肖像の調進に関係し、この時寺に居合わせた一休、幀子(絹布の掛物)一巻を手にし、訪れた将軍家持を玄関に迎える。式台の上に突っ立ったまま、将軍を見下ろし、直接これを手渡そうとした。随行していた赤松満祐は、一休のあまりに無礼な態度を制しながら、将軍に代わり幀子を受け取ろうと手を差し出す。一休はすかさず幀子を後ろに引っ込め、アカンベをして見せた。一休の豪胆な対応に将軍一同あっけにとられ、肖像の検閲もそこそこに、尻尾をまいて帰って行った、という」(『一休 風狂の精神』西田正好)

「『狂雲集』に「大燈忌宿忌以前、美人に対す」という詩編がある。
大徳寺開山大燈国師命日に、一山をあげて厳粛な法要を営んでいる最中、一休はすぐ近くの僧坊で美人(遊女)相手に大いに昼下がりの情事を楽しんだ、という偈頌だ。

宿忌の開山諷経
経咒耳に逆らう衆僧の声
雲雨風流事終りて後
夢閨の私語慈明を笑う

大燈忌法要の読経の声が、せっかくの情事を妨げ気分をそぐもんだ。美人とこと終わって、寝床の睦言を交わしながら、宋の慈明禅師も色好みであったわい、と笑えることよ、との意味。
慈明は、もっぱら愛人のところに入り浸って、弟子の楊岐方会が迎えに来るまで寺に戻らなかったという。しぶしぶ寺に戻り上堂した慈明とは違い、だれが迎えに来ても大燈忌になど参列するものかと一休は、これをあざ笑ったのである」(同)

”風狂”とは何か

 日本文化史上、西行より起こり、一休で開花し、良寛、芭蕉まで連綿と続く”風狂”の系譜。その語義、語源を、前出『一休 風狂の精神』より、かいつまんで以下ご紹介してみましょう。

 まず、”風狂”の”風”の字。この一文字の本意を正確に見極めることができれば、一著に相当する、すぐれた日本文化論が成り立つことでしょう。
 “風”は、吹くかぜではあるが、これが熟語化すると驚くほど多彩な意味が現れだします。

最初に、風一文字の語意を調べてみます。
 まず、“風”には、病気の意味がある。風邪・風気。冷たい風にあたることで起きる病気の意味です。中風、風疾、風病、痛風、風湿、風毒…。以上は内科の病気。精神科の受持範囲では、風漢、風子、風癲。変人を風変といい、気まぐれなものを風来人、風来坊などという。風一文字だけでも瘧の意味があります。これらの用例から推し量ると、”風狂”は、病的な狂人ということになる。狂客・狂者・狂漢の意味も”風狂”にあることは、間違いないでしょう。

 次に”風”の字は、自然全般をあらわす言葉として用いられています。風光・風色・風物・風景・風候・風月・風雲・風水・風霜・風雪などなど。なぜ「風」が、こんなにも自然全体を代表するのでしょうか。理由は、かんたん。もっとも身近に、直接肌身に触れる自然が「風」だからです。雪月花、松竹梅、花鳥風月などとくらべ、風ほどわれわれの生活に近い間柄の関係のものはありません。

 秋きぬと目にはさやかに見えねども風のおとにぞ驚かれぬる  藤原敏行

 目では確認できない自然の移ろいを耳と肌を通して実感させてくれるのが、風。日本人にとって風は古くから、四季を感じさせる自然の代名詞なのです。

 風はさらに、自然そのものより、自然が持つ「美趣」を表現することばとなってゆく。風狂が芸術とより強く結びついたことばに、西行・宗祇・雪舟・芭蕉へと続く、遊行(旅)をベースとした芸術概念の”風雅”があります。”風雅”は和歌や俳諧など、言語芸術の代名詞としても用いられています。”風雅”に近い概念に、風流・風情・風趣・風致・風尚・風懐・風騒・風韻などのことばがあげられる。詩人など、風雅で風流な人を風人と呼び、風情のある姿かたちを風姿と呼んでいます。

 風狂に基づく「風」の字を探索してみると、三種の語法に分類することができます。一は、狂気にも通ずる「病気」の意味。二は、あるがままの「自然」。三は、その自然に立脚する「美趣」の意。こうしてみると”風狂”は単純に狂気のみを意味するものとはいえません。日本古来の伝統精神の流れにあらわれる、自然随順の思想、自然美学の感情が、この二文字に奥深く込められていることがわかってきました。

風狂と風雅、芭蕉と禅。

さて、一休の”風狂”が、本質的には和歌の伝統である”風雅”にも、まっすぐの線でつながっていく、とする説があります。

「芭蕉の有名な俳文『笈の小文』によれば、西行・宗祇・雪舟・利休などの伝統芸術を一貫するものは、”風雅”の精神であった。しかも芭蕉は、『風雅におけるもの、造化(自然)に随いて四時(四季)を友とす』と述べている。主として日本の伝統芸術は、遊行と隠遁の生活から生まれたといってよいだろう。現に利休を除いた西行・宗祇・雪舟の三人は、芭蕉とともにすぐれた遊行芸術家であったし、山里風の露地や草庵をしきりに愛好した利休は、そもそもがきわめて隠遁的な精神の茶人であった。山川田野のなかをたどっていく遊行や、山林に身をくらます隠遁は、要するに、自然との直接の触れ合いを求め続ける生活形態である。
 そういう自然と一体の生活に詩趣を覚え、その感動体験から芸術や文化を創造していくことが、”風雅の道”にほかならなかった」(『一休 風狂の精神』)

「芭蕉のいう”風雅”の美の伝統を、かつて一休はまたそういううるわしい”風狂”の心をもって担ったのだ、とさえ私は思う。
 そしてまた、一休の”風狂”は、日本の美意識の歴史の上で、近世の”風雅”や”風流”の美に真っ直ぐ連なるところがあったとも、私は確信している」(同前)

 芭蕉と禅については、前出『禅と日本文化』で、鈴木大拙は「古池や蛙とびこむ」の句をひいて解題しています。「日本人を知ることは俳句を理解することを意味し、俳句を理解することは禅宗の”悟り”体験と接触することになる」とまでいっている。
 言葉によらず、論理によらず、直覚的直接的にものごとの深奥を把握し、これを表象する日本文化の特質は、禅の方法論とはてしなく近いものでしょう。

 また”狂う”ということが、日本人にとって美とつながることは、後述する能の場合を見ると、より顕著です。能の分類のひとつ”物狂い”こそ、風狂の原型。最愛のわが子を失って、心乱れ、彷徨い歩き、舞い、かつ謡う母の姿に中世の日本人は、美と芸術の最深奥をのぞき見たのです。

一休薪村の日本文化圏

 最終章は、少し禅の教理そのものから離れ、一休の”風狂”が今日の日本文化に多大な影響を与えた、その事例を検証し『言の葉庵』らしく、しめくくりたいと思います。

「芸術衝動は道徳衝動より原始的であり、生得のものである」
「禅はどうしても芸術と結びついて、道徳とは結びつかぬ。禅は無道徳であっても、無芸術ではありえない」(『禅と日本文化』鈴木大拙)

 この大拙のことばは、センセーションであり、同時に、なにゆえ禅が、音楽・舞台・絵画・俳諧など、中世~近世の日本文化に深く、色濃く影響を与ええたのかを解く、パンドラの函でもありました。少し話はそれますが、禅味の濃厚な「葉隠 武士道」の一見矛盾だらけに見える精神的立脚点も、ここから説明できるように思えます。

 さて、晩年一休は戦乱と都の混沌を避け、京都田辺の薪村に移り住み酬恩庵を結んでひっそりと暮らしました。最愛の森侍者と、一休の禅風を慕う多くの教養人、文化人に囲まれて。
これらの文化人こそ、今日の日本文化の基礎を形成した、当時の実に多彩かつ傑出した才能あふれる人々だったのです。その物凄い顔ぶれを列挙してみると。

■連歌・俳諧 飯尾宗祇、柴屋軒宗長、月村斎宗硯、杉原宗尹、山崎宗鑑(俳諧の祖)
■絵画 兵部墨谿、曽我蛇足、墨斎
■茶の湯 村田珠光、村田宗珠
■能 世阿弥、金春禅竹、禅鳳、観世音阿弥
■学者 一条兼良

 桃山時代に開花し、元禄に黄金期を迎える日本文化のルネッサンス。能、茶の湯、連歌、俳諧、絵画それぞれの分野の”祖”と目される人々がこぞって親しく一休に参禅し、その教えを乞うたのです。

 わび茶の開祖とされる、村田珠光はもと、浄土宗の僧でした。が、熱心に薪村を訪れ、一休に参禅するとともに禅の茶法を伝授されます。(一説には虚堂墨蹟を一休より賜るとも)

「喫茶に禅道を宗とするは、紫野の一休禅師より事起これり。其故は、南都称名寺の珠光は一休禅師の法弟なり。茶事を嗜みて日々行ひたるを、一休禅師見たまひて、茶は仏道の妙所にて叶ふべき物ぞとて、点茶に禅意を写し、衆生の為めに自己の心法を観ぜしむる茶道とは成し給へり。故に一切茶事にて行ひ用ふる所禅道に異ならず」(『禅茶録』千宗旦)

 また、今日薪能というと、野外で薪を燃やして行うものとされていますが、実は、一休の酬恩庵があった薪村で、禅竹、音阿弥等により能が舞われたことに由来するとする説があります。現に一休寺の門前に今でも「金春の芝」というものが残っている。ここの石碑には『薪能金春芝旧跡』とあります。
 能楽をことのほか愛好した一休は『狂雲集』に「金春座者の歌」と題した一偈があり、禅竹を賞賛。『江口』『山姥』は一休が作し、金春座に与えたともいわれているほどです。

 水上勉の『一休』には、このへんの消息を伝える興味深い一文があります。

「されば和尚森侍者と夜ごと酒くみかはされ、鼓うち歌などうたひたまへることもありけるが、一日ぜんちく殿、じゆくわう殿、そうちやう殿のおとづれたまへるに侍者も座にはべりて、江口の曲を自ら舞ひたまふもたのしきことなり。森侍者にはみえぬことゆえ和尚ことさら侍者の前へうちいでて声たかく、そもや江口の遊女とはそは去りにしいにしへの、いやいにしへとはごらんぜよ、月はむかしにかはらめや、われらもかやうにみえくるを、いにしへびとは現なや、よしよし何かとのたまふをいはじや聞かじむつかしや、秋の水、みなぎりだちて去る舟の月もかげさすさをの歌、うたへやうたへうたかたの、あはれ昔の恋しさを、今も遊女の舟遊び、世をわたるひと節うたひていざ遊ばん、などおどけてみせたまふに、ぜんちく殿ことのほか興じたまひて自ら鼓をとりてはやしなし、そうちやう殿じゆくわう殿もワキ、シテみだれてつとめられしもおもしろき夕べなり」

 風狂子清太夫『行実譜』という、水上勉の作中仮想人物の仮想資料からの一節です(実は水上自身の創作)。
また、俳諧への一休文化圏の影響は、前述芭蕉の”風雅”となって後世開花することとなります。

 茶の湯、能、連歌~俳諧、日本画、立花…から武士道にいたるまで。外国の文化的呪縛から解放され、独立し、日本人が日本独特の文化に目覚めたのが、室町(東山文化)~安土桃山時代。これらは、戦国期を経て、江戸元禄期に一気に花開き、今日の日本文化の礎を築きました。宗祇、珠光、宗鑑、世阿弥、禅竹、墨谿…。これらの美の巨人たちは、みな一休宗純の子供たち。風狂・遊行・隠遁・侘び・風雅、これらすべての日本文化の遺伝子を自然のままに生き、自然のままに死んだ、一禅僧に分け与えてもらった、といえるのではないでしょうか。

言の葉庵メールマガジンより

http://nobunsha.jp/anshu.html#melma

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