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2009年12月17日 (木)

日本文化のキーワード第三回【幽玄】

 まこと、もののあはれ、わび、さび、ほそみ、しをり、たけ、かるみ…。上古より、日本文化を象徴するキーワードが、歌論を中心にさまざまな人により、さまざまな形で提唱されてきました。浄土思想・禅宗に基づくものがあり、和歌にとどまらず、演劇・絵画・書・茶・花・庭など、あらゆる文化を規定し、影響を与えるキーワードがあります。その展開分野のもっとも広範なキーワードが、「幽玄」。
 今日、能楽の代名詞のごとく使用されている「幽玄」は、もとは「もののあはれ」と同様、歌論から一般化、普及されてきた概念でした。ちなみに今日、「わび」は茶道、「さび」は俳諧をそれぞれ代表するキーワードのように取り扱われていますが、歴史的にそれぞれ必ずしも、これら一分野の専門用語としてのみ発展してきたものではありません。上にあげたキーワードは、現在すべて仮名で表記されることがほとんど。しかし、幽玄だけは「ゆうげん」ではなく、「幽玄」、漢字表記ですね。理由は、この言葉だけが中国から直輸入され、表記・原義ともにそのまま用いられているキーワード・概念だからです。

 時代や分野により、さまざまな定義にて用いられ、発展をとげてきた幽玄。今後も、時代とともに、成長・変容を続け日本文化にとどまらず、世界各国の文化にその影響をおよぼし、広めていくものと思われます。現時点での「幽玄」考を総ざらいし、整理しておくことも、日本文化に興味をもつ人にとって、あながち無駄なことでもあるまい、と考えました。


 さて、今回は以下の構成で、幽玄について考察して行こうと思います。

1.幽玄の伝来と、他キーワードとの関連
2.和歌と幽玄
3.能、禅と幽玄
4.俳諧と幽玄
5.その他分野への展開と影響



1.幽玄の伝来と、他キーワードとの関連


 数々の概念、知識とともに「幽玄」も中国から、わが国にわたり、輸入当初は原義にて使用されていたといいます。古くは『古今集』にまずみられ、十二世紀には管弦の風趣を表現する言葉として用いられました。


「〔幽玄〕という語の比較的古い用例は、後秦時代の釈肇が記した『宝蔵論』〔離微体浄品〕にある〔故製離微之論、顕体幽玄、学者深思、可知虚実矣〕である。西暦四百二十年頃成立したとされる『後漢書』にも用例がある。〔霊思何皇后紀〕中に〔逝将去汝兮適幽玄〕とあるのがそれである。他に、唐代の詩人、駱賓王(初唐の詩人)の『蛍火賦』に、〔委性命兮幽玄、任物理兮推遷〕とあるなど、いずれもその境地が〔深遠で、微妙〕であることを意味している。『日本語大事典』(小学館)には、〔古く中国では、幽冥の国をさし、のちには老子・荘子などが説いた哲理や仏教の悟りの境地が深遠、微妙であることをさしていった〕とある。『臨済録』(成立年未詳)にある、〔仏法幽玄。解得可可地〕などが、その代表例である。
 わが国にも、原義のまま移入されたと見え、『古今集』(九百五年 延喜五 序)真名序にある〔或事関神異、或興入幽玄〕という表現は、原義のまま用いられている。伊藤博之によると、〔幽玄〕という言葉は、〔十二世紀の文献に広く見られ、特に管弦の興を表現する際、『興入幽玄』といった慣用句が一般化し、詩の作風の一つとして『余情幽玄体』(『作文大体』)とか『幽玄之体』といった風体が立てられるに至った〕という。また、田中裕によると、藤原俊成や藤原定家などが使用した〔幽玄〕という語も、〔すべてこの原義から説明でき〕、彼らが使った〔幽玄〕という言葉は〔まだ審美論としては現れず、それが優美・典雅などの意味で理解されるようになるのは鎌倉期も後半である〕
という」
(『幽玄』と象徴-『新古今集』の評価をめぐって 岩井茂樹)


 さて、それでは、この「幽玄」は、他の日本文化キーワード「まこと」「あはれ」「さび」などと、どのように関連し、どのような流れを描いてきたのでしょうか。

「一九二九年(昭和三)に久松真一は、『上代日本文学の研究』において、〔まこと〕、〔あはれ〕、〔幽玄〕が国文学を流れる三つの精神である、と説いた。久松は一九三一年にも『岩波講座 日本文学概説』において古代の〔まこと〕の理念が中古には〔もののあはれ〕へと発展し、それが中世に〔幽玄〕となって、最終的には芭蕉の〔さび〕となるのだ、と主張した」
(能はいつから『幽玄』になったのか? 岩井茂樹)

 歌論においては、この後見るように、藤原俊成が「幽玄」を歌の最奥の理念として打ち立てました。俊成の理念において「幽玄」が、あはれ、さび、ほそみなどという概念とどのように、関わりながら発展、確立されたのでしょうか。また、「幽玄」に至るまで、俊成は、古今集復帰を理想としながら、「たけ高し」「遠白し」という独自のキーワードで歌に対し新しい境地を開拓しようと試みたといいます。


「○俊成は古今集復帰を志しながら、古今に比して一歩異なる境地に進んでいる。彼の歌に対する新しい開拓は以下。

○たけ高し
   率直な旦壮大なる感情のある歌。

○遠白し
   大きにゆたけき意(壮大)なり。

○心細し
○姿さび  
前の「たけ高し」「遠白し」に対して繊細な味を加えたもの。「心細し」が心
または気分情趣を主としたのに対し、「姿さび」は姿即表現を志向している。

◎幽玄の意義
以上の理念を統一して作られたものが幽玄であった。歌にあらわれる余情とし
ての幽玄。

○俊成に於いては、幽玄は、歌の素材に於いてのそれではなく、すがた、風体
等のそれであったと言われる。

○~こうして見ると、俊成の意味した幽玄は、相当に複雑した内容であり、心
細しや長高しというような繊細と壮大との何れをも含んだ境地をさしている。

夕されば野べの秋風身にしみてうづらなくなり深草の里(自讃歌)

○幽玄のもつ歌の感情が花やかであるよりは、沈欝であり深みのあるのは、時
代の宗教的感情に自ら影響されたものであろうか。

心なき実にもあはれはしられけりしぎたつ沢の秋の夕ぐれ(西行)

 西行と俊成の二首の歌は、幽玄の境地では一致しているようであるが、

*西行→自然を放浪してこの境地を得た。(体験的)
*俊成→静かな夜、桐火桶をかこんで沈思して得た。

 違いが認められる。

◎俊成に於いて、「あはれ」という伝統的な境地をすすめて、「さび」や「細み」という境地に至り、それに「たけ高し」、「遠白し」という観念を加えて、歌の理想としての「幽玄」を完成した」
(HP ?『中世』」幽玄美の妖艶化と平淡化より 
http://web.sc.itc.keio.ac.jp/~kokikawa/culture3.html#§)



2.和歌と幽玄

「幽玄」を歌道における最高の様式概念として取り上げたのは藤原俊成でした。

「幽玄」=言葉で言い表された以上のある物を暗示する事=余情

 その子、定家は「有心」という美的概念が「幽玄」をも統制・支配すべきとし、「余情」の性格は、より「妖艶」を加味するようになります。その後正徹・心敬等は俊成が強調した超感覚的な「余情」より一層実感的感覚に重大な価値を置き、艶美・優雅などが「幽玄」の本質となっていきます。


  春の夜の夢のうき橋とだえして峯にわかるゝ横雲のそら

 この藤原定家の歌は、一般的な意味での「幽玄」な歌の代表ではないでしょうか。室町時代の連歌師、心敬の歌論『ささめごと』にも、「幽玄体の古人自讃歌」として取り上げられています。心敬は、古人の幽玄体とは「心を最用とし、心の艶なるに入る道」としています。


さても此の道は幽玄體を中にも心にとめて修行し侍るべき事にや。

 古人語り侍りし。いづれの句にもわたるべき姿なり。いかにも修行最用なるべし。されども、昔の人の幽玄體と心得たると、大やうのともがらの思へると、遥かに變はりたるやうに見え侍るとなむ。古人の幽玄體と取りおけるは、心を最用とせしにや。大やうの人の心得たるは、姿の優ばみたる也。心の艶なるには入りがたき道なり。人も姿をかいつくろへるは諸人の事也。心ををさむるは一人なるべし。されば、古人の最上の幽玄體と思へる歌ども、この比は分明にや侍らざらむ。
『ささめごと』上巻~「幽玄体について」より


 さて、同じく室町時代の歌人、正徹は自身の歌論書『正徹物語』にて、『源氏物語』の光源氏と藤壺がやりとりした古歌より、「幽玄」の本質を抽出しています。以下その概要をご紹介しましょう。


 幽玄とは、「心にあって言葉には言うことができないもの」。たとえば、「月に薄雲がかかっている状態」であり、「山の紅葉に霧がかかっている状態」です。風情のある素晴らしいものがはっきりそこにあるのだが、それがぼんやりとしか見えない状態。だから、幽玄とは何かと問われても、幽玄であるがゆえにはっきり言うことができないものなのです。それがわからない人は、「空が隅々まで晴れて月がキラキラと見えている状態」が素晴らしいと言うだろう。幽玄とは、「どこが趣深いとも、どこが優れているとも言えないもの」。
 幽玄を辞書で引けば、歌論用語で「奥深く神秘的で計り知れないもの」とあります。

見てもまたあふよまれなる夢の中にやがて紛るる憂き身ともがな

 この源氏の歌こそ幽玄です。以前にも以後にも藤壺とは「あふよまれなる」の状態が続いています。それが「夢の中」では逢うことができる。藤壺との逢瀬の夢が夢のまま終わるということは、そのまま夢に紛れていつまでも逢瀬を続けられることになるのでしょう。いつまでも夢の中にいて、そのまま人生を終わってしまいたいと言うこと。夢の中での逢瀬、夢のままに終わってしまう人生、いずれも奥深く計り知れないものがあります。

世語りに人や伝へむたぐひなき憂き身も覚めぬ夢になしても

 これが藤壺の返歌。藤壺は継母ですが、源氏と密通して、たとえつらい身は夢のようにはかなく終わり跡形もなくなったとしても、つらい噂は後世まで語り継がれるだろうとしています。源氏は夢を二人だけの逢瀬として夢に埋没することに満足する。しかし、藤壺は夢の中の二人では終わらない世の中の現実までをも考えています。ここに五歳しか離れていないにしても母と子の差が。ともかく、夢の中での出来事を引き継いでいる点では、藤壺の歌も幽玄である、といえるでしょう。



3.能、禅と幽玄

 今日、能の代名詞のごとく扱われている「幽玄」。能への導入は、本歌取りの手法により和歌より謡曲の詞章として取り入れられたことからはじまります。世阿弥の定義は、

ただ美しく柔和な体、幽玄の本体なり

 ここで、歌道の「幽玄」より現世的かつ表現的な概念と変容します。

 「幽玄」=上品さ、華やかさ

 世阿弥の大和結崎座の得意とする芸風は、もともと「物まね」を主体とする写実的なものでした。当時民衆の圧倒的な支持を得ていた猿楽の得意芸。しかし、徐々に台頭してきたライバル、近江日吉座、犬王の歌舞を主体とする「幽玄」な芸風を重視した世阿弥は、これを自身の芸に取り入れ、「幽玄」体を大和猿楽の物まね=写実的な芸の上位に位置するものとして猿楽を再構築。今日の総合歌舞劇、能へと昇華、大成したのです。

 また、世阿弥の初期の能芸書において「幽玄」は、芸の表現面で「弱い」と対照的に位置づけられていたようです。

「強い・弱いという事につき多くの人が誤解しているようだ。品のない能を強いといい、弱いものを幽玄などと批評しているが、おかしな話である。いつどこで見ても見弱りのしないシテがいる。これを強いという。またどの舞台においても花やかな役者。これが幽玄だ」
(風姿花伝第三 問答條々より)

 『風姿花伝』のもっとも重要な概念「花」が、時々刻々変化していくダイナミックな美的表象として捉えられていることに対し、「幽玄」は、もともとそのものに本質的に内包されている高貴で不変なものとして定義づけられています。同じく中国より直輸入されたキーワードで、不変的な「幽玄」とよく似通ったものに「妙」がある。

「どの芸術にもその神秘さ、精神的リズム、日本人のいわゆる〔妙〕が存する。これこそ、すでにのべた通り、禅があらゆる部門の芸術と密接に関連する点である。真の芸術家は禅匠と同様、事物の妙を会得する法を知った人である。
 妙はときとして日本文学において〔幽玄〕と呼ばれる。ある批評家は、すべての偉大な芸術作品はそのなかに幽玄を体現しているが、それは変化の世界における永遠なる事物の瞥見、または、実在の秘密への洞徹であると述べている。すなわち、悟りのひらめくところ創造力がほとばしりでて、妙と幽玄とを呼吸しつつ各種部門の芸術に自己を表現するのである」
(『禅と日本文化』鈴木大拙)

 世阿弥は、後期著作において、芸の風体の最高位を「妙体」であると規定しています。『花鏡』妙所之事に、

「しかれども是をよくよく工夫して見るに、ただこの妙所は、能を窮め、堪能そのものになりて、蘭けたる位の安き所に入りふして、なすところの態に少しもかかはらで、無心、無風の位に至る見風、妙所に近きところにてやあるべき、およそ幽玄の風体の蘭けたらんは、この妙所に少し近き風にてやあるべき」

とあります。



4.俳諧と幽玄

 以上のように、和歌・連歌・能楽などを中心として中世の美的概念「幽玄」は各分野で様々な発展をみせます。しかし、江戸以降「幽玄」は、日本文化史上あまり見られなくなってきます。そんな中、もっとも多く用いられたのは、俳諧の書物においてでした。とくに今日、一般に「わび、さび」の代表ともされている、芭蕉の句がもっとも「幽玄」である、との評価を受けていたのです。


 たとえば、上島鬼貫『独ごと』(享保三年)に、「幽玄の句」という叙述があります。

 作意をいひ立てる句は、心なき人の耳にもおもしろしとやおぼえ侍らん。又おもしろきは句のやまひなりとぞ。修し得たる人の幽玄の句は、修行なき人の耳にはおぼろげにもかよふ事かたかるべし。しかもその詞やすければ、いはば誰もいふべき所なりやとおもひ侍らん。
 聞こえぬといふ句に幽玄と不首尾の差別有り。まことを弁へぬ人の、様々に句を作りて、是にても未聞え過ぎておもしろからじ、とひたぬきに詞をぬきて、後には何の事とも聞えぬ句になり侍れど、作者は初一念の趣向をこころに忘れ侍らねば、我のみ独り聞ゆるにまかせていひひろむるもかた腹いたし。又幽玄の句はつたなき心をもて、其の意味のおもしろきところを聞き得ぬなるべし。


 また、其角の「日の春をさすがに鶴の歩みかな」の句を、「元朝の日の花やかにさし出で、長閑に幽玄なるけしきを鶴の歩みに懸けて言列べける祝言、文外に顕れ」(宝暦三年評)と評しています。芭蕉自身も、門人杉風の

  沢苣やくされ草鞋のちぎれより
  山寺の冬納豆に四手うつやあらし

 の句を評し、「まことに句々たをやかに、作新しく、見るに幽なり、思ふに玄なり、是を今の風体といはんか」としています。

 そもそもこの時期、芭蕉の俳諧を「幽玄」と位置づけた理由は、前代の貞門・談林俳諧の遊戯的な風体を、蕉門が「閑寂・幽玄」に改良したという評価の中から生まれてきたものと思われます。以降、昭和も戦前にいたるまで、国文学、文芸界では芭蕉の作風を「幽玄」とみなすことが一般的でした。江戸期から昭和の戦前にいたるまで、主だった国文学文献を通覧したところ、芭蕉評価を「幽玄」とした資料は、55部中、29部にもおよぶことがわかりました。(1817~1953までの国文学文献資料調査。前出『幽玄と象徴』岩井茂樹より)

 同調査によると、戦前(1937年頃)まで芭蕉評価は「幽玄」と強力に結びついていたとされています。しかし芭蕉研究が進むにつれ、芭蕉の句風も時代により大きく変化しているため、すべてを「幽玄」の一言でかたづけるわけにはいかなくなる。大正期頃からは、芭蕉俳諧は「さび」の文芸を大成したという見方が優勢となり、昭和、戦後には「幽玄」は、芭蕉より完全に乖離していった
とされています。

 さて、上のように江戸時代の「幽玄」の意味は俳諧に関する書物において「優雅・典雅」とする理解もありましたが、一般的に、原義「奥深く、神秘的で幽か」とする用例も多かったといいます。



5.その他分野への展開と影響


以上、江戸期から近代まで、「幽玄」の各分野での流れをみてきました。最後に、現代での「幽玄」がどのように位置づけられ、どのような展開が予見されるかを確認しましょう。

 まず、ふたりの近代研究者、美学的見地からの「幽玄」定義を以下ご紹介します。

 戦後活躍した竹内敏雄は、「幽玄は、今日では中世的な美学を代表する日本文芸史上の基礎的類型概念を表するものとされている」とします。中世歌論の優しさを意味する「艶」との結びつきを指摘。ドイツ美学の「気分象徴」を援用し、中世歌論を「美的気分」そのものの構造をもつ、と論じます。世阿弥の能楽論を「物真似」と「幽玄」との総合ととらえ、「半模倣半自由」の芸術論とまとめる。「幽玄」とは、「具体的感情の混沌を律動的芸術形式」へと統一する「情趣創造的形成の原理としての意義」をもつものと説きます。まとまらない感情の動きを、リズムをもつ形式に統一して示す、芸術創造の原理になっている。
 また、世阿弥は「幽玄」から「わび」への方向をしめしていたとし、中世芸術の幽玄美を発展、徹底させ、近世芸術の光彩の中に異常な「わび」の世界を展開したのが、芭蕉その人である、としています。


 『風雅論-さびの研究』の著者、大西克礼の「幽玄」の七つの定義。

(一)何らかの形で隠され、蔽われていること
(二)仄暗く、朦朧で、薄明であること
(三)静寂であること
(四)深遠であること
(五)充実していること
(六)神秘性、または超自然的であること
(七)非合理的、不可説的、微妙であること


 「幽玄」が形容詞とされるもうひとつの日本文化に「庭」があります。最後に、閑寂・枯淡を趣とし、海外の造園法にも大きな影響を与えている、禅寺の平庭や茶庭など、日本庭園の研究家であり、実際の作庭家でもある、重森三玲の「幽玄」論をご紹介しましょう。


「既に平安時代の詩歌には、幽玄という思想が表われていて、古今集という歌集には幽玄と云うことを主張しているのである。幽玄と云うことは中々説明が六ヶしいが、音楽に於ける余韻と云ったものである。もの静かな味とか、侘しい味と云ったもので、目で見ただけの表面上の味ではなく、その内面に含まれた味である。
 この幽玄と云う思想が、日本の諸他の芸術には、何れも基本となっていたから、支那から墨画が入って来ても直ちにこれを理解したのであり、又この墨画から枯山水と云う石や砂や樹木ばかりの庭園が発達する様になったのである。だからこの幽玄と云うことが解るためには、日本人でも相当な教養や洗練さを必要とするのである。
 この傾向は、室町時代から茶と云うものが流行しかけて一層発達したのであって、多く室町時代の庭園がこの枯山水によって表現されたのは当然なことである」


 三玲はさらに、中国を起源とする文化の日本化は「幽玄」を介して実現する、と指摘しています。


 和歌や連歌・俳諧など、歌と句の文芸は、現在、短歌、俳句として伝えられていますが、「幽玄」はすでに過去のもののようです。現在の日本文化をみると、世阿弥当初の姿をそのまま伝える能楽と、ほとんどその様式に崩れや乱れのない、日本庭園にもっとも色濃く「幽玄」が継承されているように思えます。これらが、日本文化の「遺伝子」として次世代にどのように継承されていくのか、とても興味深いテーマです。願わくば、能や枯山水の表面的な形式だけが模倣されるのではなく、古人の「心を最用とし、心の艶なるに入る道」と精神こそが伝承されるべき、と思われてなりません。


【言の葉庵】メールマガジンより
http://nobunsha.jp/anshu.html#melma

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