« いろは歌は、古代の怨念とSOSのメッセージ〈後編〉 | トップページ | 日本文化のキーワード第三回【幽玄】 »

2009年12月16日 (水)

日本文化のキーワード第一回【もののあはれ】

 今回より日本文化のキーワードを企画。全四回のシリーズでお届けしていきます。テーマは、第一回【もののあはれ】、第二回【幽玄】、第三回【風狂】、第四回【寂び】。(【侘び】は茶の湯関連シリーズで別途ご紹介予定)
 平安から、安土桃山時代まで、日本人なら誰でも聞いたことのある、日本文化のもっとも重要なキーワードを、ごいっしょに毎回クルーズしていこうと思います。第一回目は、和歌・物語文学の根本を解き明かす、「もののあはれ」。


 有名な「もののあはれ」は、本居宣長が提唱した、平安時代の全文芸の基調となる美的概念です。これは、まず、古書にみられる「あはれ」を考証した小論『安波礼弁』(宝暦八年)により初めて唱えられ、物語論『紫文要領』(宝暦十三年)、和歌論『石上私淑言』(?宝暦十三年以降)の両著を経て理論構築、完成をみました。
 さて、「もののあはれ」とはいったい何なのでしょうか。宣長記念館HPから、まずご紹介します。

「もののあわれ」とは、『石上私淑言』で宣長は、歌における「あはれ」の用例をあげながら、「見る物聞く事なすわざにふれて情(ココロ)の深く感ずる事」を「あはれ」と言うのだと述べている。つまり、揺れ動く人の心を、物のあわれを知ると言うのだ。歌や物語もこの心の動きがもとになる。たとえば、宣長が高く評価した『源氏物語』も、「この物語、物の哀れを知るより外なし」と言っている。文学はそのような人間の本性に根ざしたものであり、そこに存在価値があるとした。
 これは、宣長が、和歌や『源氏物語』から見つけた平安時代の文学、また貴族の生活の底流を流れる美意識である。
 この「もののあわれ」と言う文学的概念の発見は、宣長に和歌の発生からその美的世界までの全局面を把握し説明することを可能にした。『安波礼弁』で、「歌道ハアハレノ一言ヨリ外ニ余義ナシ」と言い、歌の発生はここにあるとする。「もののあわれを知る心」という、人が事にふれて感動し、事の趣を深く感受する心の働きから歌が生まれること、そしてその感動を言葉にしてほかの人へも伝えたいという伝達の欲求から「よき歌」への関心もまた生じる事が説かれた。

次に、『紫文要領』本文をみてみましょう。

本居宣長曰く、
「世中にありとしある事のさまざまを、目に見るにつけ耳に聞くにつけ、身にふるるにつけて、其よろづの事を心にあじはへて、そのよろづの事の心をわが心にわきまへしる、これ事の心をしる也。物の心をしる也。物の哀れをしるなり。其中にも猶くはしくわけていはば、わきまへしる所は物の心事の心をしるといふもの也。わきまへしりて、其しなにしたがひて感ずる所が物のあはれ也」


 「もののあはれ」は、ベストセラー『国家の品格』でも紹介され、今やブログでも盛んに取りあげられていますね。

http://web.chokugen.jp/mikami/2006/05/post_ffc2.html
http://shelly-tomoko.at.webry.info/200606/article_8.html
http://www.city.hakusan.ishikawa.jp/kyouiku/bunka/akegarasu_sho/ronbun/1-10/H2-1honbun_3.jsp
http://blog.goo.ne.jp/mishimablues/e/74ed9fb2a53593b0c85428b8eb916e06
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2005/07/post_c02b.html

 これら、今世の中で話題になってる「もののあはれ」の捉え方も、間違いではありませんが、少しかたよっているのではないでしょうか。宣長が提唱したのは「はかなく美しいものに、感動する心」だけではありません。

 そもそも「もの」とは何か? 「あはれ」とは何か?

 まず、「あはれ」。現代語では、ただ「哀れ」のみの意味となってしまいましたが、近世までは、

「うれしいにつけ、悲しいにつけ、しみじみとした深い感動を受けた時に発する語。ああ。」(『古語辞典』角川書店)

 だったのです。宣長『石上私淑言』にも、

「ある時は喜しく、ある時は悲しく、又はらだたしく、又よろこばしく、或は楽しくおもしろく、或はおそろしくうれはしく、或は愛しく、或はにくましく、或は恋しく、或はいとはしく、さまざまにおもふ事のある、是即ち物のあはれをしる」

 とあります。古語辞典で”あはれ”をひくと、「いとしい」「なつかしい」「かわいそう」「悲しい」「情けない」「残念」「うれしい」「感心」「おもしろい」…。書ききれないほど実に多様な意味があります。「あっぱれ」も元は、”あはれ”から派生した語。


 さて、では「もの」とは何か。漢字で書くと「物」の方です。現代日本語では、生命のない対象物、英語のThingの意味のみに、おおむねなっていると思われます。ところが近世まで、宣長や歌人、文芸作者のみていた「もの」には、実に広範で豊潤な意味がありました。正直、すべてをみると何がなんだか、ワケがわからなくなるほど雑多です。
 いきなり正解をいいますと、「もの=物」とは、「ワケのわからないもの」なのです。わからないながらも、辞典によっては監修者の好みで、その定義には微妙な”ゆれ”がある。代表的な巨大辞典、『広辞苑』と『大辞林』を比較、その”ゆれ”をみてみましょう。

「もの」の定義

A.広辞苑
●形のある物体をはじめとして、存在の感知できる対象。また対象を特定の言葉で指し示さず漠然ととらえて表現するものにも用いる。
1.物体。物品。
2.仏・神・鬼・魂など、霊妙な作用をもたらす存在。妖怪・邪神・物の怪。
3.物事。
4.世間一般の事柄
…6.言語・言葉。

B.大辞林
●形のある物体を初めとして、広く人間が知覚し思考し得る対象の一切を意味する。
「こと」が時間的に生起・消滅する現象を表すのに対して、「もの」はその現象を担う不変な実体を想定して用いる語である。
1.物体。物品。
…3.対象を具体的に表現せず、漠然という語。何らかの対象。「―を言う」
「―を思う」
…5.物事の筋道、道理。
…6.鬼や悪霊など、正体のとらえにくい対象を畏怖していう語。「―に憑かれる」「―の怪」
二?〔哲〕イ 人格としては関係しない対象を「ひと」に対して「もの」という。


二つの辞典の間の“ゆれ”
A.広辞苑 1.定義中に「言語」がある。 2.正体不明の霊的存在が語義の上位にある。
B.大辞林 1.「こと」が時間的に生起・消滅する現象。「もの」がその現象を担う不変な実体。
2.人格に関係しない対象。

 辞典の”ゆれ”を比較すると、言の葉庵としては、定義に「言語」をいれた広辞苑に一票投じたいような気もしますが、ここで重要なのは「ものの怪」「憑もの」「物忌み」などと使う、「仏・神・鬼・魂など、正体のとらえにくい霊妙な存在」という定義。日本文化論者、栗田勇の著述に興味深い一文があります。


日本人にとって、ものはもの以上である。もののけという言葉があるが、あの「もの」は、じつは目に見えぬ精霊のことである。つまり、魂をものといっている。
『源氏物語』にしても、必ず舞台に小道具が出てくる。光源氏が女性と知り合うときに、たとえば夕顔なら夕顔の花と釣瓶が出てくる。それから薄がなびき、萩の花が庭を埋め、という舞台設定が行われる。つまり、ものによって、人と人のドラマが始まる。
というのも、日本人にとってものというのは、西洋人のいういわゆる物質ではない。ものは、広い天然宇宙の自然と人間との間のひとつのきっかけ、橋渡しのようなものであり、ものが出てきてはじめて、その背景にあるドラマの舞台に人間はすわることができると考えている。
それに対してキリスト教の場合、神が橋渡しとなって人間と人間がつながる。したがってカトリック世界では、つい近ごろまで神を通じて結ばれた男女は離婚できないというルールがあったわけだ。日本人の場合、そういう絶対的なキリスト教の神に代わるものが、ものであった。それはなぜかというと、絶対的な自然の象徴であり、ものを手がかりにし
て、人間の世界は目に見える真実界へと広がっていくからである。(『利休と日本人』栗田勇 祥伝社)


 栗田氏のいう「もの」とは、天台宗本覚思想の「草木国土悉皆成仏」、すなわちこの世のあらゆるもの、山、川、海や空気にいたるまでの、仏性が宿る霊的な存在のことなのです。この存在が、人間界・現実界と霊界との”橋渡し”を担うことをよくあらわしているのが、能の世界。

 演じる神や霊などが宿るといわれ、最も重要とされているのが、能の面。とくに「もの」がつくものは、すべて霊界との媒介となります。「作りもの」「採(と)りもの」「もの狂い」。
 「作りもの」は、竹の枠組みに白いさらし布を巻いただけのいたって簡素な舞台装置です。これが、舟・鐘楼・井戸などをあらわす。前シテは、このシンボルにきっかけを与えられ、劇中のクライマックスに導かれます。
 「採りもの」は、狂女や巫女などが扇の代わりに手にもつ、小笹・桜枝・御幣などの小物。シテは、この小物がアンテナ=神の依代(よりしろ)となって、あの世からの託宣をキャッチし、舞い、謡います。
 「もの狂い」は辞典類には必ず「ふだん正気の人が、亡父・行方不明の子などを思い浮かべることで、たちまち狂気となって」と説明されていますが、違います。舞台上の真実は、霊的なエネルギーを受けやすい状況にある人(亡き子を思い出すなど)の感情があふれ出すさまを、舞や型に芸として止揚して演じるひとつの方法、舞台様式です。この場合、「狂う」は「演じる」の代名詞。
 以上のように、能は、まさに本覚思想を芸術化・舞台化したものですから、霊的な正体不明の「もの」をベースに存在、成立しています。


 この正体不明で、霊的な「もの」は、古代日本人にはどのように呼ばれていたのでしょうか。

 日本の古代の信仰の方面では、かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、ものとの四つが、代表的なものであった。…鬼は怖いもの、神も現今の様に抽象的なものではなくて、もつと畏しいものであつた。今日の様に考へられ出したのは、神自身の向上した為である。たまは眼に見え、輝くもので、形はまるいのである。ものは、極抽象的で、姿は考へないのが普通であつた。此は、平安朝に這つてから、勢力が現れたのである。
(「鬼の話」折口信夫)

 つまり、古代人にとって「もの」は単なる物質ではなく、カミ・オニ・タマと同様、具体的な形をもたない霊的な存在だと考えられていました。また、概念としては、これら四つを総合した包括的なものだったようです。

 モノとオニが古くは同義語だったことは専門家の常識だが、さらにオニとカミも互換的であり、したがって存在物一般―ふつう哲学では「存在するもの」(ギリシャ語のon、ラテン語のens、ドイツ語のSeiende)を「存在者」と訳しているが、人間についても物という(人物、大物の例)から、本書では人を含めて「存在物」と表記する―および存在一般を指示するモノにカミもまた還元されてしまうと、素人の筆者は考えるからである。折口の挙げた古代信仰の四概念のうち三つまでが相互関連的であり、モノがその根底をなしている。残るのはタマ(霊魂)だが、これはむしろケ(気)と関連づけて考察した方がよく、霊がカミと、神がタマシヒと訓じられることもあった(例えば『日本書紀』欽明天皇二年七月条)から、結局全称類概念としてのモノに内包されてしまうだろう。
(『もののけ?』山内昶 法政大学出版局)


 さて、海外では森羅万象に不可知な生命現象が潜むとする〈アニミズム〉という概念があります。(『原始文化』タイラー 1981)さらに、〈アニミズム〉をより根源的、普遍的に説明する〈マナ〉という新概念が、タイラーの弟子たちによって提唱されました。〈マナ〉はメラネシア人たちに信じられている、超自然的な存在・力・霊性です。

 マナとはメラネシア語で「人間の平常の力を超え、自然の通常の過程の外にあって、あらゆるものに効果を生じさせるもの」(『メラネシア人』コドリントン)にほかならない。メラネシアの人々は海上で暴風雨に遭うとその針路をかえてくれるように嘆願するが、これは嵐の中にあるスピリトウスに訴えているのではなく、嵐そのものを生きた存在としてそれに呼びかけていた。あるいはカヌー競争で優勝できたのも、漕ぎ手が優れていたからではなく、舟にマナが宿っていたからである。戦士が敵を槍で倒せたのも、彼が強かったからではなく、槍にマナが憑いていたからである。

 コドリントンの定義によると、「メラネシア人はあらゆる物質的な力から、絶対的に区別された力の生存を信じている。これは善にも悪にも、あらゆる種類の仕方で作動し、かつまたこれを人間が掌中に収めて支配することが至高の利益である。これがマナにほかならない。…それは力、非物質的で、ある意味では超自然的な作用力である。けれどもこれが啓示されるのは自然力によって、あるいはまた人間がもっているすべての種類の能力と卓越性によってである」
(『同前』)


 つまり〈マナ〉とは宇宙に遍く存在する、超自然的で神秘的な力であり、自然界のあらゆるものの中に自由に出入りし、背後から動かし、エネルギーを与える。それは人間・自然物・自然現象を通じてあらわれるものだというのです。

 調査によると〈マナ〉と類似の概念・信仰は、世界各地に偏在していることがわかりました。

 アメリカ大陸 北米アルゴンキン語族〈マントウ〉、オセアニア レパース島〈マナギ〉、マライタ島〈ママナア〉、ガダルカナル〈ナナマ〉、フィジー諸島〈マヌ〉、東南アジア ボルネオ ダヤク族〈マナン〉、アフリカ ウガンダ ニヨロ族〈マハ〉、ドゴン族〈ニャマ〉、モシ族〈ナム〉。

 また、世界の古代語にも霊的エネルギーを指す、類似語が多く見られます。
 古代ヨーロッパでは〈マナ〉は「母なる月」をあらわす言葉。古代スカンジナビアでは女神を〈マン〉〈マナ〉〈マナ・アンナ〉。古代ローマでは祖霊を〈マネス〉と呼びました。『旧約聖書』出エジプト記によると、放浪するイスラエルの民を、神が〈マナ〉という食物を天から降らせ、四十年間養ったとあります。


 〈マナ〉と類似の言葉・概念・信仰は、世界のいたるところでみられるものでしたが、日本語の〈モノ〉も〈マナ〉の転化ではないか、とする説があります。

 「もの」は日本語のシステムにおいて、マナと全く同じ運動をしているように思われる。Mono-mana。村山七郎氏の言うように日本語の基層がアウストロネシア系であるとすれば、ここに単なる駄洒落を見るべきではないだろう。
(『マナと法』岩森栄樹)

 日本の「もの」とポリネシアの「マナ」とは変換可能な概念であり、その役割は同一であるということになるであろう。(『憑霊信仰論』小松和彦)

 沖縄や八重山諸島の「まやの神」の「まや」は「マナ」の転であり、「モノ」もまた同様であろう。(『鬼と天皇』大和岩雄)

 その他にも、昨今〈マナ〉と〈モノ〉の類縁性を考証する研究が種々提唱されています。


 このようにみていくと、宣長の「もののあはれ」は、ただ日本人だけの美的感性に限局されたものではなく、文化人類学、民俗学などの視点も交え、捉えなおす必要があるようです。くわえて、「もの」を「言語」とするなら、超自然的な想念(信仰といっていいかもしれません)が、言語表出化されるモデル、西欧の〈ロゴス〉や日本の〈言霊信仰〉とも関連付けて見てゆく方法もあるかもしれません。が、今はその力もないので稿を改めたいと思います。


※〈マナ〉以降の段落の引用・出典は、主に『もののけ2』によりました。


【言の葉庵】メールマガジンより
http://nobunsha.jp/anshu.html#melma

|

« いろは歌は、古代の怨念とSOSのメッセージ〈後編〉 | トップページ | 日本文化のキーワード第三回【幽玄】 »

コメント

当ページ管理人のanshuです。
コメントありがとうございます。
上に書きましたように「もの」と「あはれ」は、まさに日本文化そのものと考えています。

「幽玄」は中国よりの”直輸入”ですので、宋水墨画や漢詩文にもそのイメージは見られると思います。
しかし「もののあはれ」については、その概念が漢詩文に現れているかどうかは浅学につき不明です。
本朝国学と漢詩との学際的な分野になりますので、そのような研究を探すのは、少し”骨”かもしれませんね。
もしも何か情報を耳に挟めば改めてお知らせいたします。

投稿: anshu | 2011年1月12日 (水) 19時00分

k.u
申します。
大変参考になりました。

もののあわれ、は日本人に固有の感覚なのでしょうか?、嘗ての中国にはなかったのでしょうか?、漢詩にはその感覚、感情は多く見られないのでしょうか?

投稿: | 2011年1月12日 (水) 00時27分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 日本文化のキーワード第一回【もののあはれ】:

« いろは歌は、古代の怨念とSOSのメッセージ〈後編〉 | トップページ | 日本文化のキーワード第三回【幽玄】 »