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2009年12月12日 (土)

日本語はなぜ「七五調」なのか?〈後編〉

 〈前編〉では、日本人が七五調を読む定式化されたリズムがあり、それは二音節を一単位として構成される「四拍子」である、という説をご紹介しました。


 それでは、なぜすべての音数より特別に「五音」「七音」が選ばれたのか、続きを追っていきましょう。


3.なぜ、五音と七音が撰ばれたのだろう。

 では、なぜ四拍子を構成するのに五音と七音が選ばれたのか。それには、選んだというより、基本的には、五音と七音がいちばんできやすいということもあったのではなかろうか。

 前に述べたとおり、日本語の単語を類別すれば、二音節のものが圧倒的に多く、それだけで全体の六十パーセント近くを占めている。次いで三音節が三十パーセント弱である。したがってまた、二語の合成語も、二プラス二の四音節がもっとも多いにちがいない。
 ところで、文章をつくり叙述を完成させるには、いわゆる「てにをは」をつけたり、動詞を活用させたりしなければならない。単語の羅列だけでは歌にならない。つまり、大部分は一音節、一部は二音節でできている助詞や語尾変化部分を付加する必要がある。そして、四拍子ということを考えると、一句の長さを三音節や四音節で片付けることはできない。あまりに短すぎる―逆にいえば、休みが長くなりすぎるからである。それなら、いちばんできやすい組み合わせは五音で、短い句が五音になるのは、確率的にも当然のことにすぎない。

 長い句は、また四拍子を考慮に入れれば、六、七、八音のいずれかで(それ以上になると四拍におさまらない)、組み合わせの確率からいえば六音が最高かもしれないが、相対的な短長の感覚、休みの長さのバランスからして、七音がもっともふさわしいことになるだろう。短い句が五音であるのに対し、長い句が六音では、あまりに差がなさすぎるし、五音六音のくりかえしはむしろ三拍子にとらえたくなる(四拍子にするためには、全部の句にまるまる一拍の休みを置かなければならない)。また、長い句が八音では、句の切れ目にもまったく休みを置くことができず、ゆとりがなくなる。とすると、基本的には、長い句は七音が最適ということになる。


 以下当著は、長歌の「五七、五七、五」の二句切れから「五七五、七七」の三句切れへの移行、五七調から七五調への転換、英語俳句の批判、自由詩・散文詩のリズムへと考察が展開していきます。さて、本論とは間接的な項目になりますが、日本文化四拍子論として非常に興味深い、「手拍子・拍手発生論」、「農耕民族四拍子説」を後半部よりピックアップしてご紹介したいと思います。


4.手拍子は、四拍子。

 手をうつことは日本民族の故習で『魏志倭人伝』、『古事記』の「天逆手」にみられ、一種の呪術と考えられる。これが芸能の場におこなわれたものが手拍子であるが、同時に気分の高揚した芸能の場で自然発生することもおもい合わせるべきである。すなわち歌謡をうたう場合は一種の「はやし」という音楽の原始的な役目をする。(平凡社『世界大百科事典』)

 つまり、ずっと古い時代から、「気分の高揚した芸能の場」では、自然に「手拍子」という行為が伴い、歌の「はやし」の役目も果たしていたから、現在でも歌を歌うときには、ごく自然に、歌が何拍子だか考えもせずに、手拍子を打つようになっているのである。日本人には、手拍子という二拍子系のリズムが、もう身についてしまっている。


 もう一つ、今では日常生活から離れてしまったが、神さまを拝むときの拍手がある。これは、いったいどういう意味をもっているのか。哲学者の上山春平氏によれば、元来、拍手とは挨拶のしぐさだったらしい。『魏志倭人伝』には、「大人の敬する所を見れば、ただ拍手して跪拝に当つ」とあるから、三世紀頃のわれわれの祖先は、挨拶に拍手を用いていたことになる。また、唐代の学者が『周礼』の注釈のなかで、今の倭人(日本人)は拍手の礼を行っていると書いているそうである。『日本書紀』の持統記にも拍手の礼が記録され
ている。天武天皇の皇后であった持統天皇が帝位につくときの即位式に、
「公卿百寮、羅列りてあまねく拝みたてまつり、手拍す」とある。
 今は普通の挨拶に拍手など用いない。それをやるのは、神さまを拝むときだけである。昔行われていた挨拶の拍手と、今残っている神前の拍手と、この二つにはいったいどんな関係があるのだろうか。ぜんぜん別のものだったとは考えにくい。
 神前の拍手は、もとをただせば、神さまに対する挨拶ではないか。それも、人に対する挨拶であった拍手が、時とともに、神さまに対する挨拶にも使われるようになったというのではなく、挨拶として拍手という行為があり、それが神にも人にも使われた、あるいはむしろ、神に対する挨拶として拍手があり、人に対する挨拶にもそれが使われるようになったと考えたい。はじめに神ありき。


わたしにとってすこぶる興味深いのは、超自然を呼びさますというもっとも根源的な行為の一つであるこの拍手を、上代人がどのように行ったかということ、具体的にいえば、その回数である。神社に詣でてかしわ手を打つとき、われわれはけっして一つだけではすまさない。かならず、ポン、ポンと、二つ打つだろう。なぜか知らないが、昔から習慣的にそうすることになっている。いくつでもいいというものできない、どこでだれがやっても二つである。
 ところが、二つというのは実は略式だそうで、古語辞典(岩波書店)を見ると、正式には四度打つと書いてある。それどころか、これも上山春平氏に教えられたのだが、伊勢神宮では、ポン、ポン、ポン、ポンと四つたたき、間を置いてそれを二度くりかえすらしい。現行の神宮祭式では、四度の拍手を二回くりかえすのは「八度拍手」と呼ばれ、あらゆる儀式のクライマックスをなすという。
 それにしても、なんと神秘的な味わいにみちていることか。人と神とのあいだに立てられた重い扉を押し開くのは、深い静寂のなかに乾いた音をひびかせる四拍子のリズム。

 手をたたくという動作でわれわれが日常おなじみのものがまだあった。応援の拍手である。(中略)あれがいわゆる三三七拍子である。
 しかし、べつに三拍子三拍子七拍子を重ねているわけではない。五七五七七や三十一文字と同じで、数字そのものはリズム(拍子)をあらわしていない。日本人の変なくせというか、表面にあらわれた数だけかぞえて、休みを全く勘定に入れないのである。三三七とっても、けっして三三七を続けて打っているのではなく、それぞれのあいだに休みを置いて、

 |○○○●|○○○●|○○○○|○○○●|

の形にしている。これはご覧のとおりの四拍子にほかならない。
 それから、今でも、ある社会で行われている手じめ。(中略)「お手を拝借…イヨーーッ」で始まるあの拍手は(中略)、

 |○○○●|○○○●|○○○●|○●●●|

となり、やはり四拍子である。


5.農耕民族は、四拍子。

 一つ大胆な仮説を提示してみよう。
「日本人の四拍子文化は、先祖が農耕民族だったからである。」
 もちろん、この裏には、騎馬(遊牧)民族は三拍子であろうという想定がある。(中略)

 韓国の民謡が三拍子なのは騎馬民族だからではないか、という小泉文夫さんの説だった。農耕と四拍子になにか関係がありそうだという推測は前々からもっていたが、騎馬と農耕のリズム上の違いがはっきりしなければ、
その推測は意味をなさない。したがって、小泉さんの仮説は―これも証明されているわけではない。実際問題として実証は不可能でもあろう―わたしにとって、まさに暗い空を走る電光の一閃だったのである。まずこの「馬の文化」説の大要から紹介することにしよう。

 (中略)なぜ韓国人のばあい三拍子になるかというと、おそらく彼らが騎馬民族で、馬に乗るからである。乗馬の経験でいえば、速足をやるときにただ乗っているだけでは尻を打ってしまう。そうならないためには、馬が跳ねたときに自分から跳ね、積極的に上下動を加える。馬に乗る民族は、みなが調子づいてくると上下動をする。その動きによって、気持ちが高揚する。日本のような歩行のリズムではなく、それに上下の跳躍のリズムが入る。  日本には、奈良、平安時代から蒙古馬が献上されていたが、あくまで馬は支配階級のためのもので、音楽をつくる底辺である農民のリズム感のなかに、馬は定着しなかった。

 (中略)そして、四拍子論に関連して、とりわけ面白いと思うのは、この騎馬民族が南九州に国をつくったという推定である。騎馬民族は三拍子。それなら、南九州は、大昔、三拍子の国だったのではないか。
 (中略)古代の歌謡の一つに「催馬楽」と呼ばれるものがある。そして、日本の芸能としてひじょうに珍しいことに、これが五拍子か三拍子であることを、奈良学芸大の林謙三氏が明らかにされた。(中略)要するに、催馬楽は鹿児島近辺で行われていた隼人神楽である。いいかえれば、ここが催馬楽発祥の地だということである。



 日本語が七五調であるというよりも、日本人生来のリズムが四拍子である、ということのほうが本質的な現象であることがよくわかりました。なぜ、二音で一単位なのか、また、そもそもなぜ日本民族は四拍子なのか、が農耕文化との関わりで提議されました。が、まだ仮説の域を脱しません。ヨーロッパでは古くから、ジーク、サラバント、などワルツ系三拍子は舞踊のリズムとされてきましたし、休符によるシンコペーションでリズムに跳躍感をもたせることは、もちろん四拍子でも可能ですが、逆に三拍子であればもっと加速感が強まるようにも思えます。
 いずれにしても、上代よりそれこそ千年以上ぼくたちの血と遺伝子に深く刷り込まれた、四拍子と七五調は、日本という国と民族があるかぎり、もっとも自然で、もっとも心地よい不変のリズムを刻み続けることに間違いはありません。



【言の葉庵】メールマガジンより
http://nobunsha.jp/anshu.html#melma

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コメント

初めまして。
http://jbbs.livedoor.jp/study/2491/#4
の99番目の記述にこんなのが有りますよ。

8文字
やくもたついずも 八 
8文字
えがきつまごめに 八
8文字
えがきつくるその 八
えがきを

投稿: | 2010年6月26日 (土) 21時43分

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