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2009年12月30日 (水)

上手は学ぶ。玄祥と幽雪

能楽タイムズ1月号に、能楽人間国宝、片山幽雪師(旧名九郎右衛門)のインタビューが掲載されています。その中で某月、梅若玄祥師が自身「姥捨」を舞うに際して、片山幽雪師に助言を乞うたというエピソードがある。とても良い話なので以下に引用してお知らせします。

「玄祥さんにはことさら助言というのではなくとも『私はこう思います』とよく話したりします。あの人は、何でもすぐに受け入れてくれはるお人ですな。何べん言うてもそうもならん人もあります」片山幽雪

『風姿花伝』第三問答條々に、「上手は下手の手本、下手は上手の手本」という名言があります。もちろんこのお二人とも現代能楽界を代表する名人上手なのですが、初心のごとき稽古を何歳になっても、どんなに偉くなっても、虚心坦懐に続けておられる。

一時代前、宝生流の高橋進師が、流儀の先輩である近藤乾三師に「老女物の稽古を見てほしい」と頼んだ。一通り終わって乾三師が帰ろうとすると、高橋師「もう一度」という。仕方なくもう一度稽古を見て、さて帰ろうとすると「いや。なにとぞもう一度」と高橋師が手をついて懇願する。たまらず乾三師、「君はもういいよ(教えることは何もない)」といったという逸話があります。この時乾三師・進師はともに90歳過ぎ、ともに人間国宝だったのです。ひとつのことに生涯をかけて、打ち込み、学び続ける姿勢は、なにより尊いことです。

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2009年12月28日 (月)

日本文化のキーワード第二回【風狂】

「死にとむない」。

“破戒禅”で日本禅史上、最も名高くユニークな傑僧、一休宗純。『本阿弥行状記』によると、彼の臨終のことばは、何と「死にとむない」であったといいます。大悟のひと、この世のあらゆる執着から解き放たれ、真の自在境にあった、そのひとが晩年最愛の伴侶、盲目の森女に看取られながら、死にたくない、とひとこと洩らしてこの世を去った。一見、煩悩と執着とも思えるこのことばこそ、偽悪者・風狂の権化ともいわれる怪僧一休の真実の姿をありのままに伝えるものだと思っています。

 文明十三年(1481)、一休、八十八歳。持病の瘧が悪化し十一月二十一日早暁、遷化。酬恩庵において「泊然として寝るがごとくにして座逝(一休年譜)」したとあります。世に広く伝えられる一休の遺偈。

須弥の南畔
誰か我が禅を会す
虚堂来るも
半銭に値せず

この広大な人間世界のどこを探しても、我が禅を知るものなどひとりもいない。最高の師祖、虚堂が迎えにきてくれたとしても、今の我禅には半銭の値打ちもない。
この偈もまさしく、一休禅の真骨頂。孤絶の禅僧、一休の生涯は”風狂”そのものといわれました。西行、宗祇、雪舟、芭蕉とつながる日本文化のキーワード、”風狂”を今回は一休の足跡をたどることで明らかにしていこうと思います。

一休とは何者か

 一休の概略を以下ざっと追いましょう。
よく知られているように、一休は後小松天皇の御落胤だとも言われています。生まれたのは応永元年(1394)正月元旦。幼名千菊丸。6歳で安国寺の侍童となり、13歳で建仁寺に入り慕哲につく。漢詩の素養はここで鍛えます。
 17歳から、西金寺の謙翁(為謙宗為)の門に参じ無一物を決意して、粉骨砕身研鑽。しかし一休21歳のとき、突然、師謙翁示寂。唯一無二と頼んだ師を失った一休の落胆と失望は深刻で、なんと瀬田の唐橋から投身自殺しようとしています。偶然命拾いした一休は、江州堅田の禅興庵に華叟宗曇をたずねて、入門。華叟は峻厳で鳴る老師、大徳寺派を代表する無骨一徹の人。この師のもと一休は、徹底的に己の目指す禅に没入します。このころ自分が理想とする精神の原型が南宋の名僧・虚堂智愚にあることを発見。しばしば「虚堂七世の孫」を自称するようになります。
 一休は「洞山三頓の棒」の公案と、琵琶湖のほとりで座禅中に聞いたカラスの鳴き声で開悟したと伝えています。華叟の死後は、京都、堺の処々を転々とし街頭禅を実践。民衆を大いに接化します。大徳寺に住持として招請された後(実は一日しか寺にいなかったとか)、晩年七言絶句の偈頌の集大成、風狂子一休の代表作『狂雲集』を著述。
一休が晩年盲目の森侍者と同棲をしたらしいことは、広く有名な話。水上勉『一休』では、77歳から88歳までの10年間ほどを、一休は森女を愛し、森女もまた、一休に尽くして添い遂げたということになっています。『狂雲集』、「住吉薬師堂並びに叙」のあたりに森女を詠みこんだ漢詩が多く並び、森女を菩薩ともひとしい形容で称えます。

女犯・男色・飲酒・肉食三昧…。破戒僧として名を天下にはせた一休。まず、世の人にはどのように評されていたのでしょうか。

「おなじく禅門の明匠とて数を知らずきこえ侍れども、今の世に行儀も心地も世の中の人に変わり侍ると聞こえぬるは、一休和尚なり。万のさま世の人にはるか変わり侍ると、人々かたり侍り」(連歌師 心敬『ささめごと』)

応仁の乱をはじめ、相次ぐ戦乱、飢饉、悪疫、一揆などに日本中が、未曾有の混乱に陥ったこの時代、困窮する民をかえりみず享楽に耽る為政者、腐敗・堕落を極める禅林大刹。一休のとった時代糾弾の武器は、まず「偽悪」。そして、偽善を完全防御するための鎧、法衣こそ”風狂”だったのです。後述しますが、”狂”こそは大悟へいたる禅の大いなる意識段階。女犯・飲酒など仏業の戒律をやぶる、これら”狂”の行いを逆行、堅く戒律を守る正しい修業を順行と呼びます。そもそも、「順行」「逆行」とは何か。はたして、一休の破戒三昧の行を単純に「逆行」としてよいものか、どうか。

「仏教の場合、戒律を忠実に守り、これにしたがって(順)いとなむ生活実践『順行』に対して、あえて、これを破る破戒の行動を『逆行』という。その思想的源流は大乗仏教の『煩悩を断ぜずして涅槃に入る』『破戒の比丘、地獄に堕ちず』などの知見であり、『維摩経』仏道品第八の『その時、文殊師利、維摩詰に問うていわく、菩薩いかにして仏道に通達せん。維摩詰いわく、若し菩薩、非道を行ずれば、これを仏道に通達すとなす』の提示がそれである」(市川白弦)

 少し整理していうと、大乗仏教では、煩悩をもったままでも人は涅槃にいたり、破戒僧も地獄に堕ちることはない。菩薩業とは、むしろ非道をなすものを仏の道へと導くものだ、ということ。ましてや世は戦乱、人すべて日々生き地獄にあえぐ中、一休は決して手をこまねくこともせず、傍観もしません。

「一休が生きる世界は、庶民と同じく、修羅、地獄である。無智迷妄である。地獄のほかに仏土はなく、迷いをはなれて悟りはない。泥まみれの巷を、正気と狂気のさかい目を、この人は歩いてゆく」(『一休』水上勉)

「悟りは狂うこと、すなわち通常の意識レヴェルたる知的レヴェルを超えることだ、悟りは何か異常なものだ」(『禅と日本文化』鈴木大拙)

 さて、このように塗炭の苦しみを民衆とともに味わい、これを接化につとめ、乱れ爛れた腐敗政治と堕落宗教に”狂”の刃をつきつける一休の”風狂”とは一体どのようなものだったのでしょうか。

一休の“風狂”実践

 一休の言動を題材とした民間説話は、日本中に実におびただしく存在します。いわゆる青頭の小坊主「頓知の一休さん」がポピュラーですが、これらは99%後世の作り話だと思ってください。実際、一休の”風狂”は、ウィットやユーモアなどというものであしらえるような生易しいものではありませんでした。いくつかその”風狂”の足跡をたどってみましょう。

「正月元旦、世間の人々がいちように晴れやかな思いで目出たく長寿と平和を祝って楽しんでいる。そうしたところ一休は、墓場で拾った髑髏を竹の先に貫き、家々の門をまわりながら、
『このとおり、このとおり、ご用心、ご用心』と大声でわめき歩き、門口に髑髏を差し入れる。見かねたある人、
『せっかくの目出度い正月、なにしに縁起でもない髑髏など持ち歩かれるのか』
と問いただしたところ、得たりと、
『この髑髏よりほかに目出度きものはなし。目出たるあなのみ残りしをば、めでたしといふなるぞ』
と答えたという」(『一休咄巻二第四話』)

またある頃、自身仏僧であるもかかわらず腰に長大な朱鞘の太刀を帯び、堺の街をのし歩いたといいます。
「師四十二歳。會って泉南に在り。出でて街市に遊ぶ毎に、一木剣を持って鋏を弾ず。市人争って師に問う、『剣は殺を以って功と為す。師が比の剣を持つは、是れなんの用ぞ』答えて曰く、『汝等、未だ知らずや、今諸方の贋知識、比の木剣に似たり。室に収在するときは殆ど真剣に似たれども、室より抜き出すときは、只だ木片なる耳。殺すことすら猶お能くせず、況や人を活かすことをや』人皆之を咲う。瑞子、師の像を絵き、曲彔牀角によりかかりて以って烏藤に代う。讃して『吹毛三尺、煙塵を発動す』の句あり」(『年譜』)

「能書家として知られる一休。ある時、比叡山の山法師より
『ながながとして読みやすき大文字、一文字』
と所望され、不動坂の上から山麓の坂本までつないだ長い紙の上を、ただひとすじに筆を走らせ、あざやかに『し(死)』の一字を書いて見せた」(『一休咄巻二第九話』)

「一休十八歳の時。壬生宝徸寺では、清叟仁蔵主の肖像を敬い、これに当時禁制の金襴の袈裟をかけていた。この噂を耳にした将軍義持が、前触れなく寺にあらわれる。義持は、このころ仏教界にも干渉し、その弊風を刷新しようとしていたところで、突然のことに関係者一同震え上がった。肖像の調進に関係し、この時寺に居合わせた一休、幀子(絹布の掛物)一巻を手にし、訪れた将軍家持を玄関に迎える。式台の上に突っ立ったまま、将軍を見下ろし、直接これを手渡そうとした。随行していた赤松満祐は、一休のあまりに無礼な態度を制しながら、将軍に代わり幀子を受け取ろうと手を差し出す。一休はすかさず幀子を後ろに引っ込め、アカンベをして見せた。一休の豪胆な対応に将軍一同あっけにとられ、肖像の検閲もそこそこに、尻尾をまいて帰って行った、という」(『一休 風狂の精神』西田正好)

「『狂雲集』に「大燈忌宿忌以前、美人に対す」という詩編がある。
大徳寺開山大燈国師命日に、一山をあげて厳粛な法要を営んでいる最中、一休はすぐ近くの僧坊で美人(遊女)相手に大いに昼下がりの情事を楽しんだ、という偈頌だ。

宿忌の開山諷経
経咒耳に逆らう衆僧の声
雲雨風流事終りて後
夢閨の私語慈明を笑う

大燈忌法要の読経の声が、せっかくの情事を妨げ気分をそぐもんだ。美人とこと終わって、寝床の睦言を交わしながら、宋の慈明禅師も色好みであったわい、と笑えることよ、との意味。
慈明は、もっぱら愛人のところに入り浸って、弟子の楊岐方会が迎えに来るまで寺に戻らなかったという。しぶしぶ寺に戻り上堂した慈明とは違い、だれが迎えに来ても大燈忌になど参列するものかと一休は、これをあざ笑ったのである」(同)

”風狂”とは何か

 日本文化史上、西行より起こり、一休で開花し、良寛、芭蕉まで連綿と続く”風狂”の系譜。その語義、語源を、前出『一休 風狂の精神』より、かいつまんで以下ご紹介してみましょう。

 まず、”風狂”の”風”の字。この一文字の本意を正確に見極めることができれば、一著に相当する、すぐれた日本文化論が成り立つことでしょう。
 “風”は、吹くかぜではあるが、これが熟語化すると驚くほど多彩な意味が現れだします。

最初に、風一文字の語意を調べてみます。
 まず、“風”には、病気の意味がある。風邪・風気。冷たい風にあたることで起きる病気の意味です。中風、風疾、風病、痛風、風湿、風毒…。以上は内科の病気。精神科の受持範囲では、風漢、風子、風癲。変人を風変といい、気まぐれなものを風来人、風来坊などという。風一文字だけでも瘧の意味があります。これらの用例から推し量ると、”風狂”は、病的な狂人ということになる。狂客・狂者・狂漢の意味も”風狂”にあることは、間違いないでしょう。

 次に”風”の字は、自然全般をあらわす言葉として用いられています。風光・風色・風物・風景・風候・風月・風雲・風水・風霜・風雪などなど。なぜ「風」が、こんなにも自然全体を代表するのでしょうか。理由は、かんたん。もっとも身近に、直接肌身に触れる自然が「風」だからです。雪月花、松竹梅、花鳥風月などとくらべ、風ほどわれわれの生活に近い間柄の関係のものはありません。

 秋きぬと目にはさやかに見えねども風のおとにぞ驚かれぬる  藤原敏行

 目では確認できない自然の移ろいを耳と肌を通して実感させてくれるのが、風。日本人にとって風は古くから、四季を感じさせる自然の代名詞なのです。

 風はさらに、自然そのものより、自然が持つ「美趣」を表現することばとなってゆく。風狂が芸術とより強く結びついたことばに、西行・宗祇・雪舟・芭蕉へと続く、遊行(旅)をベースとした芸術概念の”風雅”があります。”風雅”は和歌や俳諧など、言語芸術の代名詞としても用いられています。”風雅”に近い概念に、風流・風情・風趣・風致・風尚・風懐・風騒・風韻などのことばがあげられる。詩人など、風雅で風流な人を風人と呼び、風情のある姿かたちを風姿と呼んでいます。

 風狂に基づく「風」の字を探索してみると、三種の語法に分類することができます。一は、狂気にも通ずる「病気」の意味。二は、あるがままの「自然」。三は、その自然に立脚する「美趣」の意。こうしてみると”風狂”は単純に狂気のみを意味するものとはいえません。日本古来の伝統精神の流れにあらわれる、自然随順の思想、自然美学の感情が、この二文字に奥深く込められていることがわかってきました。

風狂と風雅、芭蕉と禅。

さて、一休の”風狂”が、本質的には和歌の伝統である”風雅”にも、まっすぐの線でつながっていく、とする説があります。

「芭蕉の有名な俳文『笈の小文』によれば、西行・宗祇・雪舟・利休などの伝統芸術を一貫するものは、”風雅”の精神であった。しかも芭蕉は、『風雅におけるもの、造化(自然)に随いて四時(四季)を友とす』と述べている。主として日本の伝統芸術は、遊行と隠遁の生活から生まれたといってよいだろう。現に利休を除いた西行・宗祇・雪舟の三人は、芭蕉とともにすぐれた遊行芸術家であったし、山里風の露地や草庵をしきりに愛好した利休は、そもそもがきわめて隠遁的な精神の茶人であった。山川田野のなかをたどっていく遊行や、山林に身をくらます隠遁は、要するに、自然との直接の触れ合いを求め続ける生活形態である。
 そういう自然と一体の生活に詩趣を覚え、その感動体験から芸術や文化を創造していくことが、”風雅の道”にほかならなかった」(『一休 風狂の精神』)

「芭蕉のいう”風雅”の美の伝統を、かつて一休はまたそういううるわしい”風狂”の心をもって担ったのだ、とさえ私は思う。
 そしてまた、一休の”風狂”は、日本の美意識の歴史の上で、近世の”風雅”や”風流”の美に真っ直ぐ連なるところがあったとも、私は確信している」(同前)

 芭蕉と禅については、前出『禅と日本文化』で、鈴木大拙は「古池や蛙とびこむ」の句をひいて解題しています。「日本人を知ることは俳句を理解することを意味し、俳句を理解することは禅宗の”悟り”体験と接触することになる」とまでいっている。
 言葉によらず、論理によらず、直覚的直接的にものごとの深奥を把握し、これを表象する日本文化の特質は、禅の方法論とはてしなく近いものでしょう。

 また”狂う”ということが、日本人にとって美とつながることは、後述する能の場合を見ると、より顕著です。能の分類のひとつ”物狂い”こそ、風狂の原型。最愛のわが子を失って、心乱れ、彷徨い歩き、舞い、かつ謡う母の姿に中世の日本人は、美と芸術の最深奥をのぞき見たのです。

一休薪村の日本文化圏

 最終章は、少し禅の教理そのものから離れ、一休の”風狂”が今日の日本文化に多大な影響を与えた、その事例を検証し『言の葉庵』らしく、しめくくりたいと思います。

「芸術衝動は道徳衝動より原始的であり、生得のものである」
「禅はどうしても芸術と結びついて、道徳とは結びつかぬ。禅は無道徳であっても、無芸術ではありえない」(『禅と日本文化』鈴木大拙)

 この大拙のことばは、センセーションであり、同時に、なにゆえ禅が、音楽・舞台・絵画・俳諧など、中世~近世の日本文化に深く、色濃く影響を与ええたのかを解く、パンドラの函でもありました。少し話はそれますが、禅味の濃厚な「葉隠 武士道」の一見矛盾だらけに見える精神的立脚点も、ここから説明できるように思えます。

 さて、晩年一休は戦乱と都の混沌を避け、京都田辺の薪村に移り住み酬恩庵を結んでひっそりと暮らしました。最愛の森侍者と、一休の禅風を慕う多くの教養人、文化人に囲まれて。
これらの文化人こそ、今日の日本文化の基礎を形成した、当時の実に多彩かつ傑出した才能あふれる人々だったのです。その物凄い顔ぶれを列挙してみると。

■連歌・俳諧 飯尾宗祇、柴屋軒宗長、月村斎宗硯、杉原宗尹、山崎宗鑑(俳諧の祖)
■絵画 兵部墨谿、曽我蛇足、墨斎
■茶の湯 村田珠光、村田宗珠
■能 世阿弥、金春禅竹、禅鳳、観世音阿弥
■学者 一条兼良

 桃山時代に開花し、元禄に黄金期を迎える日本文化のルネッサンス。能、茶の湯、連歌、俳諧、絵画それぞれの分野の”祖”と目される人々がこぞって親しく一休に参禅し、その教えを乞うたのです。

 わび茶の開祖とされる、村田珠光はもと、浄土宗の僧でした。が、熱心に薪村を訪れ、一休に参禅するとともに禅の茶法を伝授されます。(一説には虚堂墨蹟を一休より賜るとも)

「喫茶に禅道を宗とするは、紫野の一休禅師より事起これり。其故は、南都称名寺の珠光は一休禅師の法弟なり。茶事を嗜みて日々行ひたるを、一休禅師見たまひて、茶は仏道の妙所にて叶ふべき物ぞとて、点茶に禅意を写し、衆生の為めに自己の心法を観ぜしむる茶道とは成し給へり。故に一切茶事にて行ひ用ふる所禅道に異ならず」(『禅茶録』千宗旦)

 また、今日薪能というと、野外で薪を燃やして行うものとされていますが、実は、一休の酬恩庵があった薪村で、禅竹、音阿弥等により能が舞われたことに由来するとする説があります。現に一休寺の門前に今でも「金春の芝」というものが残っている。ここの石碑には『薪能金春芝旧跡』とあります。
 能楽をことのほか愛好した一休は『狂雲集』に「金春座者の歌」と題した一偈があり、禅竹を賞賛。『江口』『山姥』は一休が作し、金春座に与えたともいわれているほどです。

 水上勉の『一休』には、このへんの消息を伝える興味深い一文があります。

「されば和尚森侍者と夜ごと酒くみかはされ、鼓うち歌などうたひたまへることもありけるが、一日ぜんちく殿、じゆくわう殿、そうちやう殿のおとづれたまへるに侍者も座にはべりて、江口の曲を自ら舞ひたまふもたのしきことなり。森侍者にはみえぬことゆえ和尚ことさら侍者の前へうちいでて声たかく、そもや江口の遊女とはそは去りにしいにしへの、いやいにしへとはごらんぜよ、月はむかしにかはらめや、われらもかやうにみえくるを、いにしへびとは現なや、よしよし何かとのたまふをいはじや聞かじむつかしや、秋の水、みなぎりだちて去る舟の月もかげさすさをの歌、うたへやうたへうたかたの、あはれ昔の恋しさを、今も遊女の舟遊び、世をわたるひと節うたひていざ遊ばん、などおどけてみせたまふに、ぜんちく殿ことのほか興じたまひて自ら鼓をとりてはやしなし、そうちやう殿じゆくわう殿もワキ、シテみだれてつとめられしもおもしろき夕べなり」

 風狂子清太夫『行実譜』という、水上勉の作中仮想人物の仮想資料からの一節です(実は水上自身の創作)。
また、俳諧への一休文化圏の影響は、前述芭蕉の”風雅”となって後世開花することとなります。

 茶の湯、能、連歌~俳諧、日本画、立花…から武士道にいたるまで。外国の文化的呪縛から解放され、独立し、日本人が日本独特の文化に目覚めたのが、室町(東山文化)~安土桃山時代。これらは、戦国期を経て、江戸元禄期に一気に花開き、今日の日本文化の礎を築きました。宗祇、珠光、宗鑑、世阿弥、禅竹、墨谿…。これらの美の巨人たちは、みな一休宗純の子供たち。風狂・遊行・隠遁・侘び・風雅、これらすべての日本文化の遺伝子を自然のままに生き、自然のままに死んだ、一禅僧に分け与えてもらった、といえるのではないでしょうか。

言の葉庵メールマガジンより

http://nobunsha.jp/anshu.html#melma

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2009年12月22日 (火)

日本文化のキーワード第四回【さび】

 茶の湯さびたるはよし、さばしたるは悪敷と申す。

片桐石州『秘事五ヵ条』にある、茶道の名言です。茶の湯において、自然と古び良い味となったものこそ良く、意図してそのように作ったものはよくない、というほどの意。日本文化と美学において、「わび・さび」として人口に膾炙する「さび」について、今回は学んで行きたいと思います。

1.さびの定義
2.禅とさび
3.さびの歴史
4.さびと茶の湯
5.さびの名言集
6.さびの逸話

1.さびの定義

まずは現代の「さび」の美学的な定義からみていきましょう。

美的概念。閑寂ななかに、奥深いものや豊かなものがおのずと感じられる美しさをいう。単なる「寂しさ」や「古さ」ではなく、さびしく静かなものがいっそう静まり、古くなったものがさらに枯れ、そのなかにかすかで奥深いもの、豊かで広がりのあるもの、あるいはまた華麗なものが現れてくる、そうした深い情趣を含んだ閑寂枯淡の美が「さび」である。老いて枯れたものと、豊かで華麗なものは相反する要素であるが、それらが一つの世界のなかで互いに引き合い、作用しあってその世界を活性化する。「さび」はそのように活性化されて、動いてやまない心の働きから生ずる、二重構造の美とも把握しうる。(堀越善太郎)

中世に近づくに従って、本来は厭うべき感情を意味した「わび」や「さび」が、「枯淡・閑寂・脱俗」の美を表す美意識となっていきます。それは、中世に興隆した禅宗の影響により、それまで忌避すべき心の状態をこそ良しとする心の持ち方が流行したことによります。次に、禅宗の立場から見た「さび」の概略をたどってみます。

2.禅とさび

今日の茶道が、禅の精神と密接に結びついて発展したことは周知の事実。そして茶道精神のもととなる重要なキーワードのひとつが静寂であり、静寂の寂は「さび」に通じます。しかしさびは、静寂よりもその包含する意味内容が広く、深い。寂にあたる梵語のSantiは「静寂」「平和」「静穏」を意味し、また寂は仏典においては「死」、「涅槃」を指す言葉です。しかし茶の湯において、「さび」は、「貧困」「単純化」「孤絶」などのニュアンスを与えられ、その意味では「わび」と同意語とも考えられる、と禅学者鈴木大拙は指摘しています。禅の視点から見る大拙の「さび」の定義とはどのようなものでしょうか。

(日本文化の)不完全な美に古色や古拙味(原始的無骨さ)が伴えば、日本の鑑賞家が賞美するところのさびがあらわれる。古色と原始性とは現実味ではないかも知れぬ。美術品が表面的にでも史的時代感を示せば、そこにさびが存する。さびは鄙びた無虚飾や古拙な不完全に存する、見た目の単純さや無造作な仕事ぶりに存する、豊富な歴史的な連想(必ずしも現存しなくともよい)に存する、そして、最期にそれはくだんの事物を芸術的作品の程度に引き上げるところの説明しがたき要素を含んでいる。これらの要素は、禅の鑑賞から由来すると、一般に考えられている。茶室内に用いられる道具類は多くかかる性質のものである。
『禅と日本文化』鈴木大拙 岩波新書

3.さびの歴史

禅の精神的土壌を得て、単なる「古」や「拙」、「絶」から、美的概念へと進歩を遂げた「さび」。言語としての「さび」は、文芸史のなかでいつ発生し、どのような変遷をとげたのか。その動線を探ってみたいと思います。

言語としてみれば、「さび」は、「わび」と同様に、動詞「さぶ」の連用形が名詞化されたものです。「わぶ」が、そもそも人にとって貧困と窮乏を指し示す否定的な言葉であったように、「さぶ」も孤独・哀傷などネガティブな感情を指す言葉でした。しかし、和歌の世界で藤原俊成・定家などが歌合の判詞で肯定的に使用し始めたことにより、次第に文芸の分野で肯定的な意味へと変化を遂げていく。俊成を「さびの美の発見者」とする説もあります。
藤原俊成がはじめて「さび」を評語として用いたのは、嘉応二年(1170)の『住吉社歌合』。平経盛「住吉の松吹く風の音たえてうらさびしくもすめる月かな」に対して、「すがた、言葉いひしりて、さびてこそ見え侍れ」と評したのが最初でした。以来、「さび」に肯定的かつ美的な情趣を認め、積極的に取れいれていったのが、室町期の連歌であり、後の蕉門俳諧の一派です。茶道の分野においても元連歌師であった武野紹鴎の影響により、「さび」の美的価値が評価、称揚され、積極的に茶道精神の根本として取り入れられるようになっていくのです(後に詳述)。
しかし、「さび」が名詞として用いられたのは「蕉風俳論において(角川古語辞典)」であり、十七世紀後半までは、もっぱら動詞、形容詞として用いられてきました。

4.さびと茶の湯

侘び茶を大成した千利休が、「さび」についてもはじめて取り上げ、積極的に茶道精神を推進する言葉として取り入れた、とする説があります。

利休の造詣の深さを思はせるのは、茶の湯の上に寂(さび)の一字を加へた事である。珠光は茶の湯の標語として「清浄礼和」の四字を説いたが、利休は其四字を改めて、和敬清寂の四字を説いた。敬と礼とは同じ様な物だから、利休の改めたのは寂の一字である。
茶は寂である。閑寂幽玄の物さびしい中に、華美贅沢の知らない、美があるといふ意味を指示した事は、何と云つても、利休の大なる功績であつたと思ふ。この寂の一字に依りて、茶の湯は世界に類のない特殊な文化を四畳半裡に建設した。
『茶心花語』西川一草亭 昭和六年

5.さびの名言集

利休が「さび」に茶道の上席を与えて以来、巻頭石州の言のように、代々の茶人はそれぞれ「さび」の名言を私たちに残してくれました。

「茶之湯根本、さびたるを本にして致候」(江岑夏書)
「連歌は冷えかじけて寒かれと云う。茶湯の果も其如く成たき、と紹鴎常に云ふ」(山上宗二記)「名物一種もなき人は、一段きれいにさびきって珍敷」(遷林)
「さびたるはよし、さばしたるは悪敷」(石州秘事五カ条)
「是即さびたる体を専に用之也」(上同)
「茶はさびて心を厚く持なせよ道具はいつも有合よし」(利休百首)

6.さびの逸話

「さび」は今日においても、ヴィンテージ嗜好、骨董趣味として私たちの生活全般で普遍的な「美の基準」となっています。「し残したるを、さて打ちおきるは」徒然草第八十二段が、日本人の「さび=古道具嗜好」を象徴するもっとも高名な随筆ですが、今ひとしお含蓄の深い二つの逸話を紹介し、本稿の跋に代えたいと思います。

問 当世の茶人達、清くうるはしき茶碗・茶杓などに、茶染み付るとて、常々撫でさすり、垢づけさばし、古物・古作に衒なして、茶会に用ひ、或は過分の値に売買し、ひたすら古器を賞玩せられ候事はいかがに候や

答 古人の古器を賞玩せられ候趣は、上古はよろずの事質朴にしてかざらず、百の器の形もやすらかにしてわづらはしからず、物の工も疎なるに似たれどもつたなからざりし、※淳素の代をしたひ、且つ古器には一つ得あるを以て、先達の賞玩候へば、其人をしたひ其器を愛して、千金の値をも忘れられ候に、あらたなるをば衒びふるべ、或は不浄に用ひけがしたるをもいはず、取上て、えならぬ来歴を付て茶具に用ひ、初心をまよはし過分の金銭を費さしめらるるは、誠に茶筵の邪徒にて候。又、当世ひたすら古器に過て家のおとろへを招かれし輩に就て思ひ合する事の侍り。唐に、秦人ひたすら古器を好む人有り。有人、古き筵を持来り、これは※魯の哀公孔子を召して共に坐し給ふ筵なりといふ。秦人悦びて田を売り是を求む。また一人、古き竹を持来り、此杖は※大王、狄をさけて邠の地を去り給ふ時つき給ふなりと。又悦んで家財を尽して是を求む。また其後一人、碗を持来り、此碗は※虞舜の手づから作り給ふ器なり。大王・孔子は周の事なり、舜の器になぞらふべからず、といへり。秦人大に悦んで家を売り、碗を求て三つの宝とすといへども、家産尽きて時の一笑となれりといへり。しかれども、かれは聖人したふの心ふかし。いまの古器にすける人は、秦人におとりぬと覚へり。

※淳素 素朴
※魯の哀公 紀元前467年没。魯の第25代君主。孔子を重用した。
※大王 古公亶父(ここうたんぽ)。古代周王朝初代武王の曽祖父。
※虞舜 帝舜の別名。中国神話時代五帝の一人で聖人として崇められている。中国で陶器をはじめて作ったともいわれる。

『源流茶話』茶道古典全集 第三巻 淡交社

数馬(利明)が語った。茶の湯で古道具を使うのはむさ苦しい、新しい器を綺麗にして使うのがふさわしい、という衆がいる。また、古い道具は、奥ゆかしいゆえ用いるのだ、と思う人もいる。これみな間違いである。古い道具は、下賤の者も取り扱ったものだが、よくよくその徳を備えているゆえ、貴人の手にも触れるようになったものだ。徳を貴んでのことである。奉公人にも同じことが言えよう。下賤より、高位に昇った人は、徳を持っていたゆえである。しかるに、氏素性の正しくない者と同役になどなれるものか、昨日まで足軽だった者が組頭とは許せぬ、と考えるのはもってのほかの取り違えである。もともと、その地位にあった人より、下から昇った人の徳を貴んで、人々はひとしお尊敬するはずだ、とあった。

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2009年12月17日 (木)

日本文化のキーワード第三回【幽玄】

 まこと、もののあはれ、わび、さび、ほそみ、しをり、たけ、かるみ…。上古より、日本文化を象徴するキーワードが、歌論を中心にさまざまな人により、さまざまな形で提唱されてきました。浄土思想・禅宗に基づくものがあり、和歌にとどまらず、演劇・絵画・書・茶・花・庭など、あらゆる文化を規定し、影響を与えるキーワードがあります。その展開分野のもっとも広範なキーワードが、「幽玄」。
 今日、能楽の代名詞のごとく使用されている「幽玄」は、もとは「もののあはれ」と同様、歌論から一般化、普及されてきた概念でした。ちなみに今日、「わび」は茶道、「さび」は俳諧をそれぞれ代表するキーワードのように取り扱われていますが、歴史的にそれぞれ必ずしも、これら一分野の専門用語としてのみ発展してきたものではありません。上にあげたキーワードは、現在すべて仮名で表記されることがほとんど。しかし、幽玄だけは「ゆうげん」ではなく、「幽玄」、漢字表記ですね。理由は、この言葉だけが中国から直輸入され、表記・原義ともにそのまま用いられているキーワード・概念だからです。

 時代や分野により、さまざまな定義にて用いられ、発展をとげてきた幽玄。今後も、時代とともに、成長・変容を続け日本文化にとどまらず、世界各国の文化にその影響をおよぼし、広めていくものと思われます。現時点での「幽玄」考を総ざらいし、整理しておくことも、日本文化に興味をもつ人にとって、あながち無駄なことでもあるまい、と考えました。


 さて、今回は以下の構成で、幽玄について考察して行こうと思います。

1.幽玄の伝来と、他キーワードとの関連
2.和歌と幽玄
3.能、禅と幽玄
4.俳諧と幽玄
5.その他分野への展開と影響



1.幽玄の伝来と、他キーワードとの関連


 数々の概念、知識とともに「幽玄」も中国から、わが国にわたり、輸入当初は原義にて使用されていたといいます。古くは『古今集』にまずみられ、十二世紀には管弦の風趣を表現する言葉として用いられました。


「〔幽玄〕という語の比較的古い用例は、後秦時代の釈肇が記した『宝蔵論』〔離微体浄品〕にある〔故製離微之論、顕体幽玄、学者深思、可知虚実矣〕である。西暦四百二十年頃成立したとされる『後漢書』にも用例がある。〔霊思何皇后紀〕中に〔逝将去汝兮適幽玄〕とあるのがそれである。他に、唐代の詩人、駱賓王(初唐の詩人)の『蛍火賦』に、〔委性命兮幽玄、任物理兮推遷〕とあるなど、いずれもその境地が〔深遠で、微妙〕であることを意味している。『日本語大事典』(小学館)には、〔古く中国では、幽冥の国をさし、のちには老子・荘子などが説いた哲理や仏教の悟りの境地が深遠、微妙であることをさしていった〕とある。『臨済録』(成立年未詳)にある、〔仏法幽玄。解得可可地〕などが、その代表例である。
 わが国にも、原義のまま移入されたと見え、『古今集』(九百五年 延喜五 序)真名序にある〔或事関神異、或興入幽玄〕という表現は、原義のまま用いられている。伊藤博之によると、〔幽玄〕という言葉は、〔十二世紀の文献に広く見られ、特に管弦の興を表現する際、『興入幽玄』といった慣用句が一般化し、詩の作風の一つとして『余情幽玄体』(『作文大体』)とか『幽玄之体』といった風体が立てられるに至った〕という。また、田中裕によると、藤原俊成や藤原定家などが使用した〔幽玄〕という語も、〔すべてこの原義から説明でき〕、彼らが使った〔幽玄〕という言葉は〔まだ審美論としては現れず、それが優美・典雅などの意味で理解されるようになるのは鎌倉期も後半である〕
という」
(『幽玄』と象徴-『新古今集』の評価をめぐって 岩井茂樹)


 さて、それでは、この「幽玄」は、他の日本文化キーワード「まこと」「あはれ」「さび」などと、どのように関連し、どのような流れを描いてきたのでしょうか。

「一九二九年(昭和三)に久松真一は、『上代日本文学の研究』において、〔まこと〕、〔あはれ〕、〔幽玄〕が国文学を流れる三つの精神である、と説いた。久松は一九三一年にも『岩波講座 日本文学概説』において古代の〔まこと〕の理念が中古には〔もののあはれ〕へと発展し、それが中世に〔幽玄〕となって、最終的には芭蕉の〔さび〕となるのだ、と主張した」
(能はいつから『幽玄』になったのか? 岩井茂樹)

 歌論においては、この後見るように、藤原俊成が「幽玄」を歌の最奥の理念として打ち立てました。俊成の理念において「幽玄」が、あはれ、さび、ほそみなどという概念とどのように、関わりながら発展、確立されたのでしょうか。また、「幽玄」に至るまで、俊成は、古今集復帰を理想としながら、「たけ高し」「遠白し」という独自のキーワードで歌に対し新しい境地を開拓しようと試みたといいます。


「○俊成は古今集復帰を志しながら、古今に比して一歩異なる境地に進んでいる。彼の歌に対する新しい開拓は以下。

○たけ高し
   率直な旦壮大なる感情のある歌。

○遠白し
   大きにゆたけき意(壮大)なり。

○心細し
○姿さび  
前の「たけ高し」「遠白し」に対して繊細な味を加えたもの。「心細し」が心
または気分情趣を主としたのに対し、「姿さび」は姿即表現を志向している。

◎幽玄の意義
以上の理念を統一して作られたものが幽玄であった。歌にあらわれる余情とし
ての幽玄。

○俊成に於いては、幽玄は、歌の素材に於いてのそれではなく、すがた、風体
等のそれであったと言われる。

○~こうして見ると、俊成の意味した幽玄は、相当に複雑した内容であり、心
細しや長高しというような繊細と壮大との何れをも含んだ境地をさしている。

夕されば野べの秋風身にしみてうづらなくなり深草の里(自讃歌)

○幽玄のもつ歌の感情が花やかであるよりは、沈欝であり深みのあるのは、時
代の宗教的感情に自ら影響されたものであろうか。

心なき実にもあはれはしられけりしぎたつ沢の秋の夕ぐれ(西行)

 西行と俊成の二首の歌は、幽玄の境地では一致しているようであるが、

*西行→自然を放浪してこの境地を得た。(体験的)
*俊成→静かな夜、桐火桶をかこんで沈思して得た。

 違いが認められる。

◎俊成に於いて、「あはれ」という伝統的な境地をすすめて、「さび」や「細み」という境地に至り、それに「たけ高し」、「遠白し」という観念を加えて、歌の理想としての「幽玄」を完成した」
(HP ?『中世』」幽玄美の妖艶化と平淡化より 
http://web.sc.itc.keio.ac.jp/~kokikawa/culture3.html#§)



2.和歌と幽玄

「幽玄」を歌道における最高の様式概念として取り上げたのは藤原俊成でした。

「幽玄」=言葉で言い表された以上のある物を暗示する事=余情

 その子、定家は「有心」という美的概念が「幽玄」をも統制・支配すべきとし、「余情」の性格は、より「妖艶」を加味するようになります。その後正徹・心敬等は俊成が強調した超感覚的な「余情」より一層実感的感覚に重大な価値を置き、艶美・優雅などが「幽玄」の本質となっていきます。


  春の夜の夢のうき橋とだえして峯にわかるゝ横雲のそら

 この藤原定家の歌は、一般的な意味での「幽玄」な歌の代表ではないでしょうか。室町時代の連歌師、心敬の歌論『ささめごと』にも、「幽玄体の古人自讃歌」として取り上げられています。心敬は、古人の幽玄体とは「心を最用とし、心の艶なるに入る道」としています。


さても此の道は幽玄體を中にも心にとめて修行し侍るべき事にや。

 古人語り侍りし。いづれの句にもわたるべき姿なり。いかにも修行最用なるべし。されども、昔の人の幽玄體と心得たると、大やうのともがらの思へると、遥かに變はりたるやうに見え侍るとなむ。古人の幽玄體と取りおけるは、心を最用とせしにや。大やうの人の心得たるは、姿の優ばみたる也。心の艶なるには入りがたき道なり。人も姿をかいつくろへるは諸人の事也。心ををさむるは一人なるべし。されば、古人の最上の幽玄體と思へる歌ども、この比は分明にや侍らざらむ。
『ささめごと』上巻~「幽玄体について」より


 さて、同じく室町時代の歌人、正徹は自身の歌論書『正徹物語』にて、『源氏物語』の光源氏と藤壺がやりとりした古歌より、「幽玄」の本質を抽出しています。以下その概要をご紹介しましょう。


 幽玄とは、「心にあって言葉には言うことができないもの」。たとえば、「月に薄雲がかかっている状態」であり、「山の紅葉に霧がかかっている状態」です。風情のある素晴らしいものがはっきりそこにあるのだが、それがぼんやりとしか見えない状態。だから、幽玄とは何かと問われても、幽玄であるがゆえにはっきり言うことができないものなのです。それがわからない人は、「空が隅々まで晴れて月がキラキラと見えている状態」が素晴らしいと言うだろう。幽玄とは、「どこが趣深いとも、どこが優れているとも言えないもの」。
 幽玄を辞書で引けば、歌論用語で「奥深く神秘的で計り知れないもの」とあります。

見てもまたあふよまれなる夢の中にやがて紛るる憂き身ともがな

 この源氏の歌こそ幽玄です。以前にも以後にも藤壺とは「あふよまれなる」の状態が続いています。それが「夢の中」では逢うことができる。藤壺との逢瀬の夢が夢のまま終わるということは、そのまま夢に紛れていつまでも逢瀬を続けられることになるのでしょう。いつまでも夢の中にいて、そのまま人生を終わってしまいたいと言うこと。夢の中での逢瀬、夢のままに終わってしまう人生、いずれも奥深く計り知れないものがあります。

世語りに人や伝へむたぐひなき憂き身も覚めぬ夢になしても

 これが藤壺の返歌。藤壺は継母ですが、源氏と密通して、たとえつらい身は夢のようにはかなく終わり跡形もなくなったとしても、つらい噂は後世まで語り継がれるだろうとしています。源氏は夢を二人だけの逢瀬として夢に埋没することに満足する。しかし、藤壺は夢の中の二人では終わらない世の中の現実までをも考えています。ここに五歳しか離れていないにしても母と子の差が。ともかく、夢の中での出来事を引き継いでいる点では、藤壺の歌も幽玄である、といえるでしょう。



3.能、禅と幽玄

 今日、能の代名詞のごとく扱われている「幽玄」。能への導入は、本歌取りの手法により和歌より謡曲の詞章として取り入れられたことからはじまります。世阿弥の定義は、

ただ美しく柔和な体、幽玄の本体なり

 ここで、歌道の「幽玄」より現世的かつ表現的な概念と変容します。

 「幽玄」=上品さ、華やかさ

 世阿弥の大和結崎座の得意とする芸風は、もともと「物まね」を主体とする写実的なものでした。当時民衆の圧倒的な支持を得ていた猿楽の得意芸。しかし、徐々に台頭してきたライバル、近江日吉座、犬王の歌舞を主体とする「幽玄」な芸風を重視した世阿弥は、これを自身の芸に取り入れ、「幽玄」体を大和猿楽の物まね=写実的な芸の上位に位置するものとして猿楽を再構築。今日の総合歌舞劇、能へと昇華、大成したのです。

 また、世阿弥の初期の能芸書において「幽玄」は、芸の表現面で「弱い」と対照的に位置づけられていたようです。

「強い・弱いという事につき多くの人が誤解しているようだ。品のない能を強いといい、弱いものを幽玄などと批評しているが、おかしな話である。いつどこで見ても見弱りのしないシテがいる。これを強いという。またどの舞台においても花やかな役者。これが幽玄だ」
(風姿花伝第三 問答條々より)

 『風姿花伝』のもっとも重要な概念「花」が、時々刻々変化していくダイナミックな美的表象として捉えられていることに対し、「幽玄」は、もともとそのものに本質的に内包されている高貴で不変なものとして定義づけられています。同じく中国より直輸入されたキーワードで、不変的な「幽玄」とよく似通ったものに「妙」がある。

「どの芸術にもその神秘さ、精神的リズム、日本人のいわゆる〔妙〕が存する。これこそ、すでにのべた通り、禅があらゆる部門の芸術と密接に関連する点である。真の芸術家は禅匠と同様、事物の妙を会得する法を知った人である。
 妙はときとして日本文学において〔幽玄〕と呼ばれる。ある批評家は、すべての偉大な芸術作品はそのなかに幽玄を体現しているが、それは変化の世界における永遠なる事物の瞥見、または、実在の秘密への洞徹であると述べている。すなわち、悟りのひらめくところ創造力がほとばしりでて、妙と幽玄とを呼吸しつつ各種部門の芸術に自己を表現するのである」
(『禅と日本文化』鈴木大拙)

 世阿弥は、後期著作において、芸の風体の最高位を「妙体」であると規定しています。『花鏡』妙所之事に、

「しかれども是をよくよく工夫して見るに、ただこの妙所は、能を窮め、堪能そのものになりて、蘭けたる位の安き所に入りふして、なすところの態に少しもかかはらで、無心、無風の位に至る見風、妙所に近きところにてやあるべき、およそ幽玄の風体の蘭けたらんは、この妙所に少し近き風にてやあるべき」

とあります。



4.俳諧と幽玄

 以上のように、和歌・連歌・能楽などを中心として中世の美的概念「幽玄」は各分野で様々な発展をみせます。しかし、江戸以降「幽玄」は、日本文化史上あまり見られなくなってきます。そんな中、もっとも多く用いられたのは、俳諧の書物においてでした。とくに今日、一般に「わび、さび」の代表ともされている、芭蕉の句がもっとも「幽玄」である、との評価を受けていたのです。


 たとえば、上島鬼貫『独ごと』(享保三年)に、「幽玄の句」という叙述があります。

 作意をいひ立てる句は、心なき人の耳にもおもしろしとやおぼえ侍らん。又おもしろきは句のやまひなりとぞ。修し得たる人の幽玄の句は、修行なき人の耳にはおぼろげにもかよふ事かたかるべし。しかもその詞やすければ、いはば誰もいふべき所なりやとおもひ侍らん。
 聞こえぬといふ句に幽玄と不首尾の差別有り。まことを弁へぬ人の、様々に句を作りて、是にても未聞え過ぎておもしろからじ、とひたぬきに詞をぬきて、後には何の事とも聞えぬ句になり侍れど、作者は初一念の趣向をこころに忘れ侍らねば、我のみ独り聞ゆるにまかせていひひろむるもかた腹いたし。又幽玄の句はつたなき心をもて、其の意味のおもしろきところを聞き得ぬなるべし。


 また、其角の「日の春をさすがに鶴の歩みかな」の句を、「元朝の日の花やかにさし出で、長閑に幽玄なるけしきを鶴の歩みに懸けて言列べける祝言、文外に顕れ」(宝暦三年評)と評しています。芭蕉自身も、門人杉風の

  沢苣やくされ草鞋のちぎれより
  山寺の冬納豆に四手うつやあらし

 の句を評し、「まことに句々たをやかに、作新しく、見るに幽なり、思ふに玄なり、是を今の風体といはんか」としています。

 そもそもこの時期、芭蕉の俳諧を「幽玄」と位置づけた理由は、前代の貞門・談林俳諧の遊戯的な風体を、蕉門が「閑寂・幽玄」に改良したという評価の中から生まれてきたものと思われます。以降、昭和も戦前にいたるまで、国文学、文芸界では芭蕉の作風を「幽玄」とみなすことが一般的でした。江戸期から昭和の戦前にいたるまで、主だった国文学文献を通覧したところ、芭蕉評価を「幽玄」とした資料は、55部中、29部にもおよぶことがわかりました。(1817~1953までの国文学文献資料調査。前出『幽玄と象徴』岩井茂樹より)

 同調査によると、戦前(1937年頃)まで芭蕉評価は「幽玄」と強力に結びついていたとされています。しかし芭蕉研究が進むにつれ、芭蕉の句風も時代により大きく変化しているため、すべてを「幽玄」の一言でかたづけるわけにはいかなくなる。大正期頃からは、芭蕉俳諧は「さび」の文芸を大成したという見方が優勢となり、昭和、戦後には「幽玄」は、芭蕉より完全に乖離していった
とされています。

 さて、上のように江戸時代の「幽玄」の意味は俳諧に関する書物において「優雅・典雅」とする理解もありましたが、一般的に、原義「奥深く、神秘的で幽か」とする用例も多かったといいます。



5.その他分野への展開と影響


以上、江戸期から近代まで、「幽玄」の各分野での流れをみてきました。最後に、現代での「幽玄」がどのように位置づけられ、どのような展開が予見されるかを確認しましょう。

 まず、ふたりの近代研究者、美学的見地からの「幽玄」定義を以下ご紹介します。

 戦後活躍した竹内敏雄は、「幽玄は、今日では中世的な美学を代表する日本文芸史上の基礎的類型概念を表するものとされている」とします。中世歌論の優しさを意味する「艶」との結びつきを指摘。ドイツ美学の「気分象徴」を援用し、中世歌論を「美的気分」そのものの構造をもつ、と論じます。世阿弥の能楽論を「物真似」と「幽玄」との総合ととらえ、「半模倣半自由」の芸術論とまとめる。「幽玄」とは、「具体的感情の混沌を律動的芸術形式」へと統一する「情趣創造的形成の原理としての意義」をもつものと説きます。まとまらない感情の動きを、リズムをもつ形式に統一して示す、芸術創造の原理になっている。
 また、世阿弥は「幽玄」から「わび」への方向をしめしていたとし、中世芸術の幽玄美を発展、徹底させ、近世芸術の光彩の中に異常な「わび」の世界を展開したのが、芭蕉その人である、としています。


 『風雅論-さびの研究』の著者、大西克礼の「幽玄」の七つの定義。

(一)何らかの形で隠され、蔽われていること
(二)仄暗く、朦朧で、薄明であること
(三)静寂であること
(四)深遠であること
(五)充実していること
(六)神秘性、または超自然的であること
(七)非合理的、不可説的、微妙であること


 「幽玄」が形容詞とされるもうひとつの日本文化に「庭」があります。最後に、閑寂・枯淡を趣とし、海外の造園法にも大きな影響を与えている、禅寺の平庭や茶庭など、日本庭園の研究家であり、実際の作庭家でもある、重森三玲の「幽玄」論をご紹介しましょう。


「既に平安時代の詩歌には、幽玄という思想が表われていて、古今集という歌集には幽玄と云うことを主張しているのである。幽玄と云うことは中々説明が六ヶしいが、音楽に於ける余韻と云ったものである。もの静かな味とか、侘しい味と云ったもので、目で見ただけの表面上の味ではなく、その内面に含まれた味である。
 この幽玄と云う思想が、日本の諸他の芸術には、何れも基本となっていたから、支那から墨画が入って来ても直ちにこれを理解したのであり、又この墨画から枯山水と云う石や砂や樹木ばかりの庭園が発達する様になったのである。だからこの幽玄と云うことが解るためには、日本人でも相当な教養や洗練さを必要とするのである。
 この傾向は、室町時代から茶と云うものが流行しかけて一層発達したのであって、多く室町時代の庭園がこの枯山水によって表現されたのは当然なことである」


 三玲はさらに、中国を起源とする文化の日本化は「幽玄」を介して実現する、と指摘しています。


 和歌や連歌・俳諧など、歌と句の文芸は、現在、短歌、俳句として伝えられていますが、「幽玄」はすでに過去のもののようです。現在の日本文化をみると、世阿弥当初の姿をそのまま伝える能楽と、ほとんどその様式に崩れや乱れのない、日本庭園にもっとも色濃く「幽玄」が継承されているように思えます。これらが、日本文化の「遺伝子」として次世代にどのように継承されていくのか、とても興味深いテーマです。願わくば、能や枯山水の表面的な形式だけが模倣されるのではなく、古人の「心を最用とし、心の艶なるに入る道」と精神こそが伝承されるべき、と思われてなりません。


【言の葉庵】メールマガジンより
http://nobunsha.jp/anshu.html#melma

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2009年12月16日 (水)

日本文化のキーワード第一回【もののあはれ】

 今回より日本文化のキーワードを企画。全四回のシリーズでお届けしていきます。テーマは、第一回【もののあはれ】、第二回【幽玄】、第三回【風狂】、第四回【寂び】。(【侘び】は茶の湯関連シリーズで別途ご紹介予定)
 平安から、安土桃山時代まで、日本人なら誰でも聞いたことのある、日本文化のもっとも重要なキーワードを、ごいっしょに毎回クルーズしていこうと思います。第一回目は、和歌・物語文学の根本を解き明かす、「もののあはれ」。


 有名な「もののあはれ」は、本居宣長が提唱した、平安時代の全文芸の基調となる美的概念です。これは、まず、古書にみられる「あはれ」を考証した小論『安波礼弁』(宝暦八年)により初めて唱えられ、物語論『紫文要領』(宝暦十三年)、和歌論『石上私淑言』(?宝暦十三年以降)の両著を経て理論構築、完成をみました。
 さて、「もののあはれ」とはいったい何なのでしょうか。宣長記念館HPから、まずご紹介します。

「もののあわれ」とは、『石上私淑言』で宣長は、歌における「あはれ」の用例をあげながら、「見る物聞く事なすわざにふれて情(ココロ)の深く感ずる事」を「あはれ」と言うのだと述べている。つまり、揺れ動く人の心を、物のあわれを知ると言うのだ。歌や物語もこの心の動きがもとになる。たとえば、宣長が高く評価した『源氏物語』も、「この物語、物の哀れを知るより外なし」と言っている。文学はそのような人間の本性に根ざしたものであり、そこに存在価値があるとした。
 これは、宣長が、和歌や『源氏物語』から見つけた平安時代の文学、また貴族の生活の底流を流れる美意識である。
 この「もののあわれ」と言う文学的概念の発見は、宣長に和歌の発生からその美的世界までの全局面を把握し説明することを可能にした。『安波礼弁』で、「歌道ハアハレノ一言ヨリ外ニ余義ナシ」と言い、歌の発生はここにあるとする。「もののあわれを知る心」という、人が事にふれて感動し、事の趣を深く感受する心の働きから歌が生まれること、そしてその感動を言葉にしてほかの人へも伝えたいという伝達の欲求から「よき歌」への関心もまた生じる事が説かれた。

次に、『紫文要領』本文をみてみましょう。

本居宣長曰く、
「世中にありとしある事のさまざまを、目に見るにつけ耳に聞くにつけ、身にふるるにつけて、其よろづの事を心にあじはへて、そのよろづの事の心をわが心にわきまへしる、これ事の心をしる也。物の心をしる也。物の哀れをしるなり。其中にも猶くはしくわけていはば、わきまへしる所は物の心事の心をしるといふもの也。わきまへしりて、其しなにしたがひて感ずる所が物のあはれ也」


 「もののあはれ」は、ベストセラー『国家の品格』でも紹介され、今やブログでも盛んに取りあげられていますね。

http://web.chokugen.jp/mikami/2006/05/post_ffc2.html
http://shelly-tomoko.at.webry.info/200606/article_8.html
http://www.city.hakusan.ishikawa.jp/kyouiku/bunka/akegarasu_sho/ronbun/1-10/H2-1honbun_3.jsp
http://blog.goo.ne.jp/mishimablues/e/74ed9fb2a53593b0c85428b8eb916e06
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2005/07/post_c02b.html

 これら、今世の中で話題になってる「もののあはれ」の捉え方も、間違いではありませんが、少しかたよっているのではないでしょうか。宣長が提唱したのは「はかなく美しいものに、感動する心」だけではありません。

 そもそも「もの」とは何か? 「あはれ」とは何か?

 まず、「あはれ」。現代語では、ただ「哀れ」のみの意味となってしまいましたが、近世までは、

「うれしいにつけ、悲しいにつけ、しみじみとした深い感動を受けた時に発する語。ああ。」(『古語辞典』角川書店)

 だったのです。宣長『石上私淑言』にも、

「ある時は喜しく、ある時は悲しく、又はらだたしく、又よろこばしく、或は楽しくおもしろく、或はおそろしくうれはしく、或は愛しく、或はにくましく、或は恋しく、或はいとはしく、さまざまにおもふ事のある、是即ち物のあはれをしる」

 とあります。古語辞典で”あはれ”をひくと、「いとしい」「なつかしい」「かわいそう」「悲しい」「情けない」「残念」「うれしい」「感心」「おもしろい」…。書ききれないほど実に多様な意味があります。「あっぱれ」も元は、”あはれ”から派生した語。


 さて、では「もの」とは何か。漢字で書くと「物」の方です。現代日本語では、生命のない対象物、英語のThingの意味のみに、おおむねなっていると思われます。ところが近世まで、宣長や歌人、文芸作者のみていた「もの」には、実に広範で豊潤な意味がありました。正直、すべてをみると何がなんだか、ワケがわからなくなるほど雑多です。
 いきなり正解をいいますと、「もの=物」とは、「ワケのわからないもの」なのです。わからないながらも、辞典によっては監修者の好みで、その定義には微妙な”ゆれ”がある。代表的な巨大辞典、『広辞苑』と『大辞林』を比較、その”ゆれ”をみてみましょう。

「もの」の定義

A.広辞苑
●形のある物体をはじめとして、存在の感知できる対象。また対象を特定の言葉で指し示さず漠然ととらえて表現するものにも用いる。
1.物体。物品。
2.仏・神・鬼・魂など、霊妙な作用をもたらす存在。妖怪・邪神・物の怪。
3.物事。
4.世間一般の事柄
…6.言語・言葉。

B.大辞林
●形のある物体を初めとして、広く人間が知覚し思考し得る対象の一切を意味する。
「こと」が時間的に生起・消滅する現象を表すのに対して、「もの」はその現象を担う不変な実体を想定して用いる語である。
1.物体。物品。
…3.対象を具体的に表現せず、漠然という語。何らかの対象。「―を言う」
「―を思う」
…5.物事の筋道、道理。
…6.鬼や悪霊など、正体のとらえにくい対象を畏怖していう語。「―に憑かれる」「―の怪」
二?〔哲〕イ 人格としては関係しない対象を「ひと」に対して「もの」という。


二つの辞典の間の“ゆれ”
A.広辞苑 1.定義中に「言語」がある。 2.正体不明の霊的存在が語義の上位にある。
B.大辞林 1.「こと」が時間的に生起・消滅する現象。「もの」がその現象を担う不変な実体。
2.人格に関係しない対象。

 辞典の”ゆれ”を比較すると、言の葉庵としては、定義に「言語」をいれた広辞苑に一票投じたいような気もしますが、ここで重要なのは「ものの怪」「憑もの」「物忌み」などと使う、「仏・神・鬼・魂など、正体のとらえにくい霊妙な存在」という定義。日本文化論者、栗田勇の著述に興味深い一文があります。


日本人にとって、ものはもの以上である。もののけという言葉があるが、あの「もの」は、じつは目に見えぬ精霊のことである。つまり、魂をものといっている。
『源氏物語』にしても、必ず舞台に小道具が出てくる。光源氏が女性と知り合うときに、たとえば夕顔なら夕顔の花と釣瓶が出てくる。それから薄がなびき、萩の花が庭を埋め、という舞台設定が行われる。つまり、ものによって、人と人のドラマが始まる。
というのも、日本人にとってものというのは、西洋人のいういわゆる物質ではない。ものは、広い天然宇宙の自然と人間との間のひとつのきっかけ、橋渡しのようなものであり、ものが出てきてはじめて、その背景にあるドラマの舞台に人間はすわることができると考えている。
それに対してキリスト教の場合、神が橋渡しとなって人間と人間がつながる。したがってカトリック世界では、つい近ごろまで神を通じて結ばれた男女は離婚できないというルールがあったわけだ。日本人の場合、そういう絶対的なキリスト教の神に代わるものが、ものであった。それはなぜかというと、絶対的な自然の象徴であり、ものを手がかりにし
て、人間の世界は目に見える真実界へと広がっていくからである。(『利休と日本人』栗田勇 祥伝社)


 栗田氏のいう「もの」とは、天台宗本覚思想の「草木国土悉皆成仏」、すなわちこの世のあらゆるもの、山、川、海や空気にいたるまでの、仏性が宿る霊的な存在のことなのです。この存在が、人間界・現実界と霊界との”橋渡し”を担うことをよくあらわしているのが、能の世界。

 演じる神や霊などが宿るといわれ、最も重要とされているのが、能の面。とくに「もの」がつくものは、すべて霊界との媒介となります。「作りもの」「採(と)りもの」「もの狂い」。
 「作りもの」は、竹の枠組みに白いさらし布を巻いただけのいたって簡素な舞台装置です。これが、舟・鐘楼・井戸などをあらわす。前シテは、このシンボルにきっかけを与えられ、劇中のクライマックスに導かれます。
 「採りもの」は、狂女や巫女などが扇の代わりに手にもつ、小笹・桜枝・御幣などの小物。シテは、この小物がアンテナ=神の依代(よりしろ)となって、あの世からの託宣をキャッチし、舞い、謡います。
 「もの狂い」は辞典類には必ず「ふだん正気の人が、亡父・行方不明の子などを思い浮かべることで、たちまち狂気となって」と説明されていますが、違います。舞台上の真実は、霊的なエネルギーを受けやすい状況にある人(亡き子を思い出すなど)の感情があふれ出すさまを、舞や型に芸として止揚して演じるひとつの方法、舞台様式です。この場合、「狂う」は「演じる」の代名詞。
 以上のように、能は、まさに本覚思想を芸術化・舞台化したものですから、霊的な正体不明の「もの」をベースに存在、成立しています。


 この正体不明で、霊的な「もの」は、古代日本人にはどのように呼ばれていたのでしょうか。

 日本の古代の信仰の方面では、かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、ものとの四つが、代表的なものであった。…鬼は怖いもの、神も現今の様に抽象的なものではなくて、もつと畏しいものであつた。今日の様に考へられ出したのは、神自身の向上した為である。たまは眼に見え、輝くもので、形はまるいのである。ものは、極抽象的で、姿は考へないのが普通であつた。此は、平安朝に這つてから、勢力が現れたのである。
(「鬼の話」折口信夫)

 つまり、古代人にとって「もの」は単なる物質ではなく、カミ・オニ・タマと同様、具体的な形をもたない霊的な存在だと考えられていました。また、概念としては、これら四つを総合した包括的なものだったようです。

 モノとオニが古くは同義語だったことは専門家の常識だが、さらにオニとカミも互換的であり、したがって存在物一般―ふつう哲学では「存在するもの」(ギリシャ語のon、ラテン語のens、ドイツ語のSeiende)を「存在者」と訳しているが、人間についても物という(人物、大物の例)から、本書では人を含めて「存在物」と表記する―および存在一般を指示するモノにカミもまた還元されてしまうと、素人の筆者は考えるからである。折口の挙げた古代信仰の四概念のうち三つまでが相互関連的であり、モノがその根底をなしている。残るのはタマ(霊魂)だが、これはむしろケ(気)と関連づけて考察した方がよく、霊がカミと、神がタマシヒと訓じられることもあった(例えば『日本書紀』欽明天皇二年七月条)から、結局全称類概念としてのモノに内包されてしまうだろう。
(『もののけ?』山内昶 法政大学出版局)


 さて、海外では森羅万象に不可知な生命現象が潜むとする〈アニミズム〉という概念があります。(『原始文化』タイラー 1981)さらに、〈アニミズム〉をより根源的、普遍的に説明する〈マナ〉という新概念が、タイラーの弟子たちによって提唱されました。〈マナ〉はメラネシア人たちに信じられている、超自然的な存在・力・霊性です。

 マナとはメラネシア語で「人間の平常の力を超え、自然の通常の過程の外にあって、あらゆるものに効果を生じさせるもの」(『メラネシア人』コドリントン)にほかならない。メラネシアの人々は海上で暴風雨に遭うとその針路をかえてくれるように嘆願するが、これは嵐の中にあるスピリトウスに訴えているのではなく、嵐そのものを生きた存在としてそれに呼びかけていた。あるいはカヌー競争で優勝できたのも、漕ぎ手が優れていたからではなく、舟にマナが宿っていたからである。戦士が敵を槍で倒せたのも、彼が強かったからではなく、槍にマナが憑いていたからである。

 コドリントンの定義によると、「メラネシア人はあらゆる物質的な力から、絶対的に区別された力の生存を信じている。これは善にも悪にも、あらゆる種類の仕方で作動し、かつまたこれを人間が掌中に収めて支配することが至高の利益である。これがマナにほかならない。…それは力、非物質的で、ある意味では超自然的な作用力である。けれどもこれが啓示されるのは自然力によって、あるいはまた人間がもっているすべての種類の能力と卓越性によってである」
(『同前』)


 つまり〈マナ〉とは宇宙に遍く存在する、超自然的で神秘的な力であり、自然界のあらゆるものの中に自由に出入りし、背後から動かし、エネルギーを与える。それは人間・自然物・自然現象を通じてあらわれるものだというのです。

 調査によると〈マナ〉と類似の概念・信仰は、世界各地に偏在していることがわかりました。

 アメリカ大陸 北米アルゴンキン語族〈マントウ〉、オセアニア レパース島〈マナギ〉、マライタ島〈ママナア〉、ガダルカナル〈ナナマ〉、フィジー諸島〈マヌ〉、東南アジア ボルネオ ダヤク族〈マナン〉、アフリカ ウガンダ ニヨロ族〈マハ〉、ドゴン族〈ニャマ〉、モシ族〈ナム〉。

 また、世界の古代語にも霊的エネルギーを指す、類似語が多く見られます。
 古代ヨーロッパでは〈マナ〉は「母なる月」をあらわす言葉。古代スカンジナビアでは女神を〈マン〉〈マナ〉〈マナ・アンナ〉。古代ローマでは祖霊を〈マネス〉と呼びました。『旧約聖書』出エジプト記によると、放浪するイスラエルの民を、神が〈マナ〉という食物を天から降らせ、四十年間養ったとあります。


 〈マナ〉と類似の言葉・概念・信仰は、世界のいたるところでみられるものでしたが、日本語の〈モノ〉も〈マナ〉の転化ではないか、とする説があります。

 「もの」は日本語のシステムにおいて、マナと全く同じ運動をしているように思われる。Mono-mana。村山七郎氏の言うように日本語の基層がアウストロネシア系であるとすれば、ここに単なる駄洒落を見るべきではないだろう。
(『マナと法』岩森栄樹)

 日本の「もの」とポリネシアの「マナ」とは変換可能な概念であり、その役割は同一であるということになるであろう。(『憑霊信仰論』小松和彦)

 沖縄や八重山諸島の「まやの神」の「まや」は「マナ」の転であり、「モノ」もまた同様であろう。(『鬼と天皇』大和岩雄)

 その他にも、昨今〈マナ〉と〈モノ〉の類縁性を考証する研究が種々提唱されています。


 このようにみていくと、宣長の「もののあはれ」は、ただ日本人だけの美的感性に限局されたものではなく、文化人類学、民俗学などの視点も交え、捉えなおす必要があるようです。くわえて、「もの」を「言語」とするなら、超自然的な想念(信仰といっていいかもしれません)が、言語表出化されるモデル、西欧の〈ロゴス〉や日本の〈言霊信仰〉とも関連付けて見てゆく方法もあるかもしれません。が、今はその力もないので稿を改めたいと思います。


※〈マナ〉以降の段落の引用・出典は、主に『もののけ2』によりました。


【言の葉庵】メールマガジンより
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2009年12月14日 (月)

いろは歌は、古代の怨念とSOSのメッセージ〈後編〉

 前回、いろは歌に隠されていた暗号は、

1.「咎無くて死す」
2.「かきのもとひとまろ」

であった、というところまで見ていきました。それではさっそく、村上通典『いろは歌の暗号』の続きをどうぞ。


●江戸時代には知られていた

 大正時代には「咎無くて死す」は議論されていたそうです。筆者は、江戸期の人々にも、「いろは歌」を折り句にした時の暗号が広く知られていた節があると推理しています。
 その証拠のひとつが、お芝居の「仮名手本忠臣蔵」だと言います。有名な赤穂四十七士の討ち入りの話ですが、歌舞伎の題名が一風変わっています。「仮名手本忠臣蔵」という題名は、一種の暗号だと言うのです。
「蔵」が大石蔵之助を指していることは容易に分かります。
では「仮名手本」とは何でしょうか。江戸時代、仮名のお手本は「いろは歌」以外にありません。
「いろは歌」がどうして仇討ちになるのでしょうか?そこに、上記の折り句での沓があって「咎無くて死す」がすでに公認の符丁であったと知られるわけです。四十七士が、 全員切腹を命じられたのは「咎無くて死す」だと暗号で示しているのです。
討ち入りの人数を四十七人にしたのは「ん」を除く「いろは四十七文字」を意識したものでしょう。
また、 ストーリーの中に寺子屋のシーンを入れたりして暗号をカモフラージュしています。
もとより江戸幕府の五代将軍綱吉を正面切って批判することなど、 到底出来る相談ではありません。
時代を鎌倉に設定し、 名前を替えて、芝居は作られています。淨瑠璃の題名「菅原伝授手習鑑」も 同じく、 「手習いの鑑」つまり「いろは歌」を示唆しています。


●源為憲の「口遊」

 江戸期に徳川幕府を批判する方法は暗号でした。では平安期に藤原家の批判をする方法は? やはり暗号であったことでしょう。
ここに、 万葉集、 古事記に潜んだ暗号を読み解く作業の重要性があります。
 古事記、 最古の写本は、 名古屋市「真福寺」に伝わるものです。
このお寺は元岐阜県羽島の大須庄にあった観音堂を、江戸時代初期に僧能信が現在の名古屋市中区に再建したものです。 (一般に大須観音と呼んでいますので、 真福寺はどこですか? と聞いても大抵の名古屋人は分かりません. 国宝級の図書館であるとの認識はゼロです)
 尾張の真福寺は、京の仁和寺、紀伊の根来寺と並び、本朝三文庫と評される貴重なもので、 羽島から名古屋への移築を命じたのは、 他ならぬ徳川家康でした。
 今に伝わる古事記真福寺本(大須本)の恩人です。
 村上通典の著書でも引用されている、 源為憲の「口遊」( くちずさみ) も、真福寺に伝わる写云々と(90 頁) 書かれています。古事記の序文が偽書であることを、 かなり解明できたきっかけとなった、「口遊」が真福寺に伝承されていたとの記事に私は注目しました。
「口遊」は一種のパズル收集本です.碁盤目に繋がる和歌だとか、数学の問題などが盛り込まれています。
この本の著者、 源為憲( ~1011) が、「 いろは歌」の作者ではないかと、筆者は推理しています。
そして万葉集や、 古事記の中に柿本人麿、 山上憶良の暗号を仕込んだ人でもあると考察しています。

 その元となる多数の文献が、真福寺 一か所に集中して保存されていたことは、やはり
源為憲説の有力な証拠と言えるでしょう。つまり村上が確認した事を、かつて解読した人物がいて、 その結果集中的にこれらの書物を揃えたのだと思えるです。
 暗号の存在を知っていた人物でなければこんな本は集めなかったでしょう。


●字母歌「あめつち」と「たゐに」

 源為憲の「口遊」には「いろは歌」に先行して作られた字母歌「あめつち」と「たゐに」も同時に收録されています。彼が、これらを下敷きにして「いろは歌」を作ったと見る根拠です。
「あめつち」「たゐに」は「いろは歌」ほど完成された字母歌ではありませんが、それだけ露骨に分かる暗号が組み込まれて作られています。これらを解読すると、「あめつち」からは「柿本人猿」「山上憶良」が表れ、「たゐに」からは「名を伏せよ」「名を直せ」と、「山上憶良」「稗田阿礼」が浮かび出て来ると証明されています。
參考までに「あめつち」と「たゐに」を紹介して置きますが、これだけで、もし「山上憶良」「稗田阿礼」を発見できたら、あなたは暗号の天才かもしれません。

「あめつち」

春 あめ つち ほし そら 天地星空
夏 やま かは みね たに 山川峰谷
秋 くも きり むろ こけ 雲霧室苔
冬 ひと いぬ うへ すゑ 人犬上末
思 ゆわ さる おふせよ 硫黄 猿 生ふせよ
恋 えのえを なれゐて 榎の枝を 馴れ居て

(解読への並べ方)ふたつのT字型、( )印「ひえたあれ」

(あ) め つ ち ほ
し そ 「ら」 や ま ← や ま
か は み ね (た)
に 「く」 も き り
む ろ こ け (ひ)
と い ぬ う へ ← う へ
す (ゑ) ゆ わ さ
る 「お」 ふ せ よ
(え) の (え) を な
(れ) ゐ て

「やま」と「うへ」と「もきり」の文字列の下に(た)と(ひ)を
入れて出来る「山」字、その「山」の上に「く」と「ら」がある
もう一つの(え)で囲まれたT字の中心に「のお」がある。
これで、「やまのうへ のお くら」が見える。

「たゐに」

た ゐ に い て 田居に出て
な つ む わ れ を そ 菜摘む我をぞ
き み め す と 君召すと
あ さ り お ひ ゆ く 求食り追ひ行く
や ま し ろ の 山城の
う ち ゑ へ る こ ら 打酔へる子ら
も は ほ せ よ 藻は干せよ
え ふ ね か け ぬ え舟繋けぬ


(解読への並べ方)

た い に い
て な つ む
わ れ を そ
き み め す
と あ さ り
(お) ひ ゆ (く)
(や)(ま) し ろ
(の)(う) ち ゑ
(へ) る こ (ら)
も は ほ せ
よ え ふ ね
か け ぬ


「口遊」は時代が下ると内容の意味が分からなくなってしまったようです。「口遊」は、良く見る文献ですが、古い原本としては真福寺本しか伝わっていません。他に伝わらなかったのは、文学としての価値が低かったせいでしょう。 暗号本は分かって始めて意味がある書物です。


●暗号が狙ったものとは

 最後に、読み解かれた結論を要約して置きます。
古事記の序文には、二十八歳で記憶力の良い稗田阿礼という人物が、古代から伝えられた史書を口述し、 太安万呂がそれを記述したと書かれています。しかし本当は、 一人の人物山上憶良が古事記を書き上げたのだと言います。
一度、 出家した僧弁基を還俗させ、憶良の名で再登場させたのだそうです。彼が書き上げた日本史は、 それまであった倭国の国王史を、 改ざんし、 中国に対抗する国家の風格を作ることにありました。それが古事記であり、 これを下敷きに日本書紀が作られたと言います。
(以下、あくまで村上の解読した説です)
 藤原氏の命令とは言え山上憶良は生涯、 この作業に従事したことを悔いていました。
太安万呂も稗田阿礼も、 山上憶良の存在を隠すためにでっち上げた架空の人物でした。
柿本人麻呂は、 実は三輪高市麻呂のことで、 またの名を高市黒人のことだと言います。
持統6 年3 月3 日に伊勢行幸を諌め、 中納言の位を辞した三輪高市麻呂の行動と、柿本人麻呂が、 この年以後、 天皇の行幸に同行していないこととが一致するのが根拠と
して上げられています。
さて、源為憲は、 万葉集の中に暗号をはめ込み、 これら山上憶良の偽書作成の苦痛や、 藤原不比等のライバルであった三輪高市麻呂の悲歌を、柿本という仮名を使って、 堂々と載せることに成功しました。そして仕上げとして、 いろは歌を用意し、 柿本人麻呂とはあの 「咎無くて死す」の三輪高市麻呂のことなんですよ、と伝えたと言うのが本著『いろは歌の暗号』の結論です。


 「いろは歌」に、「咎無くて死す」と「柿本人麻呂」の二つの謎が組み込まれていることは、ほぼ間違いないことでしょう。
それに先行する「あめつち」「たゐに」を整理すると、「名を伏せよ」と読め、「山上憶良」「稗田阿礼」が浮かび出て来るとの証明にも無理がありません。これらの情報から、平安中期に藤原一族の支配に悲憤をいだくパズル好きな貴族がいて、「古事記」の作者は、稗田阿礼ではなく山上憶良だとする鍵をひそかに埋め込んだように思えます。
そして、これに触発された誰か(源為憲?)が今度は「万葉集」の歌人「柿本人麻呂」に注目し「咎無くて死す」と伝えられた良く知られた話を盛り込んで「いろは歌」を作りあげたのでしょう。本著では、「いろは歌」の暗号は、柿本人麻呂こと三輪高市麻呂の無実の刑死への、隠された悲憤、怨念のメッセージであると読み解いています。



 さて、次は、篠原央憲『いろは歌の謎』より、隠された全く別の暗号=メッセージと、人麻呂のその後を追う、歴史認識を脱構築する大胆な推理を見ていきましょう。


まず、篠原は「いろは歌」の特性を以下のように整理しています。


つまり「いろは歌」は、
(1) かな文字をすべて使用、無重複で、語呂のなめらかな歌にしあげ
(2) しかも、その歌には意味の深い仏教の教えをテーマにし、なお叙情性のある格調高いものにしてある
(3) それを表面のテーマにし、わずか二字の読み分けによって、その意味が逆転するすさまじい怨念の歌に変わる
(4) それに加えて、末尾に、自分の運命をひそかに伝えるための暗号「咎なくて死す」をさりげなく組み入れ
(5) さらに最終目的としての重大な依頼をこめた、第二、第三の暗号をも、巧妙な方法でひそめてある(後述)


●第三の暗号とは

最古の文献である「金光明最勝王経音義」記載の「いろはうた」は、全文が万葉仮名で書かれてあるが、ただ一字だけ、くずされた草がなであるところの平かなが入っている。それは第一行目の下から二段目の「へ」である。「とかなくてしす」の最下段の暗号文のすぐ上に、全体が万葉かなのなかのただ一字だけの、ひらかな「へ」がある。この「へ」は上代においては「上」という意味をもっていたのである。「うへ」という単語のウが母音に融合して消え「へ」となったもので、「上」「このあたり」「かかわるところ」などの意味がある。つまり、「上を見よ」あるいは「上に注意せよ」ということの暗示、または指示であろう。「あめつち」のばあいは「うへ」のすぐ上の段に、葉は落ち「散りぬるを」とあった。「いろはうた」のばあいも同じように暗号文があるかもしれない。

い ろ は に ほ へ と 
ち り ぬ る を わ か 
よ た れ そ つ ね な 
ら む う ゐ の お く
や ま け ふ こ え て
あ さ き ゆ め み し
ゑ ひ も せ す 

 それで、「へ」の上の段を横に読むと「ほ・を・つ・の・こ・め」となる。万葉かなで「本・乎・津・能・己・女」である。このことばに何かの意味があるだろうか。こういうばあい、漢字かな混じり文で読むとわかりやすい。すると「本を津の己女」となる。なんだか意味がありそうだ。普通「ほ」は漢字では「保」と書く場合が多い。現在のひらかなの「ほ」は、いうまでもなく、「保」をくずしたものである。ところが、最古のこの「以呂波」は、
わざわざ「本」にしてある。本とは、つまり文字通り本であり、また本にまとめた原稿のことである。「古事記」や「万葉集」などの記事中には、しばしば「ある本にいわく」とか「ただし古本この歌を云々」とかというふうにでてくる。すると、この「本を津の己女」という意味は「本にまとめた大切な原稿を津の里の私の女に預けてある」あるいは、「津の里にいる私の妻に届けてほしい」ということのようである。つまり、う「へ」の上にならんだ文字は、明らかにそのことを依頼する、重要な伝達の暗号文であったのだ。これが「いろは歌」の第三の暗号文である。


●救出された人麻呂と万葉集

「いろは」や「あめつち」の暗号によって、「万葉集」も発見されたのであり、人麻呂の居場所もわかったのである。居場所もわかって、妻や知人の死をいたむ歌などがそこに載っているわけであるが、しかしそれらの歌に出てくる地名、たとえば鴨山、あるいは石川などもはっきりせず、状況も、岩根し枕ける、貝に交じる、川の雲をしのぶ、波によりくる玉を枕に、荒野に置きて、とてんでばらばらの感じなのだ。
 これらのことを勘案して、私は「原万葉集」は、柿本人麻呂の死そのものをカムフラージュしたものであって、この時点では人麻呂はまだ死んでいなかったと見るのである。「いろは」「あめつち」などの暗号解読により、人麻呂はひそかに救出されたと見る。

 表面的には、和銅元年四月二十日、従四位下の柿本朝臣佐留卒す、と発表されたのである。そして、人麻呂はいったん身を隠す。藤原不比等というやりての官僚(このときすでに右大臣に上りつめていた)の謀略によって追い落とされた人麻呂は、不比等の目の黒い間は身を隠すよりほかなかったのだ。その不比等は養老四年(七二○)八月、六十二歳で死んだ。四年後の神亀元年、人麻呂は山部赤人と改名して再び作歌をはじめたのである。この年、聖武天皇即位、山部赤人は以来十二年間作歌活動をしたことが認められている。つまり天平八年(七三六)年代の明らかな最後の歌が万葉集に記載されている。和銅元年(七○八)人麻呂が鴨山の歌を読んでから二十八年が過ぎている。それで、人麻呂(山部赤人)の年齢を考えてみると、持統三年(六八九)草壁皇子尊のもがり宮の時の歌を詠んだときが最初とすると、そのとき二十四、五歳とする説は多く、それで考えると、七十一、二歳ということになる。これは決して考えられぬほど高齢ということはない。翌七三七年、天然痘によって不比等の息子の房前ら四兄弟が次々に死に、人麻呂の崇拝者的実力者、橘諸兄が翌七三八年右大臣となる。その頃人麻呂(山部赤人)が判者となって、「万葉集」の撰集がなされたのであろう。山部赤人、柿本人麻呂、橘諸兄が「万葉集」を撰したとの伝承は多くある。特に「栄花物語」(平安後期の物語)の赤染衛門説は信頼性が高いものであった。
 柿本人麻呂は、いったん死んだことになっていて、「原万葉集」などに辞世を残したものの「いろは歌」や「あめつち詞」などをつくり、そこに巧妙に暗号を組み入れ、それによってひそかに情報を知人らに伝え、救出されていたのだ。そして藤原不比等の死を確認したのちは、山部赤人として名を変え、ふたたび歌人として活躍し、「万葉集」撰集にも参加したのであった。



4.暗号はイエスキリストのメッセージ

 いろは歌が古代暗号ブームを巻き起こした余波として、その中に、6世紀キリスト教の教えを暗号として埋め込み、説いたものである、との説まで出てきました。本稿、最後にこの「イエスのメッセージ説」と、「いろは歌」英語版/独語版をご紹介しましょう。

 まずは、空海が中国で学んだ景教(ネトリウス派キリスト教)の暗号であるとする、中島尚彦著HP「いろは歌が語る古代日本の謎」より。
http://www.naritacity.com/journal/iroha/index.asp


●いろは歌は空海の景教のメッセージ

「いろは歌」の作者である弘法大師は中国の奥地でキリスト教の一派である景教を学び、その聖書の教えに感銘し、その教理を暗号文として日本国民に教えるべく「いろは歌」を書き上げ、その中に神の名であるヤーウェー、旧約聖書に登場する偉大な預言者のモーセス、そして新約に登場する救世主イエス・キリストの名前を秘めたと察することが出来ます。そしてその信仰への情熱が後の日の真言密教へと発展していったのではないでしょうか?


(え)あ や ら よ ち (い)
い さ ま む た り ろ
も き け う れ ぬ は
せ ゆ う い そ る に
(す)め こ の つ を ほ
み え お ね わ へ
(し)て く な か (と)


 古代ロマンいっぱいの「いろは歌」。その真相を解き明かすにあたって、まず「いろは歌」が書かれた目的を考えてみましょう。「いろは歌」が折句を多用した暗号文書であるということは、その作者が当時何らかの理由で一般的に受け入れられない大切なメッセージを歌の中に隠し入れて後世に残したかった、という理由が考えられます。それ故に表面的なテーマとしては何ら差し障りの無い格調高い仏教的教理を打ち出すことにより、当時のエリート層に容易に受け入れられるようにしたのです。次の目的として、一般大衆もその暗号メッセージをいつしか解き明かしできるように、ひらがなの全てを学ぶことのできる最良の手習い歌として社会全般に普及させることを試みたと考えられます。こうして長い年月を経て多くの日本国民はいつの間にか「いろは歌」を日本語の歌として誰もが覚えて語り継ぐようになりました。その暗号文の謎がやっと解けてきたのです。

 いろは歌」は表面的には七五調に見えますが、実際は空海弘法大師の時代において多用された五七五七七調で構成される折句に中心的メッセージが隠されています。「いろは歌」をごく自然に右上を始点として左上、斜め右下、左下、右上と続けて読み、最後に一文字ずつ飛ばして右上から右下、そして左下に一貫して読んでみましょう。

いちよらや あえさけいつわ とかなくて しすみこいれり いはほとなて

 この歌の意味は「救いを与える良い神は、神隠し(八重桜)のごとく逸話となり、罪も無いのに、死んで神の御子となり、巌となった。」と解釈できます。「いろは歌」の折句を正しく理解するためには、まず中心のテーマが角読みで一目瞭然の「使徒イエス」であることを覚えておくことが大事です。また空海が中国で学んできたギリシャ語(新約聖書)、及びヘブライ語(旧約聖書)の影響を受けていることを理解するだけで、一気に視野が広がります。例えば「いろは歌」の最後の句は「えひもせす」です。これは上段に含まれているヤアエという言葉がモーセの神であるということをepi Mosesというギリシャ語で答
えているのです。モーセはギリシャ語でモセスと呼ばれ、エピという言葉は「何から」とか「何の」という意味で使われるため、「ヤアエ、エピモセス」は「モーセの神」と解釈できます。厳密には定冠詞が中間に入るのですが、日本語では存在しないため省かれています。


 最後に、日本語を学ぶ外国人の方向けに、「いろは歌」を英訳、独語訳したHPから、ご紹介。

いろは歌日本のアルファベット・英語版日本文化の日本語訳
http://www.watanabesato.co.jp/jpculture/letters/irohaj.html


●英語訳版 いろは歌

(英訳用日本語)
美しい人も花のように散っていく。
この世で誰が永遠で有り得ようか?
今日も現実の世界の困難を乗り越えて、
僅かの良い目も見たがそれに酔ってはいられない。


(英語への直訳)
As colors smell but fall.
Who are eternal in our world?
Today、 I went through deep mountain of existing form、
and saw a shallow dream without being drunken.

 色は詩の中では美とか魅惑をあらわすことがよくあります。今でも "彼女は色気がある" といえば "She is sexy"だ、という意味ですが。最初の二行は比較的分かりやすくて誰の解釈も似たものです。後半の二行は難しくて解釈が分かれるところでしょう。有為は現実の世界と解釈しています。奥山を越えるは困難を乗り越えると解釈しています。夢は普通は幸せなものを期待します。日本人は幸せに酔いしれることがありますが、外国の人はどうなんでしょう。幸せはかなり酒と似てませんか?


(独語版)
Die Blüen duften zwar、 doch sind sie abgefallen.
Wer denn in unserer Welt wird unvergänglich sein?
Die Berge fernab von den Wechselfällen (des Lebens) heute überschreitend、
werde ich keine seichten Träme mehr trämen bin auch nicht berauscht.

(上の和訳)
花(栄光)は香るが、落ちて行く。
この世で誰が不死であり得ようか?
今日、奥山(浮沈の激しい人世)を越えて、
もはや浅い夢も見なくなり、酔うこともなくなった。



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2009年12月13日 (日)

いろは歌は、古代の怨念とSOSのメッセージ〈前編〉

 七五調のリズムと同様、ぼくたち日本人の血の中を脈々と流れる四十七個の音球。それが、いろは四十七文字で、この文字をひとつずつ、全く重複なしに編んだ歌がいろは歌です。

 いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ…。

日本人なら誰でも知っている、もっとも有名で、もっとも美しく完成された歌。これは一体いつ、誰が、何のためにつくったものなのか。意外と知られていないのではないでしょうか。また、この歌が伝えようとした表向きのメッセージと、隠された真実のメッセージとは何か。今回、日本語ジャングルでは、いろは歌に封印された、古代の悲しいメッセージを読み解いていきます。

 〈前編〉では、いろは歌の成立・内容・歴史、どんなことが歌われているのか、隠されたものは何か。次号〈後編〉では、隠された暗号の解読と、さまざまな日本語研究分野での斬新な解釈を紹介していきます。



1.いろは歌の成立と歴史


字母歌「いろは」   いろは歌

いろはにほへと    色は匂へど
ちりぬるを      散りぬるを
わかよたれそ     我が世誰ぞ
つねならむ      常ならむ
うゐのおくやま    有為の奥山
けふこえて      今日越えて
あさきゆめみし    浅き夢見じ
ゑひもせす      酔ひもせず

(松村明編『大辞林』三省堂)



上が、いろは歌の仮名書きオリジナルと、漢字表記と濁点を付した読み下し形
のものです。
いろは歌は、代表的な日本人の手習い歌の一つ。七五調四句の今様形式になっています。その仮名の配列順は、今日の「五十音」と同様に、「いろは順」として中世~近世の辞書類等に広く利用されました。
また、いろは歌は、47文字すべての仮名を一度だけ使って作られている歌で、これを字母歌と呼びます。47文字から成り立つ字母歌は、確かに日本語を表記するために用いられる全ての表音文字を1個ずつ含んでいるだけでなく、歌としてすぐれた文芸性を表現し、なおかつ見事に一貫した文脈を形成して、重層的なメッセージを投げかけているのです。


いろは歌が、文献上に最初に見出されるのは1079年成立の『金光明最勝王経音義』であり、大為爾の歌で知られる970年成立の源為憲『口遊』には同じ手習い歌としてあめつちの歌については言及していても、いろは歌のことはまったく触れられていないことから、10世紀末~11世紀中葉に成ったものと思われます。
いろは歌の作者は不詳です。院政期以来、空海作とされてきましたが、その可能性は現在ほぼ否定されています。空海の活躍していた時代に今様形式の歌謡が存在しなかったということもありますが、何より最大の理由は、空海の時代には存在したと考えられてい上代特殊仮名遣の「こ」の甲乙の区別はもとより、「あ行のえ(e)」と「や行のえ(je)」の区別もなされていないことです。
ただし、「や行のえ」については、破格となっている2行目に「あ行のえ」があった可能性(わがよたれそ えつねならむ)を指摘する説も出されていますが。


いろは歌は、本来、無常観を歌った極めて仏教的な内容の歌とされてきました。新義真言宗の祖である覚鑁は『密厳諸秘釈』の中でいろは歌の注釈を記し、いろは歌は世に無常偈として知られる『涅槃経』の偈「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」の意であると説明しました。
以下に、いろは歌の各句と涅槃経の偈との対応関係を示します。


いろは歌        『涅槃経』の偈

色は匂へど散りぬるを  諸行無常
我が世誰ぞ常ならむ   是正滅法
有為の奥山今日越えて  生滅滅己
浅き夢見じ酔ひもせず  寂滅為楽



2.いろは歌には何が歌われているのか(表の意味は?)

まず、各句の語釈を、見ていきましょう。以下のサイトからご紹介します。

FC2ブログ「ことばの遊歩道」より
http://homepage1.nifty.com/forty-sixer/iroha.htm

 「色はにほへど(におえど)散りぬるを」 「散り」とあるので「色」が花の色であることが分かる。「にほふ」は何かが視覚的に映えることを示し、現代語のような嗅覚的な意味ではない。嗅覚的な意味の場合は、古語では百人一首の「ひとはいさ心も知らず故郷は花ぞ昔の香ににほひける」の歌にあるように、「香ににほふ」という。「色はにほへど散りぬるを」は、「花の色は鮮やかに映えるけれども、(いずれは)散ってしまうものなのに」という意味である。

 「我が世たれぞ常ならむ(ならん)」 「私の生きているこの世で誰が一定不変であろうか、いや誰も一定不変ではない」という意味である。「誰」は現代語では「だれ」と濁るが、古語では濁らない。ヘミングウェイの小説の訳題である「誰(た)がために鐘は鳴る」や「たそがれ」を思い出していただきたい。「たそがれ」は「誰そ彼れ」であり、夕暮れ時の闇で人の顔の識別が難しいことからできたことばである。「ぞ」は「それ」の「そ」と同じ語源で古くは清音だったが、平安時代からは濁音となった。

 「有為の奥山今日越えて」 仏教的な世界観では万物は何らかの原因があってこの世に存在している。「有為」とは原因があることを示す語だが、ここでは、原因があって存在している万物を意味している。万物で満たされたこの世を一日生きることを山を越えることにたとえて、このように表現している。

 「浅き夢見じ酔ひ(えい)もせず」 「はかない夢など見るまいよ、酔っているわけでもないのに」という意味である。「酔ふ」はもともと「ゑふ」といった。それが現代語で「えう」にならず「よう」になった経緯については、塔婆守のホームページの中の「やまとことばレッスン」の第48回を御覧いただきたい。「酔えば」を「ええば」では言いにくいであろう。


いろは歌を覆うトーンは、仏教末法思想による、平安時代特有の無常感だといわれています。
『方丈記』で鴨長明が克明に記録した、京中いたるところに人の死骸が散乱する”地獄図絵”は、この時期相次いで京都を襲った天災、大火災・大地震・飢饉・日照り・洪水などの自然災害が原因です。
 さて、それではいろは歌全文の解釈を見てみましょう。後述する、篠原央憲『いろは歌の謎』から以下、一部引用します。


一般には、次のような意味とされている。
 「この世に、はなやかな歓楽や生活があっても、それはやがて散り、滅ぶものである。この世は、はかなく無常なものである。この非常なはかなさを乗り越え、脱するには、浅はかな栄華を夢見たり、それに酔ってはならない」
 しかし、私は「いろは歌」の本当の意味は、かなり違っているものと考えている。「いろは歌」は、もっと悲壮で恨みに満ちた歌なのである。私は次のように訳す。

 「自分はかつて栄光の座で華やかに生きたこともあったが、それはもはや遠い過去のものとなった。この世は明日が分からない。いま栄華を極めるものも、いまにどうなるかわからないのだ。生死の分かれ目の、厳しい運命のときを迎えた今日、自分はもう何の夢を見ることもないし、それに酔うこともない」

 最初の訳は、普通一般の訳であり、いわば仏教の教理であり、人生の教訓である。つまり、これが表向きのテーマである。これなら警戒されることはない。これまでの研究者はすべてこのように解釈し当然作者は弘法大師か、そうでなくともたれか僧侶か仏教関係者であろうとしていた。だが、第二の訳になると、ここではテーマがまったく逆転する。悟りの教えどころか、個人の怨念であり絶望感そのものである。実に暗鬱なニヒリズムがただよっているのだ。

この「個人の怨念・絶望感」「暗鬱なニヒリズム」とは、一体何を意味するのでしょうか。


3.いろは歌に隠されたものは何か。

 いろは歌には、ある人物のメッセージが暗号として隠されている。その驚くべき事実は、上古の為政者が打ち立てた日本正史を根底から覆すものであり、記紀・万葉集の成立の謎を解き明かす…。今から約20年前、いろは歌、万葉集などに隠された古代人の暗号メッセージを解読することにより、全く新しい歴史観を樹立・展開する「古代史暗号」ブームが巻き起こりました。このブームの中で、『水底の歌』梅原猛、『猿丸幻視行』井沢元彦、『もうひとつの万葉集』李寧熙など数々のベストセラーが生み出されました。
 今回、いろは歌の暗号をデコードするため、下2冊のすぐれたナビゲーションをご紹介しましょう。

『いろは歌の謎』 篠原央憲 光文社 1976 http://www.japanology.cn/paper/jp/06sinohara_iroha.htm

『いろは歌の暗号』 村上通典 文藝春秋 1994 http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-03.htm


 『いろは歌の謎』『いろは歌の暗号』ともに、デコードされた暗号(キーワード)は同じです。そして、このキーワードの発見が、前述の古代史再構築の暗号ブームを引き起こすこととなりました。デコードのアルゴリズムとキーワードに関わる主要人物は両著とも同じですが、その仮説検証の方法、暗号作者の特定、そして何より主要人物特定後の経緯の推理・プロットが、二著ではまったく異なります。
 それでは、まずは隠された暗号とは何か、見ていきましょう。村上通典『いろは歌の暗号』を、コンパクトに読書ガイド化した、HP

「いろはかるた漫談」
http://www.tokaido.co.jp/lab/wada/iroha.htm

より、本著のエッセンスを抜粋、再構成してご紹介します。


●いろは歌の暗号解読より浮かび上がる言葉は

 簡単に謎解きの例を要約します。
いろは歌を7文字で折り返して記述すると行の終わりに並ぶ文字「沓」を上から下に読んで行くと,「とかなくてしす」と読めます。

い ろ は に ほ へ と ↓
ち り ぬ る を わ か ↓
よ た れ そ つ ね な ↓
ら む う ゐ の お く ↓
や ま け ふ こ え て ↓
あ さ き ゆ め み し ↓
ゑ ひ も せ す ←

つまり「咎無くて死す」になるのです。そこでこれは,無実の罪を着せられて死んだ,万葉の歌人,柿本人麿が怨念を込めて残した暗号では無いか? と推理できるのです。

 しかし,この説には時代考証上の無理があって,一笑に付された経緯があるのですが,誰かが柿本人麿の思いを暗号にして後世に伝えようとしたことは確かでしょう。
『いろは歌の謎』を書いた篠原央憲は,この暗号を,偶然作業中に気づいたと書いています。
それほど,この暗号は巧妙に隱され続けていましたが,すでに江戸時代には,気づかれていたようです。
 井沢元彦の「猿丸幻視行」(前述)は「かきのもと」の5字が,巧妙に折り込まれていることを推理して好評を得た作品でした。

い (ろ) は に ほ へ (と)
ち り ぬ る を わ [か]
よ た れ そ つ ね な
ら む う ゐ [の] お く
や ま け ふ こ え て
あ さ [き] ゆ め み し
ゑ (ひ) [も] せ す (ま)

中央の[の]に注目して下さい。右上の[か]に対して[の]を中心に対象の位置にある文字は[き] です。
同じく右上の(と)に対して「の]を中心に対象の位置にある文字は[も]です。
左上の(ろ)に対して[の]を中心に対象の位置には本来文字がありません。
ここに(ま)をあてるのは江戸火消し48組で,「万」組を作ったりした事例からみて,文字の最後を「万」つまり(ま)にしても無理ではありません。
ちなみに,江戸火消し48組では,「へ」は「へ」のようで失格。「ら」は男根の意味なので禁句,「ひ」は火に通じてやっぱり禁句という分けで,それぞれ「百」組,「千」組,「万」組に代えられています。
こうして列挙すれば,[の]を中心とした斜め右上から左下への往復で、[か][き][の][も](と)が表れます。
そして,これらの文字が格納された正方形の対角に着目すると、(ひ)(と)(ま)(ろ)が表れるのです。


(次回〈後編〉へ続く。)


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2009年12月12日 (土)

日本語はなぜ「七五調」なのか?〈後編〉

 〈前編〉では、日本人が七五調を読む定式化されたリズムがあり、それは二音節を一単位として構成される「四拍子」である、という説をご紹介しました。


 それでは、なぜすべての音数より特別に「五音」「七音」が選ばれたのか、続きを追っていきましょう。


3.なぜ、五音と七音が撰ばれたのだろう。

 では、なぜ四拍子を構成するのに五音と七音が選ばれたのか。それには、選んだというより、基本的には、五音と七音がいちばんできやすいということもあったのではなかろうか。

 前に述べたとおり、日本語の単語を類別すれば、二音節のものが圧倒的に多く、それだけで全体の六十パーセント近くを占めている。次いで三音節が三十パーセント弱である。したがってまた、二語の合成語も、二プラス二の四音節がもっとも多いにちがいない。
 ところで、文章をつくり叙述を完成させるには、いわゆる「てにをは」をつけたり、動詞を活用させたりしなければならない。単語の羅列だけでは歌にならない。つまり、大部分は一音節、一部は二音節でできている助詞や語尾変化部分を付加する必要がある。そして、四拍子ということを考えると、一句の長さを三音節や四音節で片付けることはできない。あまりに短すぎる―逆にいえば、休みが長くなりすぎるからである。それなら、いちばんできやすい組み合わせは五音で、短い句が五音になるのは、確率的にも当然のことにすぎない。

 長い句は、また四拍子を考慮に入れれば、六、七、八音のいずれかで(それ以上になると四拍におさまらない)、組み合わせの確率からいえば六音が最高かもしれないが、相対的な短長の感覚、休みの長さのバランスからして、七音がもっともふさわしいことになるだろう。短い句が五音であるのに対し、長い句が六音では、あまりに差がなさすぎるし、五音六音のくりかえしはむしろ三拍子にとらえたくなる(四拍子にするためには、全部の句にまるまる一拍の休みを置かなければならない)。また、長い句が八音では、句の切れ目にもまったく休みを置くことができず、ゆとりがなくなる。とすると、基本的には、長い句は七音が最適ということになる。


 以下当著は、長歌の「五七、五七、五」の二句切れから「五七五、七七」の三句切れへの移行、五七調から七五調への転換、英語俳句の批判、自由詩・散文詩のリズムへと考察が展開していきます。さて、本論とは間接的な項目になりますが、日本文化四拍子論として非常に興味深い、「手拍子・拍手発生論」、「農耕民族四拍子説」を後半部よりピックアップしてご紹介したいと思います。


4.手拍子は、四拍子。

 手をうつことは日本民族の故習で『魏志倭人伝』、『古事記』の「天逆手」にみられ、一種の呪術と考えられる。これが芸能の場におこなわれたものが手拍子であるが、同時に気分の高揚した芸能の場で自然発生することもおもい合わせるべきである。すなわち歌謡をうたう場合は一種の「はやし」という音楽の原始的な役目をする。(平凡社『世界大百科事典』)

 つまり、ずっと古い時代から、「気分の高揚した芸能の場」では、自然に「手拍子」という行為が伴い、歌の「はやし」の役目も果たしていたから、現在でも歌を歌うときには、ごく自然に、歌が何拍子だか考えもせずに、手拍子を打つようになっているのである。日本人には、手拍子という二拍子系のリズムが、もう身についてしまっている。


 もう一つ、今では日常生活から離れてしまったが、神さまを拝むときの拍手がある。これは、いったいどういう意味をもっているのか。哲学者の上山春平氏によれば、元来、拍手とは挨拶のしぐさだったらしい。『魏志倭人伝』には、「大人の敬する所を見れば、ただ拍手して跪拝に当つ」とあるから、三世紀頃のわれわれの祖先は、挨拶に拍手を用いていたことになる。また、唐代の学者が『周礼』の注釈のなかで、今の倭人(日本人)は拍手の礼を行っていると書いているそうである。『日本書紀』の持統記にも拍手の礼が記録され
ている。天武天皇の皇后であった持統天皇が帝位につくときの即位式に、
「公卿百寮、羅列りてあまねく拝みたてまつり、手拍す」とある。
 今は普通の挨拶に拍手など用いない。それをやるのは、神さまを拝むときだけである。昔行われていた挨拶の拍手と、今残っている神前の拍手と、この二つにはいったいどんな関係があるのだろうか。ぜんぜん別のものだったとは考えにくい。
 神前の拍手は、もとをただせば、神さまに対する挨拶ではないか。それも、人に対する挨拶であった拍手が、時とともに、神さまに対する挨拶にも使われるようになったというのではなく、挨拶として拍手という行為があり、それが神にも人にも使われた、あるいはむしろ、神に対する挨拶として拍手があり、人に対する挨拶にもそれが使われるようになったと考えたい。はじめに神ありき。


わたしにとってすこぶる興味深いのは、超自然を呼びさますというもっとも根源的な行為の一つであるこの拍手を、上代人がどのように行ったかということ、具体的にいえば、その回数である。神社に詣でてかしわ手を打つとき、われわれはけっして一つだけではすまさない。かならず、ポン、ポンと、二つ打つだろう。なぜか知らないが、昔から習慣的にそうすることになっている。いくつでもいいというものできない、どこでだれがやっても二つである。
 ところが、二つというのは実は略式だそうで、古語辞典(岩波書店)を見ると、正式には四度打つと書いてある。それどころか、これも上山春平氏に教えられたのだが、伊勢神宮では、ポン、ポン、ポン、ポンと四つたたき、間を置いてそれを二度くりかえすらしい。現行の神宮祭式では、四度の拍手を二回くりかえすのは「八度拍手」と呼ばれ、あらゆる儀式のクライマックスをなすという。
 それにしても、なんと神秘的な味わいにみちていることか。人と神とのあいだに立てられた重い扉を押し開くのは、深い静寂のなかに乾いた音をひびかせる四拍子のリズム。

 手をたたくという動作でわれわれが日常おなじみのものがまだあった。応援の拍手である。(中略)あれがいわゆる三三七拍子である。
 しかし、べつに三拍子三拍子七拍子を重ねているわけではない。五七五七七や三十一文字と同じで、数字そのものはリズム(拍子)をあらわしていない。日本人の変なくせというか、表面にあらわれた数だけかぞえて、休みを全く勘定に入れないのである。三三七とっても、けっして三三七を続けて打っているのではなく、それぞれのあいだに休みを置いて、

 |○○○●|○○○●|○○○○|○○○●|

の形にしている。これはご覧のとおりの四拍子にほかならない。
 それから、今でも、ある社会で行われている手じめ。(中略)「お手を拝借…イヨーーッ」で始まるあの拍手は(中略)、

 |○○○●|○○○●|○○○●|○●●●|

となり、やはり四拍子である。


5.農耕民族は、四拍子。

 一つ大胆な仮説を提示してみよう。
「日本人の四拍子文化は、先祖が農耕民族だったからである。」
 もちろん、この裏には、騎馬(遊牧)民族は三拍子であろうという想定がある。(中略)

 韓国の民謡が三拍子なのは騎馬民族だからではないか、という小泉文夫さんの説だった。農耕と四拍子になにか関係がありそうだという推測は前々からもっていたが、騎馬と農耕のリズム上の違いがはっきりしなければ、
その推測は意味をなさない。したがって、小泉さんの仮説は―これも証明されているわけではない。実際問題として実証は不可能でもあろう―わたしにとって、まさに暗い空を走る電光の一閃だったのである。まずこの「馬の文化」説の大要から紹介することにしよう。

 (中略)なぜ韓国人のばあい三拍子になるかというと、おそらく彼らが騎馬民族で、馬に乗るからである。乗馬の経験でいえば、速足をやるときにただ乗っているだけでは尻を打ってしまう。そうならないためには、馬が跳ねたときに自分から跳ね、積極的に上下動を加える。馬に乗る民族は、みなが調子づいてくると上下動をする。その動きによって、気持ちが高揚する。日本のような歩行のリズムではなく、それに上下の跳躍のリズムが入る。  日本には、奈良、平安時代から蒙古馬が献上されていたが、あくまで馬は支配階級のためのもので、音楽をつくる底辺である農民のリズム感のなかに、馬は定着しなかった。

 (中略)そして、四拍子論に関連して、とりわけ面白いと思うのは、この騎馬民族が南九州に国をつくったという推定である。騎馬民族は三拍子。それなら、南九州は、大昔、三拍子の国だったのではないか。
 (中略)古代の歌謡の一つに「催馬楽」と呼ばれるものがある。そして、日本の芸能としてひじょうに珍しいことに、これが五拍子か三拍子であることを、奈良学芸大の林謙三氏が明らかにされた。(中略)要するに、催馬楽は鹿児島近辺で行われていた隼人神楽である。いいかえれば、ここが催馬楽発祥の地だということである。



 日本語が七五調であるというよりも、日本人生来のリズムが四拍子である、ということのほうが本質的な現象であることがよくわかりました。なぜ、二音で一単位なのか、また、そもそもなぜ日本民族は四拍子なのか、が農耕文化との関わりで提議されました。が、まだ仮説の域を脱しません。ヨーロッパでは古くから、ジーク、サラバント、などワルツ系三拍子は舞踊のリズムとされてきましたし、休符によるシンコペーションでリズムに跳躍感をもたせることは、もちろん四拍子でも可能ですが、逆に三拍子であればもっと加速感が強まるようにも思えます。
 いずれにしても、上代よりそれこそ千年以上ぼくたちの血と遺伝子に深く刷り込まれた、四拍子と七五調は、日本という国と民族があるかぎり、もっとも自然で、もっとも心地よい不変のリズムを刻み続けることに間違いはありません。



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2009年12月11日 (金)

日本語はなぜ「七五調」なのか?〈前編〉

 とにかく。ゴロがいいんです。ピシッと決まる感じがする、七五調なら…。「日本語のリズムは、何音でできているか?」ときかれて、「七音か五音の七五調」と答える人が大半ではないでしょうか。俳句・和歌・短歌はむろん、演歌、民謡、童謡、ことわざ、標語、慣用句、かけ言葉、応援歌からキャッチコピーにいたるまで、およそ日本人が声に出すあらゆる決め文句が、「七五調」といっても言いすぎではありません。日本民族の血液中を脈々と流れ、遺伝子にプリントされている、この七音と五音のリズムの正体はいったい何なのでしょう?

 さて、今回日本語千年の謎を解き明かすナビゲーションは、この著作。

『日本語のリズム 四拍子文化論』別宮貞徳 筑摩書房 2005.11


 タイトルに、すでに正解が書かれていますね。そうです。七五調、影のフィクサーは、「四拍子」。まず本著、安西徹雄の「あとがき」には、こうあります。


 それにしても、しかし、五七調にしろ七五調にしろ、明らかに奇数の音節で構成されているものから、一体どうして、四拍子という偶数のリズムを引き出すことができるのか。この、まこと意表を衝く転換のカギは何なのか。休止、間の発見にほかならない。本書を通読された読者には、今さらくどくど説明するまでもないことだけれども、かりに一音節の長さを八分音符で表すとするなら、八九ページの第8図

http://nobunsha.jp/img/shichigo1.jpg

にもあるとおり、五音節の句には一拍半の休止、七音節の句には半拍の休止を置く。するとたちまち、キチンと四拍子を構成することになる。実に、明快そのものである。


 実は、「七五調起源論」、古くは本居宣長にはじまり、近代を経由し、明治から平成の現代に至るまで、100年以上も各分野の学者、研究者に取り上げられてきた古くて継続したトピックスなのです。金田一晴彦、和辻哲郎、折口信夫、外山磁比古、野上豊一郎、寺田寅彦…。国語学の専門家、第一級の学者たちが、寄ってたかって議論しても、「これぞ」という明解な答えが得られなかった。この間の諸家諸説経緯は、以下のページにまとめられています。

“十七音の謎 2”HP
http://www.d2.dion.ne.jp/~t_katou/onnonazo2.html

 この中の、10.11.にありますが、明治三十二年、高橋龍雄の「四拍子論」が世にはじめて出て、「四音歩説」、「等時音律説」などを交えながら、次第に七五調が、日本人独自の内在的なリズム=四拍子に立脚するものであることが、確かめられるようになっていきました。

 以下、ざっと本編プロットを追ってみましょう。


1.日本人が七五調を詠むリズム

 八雲立つ 出雲八重垣 妻ごめに 八重垣つくる その八重垣を
『古事記』

 リズミカルにこの歌を読もうとするとき、われわれはけっして、ずるずるべったりには読んでいないことに気づく。つまり、リズムを解くかぎは、切れ目にあるということになる。では、どのように切って読んでいるだろうか。
 もちろん、「ヤク モタ ツイ ヅモ」のように、でたらめに分断しているわけはない。切るべきところで切り、続けるべきところは続けながら、切って休むその長さはけっして気分しだいのでたらめではなく、そこに一定の法則がある。いつどこで読んでもだいたい一定しているし、まただれが読んでもほとんど変わりがない。

「八雲立つ」と、全体の主題の提示のような形で歌い出し、そこでまず一息入れる。第三句の「妻ごめに」のあとでも一休みする。また、第四句の「八重垣つくる」のあとにも、第一、三句のあとほどではないがちょっと間を置いている。そればかりではない、第一句の「八雲」と「立つ」のあいだ、第二句の「出雲」と「八重垣」のあいだにも、心もち間が置かれているらしい。今、その切れ目まで示して書けば、この歌は次のようになる。


 ヤクモ・タツ・
 イヅモ・ヤヘガキ・ツマゴメニ・
 ヤヘガキツクル・ ソノヤヘガキヲ


 さて、ここでまず、日本語のきわだって大きな特徴を一つあげておこう。日本語は、どの音(音節)もほぼ同じ長さ(時間)で発音されるのである。これを等時性という。「ヤ」も「ク」も「モ」もすべて同じ。あたりまえのように思うかもしれないが、普通のヨーロッパ語ではぜんぜんそんなことはない。
 そして、撥音(はねる音)、促音(つめる音)、長音(引く音)がみな一つの音節としてかぞえられることも、日本語独特である。ローマ字で表記するときには、はねる音はNを使い、つめる音は子音を重ね、引く音は、母音の上に横棒を書いたり母音のあとにHを入れたりするが、外国人がそれを読めば、音節が長くなるだけで少しもふえたことにはならない。たとえば「万金丹」は日本語で六音節だが、MAN-KIN-TANは三音節(中略)。

 そこで「八雲立つ…」について考えると、たんに字数(いいかえれば音数)を取るかぎり、五音句と七音句の時間の比は、等時性の原理によって五対七になるはずだ。しかし、実際には、先ほど述べたような間が入っている。さて、その結果はどうなるか。
 あとでくわしい実験結果を明らかにするが、これを読むときに―どんな短歌でも同じ―われわれは、各句にほぼ同じ時間をかけているのである。そこで、「ヤクモ・タツ・」と「イヅモ・ヤヘガキ」の時間が同じなら、「タツ」のあとの・は音(字)二つぶん、また「ツマゴメニ」のあとの・は三つぶんでなければ勘定が合わない。「ソノヤヘガキヲ」のあとにも一つぶんの・があるにちがいない。・一つを一字ぶんとみれば、結局どの句も八字ぶんの長さをもっていると推定される。つまり、五七五七七といいながら、時間的な長さにすれば八
八八八八ということになる。音符を使って記録すれば、第一図

http://nobunsha.jp/img/shichigo.jpg

のとおりで、これはまさしく四拍子にほかならないではないか。



2.日本語は二音節で一つの単位になっている。

 日本語は二音節ずつ一つにまとめて組み立てられていることが特徴である。なぜ二音節が一単位になるのか、その理由は、はっきりとはわからないが、金田一晴彦氏のいわれるように(『日本語』岩波新書)、日本語の音節があまりにも短いためでもあろう。たとえば、ここでたびたび出てきたリズム(rhythm)という言葉は、英語では一音節である。スタートは、日本語では四音節なのに、原語(start)では一音節。(中略)日本語の音節はおそろしく短い。そして、前にも触れたように、どの音節もほぼ同じ長さ(時間)に発音される。つまり、等時性をもっている。
 二音節が一単位ということは、身近なものの名前を思い浮かべただけでもわかる。山、川、空、土、父、母、春、夏、人、家など。基礎的な名詞は、たいてい二音節語である。これは、二音節が日本語ではいちばん自然な、発音しやすい単位であることを物語っている。

 これに反して一音節の言葉は非常に少ない。(中略)…一般的に、一音節は聞き取るのがむずかしく、理解しにくい。(中略)
 このとおり、われわれは一音節の言葉をきらっていて―あるいは苦手としていて、だいたいその数が少ないばかりでなく、使うばあいにも、ほかの言葉をつなげたり、音を重ねたり、延ばしたり、なんとか多音節にしようと苦心している。

 二音節一単位の原理の端的なあらわれは、日本語に非常に多い略語である。日本人はあまりに長い単語もきらいで、すぐに略語を考えだすが、その方式は二音節を二つ重ねることにだいたいきまっている。大学卒業は「ダイ・ソツ」、国民体育大会は「コク・タイ」(中略)、外国語の省略はとくにはげしい。というのも、先ほど述べたとおり、外国語は日本式に発音すれば非常に音節が多くなり、そのままでは日本人の使用にたえないからだろう。「エン・スト」「ハン・スト」「全スト」「パン・スト」…。

 さて、二音節一単位というのは、けっして一つの単語の音節数についてだけいわれるのではなく、長い音節の言葉あるいは文の読み方についても同じで、歌のリズムの解析には、それが大きなモーメントになる。

 まず、一つの単語についていえば、たとえば、「桜」「紅葉」は、それぞれ、|サク|ラ|、|モミ|ジ|と発音される。「紫」は|ムラ|サキ|、「紅」は|クレ|ナイ|である。外来語も同じことで、「クリスマス」は、|クリ|スマ|ス|になる。(中略)
 念のために申し添えると、|サク|ラ|、|ムラ|サキ|と分けて書いたが、縦線のところで切ったり休んだりするわけではない。ただ、そこで切れるような感じに読むだけ。おもてにはあらわれない感覚、リズムのとらえ方の問題で、それを表記上、縦線で示しているのにすぎない。(中略)

 次は、二つ以上の単語が結びついた結合語。二音節語が二つ重なった言葉は、ぜんぜん問題ない。前に、そういう言葉が身辺にはたくさんある話をしたけれども、たとえば、|ダイ|コン|、|ニン|ジン|、|カナ|ヅチ|のように、単純に二つを分けてしまえばいい。問題は、奇数音節語がまじっているばあいである。一音節、二音節、三音節、あるいはそれ以上の組み合わせがいろいろあって、ややこしいが、まず基本的には、頭から二つずつまとめていく法則があると思っていてまちがいない。(中略)

 一音節と二音節の組み合わせは、「子供」=|コド|モ|、背中=|セナ|カ|、歯ぐき=|ハグ|キ|、小川=|オガ|ワ|になる。意味上のつながりはまったく考慮されない。(中略)

 一音節と三音節の組み合わせも同じで、「手袋」は|テブ|クロ|、歯並びは|ハナ|ラビ|、夜桜は|ヨザ|クラ|で、けっして意味のつながりに従った、|テ|ブクロ|、|ハ|ナラビ|、|ヨ|ザクラ|にはならない。(中略)

 一音節語がうしろへ回って、三音節プラス一音節ならどうなるか。桜づくしでいくならば、「桜葉」=サクラバ、桜井=サクライ。(中略)

 三音節に二音節が結びついたものは、ひじょうに数が多いが、また桜づくしでいくとして、「桜草」「桜色」「桜餅」はどうだろう。|サク|ラソ|ウ|、|サク|ライ|ロ|、|サク|ラモ|チ|も成立する。しかし、|サク|ラ|ソウ|、|サク|ラ|イロ|、|サク|ラ|モチ|ともいえる。この拍の分け方は、意味に従ったもので、かりに「意味分拍」と呼んでおこう。
 つまり、三音節プラス二音節のばあいは、音数分拍も意味分拍もありうることになる。(中略)

 三音節プラス二音節なら両方可能だが、元へ戻って、一音節プラス二あるいは三音節のばあい、意味分拍が絶対にないことは注意してよい。これは、日本語では、語頭、文頭に一音節の発音を置かないことを意味している。なぜそうなったのか、わたしにも理由はからない。


 さて、日本語生来のリズム四拍子は、二音節一単位として、そのペアが四つ集まり一小節を構成し、生まれることがわかりました。このペアは「音数分拍」という強固なリズム原理に基本的にしばられ、意味で切れることがない、ということも。
 それでは、そもそも八八八八八の「四拍子」のリズムに乗せるために、なぜ「五音」と「七音」だけが撰ばれたのでしょうか。その秘密は、いよいよ次回にて解き明かされます。


→〈後編〉へ続く。

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2009年12月10日 (木)

「標準語」って、一体何語?

 今回のテーマは「標準語」。”言葉探検”ずばり、直球勝負です。さて、かくいうわたくし、生粋の関西人ですねん…。関西人はすべて、関西弁が正しい日本語、標準語であると考えています。ところが時々、無意識に頭の中で”標準語=東京語”で考えていることがある。これはなぜか?そもそも標準語って何? 何が標準語に採用され、何が捨てられたのか?
 今回以下にご紹介する著作をナビとしながら標準語成立の謎に迫りたいと思います。

『標準語の成立事情 日本人の共通ことばはいかにして生まれ、育ってきたのか』
真田信治 PHP研究所 1987

 本著は「社会言語学の視点で標準語成立事情を追究」した作品です。標準語そのものの定義や歴史など教科書的な説明は↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%99%E6%BA%96%E8%AA%9E
でご確認いただくとして、当コラムでは、トリビア的視点に立ち、そのエッセンスのいくつかを拾い読みしていきたいと思います。


1.江戸以前の正しい日本語は、”京都ことば”。

 安土桃山時代、布教のため来朝したポルトガルの宣教師たち。教義を日本人によく理解させるためには、日本人共通のことばで説教をしなければなりませんでした。彼らが「標準語」として採用したのが上(畿内)の京都ことば。京都の上層階級の人々が用いることばでした。このことばにより日本初の外国人による日本語辞典が生まれました。

『日葡辞書』1603・1604 長崎刊
『日本大文典』1604・1608 長崎刊 J.ロドリゲス編


2.「行かない。都さ上るべい」が”東ことば”。

 京都ことばに対する、東(あずま)ことば。東日本の語法上の特徴を『日本大文典』から見ます。

 a.打ち消しには「ぬ」の代わりに「ない」を使う。上げない、読まない、申さない、など。
 b.未来にはさかんに助辞「べい」を使う。上ぐべい、読むべい、申すべい、など。
 c.移動の「へ」の代わりに「さ」を使う。「都さ上る」など。

 「べい」は、今の首都圏若者語にも「おめー、いねーべ」などと使われていますね。


3.講義・スピーチのスタイルから標準語は生まれる。

 時代は下って、江戸。享保年間、京都、石田梅岩によっておこされた石門心学は、神・儒・仏教を総合、折衷した学問。この講義=道話により、全国各地庶民へ、教えをわかりやすく伝える独特の「講話」のスタイルができあがり、普及しました。

 心学道話と現代標準語の成立事情は、以下のようにたどれます。

「抄物→江戸講義物(心学道話等)→明治講義物→演説→標準語の口語は、一本の連続線上にあるのではないかという予想を述べたが、道話に対する今回の小調査に関する限り、この予想を裏切る否定的要素がなかった」森岡健二

「演説調・講義調・説教調のように、ことばの型が定まってくるスタイルができると、ことばの訛り・語法の乱れは次第におさえられ、多数の聞き手に理解されやすいことば遣いが整ってくる。現在のニュースや天気予報のスタイルも同じプロセス」田中章夫

 ロジカルな思考を行っている時、プランニングをしている時など関西人のぼくも無意識で”標準語”で考えている。これは上のように、標準語が新しい知識を伝えるため、理性に訴えるべく整えられ、成立した言語だからなのかもしれません。どなたか正しい根拠を知っていれば、ご教授ください(anshu)。


4.標準語化が生んだもの。”ダ体・デス体・デアリマス体”。

 明治の標準語化を強力に推進したのが「言文一致運動」。当時の小説家たちが作品の中で実験的に用いた文体が、今日の標準的な日本語表記として定着することとなります。以下が、それらの作家、作品と文体。明治20-24年に一挙に出揃いました。

 『浮雲』二葉亭四迷 “ダ体”
 『胡蝶』山田美妙 “デス体”
 『野末の菊』嵯峨の屋御室 “デアリマス体”
 『二人女房』尾崎紅葉 “デアル体”(デゴザイマスとダ体の中間)

 当時、言文一致運動に「落語」の話法がヒントを与えたというユニークな逸話があります。以下、二葉亭四迷のエッセイ『余が言文一致の由来』より。

「もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何か一つ書いて見たいとは思つたが、元来の文章下手で皆目方角が分からぬ。そこで、坪内(逍遥)先生の許へ行つて、何うしたらよからうかと話して見ると、君は円朝の落語を知つていよう、あの円朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。
 で、仰せの侭にやつて見た。所が自分は東京者であるからといふ迄もなく東京弁だ。即ち東京弁の作物が一つ出来た訳だ。早速、先生の許へ持つて行くと、篤と目を通して居られたが、忽ちはたと膝を打つて、これでいい、その侭でいい、生じつか直したりなんぞせぬ方がいい、とかう仰有る。
 自分は少し気味が悪かつたが、いいと云ふのを怒る訳にも行かず、と云ふものの、内心少しは嬉しくもあつたさ。それは兎に角、円朝ばりであるから無論言文一致にはなつている」


5.標準語化が奪ったもの。”方言摘発・撲滅運動”。

 明治時代の言語統一の考えは、戦前まで続きます。各地のお国ことば、方言は、標準語普及にとって、邪魔な物、無用の物、社会的な「悪」とまでみなされてしまいます。
 この「悪」をつみとるために実施されたのが、”方言撲滅運動”。方言を使用する教師が摘発、生徒が告発されることとなりました。方言を使用した生徒に懲らしめとして「方言札」なるものが、首からぶら下げられたり、背中に貼られたりしたのです。
 方言を禁じることは、方言使用者が自由に意見をいうことまでをも禁じること。むろん、このような政策が受け入れられることも、成功するはずもありませんでした。


6.「ゴ注文ハヨロシカッタデスカ?」は、語法の乱れではなく、方言。

 たとえば、「コワイ」「オッカナイ」「オソロシイ」などの言葉が、全国にどのように分布し、標準語化とどのように関わるのかを解明している章があります。
 ここで面白い例は「おはようございます」の方言。北海道、四国、中国の一部に「ございます」の部分を過去形にした「オハヨウゴザイマシタ」がある。これは、意味的にはむろん過去ではなく、丁寧な表現になるということです。
 よく耳にする、若者/接客用語の「よろしかったでしょうか」。文法的には”過去の時点での確認”とする解釈もあるようですが、現在も現地で使われているこの”丁寧語方言”由来であるとした方が、すっきり説明できるようにも思えますね。


7.コトバは年速0.6kmで旅をする。

 本書にコトバの伝播について面白い実験があります。ある一点で使用されている語形が、どのくらいのスピードで周辺地方に伝わってゆくのかを調べたものです。

・「行く」の否定形過去は、東日本・北日本では「行かなかった」、京都では「行かなんだ」。
・「行かなんだ」は現在、中部・首都圏・山陰・中国地方で使用されている。
・「なんだ」語形初出は、1477年成立の抄物、『史記抄』に。しかし、実際の発生は約50年ほど前か。
・「なんだ」分布範囲は、京都を中心に上の地方へと、半径330kmの円の中にぴったり収まっている。
・これらの地方への伝播は現在までで、約550年かかっている。試算すると伝播スピードは年速(km/年)0.6kmとなる。


8.共通語は「現実」であり、標準語は「理想」である。

 戦後「標準語」に代わり、「共通語」という用語が登場してきます。「標準語」という言葉がもつ統制というニュアンスが嫌われたためだと思われます。

・「共通語」の原義は、異なった言語間のコミュニケーションに用いる第三の言語をさす。インドネシアのマレー語/東アフリカのスワヒリ語/英語など。

・『国語学大辞典』による、現代の標準語・共通語の定義。

「共通語は現実であり、標準語は理想である。共通語は自然の状態であり、標準語は人為的につくられるものである。したがって、共通語はゆるい規範であり、標準語はきびしい規範である。言いかえれば、共通語は現実のコミュニケーション手段であるが、標準語はその言語の価値を高めるためのものである」柴田武

・「地域共通語」の一例。和歌山県中部の一部では、改まった席では、大阪ことば(関西中央部方言)が使われる。


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2009年12月 8日 (火)

謎の日本語、〈博士語〉〈お嬢様語〉とは?

 今回は、小説やマンガ、演劇などでおなじみの架空の日本語=〈役割語〉というものをご紹介しましょう。ナビはこの著作。

『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』金水敏著 岩波書店 2003 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/400006827X/249-0291854-9135550

まずは、本作表紙扉のコピーから。
「『そうじゃ、わしが博士じゃ』としゃべる博士や、『ごめん遊ばせ、よろしくってよ』と言うお嬢様に、実際に会ったことがあるだろうか。現実に存在する・しないにかかわらず、いかにもそれらしく感じてしまう言葉づかい。これを〈役割語〉と名づけよう。誰がいつ作ったのか、なぜみんな知っているのか。そもそも一体何のために、こんな日本語があるのだろう」

 本作では、〈博士語〉〈ヒーロー語〉〈書生ことば〉〈お嬢様語〉などの役割語、その出自と成立、展開を、現実と仮想現実、またはメディアとステレオタイプといった社会学のツールを駆使して解き明かします。
 引用も江戸戯作文学から、明治・大正・昭和期文芸、手塚治虫からエースをねらえ!まで、実に広汎な文献・資料を参照しており、転載のマンガ コマ割りを眺めるだけでも十分楽しめます。
 今回は、論点を逐次追うことはせず、トリビア視点に立っての”おいしいとこドリ”のレポートとしました。


1.〈博士語〉のルーツは、江戸〈老人語〉。

「親じゃと?わしはアトムの親がわりになっとるわい!」
『鉄腕アトム』手塚治虫

 〈博士語〉の祖形は、大正時代の『少年倶楽部』までさかのぼることができるという。しかし、何といっても手塚治虫、御茶の水博士の存在抜きには、このコトバは語れません。さらに、〈博士語〉をさかのぼると、ルーツは〈老人語〉に見つかる、と指摘します。

・〈博士語〉→〈老人語〉の起源は、18世紀後半~19世紀の江戸まで、さかのぼることができる。
・江戸では年輩者の多くは上方風の言葉遣いであった。
・医者・学者は保守的で、古めかしい話し方をした。この話法が誇張され、歌
舞伎・戯作で〈老人語〉に。
・現実の世界では、江戸語が明治の標準語になっていく。かたやヴァーチャルな世界、文芸・演劇作品では伝統的に老人=上方風の話し方がそのまま受け継がれてゆく。


2.ステレオタイプは〈役割語〉を創る社会装置。

 役割語の創出には、社会心理学の概念である「ステレオタイプ」が大きく作用しているといいます。

・ステレオタイプは、1987年『世論』の中で、ジャーナリスト、リップマンにより使い始められた概念。
・人は人を性別・年齢・職業などで分類しがち。その分類に属する人間が共通して持つと信じられている特徴が「ステレオタイプ」である。


3.世界中の〈ヒーロー〉たちは、皆同じ旅をする。

 ドラマの主役は、必ず標準語を話すヒーローでなくてはなりません。読者をスムーズに主役と同一化させ、ストーリーにひきこまなくてはならないからです。〈博士語〉や〈異人語〉(後出)を話す脇役たちは、物語に変化を与え、推進させていく、いわゆる〈トリックスター〉にあたります。
 さて、この主役=ヒーローには世界共通の物語があるという。神話学者、ジョゼフ・キャンベル『千の顔をもつヒーロー』では、各国の神話には共通の構造があることを指摘。これにヒントを得、ハリウッドのヴォーグラーは「ヒーローの旅」と命名し、シナリオライター向けガイドブック『ヒーローの旅』を執筆しました。

「普通の生活をしているヒーローが、ある日異界の使者から、冒険への呼び出しを受ける。ヒーローはいったんこの呼び出しを拒絶するが、老人の助言者に導かれ、励まされ、力を授かり旅立つのである。ヒーローは最初の関門にさしかかり、関門の番人に試練を与えられる。それらの過程で味方と敵が明らかになっていく。敵はヒーローを呪い、苦しめようとする影の部下であったり、影そのものであったりする。トリックスターはいたずらや失敗でヒーローたちを混乱させ、笑わせ、変化の必要性に気付かせる。変容する者はヒーローにとって異性の誘惑者で、ヒーローは彼/彼女の心を読み取ることができず、疑惑に
悩まされる。やがてヒーローは深奥の洞窟へ侵入を試み、苦難を潜りぬけ、宝の剣をつかみとる。ヒーローは帰還の道をたどるが、その途上で死に直面し、そして再生をはたす。その後、神秘の妙薬を携えて帰還するのであった」


4.〈書生ことば〉は、江戸エリートの系譜。

「おや、誰かと思ったら須河か。まだ君は残っていたのか」
「僕はまたあそこの松の木の下へ酔い倒れていたもんだから。前後のことはまるで知らずさ。そりゃあ失敬だったね。ちっとヘルプすればよかった」
『当世書生気質』坪内逍遥

 標準語~男性語の流れから生まれた、明治時代独特の〈書生ことば〉は、江戸〈武家ことば〉を受け継いだ士族層の言葉に強い影響を受けています。この男性版お譲様語は、やがて昭和メディアのヒーロー〈少年語〉へと移り変わってゆくこととなる。さて、〈書生ことば〉の特色とは。

a.ぼく・わがはいを多用。自称はこの二つのみ。
b.きみ、を多用。または人名呼び捨て、くん付けを多用する。
c.命令形、たまえ、べしを使う。
d.あいさつに「失敬」を使う。
e.文中に、漢語、外来語を多用する。

 ちなみに、この「~~たまえ」の歴史。

a.上代より運用された尊敬動詞。平安時代に動詞の連用形につき、尊敬をあらわす補助動詞として発達。
b.尊敬語としては、平安時代の「~らる(られる)」や、中世末の「お~ある」に置き換わってゆき、文語・古風な言い回しの中にのみ残っていった。
c.命令形は江戸武家層の男性語として取り入れられる。→士族により〈書生ことば〉へ。


5.〈お嬢様語〉=〈てよ・だわ言葉〉は、明治の女学校創立により猛繁殖。

「礼儀知らずでけっこうだわ。異性としての男性なんて興味なくてよ」
『有閑倶楽部』一条ゆかり

 少女コミックのブームにより、一世を風靡した〈お嬢様語〉。こっけいなほどばか丁寧な敬語表現と語尾の「~てよ」「~だわ」の多用により、本書では〈てよだわ言葉〉と命名されました。この言葉、実は明治の見識ある人々には、品のない言葉として排斥された歴史があります。その成立を見てみましょう。

・尾崎紅葉によれば、〈てよだわ言葉〉は1879~1880年頃、まず小学校で聞かれるようになったという。その世代の成長とともに、高等女学校、年長の女性の間にも広まったとのこと。
・ちなみに、『女学雑誌』によれば、「か」を伴わない上昇調の疑問文も、この時始まったとか。
・〈てよだわ言葉〉伝播の中心は学校である。
・1882年、初の高等女学校設立。娘を女学校に通わせることが、当時のステイタスに。1885年、ステイタスの頂点として、華族女学校開校。”お嬢様”の誕生である。


6.怪しい外国人の代表、〈あるよ言葉〉の中国人。

「そこの女ここへこい。プリンスの相手するよろしい。おまえプリンスのお目にとまったあるぞ」『三つ目がとおる』手塚治虫

 カタカナでしゃべる白人、なぜか東北弁の黒人など、コミック・小説に登場する、怪しげな日本語を話す代表的な外国人が、文末に「あるよ」を必ずつける中国人です。まず、この〈あるよ言葉〉の特徴を見ましょう。

a.文末述語に直接「ある」または「あるよ」「あるか」等がつく。「あります」も。
b.文末述語動詞に、「よろし(い)」をつけて命令形に。
c.助詞「を」、または「が」がしばしば省略される。

 a.b.の文法は〈ピジン〉と呼ばれる言語の特徴を示します。ピジンとは、貿易港・居留地・植民地などに集まった異言語の話者が、コミュニケーションの必要から創作した混成的な言語。もとの言語の文法が、変形、崩壊、単純化されます。
 黒人には、東北地方の〈いなか言葉〉が割り当てられます。

「おらのはそんなケチなのでねぇ。おめえさんも気がついているべえが」
『黒い偉人』三浦楽堂

 次に、最古の〈あるよ言葉〉辞典をご紹介。
1879年”Exercises in the Yokohama Dialect”Bishop of Homoco.
当時の横浜居留地で話されていたピジンを集めた語学のテキストです。以下、本文の抜粋。

○No,You had better send it up to the Grand Hotel.
 いいえ。グランドホテルに送ったほうがいいですよ。
●Knee jew ban Hotel maro maro your-a-shee.
二十番ホテル マロマロ(不明) ヨロシイ。

○I should like to borrow 500 Yen from you if you have them.
 もしお持ちなら、500円貸していただけませんか。
●Anatta go-hakku lio aloo nallaba watark-koo lack’shee high shacko dekkeloo allooka.
アナタ ゴヒャクリョー アルナラバ ワタクラクシ(私) ハイシャク デキルアルカ。

 そもそも〈あるよ言葉〉の生まれた背景は、日本人にとっての、歴史的な中国権威の失墜が考えられます。

a.古代から近世まで、中国は政治・文化・軍事等あらゆる面でアジアの大国として君臨。日本人は崇敬の念をもって、これをみていた。
b.1840年、アヘン戦争での中国の敗退により、日本人の中国観は大きく変化。
c.1894年日清戦争に勝利。日中の国際的な力関係が逆転。中国・朝鮮半島・台湾へ帝国主義的侵略が勢いづいた。結果、日本人の間で中国をはじめアジア蔑視の風潮が高まった。


7.『役割語の謎』キラ星の引用出典群。

 本書には、以下のような戦前~現在の代表的コミック・文芸作品が出典として引用されています。

1.〈博士語〉〈老人語〉
「鉄腕アトム」「名探偵コナン」「ちびまる子ちゃん」「YAWARA」「羊男のクリスマス」「幽霊男」「人造人間博士」「猿飛佐助」「東海道四谷怪談」「スターウォーズ/帝国の逆襲」「ハリーポッターと賢者の石」

3.標準語=〈ヒーロー語〉
「夕鶴」「浮世風呂」「パーマン」「東海道中膝栗毛」

4.〈書生ことば〉〈少年語〉
「怪人二十面相」「当世書生気質」「我輩は猫である」「源氏物語」「たけくらべ」「美味しんぼ」「巨人の星」「あしたのジョー」「三つ目がとおる」

5.〈お嬢様語〉〈てよ・だわ言葉〉
「エースをねらえ!」「三四郎」「浮雲」「不如帰」「人間失格」「有閑倶楽部」「新・白鳥麗子でございます!」「ベルサイユのばら」

6.〈あるよ言葉〉
「Dr.スランプ」「ロボット三等兵」「風と共に去りぬ」「のらくろ上等兵」


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2009年12月 6日 (日)

寺子屋Bクラス「風姿花伝」講読会のご案内

寺子屋素読ノ会では、Bクラスにて世阿弥「風姿花伝」(毎月第一月曜 19:30-21:00)を講読しています。
今回はその講座内容を過去のテキストよりご案内いたします。


■世阿弥とは

室町時代の能楽の大成者。実名、観世三郎元清(一三六三~一四四三)。幼名、鬼夜叉、または藤若。中年以降の芸名を世阿弥陀仏と称した。
 申楽に音曲・作曲面で改革を行い、今日の能の基礎を確立した観阿弥の一子で、二代目観世太夫を継承する。

 父観阿弥より能役者としての英才教育を、パトロンである将軍足利義満、北朝公家二条良基等により庇護、寵愛を受け高度な上流教育を享受する。稀代の美童にして歌舞の逸材でもあった世阿弥は、天賦の才に加えこれら宮廷文化を存分に吸収。民衆芸能申楽を美と幽玄を主とする総合舞台芸術、能へと昇華・大成させることとなる。

 自身、太夫として一座を率いる看板役者であったが、今日なお盛んに演能される数々の名作『高砂』『井筒』『西行桜』等の作者でもあり、本作『風姿花伝』をはじめとする二十一にも及ぶ能芸論書の著作者、理論家でもあった。演者・作者・理論家を一身に兼ね備え、世界芸術史的にも稀な天才と評され、六百年を経た今日においても代表作『風姿花伝』は、その普遍的価値により海外でも訳出され、多くの読者に親しまれている。

 世阿弥、観世家の系譜は、まず父、世阿弥をしのぐとまでいわれた天賦の歌舞の才に恵まれた長男の十郎元雅。そして次男の元能がいる。しかし、元雅は早世、元能は出家。世阿弥の芸と理論は、甥の三郎元重(音阿弥、三世観世太夫)と女婿、金春禅竹に受け継がれていった。特に禅竹は、世阿弥の歌舞と仏教的世界に一段の美的深化と理論をもたらし、「芭蕉」「定家」「小塩」「雨月」など、幽玄な能の名作を創作している。その孫の金春禅鳳も名手であり、今日の金春流の基礎を確立した。
 今日の宝生流(元大和猿楽外山座)の流祖、宝生太夫は、観阿弥の長兄。

■世阿弥(観世座)の系譜

※観世大夫系統図


■能の歴史

※奈良→平安→鎌倉→室町時代の芸能チャート

■能の各役・流儀一覧表

※シテ方・ワキ方・囃子方・狂言方の各流儀と人数

■風姿花伝とは

能の大成者、世阿弥が亡父観阿弥の遺訓を基に著した、日本最古の能楽理論書である。『花伝書』の名称でも知られる本書は、「花」と「幽玄」をキーワードに、日本人にとっての美を深く探求。体系立った理論、美しく含蓄のある言葉、彫琢された名文で構成される、世界にも稀な芸術家自身による汎芸術論として位置づけられよう。

 本書は一子相伝の秘伝書ゆえ、日本において明治を迎えるまで観世家・金春家に深く秘蔵され、一般の目に触れることはなかった。明治末年、吉田東伍博士『世阿弥十六部集』として発刊。ついで昭和二年岩波文庫版『花伝書』が上梓されるに及んで、広く一般読者の知るところとなった。
 全体は七編から成立する。第三編までが一四〇〇年(応永七年、著者三十八歳)、四・五編が一四〇二年、六・七編が一四一二年に、それぞれ成立。完成までに約二十年の歳月を要している。この間、増補・改訂がなされた可能性も高く、本書成立には複雑な過程が想定される。第一から第五までが本編、第六・第七は外伝とでもいうべき内容だ。各編の要約は下記。

●各篇の要約


申楽の歴史を簡潔に述べ、この道を行こうとする
者へ守るべき芸の本流を示す。本編ヘの巻頭言として好色・大酒・博打への戒めを掲げる。

第一 年来稽古條々
申楽者の生涯を各年代別に分け、修行と工夫の方法を説く。たとえば幼、少年期の「時分の花」、青年期の「初心の花」。いずれもまことの花とはいえない。一時の名声に惑わされることなくまことの花を会得することこそこの道の奥義であるとする。まことの花を得た、ただひとりの例として観阿弥の老い木に残る花の舞台を引く。今日、教育論・コーチングの視点から見ても示唆に富む一編。

第二 物学條々
申楽芸の根本である物真似の技術を女、老人、直面、物狂など九つの題材別に俯瞰する。鬼の物真似は「上手く真似るほど面白くなくなる」という秘事。また無上の大事「老人の舞い姿」など、深い人間観察と舞台経験に基づき物学(ものまねび)の本質に触れる。

第三 問答條々
演能に際しての具体的、実践的演出方法および、能に花を咲かせるための工夫と秘訣を間答体で説く。
「開演前の客席を見るだけで、その日の能の出来・不出来を占う方法」「序破急とは」「立会い勝負を制するには」「なぜ下手は、下手なのか」「能の位とは」「花とは何か」。問答のひとつひとつに知ることと会得することの根本的な違いが鮮やかに描き出されている。

第四 神儀に云わく
元来、別書であった申楽起源伝承が後に『風姿花伝』第四として位置づけられた。申楽者に芸の正統性に対する誇りと家芸を重んじる精神の自覚を促すために書かれた一編。

第五 奥儀に讃歎して云わく
「その風(伝統)を得て、心より心に伝えていく花」として『風姿花伝』書名の由来を述べる。大和申楽と近江申楽、申楽と田楽の芸風の違いを説きながら、芸の築き方や舞台に立つ心構えを示す。また芸能は「諸人の心を和ませ、感動を与える幸福の根本」であると明確に定義づけ、欲得を萌しこの道を廃れさせることのないよう強く戒める。

第六 花修に云わく
花を究め、能の本道を知る手立てを表す。具体的には、まず作能の手引きとして名作の条件を示す。「音曲・働き一心の口伝」「強い・幽玄、弱い・荒いの違い」「釣合うということ」などの例を引きつつ、次第に「能を知る」ということへ導いていく。

第七別紙口伝
九項にわたる口伝を世阿弥独自の名文句で綴る。「年々去来の花(初心忘るべからず)」、「秘すれば花」「老い木に花の咲くごとく」。
能の永遠のテーマである「花」のイメージをあらゆる角度から見つめ、本質に迫ろうとしたものである。一子相伝とし、「継ぐもの、守るものを知る」者にのみこの書が伝えられることを記して『風姿花伝』は結ばれる。


■風姿花伝の名言

●音曲においての曲、
舞においての品・風情は上手だけのもの。

●物真似には似せないという位がある。

●年々去来の花。

●初心忘るべからず。

●秘すれば花なり。

―『風姿花伝』第七別紙口伝より


■[クイズ]
『風姿花伝』の中でもっとも有名な、以下二つの名言。この言葉の正しい意味を下の二つから選んでみてください。


「秘すれば花なり」の正しい意味は…

①本当に重要なものは、他人から隠しておかなければならない。
②他人に隠しているものは、本当は大したものではない。

 答え〔  〕


「初心忘るべからず」の正しい意味は…
①初志貫徹すべきである。
②初心のころの未熟な考えやわざをいつまでも捨てない。

 答え〔  〕

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2009年12月 5日 (土)

戦国武将の茶の湯三昧

 茶の湯の根本精神を言い表す言葉に、「一期一会」と「和敬清寂」があります。なにゆえ戦国期に信長、秀吉をはじめ多くの武将があれほど茶の湯に没頭したのかは、いまだに中世日本文化史上、とりどりに詮索されるところ。信長が手柄へ城の代わりにとびきり高価な唐物茶器を与えはじめ、武将はこぞって茶道具蒐めに目の色を変えたため。禅と強く結びついた侘び茶の精神が、戦国武将の生き方に合致したため。狭い茶室で、武将同士が誰にも知られず密約を交わすため…。

 様々な論説がある中、戦国期の茶の湯成立について「茶の湯が媒介する結縁性」を指摘するある論考が目を引きます。婚礼などの場で古くから日本民族の慣習として”茶礼”が盟約として行われてきたという。戦国期、それまでの将軍家や貴族など既成の権力構造が瓦解し、また親子が争い、兄弟が領土を奪い合う下克上の時代となる。この時代、信じられるものはただ己の力のみ。そして昨日の敵とも胸襟を開いて新たな”縁を結ぶ”こと。それが戦国武将にとって明日を生き抜く唯一の手段。その”縁を結ぶ”場として、城の大広間でもなく、酒宴の幕内でもなく、小間の茶室が選ばれた、とする説です。身に寸鉄を帯びず、膝と膝が触れる距離で、関白も平侍も商人も、一個人として茶を点て互いにすすめ、本音で語り合う。時に密約もささやかれたかもしれませんが、こうした裸の人間同士の会話が、ほとんどの茶席を占めていたに違いない。そしてその場の不文律が「一期一会」と「和敬清寂」なのです。今日も戦、明日も戦。相手の顔を見るのもこれが最後かも知れぬ。そのかけがえのない貴重なひととき、一期を主客は互いに尊び、惜しんだのです。

 茶の湯の「一期一会」「和敬清寂」をよく伝える暖かい逸話をひとつ、ご紹介したい。まずは原文からご賞味ください。


『久重日記 坤』寛永十七年卯月十七日

 古田織部は桑山左近と久々仲悪しく候也。
ある時忠興公、織部所へお出で候時、相客は谷の出羽也。春田又左衛門も召し連れらる。しかれば桑山左近に同道するぞと云ふ。左近答えていはく、われら仲よろしからず候。参り候事ならず、とて一切合点せざるを無理に、ぜひ嫌なれども同道申すべく候と云へば、左近いはく、その儀ならば織部方へ其由仰せ遣わさるべく下され候と云ふ。三斎公、それに及ばずとて、同道にてお出で候へば、織部も左近殿と云ひ、左近も忝し、と云ひし也。
 この時風炉下に殊のほか手間入る。余りなる事ゆえ、三斎公、さてさて手間入り候ことかな、大方にて置き候へ、と云へば、織部答へていはく、何とも何とも御前にて仕り兼ね候と云ふ。炭仕廻候時寄りて見れば、織部は勝手へ入り障子を立て引き入り候也。炭さても見事、風炉の内斯様にも成る事候かな、是でも難あるやと、左近へ三斎公云へぱ、左近答へていはく、さてもさても見事成ることかな、驚目候。織部殿数奇上がり殊のほか見事になり申し候と云へば、障子の内にて織部くつくつとふき出し笑ひ候也。左近も笑ひ、我等も笑ひ候也。皆々大笑と御物語候也。

・現代語訳(能文社 2009)

 寛永十七年四月十七日のこと。古田織部は桑山左近とは長年犬猿の仲であった。ある時忠興公が、織部邸へ茶に参る。相客の谷出羽守に加え、春田又左衛門も召し連れた。そこで桑山左近へ、
「そなたも同道されよ」
 と誘う。左近は答える。
「織部殿とはしっくりいかぬ。ご同道はいたしかねる」
 と、なかなか同意せぬゆえ、忠興公は無理強いして、
「気が進まぬもわからぬではないが、たって一緒に参ろうではないか」
 といえば、左近もいう。
「その儀ならば、それがしも同道の由、前もって織部殿にお知らせ願いたい」
 三斎(忠興)公、「それには及ばず」と左近を無理に連れて参ったものだ。ところが着いてみれば、織部は「よういらっしゃった左近殿」というし、左近も「お迎えかたじけなし」、などと互いに平気な顔。
 さてこの時、織部は風炉灰にことの他手間取っていた。あまりに時間がかかり過ぎるので三斎公は、
「さてもさても手間のかかることよ。大方に置かれたならばよかろう」
 といった。織部の答えは、
「何としてもこのたびはご両人のご前ゆえ、難しゅうござって」
 というばかり。さて、炭を仕廻うに際し客衆が寄って拝見しようとすると、織部は勝手へ入り、障子を閉てた。三斎公は、
「さても見事な炭。風炉の内、このようにも作れるものかな。これでも難ありといえようか」
 と、左近へ振り返ると、
「さてもさても見事なることかな。まったく驚き申した。織部殿の数奇一段と上がり、ことの他立派な宗匠となられたものよ」
 と左近が答えると、障子の内で織部は、くつくつとふき出し、笑いはじめる。左近もつられて笑い、私も笑い、ついに全員大笑いしたものだ、とお話なさったという。


 まず、登場人物の説明。語り手の松屋久重は、戦国~江戸初期の重要な茶書『松屋会記』の編纂者。奈良の塗師、松屋当主。古田織部は、織部焼で高名な千利休、第一の弟子。利休亡き後、天下の宗匠として徳川将軍家の茶頭を任ずる。細川忠興、桑山左近は、ともに戦国武将であり、千利休門高弟です。相客の谷出羽守は、信長・秀吉に仕えた戦国期古兵者、丹波国山家藩初代藩主。春田又左衛門は細川家家臣です。

 織部、忠興、左近はともに利休の高弟。あらゆる芸道でよく知られているように、偉大な師のもとにある、高弟の間はとかく不和となりがちなもの。冒頭にあるように、とくに織部、左近の間はぎくしゃくとしていたようです。ある日、織部の茶会に忠興が招かれる。相客として、谷出羽守、松屋久重、春田又左衛門。そして亭主とは犬猿の仲と知りつつも、桑山左近にも声をかけた。しぶる左近を強引に引き連れていく忠興。この辺、なにやら忠興の意図が感じられます。しかし邸に着くと両者はなんのこだわりなく対応しているではないか。そして織部の丹精込めた炭点前に、左近は思わず「なんと見事な」と、日ごろの感情も忘れて絶賛。障子の陰から伺っていた織部は、その様子に思わず「くっくっくっ」としのび笑いをもらす。つられて一同も笑い、呵呵大笑。めでたく一期一会、一座建立なった、なんとも身内がぽかぽかとするよい茶話です。
 日頃はとかく、社中の席次をあらそいぎくしゃくする間柄であっても、こと数奇に関してはついに相手の存在も立場も忘れて、のめりこんでしまう。禅に”両忘”ということばがあります。好悪・善悪・美醜・真偽など俗世の二項対立を忘れ、ついには自他の境も忘れて、何もない澄み切ったすがすがしい悟境に達すること。宋代の儒者、程明道も「内外両忘するに惹かず。両忘すれば則ち澄然無事なり」といいます。内外両忘、皆々大笑し、この日主客はみな本物の「茶」になったのです。

【言の葉庵】より
http://nobunsha.jp/

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2009年12月 4日 (金)

寺子屋Aクラス「葉隠」講読会のご案内

現在寺子屋素読ノ会では、Aクラスにて「葉隠」(毎月第一月曜 17:30-19:00)を講読しています。
今回はその講座内容を過去のテキストよりご案内いたします。


■テーマ:葉隠の"死"とは何か

●葉隠にみる「死」のキーワード

・死ぬことと見つけたり
・只今の一念
・死に狂い
・死兵
・生死截断
・生死を離れる
・追腹


●古来の死の表現

「天子の死を崩と曰ひ、諸侯は薨と曰ひ、大夫は卒と曰ひ、士は不禄と曰ひ、庶人は死と曰ふ」『礼記』曲礼篇より

●死の名言 

・死とは、モーツァルトを聴けなくなることだ。(アルフレート・アインシュタイン。アインシュタインの従弟で音楽学者)
・武士道というは、死ぬことと見付けたり(葉隠)
・死に至る病とは、絶望のことである。
    (キエルケゴール)
・人は死ぬ。だが死は敗北ではない。
    (ヘミングウェイ)
・死は人生の終末ではない 生涯の完成である
  (マルティン・ルター)
・未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん  (論語)

●辞世の句

・山崎宗鑑(一五五三没 享年八十九)
「宗鑑はいづこへと人の問うならば
ちとようありてあの世へといえ」

・千利休(一五九一没 享年六十九)
「人世七十 力圍希咄(カーッ、トーッ)吾這宝剣 祖仏と共に殺す 堤ぐる我が得具足の一つ太刀 今この時ぞ天に抛」

・松尾芭蕉(一六九四没 享年五十)
「旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる」

・安藤広重(一八五八没 享年六十一)
「東路に筆を残して旅の空
西のみくにの名所を見む」

・乞食女(一六七二没 享年不明)
「ながらえばありつる程の浮世ぞと
思えば残る言の葉もなし」
「言の葉は長し短し身のほどを
思えば濡るる袖の白妙」
    (返歌 新著聞集)

・庶民の娘(年代不明 享年二十八)
(題:湯灌いや)「おのづから心の水の清ければ  いづれの水に身をや清めん」
(題:経かたびらいや)「生まれ来て身には一重も着ざりけり 浮世の垢をぬぎて帰れば」
(題:引導いや)「死ぬる身の教えなきとも
迷うまじ 元来し道をすぐに帰れば」

・一休(一四八一没 享年八十八)
「須弥南畔(この世界)誰か我禅に会う。
虚堂来る也。半銭に値せず」

・関山国師(一三六〇没)
「断じて仏祖を截る 吹毛常に磨す
機輪転ずる処 虚空牙を噛む」

・柴田勝家(一五八三没 享年六十一)
「夏の夜の夢路はかなき跡の名を
雲居にあげよ山郭公」
・お市の方(享年三十七)
「さらぬだに打ちぬる程も夏の夜の
夢路をさそう郭公かな」

●辞世の句

・豊臣秀吉(一五九八没 享年六十三)
「露と落ち露と消えにし我身かな 
難波の事も夢のまた夢」

・徳川家康(一六一六没 享年七十五)
「嬉しやと二度さめて一眠り
うき世の夢は暁の空」

・浅野内匠守(長矩) (一七〇一没 享年三十五)
「風さそう花よりも猶我はまた
春の名残りをいかにとかせん

・大石内蔵助(良雄) (一七〇三没 享年四十四)
「あら楽し思いは晴るる身は捨る
浮世の外にかかる雲なし」


●葉隠 聞書一 二 武士道というは、死ぬことと見つけたり。

 武士道とは、死ぬことと見つけたり。生死分かれ目の場に臨んで、さっさと死ぬ方につくばかりのこと。特に仔細などない。胸すわって進むのだ。うまく行かねば犬死、などとは上方風の打ち上がった武道のこと。生か死かの場面で、うまく行くかどうかなどわかるわけもない。人皆生きる方が好きである。されば、好きな方に理屈をつける。もしうまくいかずに生き残ってしまえば腰抜けだ。この境目が危うい。うまく行かずに死んでしまえば犬死で気違いである。しかれども、恥にはならぬ。これを武道の大丈夫という。毎朝毎夕くり返し何度も死んでみて、常時死に身となって居れば、武道に自由を得、一生落度なく家職も仕果たせるものである。

聞書一 一一四 武士道に於ては死狂ひなり。


一一四 「武士道とは死に狂いすることである。たとえ数十人でかかっても一人の死に狂いする者は殺せないものだ」
と直茂公はいった。正気にて大業はならず。気違いとなって、死に狂いするまでだ。また武道を嗜み分別ができれば、すなわち遅れを取ることとなる。忠も孝もいらぬ。武士道においては死に狂いなり。この内に、忠孝はおのずから籠もるものである。


聞書二 一七 只今の一念より外はこれなく候。

一七 ただ今、この一瞬の一念というもの以外には何もない。この一念一念を積み重ねて行くことが、一生だ。この境地に達すれば、人に振り回されることもなく、求めることもなくなる。ただ、この一念を守って暮らしてゆくだけのこと。人皆、ここを取り失っている。外に何かあるはずと思い込み、捜し求めている。しかし、そこに何かが見つかる人はない。この念を守り固めて、抜け落ちないようにするには、功を積まねばならぬ。しかし、いったん辿り着けば、普段意識しなくとも、もはや別物になることはない。究極はこの一念にあり、ということをよくよく得心できれば、煩雑なことはほとんどなくなる。この一念に忠節は備わる。

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