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2009年5月23日 (土)

風狂のバケモノ、寒山拾得

以前、【日本文化のキーワード】第二回 風狂では、一休宗純を取り上げました。今回「風狂」の補遺として、中国の風狂隠者、寒山・拾得伝説をご紹介しましょう。

寒山は、中国唐代(7世紀頃)、浙江省天台山に住んだ、修行者・詩人であると言い伝えられます。その友人である、拾得とともに、奇怪な風貌、常人離れした言動、奇瑞などにより、後世神聖化され多くの伝説・詩文・絵画を作り出してきました。特に絵画の分野ではニタリと不気味に笑う、寒山拾得のアルカイックスマイルが、岸田劉生「麗子像」のモデルとなったことは有名です(後述)。

寒山は詩人でもあります。その作品集『寒山子詩集』により、伝説に覆われ隠された、実像に迫ることができます。が、なによりも二人の事跡は『寒山子詩集』の序文(詩を編纂したとされる、閭丘胤(りょきゅういん)著)に詳しくみられ、後の伝承・伝説・図画のオリジナルソースとして位置づけられています。まずは、その原話を読むことからはじめましょう。

『寒山子詩集』序

朝議大夫 使持節台州諸軍事 守刺史 上柱国 賜緋魚袋 閭丘胤(りょきゅういん) 撰す

寒山とは一体、どこの何者やら。くわしくは誰も知りはしない。古老がその姿をまず見かけたらしい。以来、人々は貧乏だが風狂の士である、といっている。天台の唐興県、西へ七十里のところに寒厳と呼ばれる地があった。寒山は普段ここに住んでいるのだが、時折国清寺へとやってくる。寺でまかない役を務める拾得という者は、いつも残飯や野菜くずを竹筒に貯えておき、寒山が来るとそれを持たせ、背負わせてやった。

寒山、ある時には廊下を悠々と歩みながら、叫んだり喚いたりし、独り言をいい、また独りで笑ったりしていた。寺僧が追いかけて罵り、打ちすえては、追い払おうとすると、立ちはだかって手を打ち鳴らす。そして呵呵大笑し、ようやく立ち去るという日々であった。外見は乞食そのもの。痩せ衰えてはいるが、その一言一句が悉く道理にかなっているのだ。よく考えてみると、その心には道心が深く隠されている。その言葉には、玄妙なる奥義がはっきりと示されていた。樺の皮の冠をかぶり、ぼろぼろの衣服を着、大きな木沓で歩く。これは道に達した悟人が、真の姿を隠し人々を教化していたものと見える。

ある時には、長廊下で歌をうたいながら、ひたすら

「おうおう。世は三界輪廻なり」

という。またある時には村里に行き、牛飼いの童と共に、歌い笑い、喧嘩したりじゃれあったりして、本性そのままに楽しんでいる。哲理を極めた者でなければ、いかにその真意をはかり知ることができようか。

さてこの物語の語り手、閭丘は天台の丹丘(台州)の官吏となって赴任する途上、頭痛に悩まされていた。易者や医師に治療させたが、悪くなるばかりである。そこへ豊干(ぶかん)という禅師(実は寒山拾得の師である)が、天台の国清寺から訪ねてきた。これへ治療を頼んだところ、禅師は莞爾と笑う。

「人の身体は四大元素が仮に和合してできておる。この調和を欠くと人は病気になる。病を除くには浄水が必要です」

といった。さっそく浄水を持ってこさせて、師に渡す。師がその浄水を吹きかけると、不思議なことに頭痛はかき消すように癒えてしまった。師は閭丘にいった。

「台州というところは海島で、嵐毒がたちこめておる。健康にはくれぐれも気をつけられるよう」

「わたくしが台州で、師と仰ぐに足る賢者がおられましょうか」

「見ようと思えばわからなくなり、わからなくなったと思うと見えるようになる。ゆえに、ものを見ようと思えば、まずその姿かたちを見てはなるまい。心の目で見るのだよ。寒山は文殊菩薩で、国清寺に隠れている。拾得は普賢菩薩。二人の様子は乞食のようであり、また風狂のようでもある。寺へ出入りしているが、国清寺の庫裡の厨では、使い走りをし、竈たきをしている」

と言い終わり、豊干は立ち去った。

閭丘は任地台州に赴いたが、豊干禅師の教えに従い、着任三日後に国清寺へ行く。寺僧に尋ねたところ、まさに師のいう通りであった。唐興県の役人に命じて、寒山と拾得の所在を調べさせたところ、県からは

「県境より西七十里の所に厳があります。その厳に貧者が住み、たびたび国清寺に行っては庫裡で止宿している、と古老の話です。また庫裡には、拾得という名の行者がおります」

という報告があがる。

これは礼拝せずばなるまい、と国清寺に着き、寺僧に

「当寺に豊干禅師が居たと聞くが、その住院は何処か。そして拾得と寒山は今どこに居るのか」

と尋ねた。僧の道翹(どうぎょう)が応対し、

「豊干禅師の院は経蔵の後にございます。が、今は誰も住んでいません。時折一頭の虎がそこに現れて吼えるだけです。寒山と拾得の二人は現在厨におります」

と教えてくれた。閭丘は僧の案内により、豊干禅師の院に行って部屋を開けて見た。が、そこには虎の足跡が残るだけであった。道翹に尋ねる。

「禅師はここでは何をしていたか」

「豊干はここに居た頃は、米をついて大衆に供養しておりまして、夜には歌をうたったり独りで楽しくやっておったようです」

と答えた。次に厨へ行くと、竈の前で二人の者が火にあたって大笑している。閭丘が進み出て礼拝すると、二人は声を合わせ閭丘を大喝し、また互いに手を取り合って呵呵大笑した。

「豊干のおしゃべりめ。阿弥陀にさえわからぬに、われらを礼拝して何になる」

とわめきたてた。僧共は驚いて駆け集まり

「郡の代官が、かような乞食どもに、なにゆえ礼拝などなされるのか」

と大いに不審がった。その隙に寒山と拾得は手を取り合って、寺から出て行ってしまった。後を追わせたが、いっさんに逃げ走る。そしてついに寒厳に帰ってしまったので、閭丘は

「あのお二方は国清寺に戻るであろうか」

と尋ねた。そして部屋を用意し、寺に呼び返して住まわせようとしたのである。

閭丘はひとまず郡の役所に引き上げ、浄衣二揃えと香や薬などを調え、特に供養として送り届けたが、あれ以来二人は寺に帰ってこぬという。そこで、使者を立て寒厳へと供物を持って行かせたところ、ようやく寒山に会えた。閭丘らを見ると寒山はあらん限りの声で

「賊め。賊め」

と叫んで、厳の穴にもぐりこむ。

「汝らみなに言い置く。各々存分に努むべし」

という声とともに姿が見えなくなった。穴は自然に閉じ合わさってしまい、もはや追うすべもない。拾得の所在は、杳として知れぬ。

後日、道翹に寒山の跡を調べさせたところ、竹・木・石・壁などに詩を書きつけ、また村の人家の壁の上にも詩文を書き散らしていた。これら合わせて三百余首。加えて拾得が土地堂の壁の上に書いた偈文などもあったので、取り集めてこの一巻と為した。仏の教えに深く心を寄せれば、幸い達道の人ともめぐり合えるのであろうか。

・閭丘胤 唐の官制である厳しい肩書きをもっているが、この人物の名は諸文献に確認できない。

・天台 天台山。浙江省台州(丹丘)府天台県にある名山。陳、太建七年(575)智顗が天台宗を開いてより、天台宗の根本道場となる。

・国清寺 天台山にある名刹で、もと天台寺と称し、のち景徳国清寺と改称し天台山と号す。わが国の最澄、円珍、栄西などもこの地で修学した。

・三界輪廻 車輪が回転し留まることがないように、衆生が三界(欲界・色界・無色界)、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)に迷いの生死を重ねて止まることのない様。

・四大元素 仏教において、事物はすべて四大(地・水・火・風)が仮に和合したもので、実体のないものとする説。

・僧道翹 李邕(750没)が撰した「国清寺碑」に、寺主としてその名が見えるが詳らかではない。

『寒山詩集 序』 水野聡訳 能文社2009

■深い禅味をたたえる、寒山拾得文化

 上の『寒山子詩集』は、拾得、豊干の詩も併載するた    め『三隠詩集』とも呼ばれます。その他、伝説・異聞を記録したものに『宋高僧伝』『景徳伝燈録』『仏祖統記』『天台山国清禅寺三隠集記』などが挙げられ、寒山詩集には見られない、豊干や拾得のエピソードが詳しく語られているものもあります。

 中国はもとより、日本においても寒山拾得の風狂にして奇怪、禅味あふれる風貌は、多くの画家の創作意欲を刺激してきました。著名な禅画「十牛図」とならんで、寒山拾得を描いた作品はすこぶる多く、しかもきわめつけの名画が多い。

●中国の画家

梁楷(MOA美術館蔵)、伝・顔輝(東京国立博物館蔵)、因陀羅(東京国立博物館蔵)など

●日本の画家

雪舟(立本寺、元善光寺蔵)、長谷川等伯、可翁(相国寺竜光院蔵)、伝・周文(東京国立博物館蔵)、明兆(東福寺蔵)、霊彩(MIHO MUSEUM蔵)、曾我蕭白(興聖寺蔵)、松谿(徳川美術館蔵)、長沢蘆雪(鳥取県立博物館蔵)、海北友松(妙心寺蔵)、狩野山雪(真正極楽寺蔵)、池大雅(京都国立博物館蔵)、富岡鉄斎(武者小路実篤記念館蔵)など

→各画像はこちら

上の画では、寒山拾得ともに、有髪の居士として描かれており、経典をもつ寒山は、智慧を司る文殊菩薩、箒をもつ拾得は慈悲(行)を司る普賢菩薩になぞらえられ、造型されています。

 岸田劉生 麗子画「野童女」(1922)は、顔輝の寒山拾得図をモデルとしたもの。この人間離れした「笑い」は、たとえば能面「猩々」などのように、悟りを得た者=人間界を超越した者の霊的風景を描いたものかもしれません。

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 また、わが国文芸では、文豪がこぞって寒山拾得に取材しています。小説『寒山拾得』森鴎外舞踊劇『寒山拾得』坪内逍遥、エッセイ『寒山拾得』芥川龍之介詩『寒山拾得』良寛などが代表的なところです。

 中でも鴎外の小説は、『寒山詩集序』の文脈中、詰めどころを大胆に省略・組み替えることにより、一層深遠な仏理を醸す一文となっており、「禅小説」を開眼した野心作といえましょう。

■寒山は富裕な家柄出身、科挙に落第した農民

「詩集序」にあるように、寒山を文殊菩薩、拾得を普賢菩薩、豊干禅師を釈迦如来と見立て、それぞれ三尊の示現として、中国では「三隠」または「三聖」と呼び、崇敬しています。『寒山詩集』は唐代以来、風格の高い隠士の詩として広く愛読され、とくに禅僧の間では詩文に禅の悟境を味わい、あまつさえ公案としてその語を修行に用いる者も少なくなかったといわれます。詩集より、深い仏理と悟境を表わす二篇を紹介しましょう。

四時止息することなく 年去ってまた年来る

万物は代謝することあるも 九天は朽漼(きゅうさい)すること無し

東明けてまた西暗く 花落ちて復た花開く

ただ黄泉の客のみあって 冥冥として去って廻らず

(鑑賞)

四季は常にめぐりひと時も休むことなく、年は飛ぶように去ってはまた来る。

このように万物は移り変わるが、天道には果ても終わりもない。

東の空が明けたかと思うと、西の空から暮れて行き、花は落ち、また咲く。

ただ冥土への旅人ばかりが、暗闇へと旅立って行き二度と戻らないのだ。

荘子は送終を説いて 天地を棺槨(かんかく)と為せり

吾の帰ること此に時あり 唯だ一番の箔を須(もち)うるのみ

死して将に青蝿を餧(か)わんとす 弔うに白鶴を労らわしめず

首陽山に餓えて著(あ)らば 生きては廉(きよ)く死するも亦た楽し

(鑑賞)

荘子はおのれの臨終に際して、天地を棺おけとするゆえ何も要らぬといった。

おのれの死なねばならぬ時が来たなら、ただ死骸を包む一枚のすのこがあればそれで十分、と。

死ねば蝿の餌になるがよかろう、立派な弔問などまったく不要である。

昔の伯夷・叔斉が義を守って首陽山で飢え死にした覚悟があれば、生きては清く、死ぬこともまた楽しみなもの。

(読み下し文)『座右 寒山拾得』久須本文雄 講談社 1995

(鑑賞) 能文社2009

 さて寒山は、『宋高僧伝』『仙伝拾遺』『古尊宿語録』『天台山国清禅寺三隠集記』等、唐代の文献において複数の証言により、その実在は肯定されています。無字の公案で著名な趙州禅師が寒山と問答を交わしたという記録も複数の文献で確認できます。

 それでは、寒厳に隠棲する前の寒山は、一体それまでどこで何をしてきた人物なのでしょうか。

父母の続経多く 田園他を羨まず

婦は機を揺(うご)かして軋軋(あつあつ)たり 児は口を弄びてかかたり

手を拍ちて花の舞を催し 頤をささえて鳥の歌を聴く

誰か当に来たって歎賀するや 樵客しばしば経過す

(鑑賞)

父母の家産は多く、他人の田畑を羨むこともない

妻はかたこと機を織り 子はわあわあ騒いでいる

木の下で手を打っては花びらを落とし 口を大きく開けては鳥の鳴くまねをしている

さてこの暮らし、誰がめでたいなどと思うだろうか やがて皆死に絶えここも廃墟となって木こりが通るだけの土地となるというのに

小小より経を帯びて鋤き 本と兄と共に居(す)む

他の輩の責むるに遭うに縁(よ)り 剰(あま)つさえ自妻に疎んぜらる

紅塵の境を放絶し 常に遊んで書を閲するを好む

誰か能く斗水を借して 轍中の魚を活取せん

(鑑賞)

若い頃から畑仕事の合間に読書をしながら、兄といっしょに住んでいた

しかしある時ある者に非難を受け、わが妻にさえ疎んぜられるようになってしまった

そこで塵にまみれた俗世間と訣別し、放浪をしながら読書の世界に没頭している

車の轍の中でもわずかな水さえあれば魚は生きている 私にもわずかな支えを与えてくれる人はいないものか

書判全く弱(おと)れるに非ざるに 身の官を得ざることを嫌(うたご)う

銓曹(せんそう)に拗折せられ 垢を洗って瘡瘢(そうはん)をもとめらる

必ず也天命に関わるも 今年更に試み看よ

盲児雀の目を射るに 偶たま中るも亦た難きに非ず

(鑑賞)

書も文もはなはだ劣るとは思われぬに なぜ官位に就けないのであろうか

試験官に執拗に追究を受け、毛を吹いて瑕を求められるゆえだ

天命には背きえないが 今年こそ、とさらに試みるべきであろう

盲人が見事雀の目を射抜くように まぐれ当たりが起こらぬとはまだ決まったわけではない

(原文/鑑賞 上と同)

『寒山詩集』から、上のように隠棲前の寒山の実生活を読み取ることができます。寒山はもと裕福な農家の出身。若い頃は兄と共に田を耕したり、読書したりして過ごすが、やがて結婚して子をもうけ幸せな家庭を築きます。しかしある事件により、他人に非難され、あまつさえわが妻にも冷視されることに。いたたまれず、寒山は家を捨て、放浪の身となります。以降、苦難の道をたどりますが、家を出た真実の理由は、科挙に合格し、文官をめざすという夢を実現するためでした。読書や詩作に打ち込んだ、若い頃の情熱を実社会で花開かせようとしたのです。

 しかし科挙には合格できず、志もついえてしまう。やがて失望して寒厳に隠棲するのです。この詩情豊かな山林の地は、求道と詩作にもっともふさわしい理想郷でした。ここで修行するうちに、禅仏教に傾倒していき、それまで興味をもっていた道教の思想を捨て、詩禅一味の深い境地に没頭していくこととなる。ついには、悟道の隠士と呼ばれるようになるのです。

 超俗的に風狂の人生を貫徹した千数百年前の乞食隠者を、今なお多くの仏弟子が拝礼し、多くの文人・画人がその跡を慕っています。深く詩境に遊び、禅境にわたれば、俗人・凡愚の魂も、寒山拾得のごとき自由無碍な悟道に導かれるのでしょうか。その秘密を探ろうとして、この物語は今後も読み継がれていくに違いありません。

吾が心秋月に似たり 碧潭清くして皎潔たり

物の比倫に堪うる無し 我れをして如何ぞ説かしめん

(鑑賞)

わたしの心は秋の月。冴え冴えとした光は、深緑の深淵を水底までくまなく照らし尽くす。

この澄み切った境地をたとえるものは何もない。それを説明する言葉も私は持たない。 

(原文/鑑賞 上と同)

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2009年5月 9日 (土)

言ひおほせて何かある。

松尾芭蕉の言葉。『去来抄』(向井去来)

〔原文〕

 つたの葉── 尾張の句。

 この発句は忘れたり。つたの葉の、谷風に一すぢ峰まで裏吹きかへさるるといふ句なるよし。予、先師にこの句を語る。先師曰く、

「発句はかくの如く、くまぐままで言ひつくす物にあらず」

となり。

 支考、傍に聞きて大いに感驚し、

「初めて発句といふ物をしり侍る」

と、この此物語あり。予はその時もなほざりに聞きなしけるにや、あとかたもなくうち忘れ侍る。いと本意なし。

下臥(したぶし)につかみ分けばやいとざくら

 先師路上にて語りて曰く、

「この頃、其角が集にこの句あり。いかに思ひてか入集しけん」。

 去来曰く、

「いと桜の十分に咲きたる形容、よく言ひおほせたるに侍らずや」。

 先師曰く、

「言ひおほせて何かある」。

 ここにおいて肝に銘ずる事あり。初めて発句に成るべき事と、成るまじき事を知れり。

『去来抄』(向井去来)

〔解説〕

 其角の句集に入集した〈下臥につかみ分けばやいとざくら〉。この句について去来が、

「糸桜が華やかに咲き誇ったさまを言い尽くしたもの」

 と評したところ、芭蕉は、

「言ひおほせて何かある」

(ものごと言い尽くしてしまえば、後に何が残ろうか)

 と、発句の要諦を指し示しました。『蕉門俳諧語録』でも、

「句は七八分にいひつめてはけやけし(くどい)。五六分の句はいつまでも聞きあかず」

 と、芭蕉は教えます。

 古来日本人は、余情を大切にしました。とりわけ言語、文芸においては。それゆえ明白すぎる説明はせず、行間を読むことが読み手に求められてきたのです。

 余情は、何も書かれていない余白から生起する。本来提示されるべき情報が欠落している、この空白や間をとりわけ重んじるのが日本文化です。たとえば古く、壬生忠岑が提唱した、和歌体十体のひとつに〈余情体〉があります。

 我が宿の花見がてらに来る人は 散りなむ後ぞこひしかるべき

 歌意は「花盛りの頃我が家をたずねてくれた人があった。今桜はすっかり散ってしまったが、なぜかその人のことをことさら恋しく思われる」というもの。言葉に思いの一端を暗示することで、かえってあらゆる意味をこめることができる。今目の前から消えうせてしまった対象に、延々とまとわりつくような愛着、余韻嫋々とした悲哀感が、忠岑の説く〈余情体〉です。紀貫之が古今集仮名序で在原業平を、

「その心あまりて詞たらず。しぼめる花の色なくて匂残れるがごとし」

 と評したこころと同じでしょうか。

 余情の美・余白の妙は、文芸だけにとどまらず他の芸道分野でも重要とされてきました。世阿弥は、能において最上の芸位を〈花〉という概念で説明しようとしましたが、〈花〉よりもさらに上位の風体に〈萎れる〉を位置づけます。

 花を極めん事一大事なるに、その上とも申すべき事なれば、萎れたる風体返すがへす大事なり。さるほどにたとへにも申し難し。古歌に云はく、

 薄霧のまがきの花の朝じめり 秋は夕と誰か言ひけん

 また云はく、

 色見えで移ろふものは世の中の 人の心の花にぞありける

 かやうなる風体にてやあるべし。

(『風姿花伝』第三問答條々)

 萎れたる花の風情。これこそ業平の余情をすくい取ったもの。姿を白日にさらさぬ幽玄と、美の残像たる余情こそ、能の表現技法の根本ともいうべきものです。

 茶の湯においても〈余情〉は欠くべからざるもの。残火会、跡見会などでは、会の名残を惜しみ過ぎ去った時間の余韻を主客ともに共有するという。また聞香ではとりわけ〈余情〉が重んじられます。貴客を迎える時の空炷きとは、席にて直接香を聞かず、前もって、あるいは別室にて香をたき、馥郁たる余情を席の荘りとすること。また名香の場合、炷き終わった香殻の残り香を〈すがり〉と呼んでことのほか珍重します。その儚い生命の消えてしまわぬ内に香炉が遅滞なく末客から主客へと渡される。

 客香の聞きやう、香炉を請取て段々まはし、さてすがりを聞く時下座よりすぐにまはすべし。上客ききをさめふくさにて清め、香炉のせてかへす。

(『南方録』墨引)

 日本人はよく、五感で察知しえない気配や名残などを“匂い”と表現します。そこに実体はないけれど明らかに存在し、その解釈も評価も受け手によってまちまちで多義的なもの。芭蕉は句の余情をとりわけ重視しました。それゆえ、前句より立ち上る気配を受ける〈匂付〉が、蕉門付合の代名詞となったのではないでしょうか。「言ひおほせず」に生命を得た何かはまた、禅味豊かな蕉門俳諧において、教外別伝たる何かと言い換えることができるかもしれません。

 馬に寝て残夢月遠し茶の煙  (野ざらし紀行)

 蘭の香やてふの翅にたき物す ()

「附心は薄月夜に梅の匂へるが如くあるべし」(祖翁口訣)

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