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2009年2月 8日 (日)

日本人は、「畳に正座する」民族である。第一回

日本人とは、一体何か?遺伝子型に基づいた人類学上の定義よりも、単純に「日本語をしゃべる民族」とした方が、納得感が大きいのではないでしょうか。では、言葉以外の文化で見た時には、どうか。生活習慣が欧米化した今日、ほとんど消えかかっていますが、「着物」を着て、「畳」の上にきちんと「正座」するのが、伝統的なジャパニーズスタイルといえましょう。

 今回は「畳」と「正座」の、なぜ?何?いつから?に焦点を当て、日本人独特の思考と行動パターンの源を探っていきたい。「畳」と「正座」が消えつつある今なお、私たち日本人がなぜこうも日本的な発想・価値観を持ち続けるのか。
まず、畳の歴史からその秘密の一端を解き明かしていきましょう。

パラグラフ1【畳とは】

 日本の生活文化は、その多くが中国大陸もしくは半島から伝来したものです。しかし畳は、日本民族の生活の知恵から生まれた固有のもの。湿度が高く、天候の変化が大きい日本独自の風土で生まれ、育まれてきた、優れた「敷物」なのです。畳の歴史を奈良時代より、ざっとたどってみましょう。

・奈良時代(710年~)
 現存する最古の畳は奈良時代のもの。聖武天皇が愛用した「御床畳(ごしょうのたたみ)」がそれで、木製の台の上に置かれ寝具として使用されました。奈良東大寺の正倉院に保管されています。現在の畳とは異なり、真薦(まこも)で編んだゴザのようなものを5、6枚重ねて畳床とし、イグサの菰でおおって錦の縁でかがられている。この木製の台を2つ並べてベッドとして使った、といいます。
古事記にある「瓦畳」「皮畳」「絹畳」。あるいは万葉集に詠まれた「木綿畳」「置薦」などが、この時代の畳で、「御床畳」と同様、発生時の畳は今のゴザのようなものでは、と推測されています。

 あし原のしけき小屋にすが畳 いやさやしきて我二人ねじ
                        神武天皇御歌

・平安時代(794年~)
 平安時代に入り、貴族の邸宅が寝殿造となりました。これにしたがって、板の間に座具や寝具として要所要所に畳が敷かれるようになる。置き畳の上に、貴人や女房たちがくつろぐ様子は、この時代の絵巻物に見られるとおり。また畳は、地位や権力の象徴として住居に取り入れられたのです。

・鎌倉時代(1192年~)
 武家政権の確立により。貴人の住居が書院造へと移行していく。建築様式と生活空間の変化により、それまで客をもてなす座具であった畳は、部屋の周囲に敷き、真ん中だけを残す敷き方になる。そしてついに、部屋全体、床一面に敷きつめる、今日の畳のスタイルが完成されるのです。畳はこれにより、「敷物」から「床材」となりました。

・室町時代(1392年~)
 室町時代、将軍家により書院の一間を囲って、茶の湯がとり行われるようになりました。敷きつめられた畳の間での立ち居振る舞いは、茶道の礼法も相伴って「正座」の習慣化を促した、といわれているのです。(パラグラフ2参照)

・安土桃山時代(1573年~)
 茶道の興隆によって、茶室の様式を取り入れた数奇屋風書院造の建築がブームとなっていきます。茶室の炉の位置によって、畳の敷き方にも様々なヴァリエーションが生まれていく。茶の湯が町人にも親しまれるようになると、畳も町人宅に徐々に敷かれるようになっていきます。

・江戸時代(1603年~)
 将軍家・武家の屋敷に畳は必須の住宅設備となる。しかし一般庶民へと普及するには、江戸中期以降まで待たねばなりませんでした。農村部への普及は、さらに遅れ明治以降。こうして畳が庶民の生活に取り入れられると、様々な文化を育むこととなります。以下の俗諺に「畳」にまつわる庶民感情がよくあらわれています。

 起きて半畳、寝て一畳
 千畳敷に寝ても一畳
 畳の上で死ぬ
 畳の上の水練
 女房と畳は新しい方がよい

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