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2009年2月14日 (土)

『羽衣』は、首をヨコにして見る。

国立能楽堂公演プログラム『月刊国立能楽堂』。2月号に管理人の随筆が掲載されました。以下、掲載文をご紹介します。

『羽衣』は、首をヨコにして見る。

 はじめて能を見る人に、『羽衣』をすすめる催しが多いようです。能の珠玉の名作、ストーリーもいたってシンプルなのがその理由です。でも、見る前に能独特の〈暗黙のルール〉をいくつか知っておけば、はじめて見る『羽衣』を数倍楽しめるはず。ぼくのお能初体験の感想も取り混ぜながら、いくつかのポイントをご説明いたしましょう。

 生まれてはじめて見た能は、竣工間もない国立能楽堂での『巴』。海外旅行をきっかけに「日本文化にも触れねば」と思い立ち、能楽堂を訪れます。前は、美しいシテの立ち姿、心地よい囃子と謡で夢見るように流れていった。さて問題は、後。シテが女装束のまま、長刀をいかめしく掻いこんで、ズカズカとやってくる。脇正側ギリギリで足拍子を一つ踏むと、ぼくの鼻先めがけ猛然と長刀を振り下ろしたものです。まさか、あのたおやかな美女に自分が斬られようとは…。この強烈な体験に魂を奪われ、以来自他共に認める〈能狂い〉の人生を歩み始めることとなりました。今思えば、あれが世阿弥のいう「花」だったのです。『風姿花伝』には、予期せぬ演出→珍しさ→面白さ。それが観客の心に咲く花となる、とあります。

 さて、それでは能独特の〈暗黙のルール〉をご紹介しましょう。

 まず能舞台では〈ある〉ものが、〈ない〉ことになっています。本舞台のエリア外にいる後見と地謡は〈いない〉ことになっている。透明人間なのです。シテ・ツレなどの役者が舞台後方に下がり、後ろを向いて座る。これを「クツログ」と呼び、役者はそこに〈いない〉ことになる。『羽衣』では〈モギドウ〉という特殊な着付けがあります。上着の両袖を脱いで、腰に巻きつける。これは一糸まとわぬ姿を表現します。キチンと装束をつけているのに、天女の着物は〈ない〉。水浴中なので裸、という設定です。ちなみに狂女物によくある、片袖だけを抜いた着付けは〈半裸〉または、働く姿を表します。

 また、水平の舞台がある瞬間、垂直になることも。もちろん実際に舞台がせり上がるわけではなく、あくまで観客の〈頭の中〉でだけです。『海士』の玉ノ段では、海底に沈んだシテが(正先で座っている)、立って数歩バックすると、真上の海面(鏡板の面)に浮かび上がった、ということになります。『羽衣』では、「あしたか山や富士の高嶺」とシテが幕に向かってサスと、橋がかりが垂直となって立ち上がり、揚幕が頭上、すなわち天となります。観客は〈首をヨコにして〉見れば、天高く舞い上がっていく、天女を目で追うことができるのです(実際そうやって見る人はいませんが)。

 さて、能『羽衣』の原話は、静岡県静岡市清水区三保の松原に古くから伝わる、天人降臨伝説です。天人が下界の人間と遭遇する「羽衣伝説」は日本中・世界中に数え切れないほどある。海外では「白鳥処女説話」とよばれ、異類婚姻譚の一種として様々なパターンを展開。日本最古のものは、近江国風土記にある余吾湖の天人降臨説話。原話では、天人は羽衣を返してもらえず、仕方なく漁師と結婚、子をもうけます。しかし後日、隠された羽衣を発見。天人は嬉々として天へ帰っていくのです。他には、天人と漁師の子供が実は菅原道真公であった…とする伝説まであります。能『羽衣』では一曲のハイライトを天女の帰天の喜びにおいた。序の舞、破の舞、キリ、と高揚感を増していく、天女の舞に焦点を当てるため、後日談をカットして演劇効果を高めたものでしょう。

「いや疑いは人間にあり、天に偽りなきものを」の名句・名場面も、この曲の鑑賞ポイント。羽衣を返せば、舞を見せずにそのまま飛び去ってしまうのでは、と疑う漁師に、天女が返した、人類への痛烈な一句なのです。宝を得た喜びと、天女への同情の間で揺れ動く漁師の心理描写もまた興味深い。人間ドラマと舞踊美をあわせもつ名曲、羽衣。天女とともに富士山の上空3700mから下界を眺めてみませんか。

(みずのさとし 古典翻訳家/能文社代表)

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2009年2月13日 (金)

日本人は、「畳に正座する」民族である。第三回 終

パラグラフ3【欧米人が見た畳と正座】

 E・S・モースの名は、日本人にとってはとても親しいもの。明治時代来日し東京大学で生物学を講じたアメリカ人。大森貝塚と縄文土器を発見した、日本考古学の大恩人です。日本の文化・風俗にも多大な関心を寄せ、広く海外に紹介しました。
最後に、モースが見た日本人の生活習慣の中で、「畳と正座」に関する一文をご紹介しましょう。

 日本人はいつも、踏石から入口の土間に、つまり屋内に入る前に下駄を脱ぐ。家の中でも靴を履いたままというのは、外国人が、よく日本人を不愉快にさせる、浅劣粗野なあれこれの流儀のひとつである。長靴や短靴の硬い踵だと、畳面に深い跡型をつけるばかりでなく、突き破ったりすることがある。しかし、幸いなことに屋内に入るにさいして靴を脱ぐという行為は、およそ外国人が受け入れることのできる習慣のひとつである。それは、屋内で靴を履いたままでよいのかどうか、見ればはっきりわかるからである。春とか雨が降り続く時とかは、畳は湿気を含んでかび臭くなる。したがって、日当たりのよい時には畳を取り出して、家の前にトランプ・カードのように並べ立てて干すのである。また、時々畳を取り出して、ほこりを取るために表面を叩くこともある。畳は、その性質上、全体が蚤にとって格好の隠れ家となる。蚤は、日本を旅行する外国人にとって、じつに耐え難い苦痛の種である。しかし、この厄介者も上流階級の私宅では滅多に姿を見せない。このことは、アメリカの似たような害虫の場合でも同様である。
 この畳の上で、日本人は食事を摂り、眠り、死んでいくのである。

 畳は、寝台、椅子、長椅子を兼ね、時には机の役も併せ兼ねる。畳の上で休息する場合、日本人は膝を折り曲げた姿勢を取る。つまり、双方の脚部を折り曲げて身体の下に納める。臀部は両こむらと両きびすの内側の上にのっかるようになる。足指は内側へ向いた形になるが、これは、内側へ仕舞い込んだほうの足の甲の上部が、直接に畳面に当たるようにするためである。老人では、畳に接する足の部分にたこができているのをよく見かける。このような事柄に関して、日本人の生活習慣についての知識がなければ、こんな部分の筋肉がどうして堅くなるのだろうかと訝るような目で見られてもやむをえないだろう。
 この端座の姿勢は、外国人にとっては相当に苦痛で、それに慣れるためにはただ練習する以外にない。日本人でさえ数年も外国暮らしをやると、端座する生活に戻ることがことのほかむずかしくなり、かなり苦痛のようである。

『日本人の住まい』斉藤正二訳 八坂書房 2004・4

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2009年2月11日 (水)

寺子屋、明日2/12いよいよスタートです!

寺子屋素読ノ会が、明日2/12()渋谷勤労福祉会館にて第一回開講となります。

Aクラス「葉隠」17:30-19:00

Bクラス「風姿花伝」19:30-21:00

ご興味ございましたら、未読の方も、初心の方も大歓迎です。

この機会にぜひ、ご参加ください。

お勤めで開始時刻に間に合わない方も、途中からのご参加もOKです。ご遠慮なくご入室ください!

ご参考までに、今回の講座「葉隠」「風姿花伝」のもっとも有名な名言名句を以下にご紹介します。

●葉隠名言

「武士道というは、死ぬことと見つけたり。

~聞書第一/二

[解説]

 葉隠は、江戸中期佐賀鍋島藩士により筆録・編纂された膨大な量の「鍋島藩成立史」であり、または「鍋島武士道語録」とでもいうべき書物です。本著でもっとも有名な句が、この「武士道とは、死ぬことと見つけたり(聞書第一/二)」。武士道の聖典ともいわれる葉隠 筆者(聞書口述者)、山本常朝の鍋島武士たる者かくあるべし、との究極の姿を一言にあらわしたものです。句の真意はむろん、ただ死ねばよいということではありません。武士として死ぬには三つのポイント、というか条件がある。

1.生死分かれ目の場に臨んだなら、さっさと死ぬ方につく

2.うまくいくかどうかなど考えない

3.常時、「死に身」となっておく

これは、人が生存するために不可欠な三つの回路を切り、停止させよ、というに等しいものです。「1.さっさと死ぬ方につく」は、生存本能の停止。「2.考えない」は、理性の停止。「3.常時、死に身」は、日常の停止。ただの観念ではなく、実際これらを実行しえたとしたら、それはもはや人ではなく、何かとてつもなく恐ろしい生き物…。いや、本能の回路すらないのですから、生あるものともいえないでしょう。おそらく悪鬼か、神か…。

 さて、ではこの句にこめられた常朝の真意は何だったのでしょう。「武士道とは、死ぬことと見つけたり」をそのまま裏返すと見えてきます。それは、武士、奉公人、人として完全に生きよ、ということ。別の章でいう

「ただ今がもしもの時、もしもの時がただ今のこと(聞書第二/四七)

も同じことをいっており、これは葉隠全編を通し、繰り返し現れてくるモチーフです。常朝は語っています。完全に死ぬためには、今この一瞬、一瞬を完全に生きよ。されば、武士道を全うし、一生落度なく家職も仕果たせる、と。

[本文抜粋]

 武士道とは、死ぬことと見つけたり。生死分かれ目の場に臨んで、さっさと死ぬ方につくばかりのこと。特に仔細などない。胸すわって進むのだ。うまく行かねば犬死、などとは上方風の打ち上がった武道のこと。生か死かの場面で、うまく行くかどうかなどわかるわけもない。人皆生きる方が好きである。されば、好きな方に理屈をつける。もしうまくいかずに生き残ってしまえば腰抜けだ。この境目が危うい。うまく行かずに死んでしまえば犬死で気違いである。しかれども、恥にはならぬ。これを武道の大丈夫という。毎朝毎夕くり返し何度も死んでみて、常時死に身となって居れば、武道に自由を得、一生落度なく家職も仕果たせるものである。

●風姿花伝名言

「 秘すれば花なり。」

~第七 別紙口伝

[クイズ]

創刊第一回目は、誰でも知っている有名な、この二つの名言から。まずは、クイズです。この言葉の正しい意味を下の二つから選んでみてください。

「秘すれば花なり」の正しい意味は…

①本当に重要なものは、他人から隠しておかなければならない。

②他人に隠しているものは、本当は大したものではない。

「初心忘るべからず」の正しい意味は…

①初志貫徹すべきである。

②初心のころの未熟な考えやわざをいつまでも捨てない。

[正解と解説]

世阿弥は、室町時代申楽観世座の二代目太夫。代表的な能役者であるとともに、能作家、能楽理論家として今日の能の基礎を確立した大芸術家です。すべてで二十一作ある世阿弥の能楽理論書の内、代表作がこの風姿花伝。「秘すれば花なり」、「初心忘るべからず」をはじめとする数々の名言・名文を含む、世界でも類を見ない芸術家自身による偉大な芸術理論書です。

さて、「秘すれば花なり」の正解は、②の「他人に隠しているものは、本当は大したものではない」です。

各家に相伝・継承される芸道の秘伝というものは、秘して他人に知られないことにより、最大の効果を発揮するものである、と世阿弥は述べています。秘伝されたものそれ自体は、種明かしをしてしまうと必ずしも深遠なものではない。しかし、誰も気付いていないという、珍しさ、意外性により、感動を生む芸となったり、相手に勝つ秘策ともなる。秘することそのものが芸に最大の花を生む秘伝である、というのがこの言葉の正しい意味となります。

[本文抜粋]

 一. 秘する花を知ること。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、という。この違いを知ることが、花を知る重要点である。そもそも一切、諸道、諸芸において、その家々で秘事とされるものは、秘することによって大きな効用があるゆえである。つまり秘事は露見すれば、秘密にしておく程のものではないのだ。これをそれほどのものではないという 者もいるが、それは未だ秘事の大きな効果を悟らぬゆえである。まずこの花の口伝、「ただ珍しさが花なのだ」ということをすべての人が知ってしまえば、さあ、珍しいものが見られるはずだと思い期待する観客の前では、いくら珍しい芸を披露してみたところで見ている人の心に珍しいという感覚が生まれるはずもない。見ている人にとってそれが花だということがわからないからこそ、シテの花ともなるものなのだ。されば見る人が思いのほか面白く演じる上手だ、とのみ感じ、これが花だとわかっていないことがシテにとって花となる。つまりは人の心に思いも寄らない感動を呼び起こす手立て。これこそが花なのである。

 たとえれば弓矢の道の手立てにも、名将の案と計らいにて思いも寄らぬやり方で、強敵にも打ち勝つ例がある。これは負けた側から見れば、珍しさの理に惑わされて、敗れてしまったのではなかろうか。これが一切、諸道諸芸において勝負に勝つ理である。こうした手立ても事決して、こういう謀だったと知れてしまえば、後で批判することはたやすい。が、前もって知らなかったからこそ負けてしまったのである。

さて、これを秘事のひとつとして当家に伝承する。これにてわきまえよ。たとえ秘事を明かさないにしろ、かような秘事を持つらしいと人に感づかれることさえあってはならない。人に感づかれる時、敵であれば油断せずに用心し始めるので、かえって注意をひきつけることになってしまう。敵方に用心させなければ、勝つのはいともたやすい。人に油断させ勝利を得ることは、珍しさの理の大きな効果ではないか。すなわち当家の秘事として、人に悟られぬことにより生涯咲き続ける花を持つ主となることを授ける。秘すれば花、秘せずば花なるべからず。

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2009年2月10日 (火)

日本人は、「畳に正座する」民族である。第二回

パラグラフ2【正座とは】


 正座は、正しくは「正坐」と書きます。日本の伝統的な正しい座り方。まさかと思いますが、正座をしたことのない若い読者もいるかもしれない。それは、両足をそろえ、膝を折りたたんで、かかとの上にお尻をのせる座り方。足首はまっすぐにし、足の甲が床についています。
 さて、それでは正座の歴史・意味・現状について概観していきましょう。

・正座という呼称

 意外に思うかもしれませんが、正座という名前が生まれたのは、せいぜい60~70年前のこと。戦前の修身の教科書で使われたのがはじめです。それまでは「端座」などと呼び、江戸以前は「かしこまる」「つくばう」などと一般的には呼ばれていました。

・正座の2つの意味

 江戸幕府が礼法として、正式な座法と定めたことにより日本中に浸透していった正座。戦国時代までは、「あぐら」「立て膝」が、貴賤問わず一般的な座り方でした。江戸の為政者は、正座のもつ2つの意味に目をつけたのです。ひとつは、「かしこまる」「つくばう」から連想されるように、正座をする相手に「従順」「屈服」の姿勢を求めたもの。土下座は、正座をして手を前につき謝ること。朝鮮半島では、正座は罪人の座り方とされている。
 もうひとつが、「礼」としての座法です。これは茶道の発展・普及と手を携えて、広く日本中に浸透していった。「正座=礼」が、日本の習慣と生活様式の中で、イメージとして自然に強化、確立されていくのです。

・正座は日本独自のもの?

 中国の秦の始皇帝陵から出土した陶俑、イースター島のモアイ像、外来の神像・仏像…。これらすべてが「正座」をしており、イスラム教モスクで、正座が座拝のカタチであることは、周知の事実です。正座は日本独自のものではありません。
そもそも正座を、より早く生活習慣として取り入れ、定着させていたのは中国です。そして、日本が他の文物とともに、この生活習慣を中国から輸入したものと推測されます。
 もともと中国人は、日本の着物のように下着として肌襦袢を着ていました。が、日本の褌のような、いわゆるパンツがありませんでした。あぐらをかいたり、体育座りでは股間が露呈してしまう。そのため、春秋戦国時代以来、正座が正式な座法とされていた。中国人がパンツをはくのは相当時代が下ってからのこと。日本に入ってきた褌は、もともとポリネシア系の文化。イースターのモアイ像も褌をつけています。

 さて、中国の正座はその後、唐の時代まで続きますが、胡人やアラビア人により、外来文化が流入し、家には土間ができ、椅子での生活が徐々に広がってくる。そして、宋の時代には正座の習慣は完全に消滅してしまうのです。こうして本家の中国では、正座は途絶え、それを輸入した日本では、文化として脈々と受け継がれていくこととなりました。

・江戸時代まで、正式な座り方はなかった

 平安時代の神像には、座禅を組んだもの、正座をしたものの2種類が混交しています。また絵巻を見ても男性は「立て膝」か「あぐら」、女性は「横座り」など、様々なヴァリエーションがあり、儀式の場であってさえ人それぞれ自由な座り方をしており、決まった座法がなかったことがわかります。
 室町時代、正座は神前・仏前で礼拝する時、目上の人に対する場合、あるいは茶席での立ち居など、ごく限られた場合だけの座法でした。
さらに時代が下り、江戸幕府により、茶道、小笠原流礼法に従って、正座が正式な座法としてはじめて制定される。これは八代将軍徳川吉宗以降のことだとされています。そして畳が庶民の家にも普及する江戸中期以降、正座は広く日本中に伝えられ、浸透していくのです。

・正座は「平和な座り方」?

 正座文化を論評する際によく耳にするのが「正座=平和の座法」説。戦国時代以前、一般的であった「あぐら」や「立て膝」は、姿勢がラクというだけではなく、瞬時に立ち上がることができる実戦的・好戦的な座法である。かたや正座は、徳川幕府が開かれ、日本中に戦がなくなった時代の座り方。立ち上がる時には、まずつま先を引き起こさねばならず、立つまで二挙動かかる。ゆえに、とっさに相手を襲うことも、防ぐこともできない「従順」で「平和」な座法だとしています。あぐらをかいた主君が、臣下に正座を強いて、恭順させるとともに、不意の攻撃を制したもの。これがこの説の根拠のようです。

 しかし「平和説」はともかく、この根拠には疑義がある。実際に立ってみると、結果は逆だからです。あぐらは立てない。正座は瞬時に立って、前に出ることができます。また、片膝立てではあぐらのように尻を落としていると立てない。ただし、能のシテ方のように、重ねたかかとの上で、尻を半分浮かせていると、正座のようにすぐ立てます。そもそも、居合術の座技はすべてが正座。あぐらでは立てないし、刀も差せないからです。つまり、正座は決して攻撃を封じるため武術から生まれた座法ではありません。むしろ「平和をめざす」という意味でいえば、礼を重んじる仏法ないし茶道の精神から広まった、とすべきでしょう。

・おらが村の正座

 日本の各都道府県別に、正座の方言を集めてみました。ぼくが子供の頃よく耳にした正座をさす言葉は、実は近県の方言だったことがわかりました。ただしこの中にはすでに使われなくなった言葉もあります。あなたの出身地で「正座」は、どのように呼ばれていいますか?

北海道 おっちゃんこ
山形 ねまる
福島 ねまる
茨城 ねまる
栃木 ねまる
群馬 おつくべ、おつくべえ、おっ(つ)くべ、おっつくべえ
富山 おつくばい、おつくわい
福井 おちょきん
長野 おかしま、おつくべ、おつべく、おつんべこ
岐阜 つくなる、つくばる
京都 おっちん、おまん
大阪 おまん
鳥取 えーちゃんこ
島根 えーちゃんこ
岡山 おじんじょ、べべちゃんこ
広島 じんじょう、ちゃんこ
徳島 おかこまり、おかっこ、おかこまり、おかっこまり、おちんこま
香川 おかっこ、おかっこまい、おかっこまり
愛媛 おかっこ、おちょっぽ
高知 おかっこ
鹿児島 きんきん
沖縄 膝まずき

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2009年2月 8日 (日)

日本人は、「畳に正座する」民族である。第一回

日本人とは、一体何か?遺伝子型に基づいた人類学上の定義よりも、単純に「日本語をしゃべる民族」とした方が、納得感が大きいのではないでしょうか。では、言葉以外の文化で見た時には、どうか。生活習慣が欧米化した今日、ほとんど消えかかっていますが、「着物」を着て、「畳」の上にきちんと「正座」するのが、伝統的なジャパニーズスタイルといえましょう。

 今回は「畳」と「正座」の、なぜ?何?いつから?に焦点を当て、日本人独特の思考と行動パターンの源を探っていきたい。「畳」と「正座」が消えつつある今なお、私たち日本人がなぜこうも日本的な発想・価値観を持ち続けるのか。
まず、畳の歴史からその秘密の一端を解き明かしていきましょう。

パラグラフ1【畳とは】

 日本の生活文化は、その多くが中国大陸もしくは半島から伝来したものです。しかし畳は、日本民族の生活の知恵から生まれた固有のもの。湿度が高く、天候の変化が大きい日本独自の風土で生まれ、育まれてきた、優れた「敷物」なのです。畳の歴史を奈良時代より、ざっとたどってみましょう。

・奈良時代(710年~)
 現存する最古の畳は奈良時代のもの。聖武天皇が愛用した「御床畳(ごしょうのたたみ)」がそれで、木製の台の上に置かれ寝具として使用されました。奈良東大寺の正倉院に保管されています。現在の畳とは異なり、真薦(まこも)で編んだゴザのようなものを5、6枚重ねて畳床とし、イグサの菰でおおって錦の縁でかがられている。この木製の台を2つ並べてベッドとして使った、といいます。
古事記にある「瓦畳」「皮畳」「絹畳」。あるいは万葉集に詠まれた「木綿畳」「置薦」などが、この時代の畳で、「御床畳」と同様、発生時の畳は今のゴザのようなものでは、と推測されています。

 あし原のしけき小屋にすが畳 いやさやしきて我二人ねじ
                        神武天皇御歌

・平安時代(794年~)
 平安時代に入り、貴族の邸宅が寝殿造となりました。これにしたがって、板の間に座具や寝具として要所要所に畳が敷かれるようになる。置き畳の上に、貴人や女房たちがくつろぐ様子は、この時代の絵巻物に見られるとおり。また畳は、地位や権力の象徴として住居に取り入れられたのです。

・鎌倉時代(1192年~)
 武家政権の確立により。貴人の住居が書院造へと移行していく。建築様式と生活空間の変化により、それまで客をもてなす座具であった畳は、部屋の周囲に敷き、真ん中だけを残す敷き方になる。そしてついに、部屋全体、床一面に敷きつめる、今日の畳のスタイルが完成されるのです。畳はこれにより、「敷物」から「床材」となりました。

・室町時代(1392年~)
 室町時代、将軍家により書院の一間を囲って、茶の湯がとり行われるようになりました。敷きつめられた畳の間での立ち居振る舞いは、茶道の礼法も相伴って「正座」の習慣化を促した、といわれているのです。(パラグラフ2参照)

・安土桃山時代(1573年~)
 茶道の興隆によって、茶室の様式を取り入れた数奇屋風書院造の建築がブームとなっていきます。茶室の炉の位置によって、畳の敷き方にも様々なヴァリエーションが生まれていく。茶の湯が町人にも親しまれるようになると、畳も町人宅に徐々に敷かれるようになっていきます。

・江戸時代(1603年~)
 将軍家・武家の屋敷に畳は必須の住宅設備となる。しかし一般庶民へと普及するには、江戸中期以降まで待たねばなりませんでした。農村部への普及は、さらに遅れ明治以降。こうして畳が庶民の生活に取り入れられると、様々な文化を育むこととなります。以下の俗諺に「畳」にまつわる庶民感情がよくあらわれています。

 起きて半畳、寝て一畳
 千畳敷に寝ても一畳
 畳の上で死ぬ
 畳の上の水練
 女房と畳は新しい方がよい

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