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2009年2月11日 (水)

寺子屋、明日2/12いよいよスタートです!

寺子屋素読ノ会が、明日2/12()渋谷勤労福祉会館にて第一回開講となります。

Aクラス「葉隠」17:30-19:00

Bクラス「風姿花伝」19:30-21:00

ご興味ございましたら、未読の方も、初心の方も大歓迎です。

この機会にぜひ、ご参加ください。

お勤めで開始時刻に間に合わない方も、途中からのご参加もOKです。ご遠慮なくご入室ください!

ご参考までに、今回の講座「葉隠」「風姿花伝」のもっとも有名な名言名句を以下にご紹介します。

●葉隠名言

「武士道というは、死ぬことと見つけたり。

~聞書第一/二

[解説]

 葉隠は、江戸中期佐賀鍋島藩士により筆録・編纂された膨大な量の「鍋島藩成立史」であり、または「鍋島武士道語録」とでもいうべき書物です。本著でもっとも有名な句が、この「武士道とは、死ぬことと見つけたり(聞書第一/二)」。武士道の聖典ともいわれる葉隠 筆者(聞書口述者)、山本常朝の鍋島武士たる者かくあるべし、との究極の姿を一言にあらわしたものです。句の真意はむろん、ただ死ねばよいということではありません。武士として死ぬには三つのポイント、というか条件がある。

1.生死分かれ目の場に臨んだなら、さっさと死ぬ方につく

2.うまくいくかどうかなど考えない

3.常時、「死に身」となっておく

これは、人が生存するために不可欠な三つの回路を切り、停止させよ、というに等しいものです。「1.さっさと死ぬ方につく」は、生存本能の停止。「2.考えない」は、理性の停止。「3.常時、死に身」は、日常の停止。ただの観念ではなく、実際これらを実行しえたとしたら、それはもはや人ではなく、何かとてつもなく恐ろしい生き物…。いや、本能の回路すらないのですから、生あるものともいえないでしょう。おそらく悪鬼か、神か…。

 さて、ではこの句にこめられた常朝の真意は何だったのでしょう。「武士道とは、死ぬことと見つけたり」をそのまま裏返すと見えてきます。それは、武士、奉公人、人として完全に生きよ、ということ。別の章でいう

「ただ今がもしもの時、もしもの時がただ今のこと(聞書第二/四七)

も同じことをいっており、これは葉隠全編を通し、繰り返し現れてくるモチーフです。常朝は語っています。完全に死ぬためには、今この一瞬、一瞬を完全に生きよ。されば、武士道を全うし、一生落度なく家職も仕果たせる、と。

[本文抜粋]

 武士道とは、死ぬことと見つけたり。生死分かれ目の場に臨んで、さっさと死ぬ方につくばかりのこと。特に仔細などない。胸すわって進むのだ。うまく行かねば犬死、などとは上方風の打ち上がった武道のこと。生か死かの場面で、うまく行くかどうかなどわかるわけもない。人皆生きる方が好きである。されば、好きな方に理屈をつける。もしうまくいかずに生き残ってしまえば腰抜けだ。この境目が危うい。うまく行かずに死んでしまえば犬死で気違いである。しかれども、恥にはならぬ。これを武道の大丈夫という。毎朝毎夕くり返し何度も死んでみて、常時死に身となって居れば、武道に自由を得、一生落度なく家職も仕果たせるものである。

●風姿花伝名言

「 秘すれば花なり。」

~第七 別紙口伝

[クイズ]

創刊第一回目は、誰でも知っている有名な、この二つの名言から。まずは、クイズです。この言葉の正しい意味を下の二つから選んでみてください。

「秘すれば花なり」の正しい意味は…

①本当に重要なものは、他人から隠しておかなければならない。

②他人に隠しているものは、本当は大したものではない。

「初心忘るべからず」の正しい意味は…

①初志貫徹すべきである。

②初心のころの未熟な考えやわざをいつまでも捨てない。

[正解と解説]

世阿弥は、室町時代申楽観世座の二代目太夫。代表的な能役者であるとともに、能作家、能楽理論家として今日の能の基礎を確立した大芸術家です。すべてで二十一作ある世阿弥の能楽理論書の内、代表作がこの風姿花伝。「秘すれば花なり」、「初心忘るべからず」をはじめとする数々の名言・名文を含む、世界でも類を見ない芸術家自身による偉大な芸術理論書です。

さて、「秘すれば花なり」の正解は、②の「他人に隠しているものは、本当は大したものではない」です。

各家に相伝・継承される芸道の秘伝というものは、秘して他人に知られないことにより、最大の効果を発揮するものである、と世阿弥は述べています。秘伝されたものそれ自体は、種明かしをしてしまうと必ずしも深遠なものではない。しかし、誰も気付いていないという、珍しさ、意外性により、感動を生む芸となったり、相手に勝つ秘策ともなる。秘することそのものが芸に最大の花を生む秘伝である、というのがこの言葉の正しい意味となります。

[本文抜粋]

 一. 秘する花を知ること。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、という。この違いを知ることが、花を知る重要点である。そもそも一切、諸道、諸芸において、その家々で秘事とされるものは、秘することによって大きな効用があるゆえである。つまり秘事は露見すれば、秘密にしておく程のものではないのだ。これをそれほどのものではないという 者もいるが、それは未だ秘事の大きな効果を悟らぬゆえである。まずこの花の口伝、「ただ珍しさが花なのだ」ということをすべての人が知ってしまえば、さあ、珍しいものが見られるはずだと思い期待する観客の前では、いくら珍しい芸を披露してみたところで見ている人の心に珍しいという感覚が生まれるはずもない。見ている人にとってそれが花だということがわからないからこそ、シテの花ともなるものなのだ。されば見る人が思いのほか面白く演じる上手だ、とのみ感じ、これが花だとわかっていないことがシテにとって花となる。つまりは人の心に思いも寄らない感動を呼び起こす手立て。これこそが花なのである。

 たとえれば弓矢の道の手立てにも、名将の案と計らいにて思いも寄らぬやり方で、強敵にも打ち勝つ例がある。これは負けた側から見れば、珍しさの理に惑わされて、敗れてしまったのではなかろうか。これが一切、諸道諸芸において勝負に勝つ理である。こうした手立ても事決して、こういう謀だったと知れてしまえば、後で批判することはたやすい。が、前もって知らなかったからこそ負けてしまったのである。

さて、これを秘事のひとつとして当家に伝承する。これにてわきまえよ。たとえ秘事を明かさないにしろ、かような秘事を持つらしいと人に感づかれることさえあってはならない。人に感づかれる時、敵であれば油断せずに用心し始めるので、かえって注意をひきつけることになってしまう。敵方に用心させなければ、勝つのはいともたやすい。人に油断させ勝利を得ることは、珍しさの理の大きな効果ではないか。すなわち当家の秘事として、人に悟られぬことにより生涯咲き続ける花を持つ主となることを授ける。秘すれば花、秘せずば花なるべからず。

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