2021年8月13日 (金)

佐渡と世阿弥伝説

Beshime-zeami

今日の能を大成し、『風姿花伝』、『花鏡』などの能楽理論書を多数著述した世阿弥。

日本の文化史、芸能史において並びなき偉人とされますが、晩年幕府より罪を受けたため、その人生の最終局面は歴史に記されず、六百年後の今も謎に包まれています。

 

 なぜ佐渡へ配流となったのか?

 その罪状は何か?

 いつ、どこで亡くなったのか?

 

 瀬戸内寂聴の小説『秘花』に描かれたように、果たして世阿弥は佐渡でその生涯を終えたのでしょうか。今回は「佐渡と世阿弥伝説」と題し、佐渡での世阿弥の足跡をたどりながら、晩年の実像に迫ります。能の歴史の謎にささやかでも光を当ててみたいと思います。

 

 

◆世阿弥と足利幕府三将軍

 

 若年・壮年・老年期の世阿弥の生涯は、足利将軍家三代の盛衰とまさに歩調をあわせたようなものでした。

 ここでは三代将軍義満、四代義持、六代義教ら、三人の為政者と世阿弥の人生の交わりをたどってみます。

 

〔三代 義満〕

応安七年(一三七四)、観阿弥一座京都今熊野の演能の興行に、時の将軍義満がはじめて来臨し熱心に観賞しました。観阿弥と世阿弥の芸に心を奪われた若き将軍は、以降観世座に厚い庇護を与えることになります。

さらに関白二条良基、佐々木道誉、義満同朋衆の海老名南阿弥ら公卿・大名・貴族も支援を与え、観世父子は洛中の名声を一身に集めることに。若年期から青年期の世阿弥は順風満帆の舞台生活を送りました。

同時期義満は、世阿弥のライバルである犬王道阿弥も贔屓役者としたものの応永十五年に没するまで、観世座に変わらぬ助力を与え続けたのです。

 

〔四代 義持〕

 応永十五年(一四○八)義満が没すると義持の時代となりました。

義持の時代、能の中心は申楽から田楽へ、そして世阿弥から田楽の旗頭増阿弥へと移って行ったのですが、それは申楽全体が将軍の支持を失ったということであって、世阿弥または観世座だけが迫害されたということではありません。

応永十九年から二十九年までの記録によると、申楽を義持が見物したのは応永二十四年の興福寺四座立合い申楽一回であり、その間田楽の興業を十六回も見物しているのです。この間、観世座は遠国や田舎を渡り歩いてやっとのことで一座を維持するという状況であったと想像されます。

こうした中、世阿弥の関心は能楽論と能本作りに集中して行ったと思われます。これらの作品の制作時点がはっきりしているものは数が少なく、大半は記録もありませんが、義持が没した応永三十五年(一四二八)までの間に大半のものが制作されたことは間違いなく、義持の治政期と世阿弥創作期は、面白い一致を示しているのです。

 

〔六代 義教〕

「万人恐怖」と評された暴君義教の時代、晩年の世阿弥の人生は悲劇の坂を転がり落ちていきます。

義教が贔屓とし、生涯一貫して支援したのが、世阿弥・元雅と対立していた音阿弥元重(世阿弥甥)でした。将軍就任前、青蓮院門義円の時代に音阿弥の勧進猿楽を後援したのをはじめとして、将軍になった正長元年の室町殿における演能、翌永享元年正月の仙洞御所における演能も音阿弥一派によって行なわれました。

そして以降、立て続けに悲運と不幸が老いた世阿弥を容赦なく襲うのです。

 

・永享元年 世阿弥父子は仙洞御所への出入りを禁ぜられる。

・永享二年 元雅の醍醐清滝宮の楽頭職が世阿弥父子より剥奪され、音阿弥に任ぜられる。

・同年 世阿弥次男元能が《申楽談儀》を残し、出家する。

・永享四年 観世座太夫元雅が父に先立って、伊勢安濃津にて客死。

・永享六年 世阿弥72歳にて、突如佐渡へ配流となる。

 

悪政を重ね、大名・公卿はもちろん庶民をも恐怖に陥れた義教は、嘉吉元年(一四四一)ついに、守護大名赤松満祐の手で殺害されることになります(嘉吉の変)。所は赤松邸、奇しくも音阿弥の演能の最中の出来事でした。

 

 

◆世阿弥配流の理由

 

永享六年(1424)五月、将軍義教の命により、世阿弥が佐渡へ配流となりました。後年、秀吉による千利休賜死事件と共に、世阿弥の佐渡配流は、重罪に当たるほどの確たる理由が見当たりません。中世日本文化史最大の謎です。しかし、以下三つの理由が現在仮説となっています。

 

1.世阿弥・音阿弥芸事対立説

音阿弥の観世大夫就任に際して、世阿弥の数々の芸道書を音阿弥に譲るようにとの義教の命令を、世阿弥が拒否したため。

 

2.観世南朝説

上嶋家文書(江戸時代末期の写本)によると、伊賀・服部氏族の上嶋元成の三男が観阿弥で、その母は楠木正成の姉妹であるとしています。義教の迫害から逃れ伊賀の氏族越智に身を寄せた元雅が、北朝方足利将軍家によって暗殺されたとの説もあり、政治的な抗争に巻き込まれ、佐渡へ流されたという説です。

※参照URL 上嶋家文書(観世福田系図)

https://bit.ly/3yJ0TlH

 

 

3.日野義資参賀の連座説

世阿弥が義教嫡子誕生に際し、義教妻の兄弟でありながら、政敵である日野義資邸での参賀に列席した罪を問われたというもの。当時義資は義教の勘気を被り、謹慎中の身でした。この祝いに、義資邸を訪れた公卿や僧侶3040名が義教の怒りに触れ、所領没収など即座に罰せられたといいます。世阿弥は観阿弥作『太子曲舞』の詞章をこの祝いのために書き換えていました。義資に披露し、祝賀の席で謡ったものかもしれません。

 

 

◆世阿弥佐渡の配所

 

 当時おそらく京都に居宅のあった世阿弥が、突然配流の命を受け、若狭小浜より流人舟にて海路を佐渡へと送られた行程を、世阿弥が佐渡にて執筆した小謡集『金島書』にたどることができます。

 

 若狭小浜より船に乗って佐渡大田の浦(現畑野町多田)に世阿弥一行は到着。当初現在の佐渡市役所付近にあったといわれる新保城万福寺※1 に配所されますが、本間氏族の騒乱が起こったため、同年秋から冬ごろ、泉※2 に移りました(現在の正法寺)。ここで世阿弥は、順徳上皇の配所である黒木御所跡を訪ね、小謡集『金島書』を書き上げたのです。


 正法寺には、県指定文化財(彫刻)の神事面べしみがあります。鎌倉時代後期~南北朝期の作といわれ、県内では最古の面。世阿弥が祈祷のため佐渡へ携行したともいわれ、島内干ばつの折、世阿弥がこの面を着けて舞ったところ大雨が降ったため「雨乞いの面」とも呼ばれています。

 また境内には世阿弥が腰掛けたといわれる腰掛の石も残されているのです。

 

1. 世阿弥の配所1 万福寺

http://nobunsha.jp/img/haisho%201.jpg

2. 世阿弥の配所2 (正法寺)

http://nobunsha.jp/img/haisho%202.jpg

 

 

◆世阿弥、佐渡での暮らし

 

 佐渡での世阿弥の生活を伝える記録はありません。ですが、世阿弥最晩年の絶筆とされる、書簡と作品が残されており、七十を過ぎ、配流されてなお能と芸術への情熱を失うことなく、いつか赦免され、都へ帰る日への望みを捨てなかった世阿弥の面差しがありありと感じられるのです。

 

 

〔金島書〕

 

 佐渡配流中に世阿弥が書いた紀行文ふうの小謡曲舞集。吉田東伍博士が、明治四十二年(一九○九)に発見し公刊した『世阿弥十六部集』(能楽会刊、池田信嘉代表)の中で初めて紹介され、世間を驚かせたのです。

 同書は世阿弥に関する学問的研究の端緒を開いたとされ、今日でも高い評価を受けていますが、『金島書』(吉田氏は「金島集」と紹介している)の発見によって、世阿弥の配流が一般に知られることになり、この高名な芸術家の最晩年の動向、および室町時代の佐渡の国情をかいま見る貴重な書物ともなりました。

 

 「若州」「海路」「配処」「時鳥」「泉」「十社」「北山」の七篇の詞章から成り、最後に無題の「薪神事」一篇が奥書とともに添えられています。

 「海路」までが佐渡への道中で「配処」以下に滞島中の見聞が綴られ、「永享八年二月日、沙弥善芳」と結んでいます。沙弥善芳は世阿弥の道號です。配流が七二歳に当たる永享六年(一四三四)五月であり、翌々年の二月まで佐渡に在島、生存していたことはわかるものの、その後の消息はわかりません。悲嘆を表向きにせず、達観した流謫生活を送ったことが、文面からうかがえるのです。

 

〔佐渡状〕 金春禅竹宛書簡

 

 世阿弥が佐渡から、娘婿であり芸嗣子でもある金春禅竹に宛てた自筆書状。奈良宝山寺蔵の「金春家旧伝文書」中より発見されました。

 6月8日の日付があり、佐渡配流の翌年永享七年頃のものと思われます。一般に「世阿弥佐渡状」と呼ばれ、「至翁」の自署があります。

 手紙の主な内容は、

都に残した老妻寿椿や佐渡の自分に対する扶持への礼、佐渡での暮らしは安心してほしいこと。禅竹より「鬼の能」についての質問に対する意見(これがこの手紙の中心内容とみられる)。

佐渡は驚くほどの田舎で紙不足で困ること…

 

などと書かれています。実際この書状の用紙は楮紙(こうぞ)の粗末な薄いものを2枚つないだものですが、最後の部分で「ありがたい妙法諸経でさえ、藁筆で書かれたものがあるのだ。この手紙も『金紙』に書かれたものと受けとめて読んでほしい」と結んでいるのです。

 こののち世阿弥は、嘉吉元年に将軍義教が暗殺されたため、許されて京都に戻り、娘婿禅竹に養われ老後を送った。あるいは佐渡でそのまま死去したものとも想像されています。

 相国寺、僧宣竹による観世小次郎画讃に「世阿弥年八十一」とあるのに従えば、世阿弥の没年は一応嘉吉三年(1443)となるようです。

 

※佐渡状参照URL 【言の葉庵】世阿弥絶筆「佐渡状」を読む。

http://nobunsha.jp/genbun/post_96.html

 

 

 

《参考文献》

『世阿弥配流』磯部欣三 恒文社 (1992)

『佐渡と世阿弥伝説』水野聡 池袋コミュニティ・カレッジ2010 3月期テキスト(非公開)

 

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2021年5月27日 (木)

横浜よみうりカルチャー6月新講座「茶の湯の始まり」他全3教室

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6月より、横浜にて新しい【言の葉庵】カルチャー講座が始まります。

いずれも初心者対象の日本文化入門コースです。

ご興味がありましたら、ぜひ、ご参加お待ちしています。

 

NEW!〈横浜市・よみうりカルチャー横浜校〉

1.一日講座:茶の湯のはじまり~茶道の歴史と意味~

https://www.ync.ne.jp/yokohama/kouza/202104-18010201.htm

2021年6月29日(火) 10:30-12:00

・受講料 (会員) 3,300円(税込) 教材費165円 施設維持費385円

 

茶道の歴史をやさしく学ぶ、1dayレッスン。茶は奈良時代に日本にもたらされ、長い年月をかけて今日の茶道文化となっていきました。かつては貴族や武士など、特権階級が茶の湯に親しみ、室町から戦国期にかけて「天下人」の最大の楽しみとなったのです。豊富な茶道資料や画像を通して茶道史のトリビア!に触れてみましょう。初心者対象の入門編です。

 

 

2.定期講座:茶の湯文化史入門  ~千利休の侘び茶の世界~

https://www.ync.ne.jp/yokohama/kouza/202107-01510201.htm

2021年7月6日(火)~ 毎月第一火曜日 10:30-12:00

・受講料 (会員) 3か月 3回: 9,900円(税込) 教材費495円 施設維持費1,155円

      (体験) 1回  3,850円(税込)

 

 茶の湯は中世以来の日本文化と精神を総合した、日本独自の生活哲学です。茶の歴史・意義・思想を、千利休や他の名茶匠の足跡をたどりながら、やさしく学んでいきます。茶書・史書から漫画まで幅広い資料を通覧し、解説します。

 ◆茶の心「侘び」とは何か?

 ◆茶書の代表作、「南方録」「山上宗二記」を読解

 ◆名物道具の由来と茶室の成り立ちを詳しく解説

 ◆人気漫画「へうげもの」の世界観を検証

 

 

3.一日講座:怖くて哀しいお能の女の話~丑の刻参り伝説

https://www.ync.ne.jp/yokohama/kouza/202107-18010202.htm

2021年7月24日(土) 17:00~18:30

・受講料 (会員) 3,300円(税込)、(一般)3,850円(税込)

       教材費165円 施設維持費385円

 

「草木も眠る丑三つ時……」。日本の怪談は、仏教説話や古い民間伝承から生まれました。とりわけ“丑の刻参り”とよばれる五寸釘を藁人形に打ち込む、恐ろしい呪いの儀式はフィクションである能のある曲から生まれてきたことをあまり人は知らないかもしれません。恐ろしくも哀しいある一人の女の物語。能「鉄輪(かなわ)」をビデオ映像とともに分かりやすく解説していきます。

 

(1.~3.共通)

・講師 水野聡(能文社)

・お問い合せ・お申し込み:よみうりカルチャー横浜:045-465-2010

・受付時間:平日、土曜、日曜日 10:00~20:00

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2021年5月 2日 (日)

名言名句 第七十回 鳥鳴きて山更に幽なり。

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鳥鳴きて山更に幽なり。 ~王籍『入若耶渓』

 

 

茶席の禅語として古くから親しまれる漢詩の一文です。

この一句のみ書かれることが多いのですが、もとの形は、漢詩の中の次の対句。

 

(原文)

蝉噪林逾静

鳥鳴山更幽

 

(読み)

蝉噪(さわ)ぎて林逾(いよいよ)静かに 

鳥鳴きて山更に幽(ゆう)なり

 

作者は中国、梁の詩人、王籍。「若耶渓(じゃくやけい)」とは、浙江省にある風光明媚な渓流の名です。

 

初夏の一日。公務を離れ、一人渓流沿いの林道を歩く詩人の小さなシルエット。

人が近づくことで、騒がしく鳴いていた蝉の声が一斉に止み、林は静寂に包まれる。

 

深山へと深く分け入っていくと、一声鋭く野鳥がさえずる。その声が消えると、山は深く黒々とした沈黙に飲み込まれてしまうのです。

鳥の一声によって、あたかもこの世界に自分ただ一人が取り残されてしまったかのような、絶対的な山の静寂にはじめて気が付きます。

 

松尾芭蕉の「閑かさや岩にしみいる蝉の声」や「古池や蛙とびこむ水の音」も、時空を超えた同じ禅境をあらわしているのかもしれません。

 

人は静かな場所に長くいると、その本当の静かさに気が付かくなくなってしまうもの。

鳥がそのしじまを破ることにより、静かさがいっそう深く感じられるのです。

仏修行者はこの意味を転じ、人には平穏で楽しい日常ばかりではなく、辛さや悲しみもまた必要である、と説きます。

人は辛いことに直面すると、こんなことは起こらなければよかったのに、と考えがちですが、まさにその一事により、自分にとってかけがえのないものに、はじめて気づかされるのだ、と。

 

― 鳥鳴きて山更に幽なり

 

今、コロナ禍によって、人と世界の仕組みが大きく変わろうとしています。

人類と地球にとって、いままで当たり前にあり、すでに忘れてしまったもの、しかし本当に大切なものは何だったのかを悟る時が到ったのかもしれません。

 

 

 

 

『入若耶渓』 王籍

 

艅艎何泛泛    艅艎(よこう) 何ぞ泛泛(はんはん)たる

空水共悠悠    空水 共に悠悠

陰霞生遠岫    陰霞(いんか)遠岫(えんしゅう)に生じ

陽景逐廻流    陽景(ようけい)廻流(かいりゅう)を逐(お)ふ

蝉噪林逾静    蝉(せみ)噪(さわ)ぎて林逾(いよいよ)静かに

鳥鳴山更幽    鳥鳴きて山更に幽(ゆう)なり

此地動歸念    此の地、歸念(きねん)を動かし

長年悲倦遊    長年 倦遊(けんゆう)を悲しむ

 

 

【解釈】

この舟はなんと軽やかに浮かび進んでいるのだろう。

天と川面は、はるか遠くへ広がっていく。

朝焼け夕焼けの霞が遠山の洞穴から湧き出て

日差しは渦巻く川の流れを追う。

蝉が騒々しく鳴けば林はいよいよ静まって

鳥が一声鳴けば山は一層深くほの暗い。

この地は帰郷の思いをつのらせるが

長年遠地での勤めに倦み、悲しむばかりである。

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2021年1月 5日 (火)

名言名句第六十九回 大事の思案は軽くすべし。(直茂公壁書)

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大事の思案は軽くすべし。~鍋島直茂『直茂公壁書二十一箇条』

 

 

今回は戦国時代、西国一、二の名将と称された鍋島直茂の名言をご紹介します。

 

 大事の思案は軽くすべし。

 

 原典は、佐賀藩に伝わる、直茂の訓戒を箇条書きにした『直茂公壁書二十一箇条』(元禄五年、石田一鼎編)です。

 同書の同句は『葉隠』話者、山本常朝の家にも伝えられたようで、『葉隠』本文では次のように取り上げられました。

 

 

 直茂公のお壁書に、

「大事な思案は軽くすべし」

とある。一鼎の注には、

「小事の思案は重くすべし」

としている。大事というものは、せいぜい二、三箇条くらいのものであろう。これは普段詮議しているものなので皆よく知っているはず。前もってよくよく思案しておき、いざ大事の時には取り出して素早く軽く一決せよ、との意味と思われる。事前に考えておかなければ、その場に臨んで、軽く分別することも成り難く、図に当たるかどうかおぼつかない。しかれば前もって地盤を据えておくことが

「大事な思案は軽くすべし」

といった箇条の基本だと思われる。

 

(『葉隠 現代語全文完訳』聞書一/四六 能文社2006)

 

 

 一般的に分別や事の大きさ、人の評価などにおいて、「軽さ」は否定的に、「重さ」は肯定的に

比喩されることが多いものです。しかし、軽さはすべて悪で、重さがすべて良いというわけでもありません。文化、思想、芸術の領域では、重さを突き抜けた軽さが最上位をあらわすことが往々にしてあります。偉人の言動や名人芸などには、シンプルで、どことなく飄々とした軽さが感じられるものです。

 

 とりわけ日本文化の諸相において、「重さ」「軽さ」が修行の指標として示される例が少なくありません。たとえば、茶道では次のような「軽さ」「重さ」の案配を教えています。

 

◆利休百首、「所作の軽さ」

 

何にても道具扱ふたびごとに取る手は軽く置く手重かれ

 

 利休の道歌を茶の湯修業の標語として集めた、とされる「利休百首」。上は道具の扱い、所作の「軽さ」「重さ」について指導したものです。

 これは、たとえば道具をひょいと軽く取る、ということではなく、その後の所作もすべて見通したうえで躊躇なく一直線にまず道具を手にする。そして、床であれ畳であれ、置く場所にて道具のすわりをしかと見届けて、そっと手を放せ、と教えたのです。

 

 

◆山上宗二記、「薄茶が真の茶」

 

一 点前

 薄茶を点てることが、専らの大事となる。これを真の茶という。世間で、真の茶を濃茶としているが、これは誤りである。濃茶の点てようは、点前にも姿勢にもかまわず、茶が固まらぬよう、息の抜けぬようにする。これが習いである。そのほかの点前については、台子四つ組、ならびに小壺・肩衝の扱いの中にある。

(『山上宗二記 現代語全文完訳』追加十体 能文社2006)

 

 ここは「軽さ」「重さ」の代わりに、芸道でよく用いられる位の概念「真」「行」「草」をあてたもの。真の位がもっとも重く、草の位は軽い。本来、格式の高い濃茶が「真」、侘びの心で茶を喫する薄茶が「草」のはずですが、宗二は、薄茶こそ真の茶であるとしています。これは草庵小座敷では、侘びの心をなによりも尊ぶゆえに、粗茶である薄茶こそ侘び茶の根本であるとする、利休の教えを表したものでしょう。

 

 

◆芭蕉の「軽み」讃

 

    元禄三年のとしの大火に庭の桜もなくなりたるに

    焼けにけりされども花は散り済まし   北枝 (『卯辰集』)

    十銭を得て芹売りの帰りけり      小春 (『卯辰集』)

 

 

蕉門金沢俳壇の二人の句です。北枝は芭蕉が『奥の細道』の旅の途次、金沢で出迎えた門人、小春(しょうしゅん)は、同じ時に芭蕉門に弟子入りした地元の薬種商。元禄三年、金沢の大火により北枝の家は燃え、庭の桜木も焼け失せてしまいました。「しかし花も散り失せた後でしたし」と自ら慰める句。そして二句目の小春に対し、芭蕉は書簡を寄せて

「両御句珍重、中にも芹売りの十銭、生涯かろきほど、わが世間に似たれば、感慨少なからず候」

と激賞するのです。

 侘び寂びと評される芭蕉の句風。晩年の芭蕉はさらに句境を進め、「軽み」を追求していきます。古い門人たちに、なかなか理解されなかった芭蕉の「軽み」を入門したばかりの新弟子が巧まず吟じたのです。ちなみに江戸時代の十銭は現代の貨幣価値では約250円。わが世間に似たれば(自分の人生と同じだ)と、芭蕉はこの句に称賛を惜しみません。

 

 たとえば俳句や文芸では、技術や経験の蓄積に応じて「軽→重→軽」と成長、発展していくのかもしれません。「行商人は今日も250円もらって帰った」には、人のなりわい、人生の歩みが言い尽くされて、初心の「軽」から、究極の「軽」へと一息にはばたく自在の翼があるのです。

 

 

大事の思案を「重く」することは、一所を堂々巡りする死に手です。何事にもとらわれぬ自在の境地を先人は「軽み也」と教えてくれました。

 

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2020年9月 6日 (日)

名言名句 第六十八回 千宗旦 八十歳になれど暗がりは闇。

乳を離れ八つの歳より仕習いて 八十歳になれど暗がりは闇。~千宗旦『茶杓画賛』

 

 

千利休の孫、三千家の祖である元伯宗旦の茶杓の絵に附した自讃です。

原文はカナで書かれた狂歌。

「チヲハナレ ヤツノトシヨリ シナライテ ヤトセニナレト クラカリハヤミ」

の五七五七七、各句の一音目を分断するように茶杓が描かれています。

 

◆千宗旦「茶杓画賛」

Soutan-chasykugasan

 

 

・「チヤシヤク」は折句

 

この五七五七七のそれぞれ一音目をならべると、「チヤシヤク」、すなわち「茶杓」になります。

 

チ ヲハナレ

ヤ ツノトシヨリ

シ ナライテ

ヤ トセニナレト

ク ラカリハヤミ

 

 

こうした歌の技法、言葉遊びは〔折句〕と呼ばれ、代々の歌人によってたびたび詠まれてきました。〔折句〕の代表歌とされるのが、『伊勢物語』に収められる在原業平「杜若」の歌。

各句の頭一字をならべると「カキツバタ」が現れます。

 

カ ラコロモ

キ ツツナレニシ

ツ マシアレハ

ハ ルハルキヌル

タ ヒヲシソオモフ

 

 唐衣きつつなれにしつましあれば はるばるきぬる旅をしぞ思ふ

 

〔折句〕は、歌や句を詠むうえでの技術、修辞ですが、音が合っていればそれでよい、というわけではありません。各句に詠み込まれた五文字の単語が、歌意に深く関わる、もっというなら、その歌の生命となって拍動すべきものなのです。

 

業平にとって遥か東国の辺地で見た、都のなつかしい杜若の花。宗旦にとって、点茶の道具としてイロハでもあり、到達点でもある自作の茶杓。これらの五文字が雄弁に語る世界をたどっていきましょう。

 

 

・暗がりは、虚無の闇か、無尽の闇か

 

「チヲハナレヤツノトシヨリ」の句の一般的な解釈は次のようなもの。

 

母の胸から引き離された八歳より茶の湯修業がはじまった。(いつかは光明が見えて来ようと思ったが)八十歳になった今も暗闇の中、暗中模索の日々である

 

〈茶禅一味〉を説いた宗旦にとって、茶の湯修業は生涯続き、決して終わらないもの。

ここに至れば終わり、というものではなく、禅の修行と同様に、踏み出した一歩にすでに悟りがあり、唱える一息に仏が宿る、というものだったのではないでしょうか。

 

 暗きより暗き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ山の端の月

 (和泉式部/拾遺集・哀傷)

 

能〈鵺〉で、闇の中から迷い出た鵺は終曲で、上の歌を引用した地謡とともに再び闇の世界へと沈んでいきます。この歌の「暗き道」とは、もともと仏教で説く人の煩悩の道を表しており、「山の端の月」は仏灯明、つまり仏法による救済を象徴しているのです。

 

〔暗き道に入る〕の引用元は『法華経』化城喩品にある「従冥入於冥」です。式部は月を仏性の象徴として表現しましたが、和歌史上もっとも早い〔月=仏性〕を詠んだ歌とされています。

 

闇や暗さは視覚でいえば、何もないこと。知覚のできない闇と無とはいっても、八つの童子と八十歳の老翁では、そこに感じ取れる質・量には大きな隔たりがあるはずです。

芸事や仏道修行者にとって、闇は虚無の闇より、やがて無尽の闇となっていき、涯もないことを悟る最期のその時、できることは一つしかありません。

 

 

・利休の宝剣、宗旦の茶杓

 

それは生きていようが、死んでいようが、かまわずにその道をひたすらまっすぐに歩み続けること。わが身はあの世で、子や孫たちはこの世で、同じ一本の道を歩み続けているに違いありません。

 

さてもう一度、〔茶杓画賛〕を見てください。そこにはこう書いてある。

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

鸚鵡呼貧者与茶不能喫

 

 

チ ヲハナレ

ヤ ツノトシヨリ

シ ナライテ

ヤ トセニナレト

ク ラカリハヤミ

 

     八十翁 旦(花押)

 

 

 元伯自画賛 無紛因茲證

不審庵 宗佐(花押)

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

まず、「チヲハナレ」の、「チ」の頭一文字の下を、左から右へ一気呵成に描かれた茶杓の絵。

居合の達人の抜き付け、横一文字を思わせる筆勢です。

これは宗旦自身が筆写した、祖父利休の遺偈、

 

吾這寶剱 祖仏共殺

提ル我得具足の一太刀

 

を想起させます。信長、秀吉の茶堂として日本各地の合戦へ従軍。町人でありながら甲冑や刀の拵えまで調えていた、武将の如き利休。その死も士分なみの切腹であったと伝えます。

かたや生涯仕官せず、極侘びを追求し〔乞食宗旦〕の名に甘んじた孫の元伯宗旦。

 

 両頭倶に截断し 

一剣天に倚って寒じ

 

江戸期、白隠によって広められた禅語ですが、上句の両頭とは、対立する二項、たとえば生と死、善と悪、苦と楽、迷と悟など。この二項の間で迷い、揺れ動くことを禅の修行では嫌います。この二つに行き来する迷いの心を悟りの宝剣を振るって一気に両断すべし、との教えです。

 

戦刀をもたぬ宗旦は、自作の茶杓を手に無明の闇を横一文字に両断した。祖仏共に殺す利休の宝剣を模して。茶の湯と打成一片たる境地へ至らんことを、子孫たちへ遺そうとしたのかもしれません。

 

ちなみに頭語の「鸚鵡呼貧者」は、〔鸚鵡を貧者と呼ぶ、茶を喫することあたわず〕と読みますが、もとは圜悟克勤『拈八方珠玉集』の正覚宗顕の語、「鸚鵡叫煎茶与茶元不識」(鸚鵡は主の口真似をして、煎茶を、と叫ぶが、もとより茶とは何かを知らない)を踏襲したもの。同句が禅語として広く流布したことによります。

 

左下は、表千家五代随流斎宗佐の極め書きで、「これは紛れもなき元伯宗旦の自画賛であることを証す」と花押しています。

 

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2020年8月12日 (水)

寺子屋素読ノ会『南方録』講座、9月より再スタート。

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2020年911()より、寺子屋素読ノ会のC〔南方録〕講読クラスが始まります。

http://nobunsha.jp/img/terakoya%20annai.pdf

 

南方録クラスは、都合によりしばらく休止していましたが、今回複数名の受講者より再開のリクエストをいただきましたので、冒頭より改めて読み始めることといたします。

 

千利休の侘び茶を伝える、茶道史を代表する茶書。この機会に、ぜひご一緒にその深遠な世界にチャレンジしていきましょう。初心者の方にも、茶道史の背景や基本的な侘び茶の基礎知識をレクチャー。画像や茶人の豊富な逸話にも触れながら、楽しく学んでいけます。

 

◆Cクラス〔南方録〕15:00-16:30 新橋生涯教育センターばるーん(教室は当日ロビーの掲示板を参照) 

受講料:1500円 テキスト:『南方録』西山 松之助 校注(岩波文庫 1986/5/16)

 

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2020年7月10日 (金)

【空海の名言】身は花とともに落つれども、心は香とともに飛ぶ。

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弘法大師空海の漢詩文集『性霊集』に収められた名言です。

人は亡くなれば、その身は朽ち果ててしまうけれど、その心はかぐわしき薫りとなって広大無辺の世界へと広がっていく。

まずは、『性霊集』の空海の名言を含む章を全文現代語訳にてご紹介しましょう。

 

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『性霊集』第八巻(続遍照発揮性霊集補闕鈔) 現代語訳

 

 

 藤左近将監が亡母のため、三七日忌法要を行った時の願文

 

 先師は、このように仰った。色をはらむのが空であり、空を呑むのが仏である、と。

よって、仏の三密*1はどこかに偏在することなどあろうか。仏の慈悲は天の如く人々を覆い、地の如く人々を載せるのだ。慈悲の「慈」は苦を抜き、「悲」は楽を与えるもの。

いわゆる大師はなにゆえ仏と別者であろうか。アーリヤ・マハー・マイトレーヤ・ボーディ・サットヴァ、すなわち弥勒菩薩に他ならないのである。法界宮に住んで大日如来の徳を助け、兜率天*2に居て釈迦如来の教えを盛んにしておられる。

 

弥勒菩薩はすでに過去、悟りを開かれているが、人を救うため仮に釈尊の王位を継ぐべく東宮におられるのだ。そして一切の衆生をわが子として塗炭の苦しみから救済される。

この広大無辺なる救済者を何とお呼びすればよいのであろうか。

 

 伏して思うに、従四位下藤原氏の娘であった故人は、はじめ婦人の四徳を磨き、後に仏教の三宝を崇めた。朝には俗世を厭い、夕には弥勒菩薩の浄土を願われたのだ。

 たとえ身は花とともに落ちたとしても、心は香とともに飛ぶ。折々に長寿の大椿を登り、しばしば仙境の桃を味わうことを願ったのである。しかしいったい誰が予想できたであろうか。

秋の葉はもろくも落ち、夜の灯はたちまちに消えてしまうことを。

 今は花のかんばせを映すこともない、愛用の鏡。この形見を見るにつけ悲しみは深まるばかり。

 

↓続きはこちら 【言の葉庵】HP

http://nobunsha.jp/meigen/post_241.html

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2020年6月 9日 (火)

【お知らせ】6月12日より寺子屋素読ノ会を再開します。

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2020年612日より、3か月ぶりに寺子屋素読ノ会を再開することとなりました。

http://nobunsha.jp/img/terakoya%20annai.pdf

 

今回ご参加の皆様は、施設の感染対策にご対応の上ぜひご来館ください。

 

クラスB「能の名曲」13:30~は今回、能〔国栖〕。

壬申の乱に取材した、古代日本国家成立のドラマです。

本曲はシテのみならず、子方・狂言など各役が、舞台狭しと活躍する名作能。

 

日本の古霊場、奈良吉野の山奥に住んだ原日本人「国栖族」の来歴と大和朝廷との

邂逅を『宇治拾遺物語』などから読み解いていきます。

観阿弥が決して舞うことはなかったという「天女の舞」が見られるのも同曲ならでの楽しみ。

ビデオで名場面を鑑賞しながら、能の歴史と舞台の秘密を学んでいきましょう。

 

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2020年5月21日 (木)

『今昔物語』家で読む名作古典(現代語訳)シリーズ

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【言の葉庵】家で読む名作古典シリーズ、今回は『今昔物語』より

本朝部 巻十九第十四「讃岐国多度郡五位聞法即出家語」をご紹介します。

 

人や獣の殺生をなんとも思わぬ極悪人の源大夫が、ふとしたきっかけから

仏教信仰と出会い、改心して感動の奇跡を起こす物語。

まずはこのような書き出しから、長い魂の遍歴が始まるのです。

 

 今は昔。讃岐の国多度の郡○○郷に、名は知れぬが源大夫という者がおった。

はなはだ気性が荒く、殺生も平気である。日夜明け暮れ、

山や野で鹿や鳥を狩り、海川にのぞんでは魚を獲った。

また人の首を切り、手足を折るようなことも日常茶飯である。

 

 源大夫、因果を悟らずして三宝を信じぬ。

むろんのこと法師などという者をことさら嫌い、

側に寄ることもなかったのだ。

 

このように極悪非道の悪人ゆえ、村人はみな恐れをなしておった。

 

……続きはこちらから↓

http://nobunsha.jp/blog/post_239.html

 

 

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2020年4月25日 (土)

名言名句 第六十六回 二宮尊徳 艱難に素して艱難に行ふ。

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艱難に素して艱難に行ふ。~二宮尊徳『報徳記』第六巻

 

二宮金次郎(尊徳)の伝記、『報徳記』にある尊徳の言葉です。

もとは中国の四書の一、『中庸』にあった句からの引用ですが、原典では以下の句形となっています。

 

 君子その位に素して行い、その外を願わず。

 富貴に素しては富貴に行い、貧賤に素しては貧賤に行い

 夷狄に素しては夷狄に行い、患難に素しては患難に行う。

 君子入るとしても自得せざるなし。

 

そもそも儒教の〔中庸〕とは平凡ということではなく、君子がもつべき偏らない考えと判断を目指したもの。上の「患難に素しては患難に行う」は、非常事態に直面した時は、非常時の対応を躊躇なくとる、という教えです。つまり君子は、その場その場における最善の選択をし、その結果を泰然と受け入れる者と定義されます。

余談ですが、全国の学校にある金次郎の銅像。彼が読んでいる書物は『大学』あるいは『中庸』であるともいわれます。

 

さて尊徳は、この句を字形は異なりますが、ほぼ原意に即して引用し、『報徳記』の中で他藩の家老を教諭します。

天保八年(1837)、小田原候の命により野州桜町で仕法を実施していた尊徳。そのもとへ、廃村復興の実績を聞きつけた他藩の下舘候が家臣を派遣してきました。天明の凶荒以来、荒廃が進み、すでに領内経営が破綻しつつある自領へ尊徳の仕法を実施する、その依頼のためです。

当時、野州に加え、自国小田原の復興も担う尊徳は忙殺され、さらに他藩の復興・救済を引き受ける余裕はありません。依頼を受けるまで紆余曲折がありましたが、ともかくも下舘再興を手伝うこととなります。その後、桜町を訪れた下舘の家老、上牧甚五太夫に非常時の治政を指南する言葉に、「艱難に素して艱難に行ふ」を引用し、驚くべき献策を進めます。

同段落を『報徳記』から、現代語訳で以下にご紹介します。

 

 

 

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『報徳記』~二宮金次郎伝 現代語訳

 富田高慶著、水野聡訳

 

 

【巻六】

 

 

 尊徳が、家老の上牧を諭していった

 

 

 ある時、尊徳は家老の上牧を諭していった。

「さて、国家の衰貧にあたって、君の禄高は表向き二万石としていますが、

租税の減収によって実質は三分の二でしょうか。それならば藩士の恩禄もその減少に

あわせなければなりません。これが衰時の天命であり、君の禄に限界があれば

いたしかたありません。

 天命衰貧の時にあたっては、『艱難に素して艱難に行う※』ことが臣下の道では

ありませんか。それなのに国の減収を知らず、自らの俸禄の不足を憂い、

あるはずのない米粟をほしがり、怨みをもつ。

 国体の衰弱を知らないためとはいいながら、まことに浅ましいというより

他はないのです。

 国の為政者たる者、天分を明らかにし、衰時の自然をわきまえ、国の混乱を

治め、貧しさを受け入れて、もっぱら国家に忠義を尽くさせることが、その職の

最優先項目です。

 にもかかわらず、家老以下この天命をわきまえず、どうして一国を諭すことが

できましょうか。さらに家老がこの天分を明らかに知り、一国を諭したとしても

なお怨望の声は止み難いもの。どうしてかといえば、衰時の天命に従って

国が持たぬものを渡す方法がないことを明らかにしても小禄の家臣たちは

こういうからです。

『家老以下、現在の高臣方の俸禄はわれらの十倍もある。減給されたところで

どうしてわれらほど困窮することがあろうか。人の上に立ち、高禄を受け取って、

下々の艱難を見もせずに、天命衰時にあたって、ないものは渡せぬ、艱苦を

受け入れ、もっぱら忠義に励め、とはどういうことだ。執政の任とは、仁政を布き、

国の憂患を除き、艱難を救って、衰退した国を再び活性化させることが、

その仕事ではないのか。もしもこの任にありながら、その仕事ができぬので

あれば、それは自らの職を貪るばかり。なにゆえすぐに辞任しないのか』

 

 これが怨嗟の止まない理由です。このように怨み、要求することは、

もとより臣の道ではなく、大いに本意を失っているのですが、こうした心を

持たぬようにさせることが、執政の道です。

 さて、国中の怨望を、弁明せず、理解を待つまでもなく、たちまち消滅させ

艱難を受け入れ、忠義の心を奮い立たせる道が、ここに一つだけあります。

 あなたがこれを実行しなければ、国難を去り、国家の艱難を救うことができません。

これを行いますか、行いませんか」。

 

 上牧はいう。

「藩の人々の人情はまこと先生のご明察どおりです。私は長年これを

憂慮しておりましたが、どうすることもできません。今、自分の行いで一藩の

卑しい心をなくすことができたなら、国の幸いこれに過ぎるものはありません。

その道とはどのようなものですか」。

 

「その道は、他でもありません。ただ、あなたがあなたの恩禄を辞すればよいのです。

そしてこのようにいいなさい。

『今、国家の困窮はここに極まった。君は艱難を尽くしておいでになるが、

臣下の扶助もできず、国家の艱難もはなはだしい。私は家老の任にあって、

上は君の心を安んずることができず、下は一国を支えることもできぬ。

これみな私の不肖の罪である。

今、二宮の力を借りて、衰国の再興に取り掛かる。まず、私の恩禄を辞退し、

多少なりとも藩費の一端を補い、無禄にして心力を尽くすことが私の本懐なのだ』

 と、主君に言上し、一藩に告げて禄位を辞し、国家のために万苦を担う時、

群臣はきっというでしょう。

『ご家老は国のために心肝を砕き、再興の道を行い、恩禄を返上して忠義に

励んでおられる。それなのにわれらは国家に力を尽くさず、むなしく君禄を受けている。

どうしこれが人臣の本意といえよう。たとえ禄高が十分の一であったとしても、

家老にくらべれば過ぎたものだ』

 と、長年の怨望は氷解し、はじめて徒衣徒食の罪を恥じる心が生まれ、日々生計の

工夫に努力し、他人を怨まず人を咎めず、いかなる苦労にも甘んじ、これを

常としこれを天命とし、婦女子にいたるまで、不平不足の思いが消え去ります。

 そうして国中の者を諭さずして、今の艱難を受け入れ、忠義のかけらなりとも

勉めよう、との心が生まれます。

 

 これが艱難の時にあたって、家老たるもの一国のためにわれ一身を責めて、

人を責めず、大業を行う道です。そしてただ、これを行えないことだけが

心配です。この道を行わず、人の上に立って高禄を受け、言葉だけで人を

従わせようとするならば、ますます怨望は盛んに起こり、国家の災いは

いよいよ深くなっていくでしょう。これではどうして、衰退した国を再興し、

国家を安定させることができましょうか」。

 

 上牧はこの言葉に感動していう。

「つつしんで教えを受け、直ちにこれを実行します」。

そして下館へ帰り、主君に言上し、すみやかに恩禄三百石を返上した。

 

 微臣の大島(儀左衛門)、小島(半吾、足軽)という者は、これを聞いて感動し、

二人とも自俸を辞し、無禄で奉仕した。

 尊徳はこれを聞いていった。

「『上これを好むときは、下これより甚だしきものあり』(孟子)という。

上牧が一人、奇特の行いを立てれば、二人がさらに同じ行いをした。

古人の金言うべならずや」。

 そして、上牧、大島、小島、三人の一家を支援するために、桜町から米粟を

送ってその艱苦を救ったという。

 

 

 筆者(富田高慶)は思う。国家の憂いを憂いとなして、一個人の憂いを憂いとせず。

日夜、身を尽くして国事に任ずることが、人臣の常の道ではあるまいか。

 いやしくも恩禄、名誉、利得を目指し、阿諛追従する輩とともに君に

仕えることなどできようか。先生はかつてこういった。

「君に仕える時、その頭から利益・俸禄の離れぬ者は、商売人が物を

売る時、価格で競争するようなものである」。

 君子が君に仕える時、どうしてそのようであってよいものか。

 

 

※艱難に素して

『中庸』「患難に素しては患難に行う」より

 

 

 

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尊徳が復興を手掛けた他領の仕法では、相馬とならんで大きな成果を成し遂げた下舘領。

すべては、一身を瞬時に捨てた、家老上牧の、

「つつしんで教えを受け、直ちにこれを実行します」

の一言から始まったのです。

 

尊徳から同様の教諭を受け、かつ下舘よりも恵まれた環境にありながら、頓挫、中断した他村の仕法の例がいくつも『報徳記』に記録されます。

そこが単なる立身出世伝に終わらぬ『報徳記』の懐の深さであり、いつの時代にあっても人間というものが不可解な行動をとる、そうした存在であることを教える貴重な社会実践の書だといえるのではないでしょうか。

 

 

◆記事掲載元ホームページ

千年の日本語を読む【言の葉庵】

http://nobunsha.jp/

 

 

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